水俣のよみがえりはありやー表現者のたたかいについてー『水俣の図・物語』『海とお月さまたち』を語る 講演 『くりっぷ』 No.5 3月3日号 杉並記録映画をみる会 <1990年(平2)>
 水俣のよみがえりはありやー表現者のたたかいについてー『水俣の図・物語』『海とお月さまたち』を語る 講演 『くりっぷ』 No.5 3月3日号 杉並記録映画をみる会

 撮影が1980年ですから今からざっと10年位前ですので非常に変わっているところがありますけれども、全然変わらないところもあります。水俣が色濃くこのフィルムに重なっています。水俣のことは後で後半にお話ししますけれども、今みていただいた映画のことなど質問など交えて色々と出していただきたいと考えます。

「水俣」以前の世界をなんとか記録に残したい『海とお月さまたち』の意図

 冒頭に申しましたように『海とお月さまたち』というのは水俣がほとんど失った漁民の生活を描いています。不知火海の入口、いわば瀬戸というような環境です。非常にタイやふぐなどが春、桜の咲くころから回遊してきて、そして水俣のあたりまできて産卵をしてまた帰ると。やはり鮭などと同じで、回帰性がありましてとれる年ととれない年がある。
 そこの海をもつところの深海、深(ふかい)、海(うみ)と書くんですけどもね。不知火海は水深20メートルぐらいのところがあるもんですから、あそこでも60メートルと深いんですね。とてもよいところです。
 そこから水俣へ高速船が映画にありましたように走っており水俣の患者さんが多発した漁村、部落の人々のルーツを訪ねてみますと深海が非常に多いです。
 やはり漁でベテランの先祖を持った、漁法に詳しい人たちが、水俣の繁栄を求めて深海から引っ越してきたと、やはり、対岸の水俣は都であったという位置一関係にありまして。深海は水俣に親戚を持っているという所です。
 そこでもねこは「狂った」りですね、おじいさんがどうしでも体が止まらなくて、いろりに転げ込んだりして悶死したという話を私は文章にもしています。

 「川本輝夫という指導者は牛深(うしぶか)の先の魚貫(うおき)魚を貢くと書きますが、魚貫の出身です。この間、ベトナム・中国の難一民が船でたどりついて山の中に逃げ込んだということをニュースで聞いたかもしれませんが。
 
 その魚貫という所、戦前まではつまり、天草というところ、不知火海側もむこう側も共に水俣の繁栄に引かれて、故郷、天草を離れて流れてきたし、水俣の漁民のルーツは何代かたどれば、天草にたどりつくという関係です。そして天草は水俣のあります九州本島から比べると最果てであり、戦前までは身分の低い人たちの住んでいる島と位置付けられており、水俣における差別の源泉は、天草流れと、天草から来た「あん(あの)衆」たちが腐った魚を食べたということになっているわけですけれども     
 あの映画は水俣病以前といいますか、水俣病以前の世界をなんとか記録に残したいということで、たまたま幼児のための映画ばかり作っている良心的なプロダクションがありまして、オリジナルシナリオみたいなものを書きまして、作ったものです。しかし、潮の流れとか、見える岸とか、自然とか、漁村の位置関係とか、漁労の場所どりの場所その他は全部本物です。 

 ある種の潮の流れからいえば、もうちょっと狭い海峡の方が撮りいいんですけれども、後の映画で「水俣の図」で、海がコマ落としで川のように流れてくるところがありますけど、あれが、黒の瀬戸というのですが。激しい汐の流れを描写したければ、黒の瀬戸がいいのですが、全部深みで撮りました。

 子供にはごまかしがききませんと言いましたけれども、こういう映画でも深海の海の自然と人間の住まいを極めてハイファイに記録しておきたいというつもりで、つくりました。
 そういう意味ではお子さんにもっともっとこれから見てもらいたい。
 主人公の老人はあの映画の五年後に亡くなりました。
 牛深の公民館には一本のフィルムを寄贈してあります。 
 そういった僕の作品系列からいいますと、あの映画は大事な位置つけをもった、まあ「水俣病」という言葉はいわないで、思うまま漁が撮れたという意味では私自身にとっては非常に解放感があった仕事でした。
 同じ時期に「水俣の図」を作ったわけですけれども、「水俣の図」の描かれた丸木夫妻が次の水俣の絵を描かれるまで一年の苦しみがあったわけです。
 その苦しんでおられるときに僕は深海に行って漁を撮っていたと、それで帰ってきてその続きを撮影したという意味で大変におもしろい一年でございました。
 
