ともかく素直にあの人々を見つめていた『不知火海』を語る(講演録) 講演 『くりっぷ』 N0.12 杉並記録映画をみる会 <1990年(平2)>
 ともかく素直にあの人々を見つめていた『不知火海』を語る(講演録) 『くりっぷ』