 「水俣の図」はちょっと僕の今までの作品例から言うとちょっとちがった映画になっておりますけれども、基本的なドキュメンタリー視点は変えてないつもりなんですが、やはり表現者たちが相いつどっての作業でしたから、やはり映画として、映画というのは、総合芸術と言われるぐらい、音声・映像・文字・色々なものが組み合わさる仕事なもんですから、ちょっと美学的な映画になってしまっているんではないかと いう反省がどっかにありますけども。
 今日あらためて、音を低めてみて、絵のほうをもっと見えるように自分でしてみたんですが、やはり、あの当時としてはあれでよかったのではないかと、今思っております。
 
 ここで先月上映しました『劫火』一原爆の図を撮ったユンカーマンさんという人がいます。今日の 「くりっぶ」に話が出ておりますけれども、僕はあの『劫火』を見て外国映画だなと思ったんです。つまり、外国人でなければ踏み込めこない質問、で、また登場する位里さんや俊さんの、あの人達、国際体験はものすごいですから、年一回、海外を回っていて、言葉ができなくてもむこうの人と分かりあうということも本当に長い間、のべ何年というぐらい海外に行っておりますから、そういった意味で、国際人だと思いますが。
 お二人はユンカーマンの質問に答え、外国人が日本を理解するうえで、あるいは、日本の暮らしを理解するうえで、あるいは自分の創作、水墨ということを含めてですね、理解するうえで困難に思われる点を丹念に解きほぐしながら、対応しているという点で日本映画ばなれしています。 
 同じ日本人同士ならばもう聞かなくても分っているようなところまで、解きほぐし、説き明かしいくという、そういう中でやっぱり、位里さん、俊さんも自分では予想もしなかった独白や、告白をしているんです。
 私の映画は、そういう比較をすればまったくの日本映画だなと思います。

苦しまれた記録
 
 そこで一番難しかった点は、水俣病をどういうふうに理解するか、まあ、理解しなければ描けない訳ですけども。水俣病にどういうフィーリングを持つたかという点で映画にあったように、位里さん俊さんは、ああいうふうに、対応しておられますけれども、実は苦しまれた画業の記録だと私は思っております。
 と、申しますのは、水俣という言葉、水俣という社会的事件を見聞きしますとですネ、どうしても、暗い、陰惨な水俣という風にあらかじめなってしまうということがありがちですネ。位里さん俊さんは今回は思いきって明るい絵にしようということを再三言われて、僕たちの言葉で言うロケハンといいますか、水俣体験をしに水俣に行かれたんですけども。
 その旅のあいだに海を本当に水墨だけで描ききろうというふうな試みをされたと思います。あるいは患者さんに招かれてその宴会の席で非常に優雅な踊りを見せてもらったと、普通はそのひとは、歩くのが不自由な体なんですネ。踊りだけは実にしなやかに指もですね、普通はひん曲がっているんですが、そのときばかりは、きれいにしなやかに動くんですね。翌日からその次の日ぐらいば寝ているわけです。だけど、人と出会った一瞬は、踊りをごちそうすると。お二人はその踊りを見てですね。やっぱりかなしみの渕にあるあの明るさというか踊りというかに非常に感銘を受けられた、それを大きく描こうという風に思ったんですけれども。
 絵の分解のところにちょっとその扇子を持って、男役、女役を踊っている姿がクローズアップされましたけれども、こんな小さな絵です。しかし、書き残された。だが全体としては苦海になってしまった。
 浄土がない。まあ僕の質問に答えて、「そうなっちゃった」と。どういうもんだろうねということで、あの絵が完成してしまう様ですね。

よみがえりを絵がして欲しいと迫った

 普通はそこで映画が終わるんですけれども、やはり、当時の僕としては海のよみがえりというか、人の蘇えりというテーマに非常に心を動かされていたので、どうしても描いてほしいと。何が甦るのか、 甦りとはナンなのか。水俣で描いてほしいと。
 であの、写真でも、映画でも、筆でも書けない甦りの世界を描いてほしいと。
 これは私だけでなく石牟礼道子さんもね、盛んに甦るテーマをいわばイメージしていただきたいと。絵ならできる。フィルムにはできない。そういった言葉でもできない、そういったイメージを描いてほしいということを、オーバーに言えば迫ったわけですね。しかし、「水俣」はやはり内発的に、水俣を明るく表現するっていうわけにはいかない。

 そういうなかで二回目の訪問で胎児性の人達に出会う。僕は絵かきさんたちは非常に良いお土産をもっていると思うんですがネ。綸筆一本と紙一枚で、顔をスケッチしてあげればネ、世の中に1枚しかない絵ができるわけですかち、それをコピーしないであげちゃうんだから。こんなにいい方法をもっている人はいない。
 そういうふうに思って、僕もまねてですネ、ポラロイドカメラで撮ってあげちゃうということを最近やってるんですが、とても及びもつかないんですね。
 
 せっかく描いた絵をあげてしまう、あげることによって、つかんでくる、あげることではないですね。描くことによってつかんでくる。そういった過程が後半の映画のテーマになるわけなんですけれども。それで初めて、やはり脳の障害がある、どことなく筋肉が固定してしまったような美しさを引き出す。女性的なものを引き出す、そういったことが絵かきとして出来たと、そういう順序を経てですね。やはりそれを大作にこめられたと。
 最後に描いた子供を抱いた女人像はどうなったかというと、水俣・三里塚そして原発ですね。という三つぐらいのテーマの壁画になっているはずです。つまり、水俣だけをあれだけの大きさに描くことはできなかったのだと、あらためて思いました。 
 
 表現者にとって、やはり甦りというものはほんとうに信じることができるのか、表現することができるのかという意味で、同じ表現者である記録映画の作家として、水俣の中から甦りをとりだすということは、僕自身、まだできていないのです。ないものねだりなんですね。僕は絵かきさんに出せ出せという、ないものねだりなんですが。でも俊さんはその中で確実に一つのものを何かつかみだされているというふうに思います。そういった意味で、水俣の映画のテーマですけれども、より強く表現者の記録というふうに僕は考えて作ったつもりです。

現代のうんだ人間像

 それで俊さんの絵の特徴というのは、どういうところにあるかと色々と考えますとですね、どんな絵にも一人はモデルがいるんですね。それを非常にこくめいに写生されます。 
 絵の中心にですね、写生されます。
 
 今なら言ってもよかろうと思います。おもしろいエピソードがあります。
 暴力派の教祖、滝田修という京大の助手がおりまして、それを位里さん俊さんがかくまわれたという有名な話があるんですが、本名、竹本信弘というんです。その人をかくまっている時ですね、裸にして描いているんです。それは長崎にあります。ど真ん中に等身大ぐらいに彼が描かれているんです。 誰が見ても、ああ滝田だというわけですね。

 沖縄の絵の中心にも写実があります。さっきの映画でも写実があります。さっきの映画でも手をこんなふうに描写する、絶対に写生をすると、それから一種の自分のイメージをかきこんでいく部分をかさねていってまたどっかにくると写生をすると。
 ときに、毀誉褒吃(きよほうへん)もあるんです。写真を頭に入れておいてですね。たとえば、イワシ漁の絵柄は写真そっくりに描いちゃうみたいな。
 それを撮った写真家があの人は俺の構図にそっくりなのを描いてというんですが。これは、しょうがないですね。つまり俊さんの中にはやはりあの絵筆を使ってドキュメントするという部分がですね。どうしてもある。
 そこのところに自分も人物もっていかないと飛べない、写実に徹してからジャンプするといった方法をなさっていると思います。
  
 原爆の図からずつと見ていますと、自分の姿を鏡に写して描いたりですね。それからダンナを裸にして描いたり、また人をたのんだり、また『劫火』でも、あの石川さんというあそこの事務局長のお子さんをですね、ぼろを着せて写生すると。つまり、その写生の中で、写生するある種の作業を通してですね。それを完成させるから一方では写実じゃないイメージをね、写実している間じゅう考えておられるのではないかと。
 写実は安易な方法ではなくてやっぱり何か写実でないものを生み出すために、どうしても写実にこだわっていくという。やっぱりそれが原爆の図から変わらない俊さんの方法ではないだろうかというふうに思います。
 
 それで実に緻密画のようにですネ。いろんな技法を使われますけども、時には、米粒一つ一つ描いたりですね。あるいは着物のかすりの織り地を克明にかいたり、まあ、絵かきとしてどの辺に情熱を燃やしているのか分からないぐらい、細かい執着を描き込まれることがあるんですけれども。俊さんに聞くとですね「あの時はダンナが浮気したからくやしくて一日中一描いていた」というようなね。そういう一日の時間の使い方も絵に出しちゃう。
 
 そういった意味ではやっぱりあの大きい絵であればあるほど、それを描いていた時間がそのままお二人の日常生活の内面の記録にもなってしまっていると。
 ああ、この線を引いた時には動揺していただとか、ああ、これを描いた時には自分は、素晴らしいあの思い出とつながって、やっぱり描けたにちがいないとかですね、そういった非常に正直な共同作業というのが、お二人にあると思うんです。
  
 では表現がどれだけの力を持つのかということにういてですね。 お二人はあれだけの仕事をしながら、どう思っているのか非常に興味があるんですが。
 例えば、『水俣の図』のナレーションで、水墨画は一千年もつといっています。
 それは、法隆寺のですね、お寺の中に残っていた墨の絵とか、イタズラ画きとか、の残り方から考えて、その後、発達した日本画の技法によればですね、一千年もつと思うんですね。一千年もって何ほどのものかという、感じが位里さんには強くあると思うんですね。
 『水俣の図・物語』を作った時に、映画をめぐって各作家のインタビュー、シンポジュウムをやった記録で『私ではなく不知火の海が』という本があります。石牟礼道子、井上ひさし、色川大吉とか、それから沢地久枝とか、まあ、二〇人ぐらいのシンポジゥムの記録なんですが。その中で位里さんが、山下菊次という天才的な画家がいますが、ご存じの方多いと思いますが、その前衛的な絵かきあり、非常にシュールな絵を描いた山下菊次さんの質問にこたえてですね。位里さんはこう言っているんですね。
 「わしが俊より生きのびたら、「原爆の図」の絵は燃しちゃう」と言っているんですね。で、『先生、これは公開の場所ですよ』と申し上げるんですが、「かまわん」と。で「俊が生き残るとあいつは残すだろう」とおっしゃるんですね。
 自分より先に俊が死んだらですね、あの絵はぜんぶ焼いちゃうと、見られただけでよかったんだと。この絵はどういうふうになるか分からないし、あの絵は自分はちっともうまいと思っておらんと、もっともっと自分が生きている間に自分がどれだけ描けるか試してみたいけれども、だからと言って絵を残す必要はないというんですね。テープにおこしてから困っちゃって、位里さんに聞きにいったんです。これ残していいんですかと位里さんは「かまわん、出しとけ」というんで、僕は困ったんですがそのまま残してあります。

 俊さんの方もだんだん変わってきましてね。ご存知の方も多いと思いますけれども、俊さんのところに二年ぐらい前からですね、美術館にお堂みたいなのがあるんですが、その脇で土をひねっているんですね。なぜ、土にしましたかと聞くと、これは何もかもきえても土は焼け残るでしょうというんですね。俊さんはやはり紙のもの、布のものいろんなうたかたのものも試みられたけれども不思議にそれをやりながら、一方では土をひねると、そこで、土偶みたいなものも作ったり、あるいは何らかの母子像的に見えるものをひねったり、それを傍らに置いてある。
 だからたとえば、それはピカを体験した人が、瓦が焼け焦げて表面がガラス質に変じてもですね、やっぱり土の形は変わらなかったという経験が土をひねらせたんだと思います。
 やっぱり、お子さんがいらっしゃいませんから、自分が生きた爪痕をどう残すかという年になっていると思うんですね。

 まあ、そういった意味で自分の表現というものをどう位置づけて終わるかという、まあ、奥行きの深さをかいまみせられた気がしました。ですから、やっぱり大作といえども、何か乾坤一擲(けんこんいってき)、絶対バックのできる仕事をするのではなくて、進んでみたり、休んでみたりしながら、やっぱり基本的に自由を求めておられると、イヤなことはイヤ、やりたいことはやりたい、そういった意味で尊敬すべき、現代の生んだ人間像だなというふうに思っているんです。
 とてもとてもそこに至るには大変なことだと思いますけれども。そういった現在のお二人、さかのぼって十年前の水俣の図というふうな思いで、今日、僕も拝見したわけです。つまり、画面の中のお二人を見たわけなんですけど映画にとっておいてよかったと思っています。
 水俣のことは色々と語ることがあるんですけれども、あとでちょっとお手元に渡しました紙切れについて、お話しさせていただくことにしてですね、質問などをお聞かせ願いたい。

質疑応答
 
質問1

 先程、明水園に行って丸木さん夫妻が女の子の絵をかいてあげて、それが、その場で渡して上げる場面で、映画にはできないことだなあと、カメラを持っていても非常に緊張してしまって、いい表情が出ないみたい、そいういうことをおっしゃってましたけれども、やっぱり絵に対して嫉妬するというかそれ以後、写し方がかわっていったとか、そういうことは、あるんでしょうか?

映画には映画の対人関係がある

質問1の答え
 
 あると思うんですが。映画には映画、絵には絵、独自な表現と方法があって、映画を撮ったあと、編集などいろんな作業を経て最後に映画にして、これはあなたを撮らしてもらったこのシーンですよ一という回路がある訳ですね。ところが、俊さんなんかの場合には「こんにちは」つて言って、筆と紙を取り出しますとなんとはなしに、みんな高揚してきて、どう描かれるんだか見たいんだけれども、モデルになっていなくてはなからなったりして……というような独特な付き合いがうまれたりして。そういう意味で、やはりうらやましいなと思います。僕も絵がうまかったら、描きたいんですが、そういった意味では絵かきさんはいいなと申し上げたんですけれども。

 ついでにちょっと言いますと、 ああいう多感な娘ざかりの水俣病患者でなくてもですね、人間を撮る時には、それなりの時間がかかります。映画でも何ていうか、インタビユーでマイクをつきつけたら何かどぎまぎして本当のことを言ったというのは、あのドッキリカメラというのは好きでよく見るんですが、ああいうリアリテイみたいなものはおもしろいんですが、ぼくなんかそんなことばっかりやったらどうしようもないと思うんでやりませんけど、映画の対人関係というものがございます。

質問2            
 
 今日の映画を見てですね。僕はこれ三回目めぐらいなんですけれども、ちょっと気になったところで、土本監督にお聞きしたいと思ったのはですね。位里さんと、俊さんが「水俣っていうのはじっくり殺す。ヒロシマの方は一瞬にして殺している。だけどやっていることは同じサ」と言っているんですが、水俣から帰って来てそのお二人を女人像のモデルにして絵を描き始めたと、それがどういうふうに展開していったかというふうにならないで終わっています。
 それから先程、お聞きしてそれは水俣だけでなく成田そして原発ですか、そういうものを統合したものになったと、そこまで全部かかれた訳ですね。私の言った原爆も水俣も描ききれたんじゃないかと思ったんですが、それはどういう意図で切られたのか、それをお聞きしたいんですが。

質問2の答え
 
 非常にシャープな質問ですけれども、おもしろいですね。やっぱり、水俣の母子像を描かれていますね。だいたい先が見えたところで「もうよかろう」と位里さんがおっしゃるわけですね。あとは何を描くかおっしゃらないんです。「もう撮れたろう」と言うんですね。こちらも撮れた気がするんですね。その三人の呼吸で終わっちゃったんですけれども。それから一、ニケ月して訪ねますと、「原発も気になるしなあ、三里塚も気になるし」と。僕はその絵に統一感が持てないんですよ。その絵の中の水俣にだけむかうようにしているんです。
 別にえこひいきするわけではないんですが、やはりぼくは一つの大作が、一つのところから繁殖していく絵の方がどちらかというと、好みではあるんで。まあ、今回は水俣の図としてあるんであそこで終わってもよかろうと位里さんがですね。最後のカットを撮ったら、最後でもないんですけど。デコボコの紙に水墨が残って窓が写っているショットを撮ったら、僕が嬉しそうな顔をしていたんですね。そうしたら位里さんが「もうよかろう」と「はい、もういけます」ということで終わったんだと思いますが、映画ではふたりの女人像の描出の記録としては完結していませんね。本当の絵を見て下さい。

質問3                         

 先程のご説明で、キーワードとして甦りとおっしゃってましたが「水俣の図」について甦りというのは、文章ではできなくて、映画でも難しくて絵ではということだったんですけれども、結局、絵としては苦海浄土の苦海を描かれたのと、それから先程の天女みたいな今のところ二つしかない訳ですね。そうしますと、甦りというのはまだ完成していないということになるんでしょうか。      

質問3の答え

 僕はまだできていませんね。それをきっかけにしてね、あなたの質問のお答えにしていただいて結構ですけれどもこの紙切れについてご相談したいとおもっているんですが。
 実は今日はある提案をもって、この上映会にきました。それは水俣映画の全上映をこの杉並のこの会場でやってみたいということです。このヒントは実は、石垣京子さんの通信の石牟礼さんの文章の所在に触発されたからなんです。こういう思いの人もいるのだ、ならば、こういう提案もしていいのではないかという風に思ったのです。

 皆様のお手元の水俣病映画の製作年表を見ていただいたように、僕は二年前水俣へ行ってから後は行っておりません。1987年に「水俣病―その三〇年」を作り公開して非常に水俣で不評をかいまして、それ以来行っておりません。
 別に不評をかったから行っていないのではなくて、やはり少し時間をおこうというのと、アフガニスタンを五年くらい前から撮影していたものですから それをまとめにその間、アフガニスタンに行っておりました。

 いま水俣では、新聞でご承知の通り、今年八九年の六月あたりから、つまり水俣の甘夏の出荷が終わり、お金を回収する時期ぐらいに、水俣における支援の中心の「水俣病センター相思社」が、一部の患者から大変批判を受けました。『水俣病患者家庭果樹同志会』という、 皆さんのお手元に甘夏を届けるそういった生産者の団体の事務所を相思杜の人達が手伝っていたのですが、そこが農薬をかけた甘夏を一部混入して送ったという内部告発がありまして、そのことで現在水俣の現地は大変な変動をむかえております。
 
 僕の記憶にある相思社の若い仲間たちは、一人二人を除いてほとんど水俣病センター相思社を離れました。で、今後は水俣病問題にはボランテイアとして参加していくという風に変わってきております。それで、今まで不知火海全域にあるべき、僕はあると信じておりますけれども、いまだ救済されざる患者を発掘するという作業が現在も組織の形をかえて行われておりますようですけれども、その中心的指導者であった川本輝夫が相思社の理事長を辞めたということを、私は新聞記事から知りました。直接には何も聞いておりません。
 要するに「水俣」だけはある種の精神性においてですね、やはり不滅なものをもっているのではないかと勝手に思っていた私にとっては、大きな変動でございました。しかしよくよく考えてみればちっともおかしい変動ではなかったのかもしれない。二年間も離れて水俣を分からなくなってきている僕にとっては、「何でお前さん達は相思社を辞めるのか」という思いやら、川本さんの今までの運動上の問題が、どうして現在このような形に、一遍にネガティブな方向に針を振り切ってしまっているのか等いろんな事が脳裏に去来します。
 
 水俣病はその発見以来、あと数年で40年になろうとしています。
 私の映画の仕事も25年を越えようとしています。そうしますと、私か映画に撮ってきた人がもうかなり亡くなっているのですね。で、幼児のころ会った坂本しのぶさんとか加賀田清子さんたちがもう30いくつの齢になると。私の娘と同じ齢なのです。
 胎児性(水俣病)の子供がですね。 やはり昭和33、4年生まれで同じ年なんです。だから自分の娘の成長を見ていると、水俣の胎児性の子供達の年格好も分かるのですけれど。あまり自分の子を見ないで向こうばかりみていたものですから、やはりあの人達の成長の早さに驚くわけなんですが・・・。
 そういった意味で、少し私も水俣に近づき過ぎたと。近づき過ぎていたような自分の思い上がりがあってですね。で、離れてみればチンプン、カンプン、さっぱりわからないというところにいま突き落とされています。そうならば、僕は映画でたどり直すしかないのです。     

 やはり改めて水俣をもう一遍、この事件は日本にとっていったい何だったのかと。この高度成長の時代に我々はどういう事を水俣から学んだのか。あるいは世界に対して「水俣」をどのように風に伝えていかなければいけないのかと。又あるいは「水俣」というものがもっている甦りというものがあればそれはどういうものなのか。そういったものを洗いざらい丁度良い機会だから1年ぐらいかけて自分で検証してみようと今思っているわけなんです。
 
 映画を作っても、自分の映画なんてもう随分見ていないんです。どういうシーンがあったとか、かつては憶えていましたけれども今は全部は憶えていません。やはりその中には、今振り返ればいろいろな暗号が潜んでいるはずですし、いろんな情景のひとつひとつをとっても時代の移り変わりを感ずるだろうし、初期の作品に登場する人の半分近くは亡くなっているし、そこに登場した赤ん坊は、いま成人をむかえている、成人どころではない人生真只中にいてやはり業苦を受けていると。

 やはり長く撮り続けたということは良いことですね。悪いことではないと思います。
 そういった記録とはですね。やはり今、現地水俣がこうなっているというのは、その時々にフィルムに僕が何か譲歩してですね、ごまかしていたのかどうかと考えますと、意識的にそういうことは全く無いんですね。全く無いけれどどこかでこのことはまだ次に撮れるとか、このことについてはとりあえずのところあまり関心が無いとかいう風に、選択をしていたことはあると思うんです。

 例えば、ある患者の集団は裁判に反対していた、そいう人達は撮っていません。映画にあまり出ようとしたがらないし、喋りませんから。そういう事があったり、あるいは川本さんが真先かけて不知火海を走り回っているとき、(20年も前のことですが)片方では訴訟派として闘ったものの裁判も終わって、ひとしお淋しい思いで自分を看てくれといっていた患者がいたに相違ない。その人達を撮ったのかというと、そういう人達はやはり意識的に撮ろうとしていなかったと。つまり記録を外したということがあると思います。          

 それから自分ごとでおかしいですけれど、1977年に天草にフィルムをもって、助監督だった小池征人君などと、いわゆる水俣スタッフの人達と一緒に不知火海沿岸を全部、バスの停留所ごとぐらいのステップで巡海映画をやりました。
 昔の僕らの少年時代で言いますと 野外で天幕を張ってやる見世物ですね。
 水俣の映画やいろいろ面白い映画を持って歩きました、そういうことから、天草、離島、そういう所の患者の存在を確かに僕は知っています。その人達は切り捨てられようとしている。その人達のことはある映画の中に埋め込んであります。こうした人々は聞違いなくいるんです。
 で、そういう映画を、水俣の歴史的な作業をもう終えられた患者たちが、裁判を闘った方達が、改めてフィルムとしてご覧になったら、「これは水俣病に間違いなか」と言われるにちがいないと確信していますけれど・・・。 
 
 現地水俣において映画にそれだけの強さはありません。
 『水俣―患者さんとその世界』という映画こそ、映画に登場した患者さんは全部集まって大騒ぎで観て頂きましたが、その後、延べ十数本作っておりますうちに、私が映画を作っているのは当たり前の風景になってしまって、なにをやっても余り観ないと。
 だけども『不知火海』という映画や『医学としての水俣病』を観ていただいたりですね、『わが街・わが青春』でも良いのですけれど、対岸の風景に過ぎない離れ島にどういう子供がおり、どういう惨苦があるかということを、観ていただけたらありがたいと思うわけです。しかし、そういう映画になっていたのかどうか。その為には一年かけて僕自身が フィルムを全部見直したいのです。
 皆さんと一緒にできれば、映画を頭から時代別にやって、大体僕は頭にはっていますから、色々なことを、その時代の風景などをお話ししながら、率直な感想を聞きながら、一歩一歩ステップを踏んで一年かけたいと。
 
 このリストに1962年の「安賃闘争の記録」というのがありますけれど、この題名は古い人はご存じですけれど、今の人は何の事だか分からないと思うんですけれど、チッソ労働組合が水俣の町を会社側と労働組合側とに二分して闘った、安定賃金要求闘争の記録なんです。
 これは水俣病事件が大きくなる前に水俣にあったことなんです。
 そのフィルムを僕は長いあいだ捜していたんですけど、このフィルムの所在がつい1ヵ月前に分かったんです。それをフィルムにしてある人が僕に送ってきてくれたんです。そのビデオをお見せしたい。何でもない港を撮っていても今では想像もつかない古い漁船が浮かんでいるんですよ。今だったらもう100馬力~150馬力の漁船が普通なんですけれども、四馬力の船です。ま、そういった風景が写っていたりですね、やはり町をあげての会社側、労働側と対立して、これは水俣病の話ではないんですよ、労働争議の話なんです。町がね、チッソの城下町が徹底的に震撼させられた時期の記録ですね。
 これが水俣病問題とどうつながっているのかということをやはり観てみたいと。
 そういった意味でですね、ここ(杉並)にひとつの松明を掲げて、一年間、もしもやると。
 ここでひと月に一回、ある日を決めて水俣の映画を見るという風にもし僕がきめた場合何が現れてくるかちょっとわかんないですね。こういうフィルムをもっていたとか、こういう8ミリがあるとかいう事があるかもしれない。
 いま水俣のことについてですね、つまり、いま水俣で起こっていることについて、それを映画に撮るということはまだできないと思っています。なぜならば、ことは甘夏問題ですけれども、水俣病事件史の長い歴史があってのことだからです。だからこれからも長い時間をかけての仕事になるでしょう。  水俣の患者さんたちの甘夏は、来年の春には二つの流れで皆さんたちのところへ届けられるようなことになるでしょう。しかしその事で相談されても僕は返事はしないつもりです。やはり水俣の甘夏、離島の甘夏はうまいという風に僕は思いますので、早く届いた方の甘夏を食べるつもりでおります。
  
 で、何をすべきかは、やはり甘夏は育っていってまた次の年収穫があり、これを食べてもらいたいという思いが、色々な形で現われてくるでしょうし、又水俣しか教えてくれない事がその中から生まれるにちがいないという風に思うんです。とりあえず次の甘夏の収穫までの一年間を僕は何をしたらいいかと考えるんです。
 僕は自分が25年撮った自分の映画の、やはり上映と点検に使いたいと。
  
 で、毎月一回づつの上映会をしたい。毎月一回というのは、これは自分の作ったものですから、フイルムの収集が非常に楽ですし、僕自身で予定を組んでやればできることだからです。もし仮に僕がやむを得ない事情で日本を離れるということがございましたら、今そうした予定を立てないようにしておりますけれど、そうしましたら、その当時助監督をやった人とかそのときキャメラマンをやった人が出てくれるように頼んでみます。
 で、自分のフィルムをですね、全部観る機会というのは十年に一遍も無いんですよ。なかにはどこへ行ったか分からなくなったフィルムもあるんです。
 例えば、このリストにある1975年度の「水俣病とカナダインディアン」というNTVで撮ったフィルムは、NTVに今あるのやらないのやら分からないのです。しかしこれはカナダで水俣病が発生したという抜き差しならない事実を描写したフィルムで、是非皆さんにも観て頂きたいと思うんです。一本一本がまちまちの上映時間ですので、その組み合わせはどうするのか等を今日からでも相談したいと思います。新年早々には相談会をやりたいですね。とにかく、ここにいる人から始めると。あとどこからも力を借りる方法はないんです。で、もしこの上映会が定着すれば、水俣の患者さんで話にきてくれる方があらわれるかもしれません。しかしスタートはここで上映会をはじめることしがないんです。

 この話を地元ということで、永福二丁目の佐藤忠良さんにお話しし、賛同してもらいました。長い間一貫して「水俣」の支援者である日高六郎さんや、不知火海調査団の団長である最首悟さんにも賛同や協力を頼みました。最首さんは東大駒場を場に「不知火グループ」というサークルを作っておられるので、この上映会には合流したいといってくださいました。
 僕自身がやりたいことですから、フイルムの確保には僕があたります。ポスターを張ったり、宣伝したり、たくさんの方に観て頂くためにどういう日時にしたら良いか等、日時の設定は皆さんの相談に委ねたいと思います。そういう準備があると早くて二月の下旬ぐらいに第一回目ということではないかと思いますけれど。
 それをスタートにして来年いっぱい、難しいフィルムも中にはありますけれども、皆に観てもらいたいと思います。
 医学的なフィルムでも分かり易く作ったつもりですので、あえて水俣についての第一作から順序通りに、撮影年度通りにやらせて頂きたいと思っております。きょうは、これに関しては一方的な話ですけれど、次の会合にも私は出席しますので討論を続行して頂ければありがたいと思います。(拍手)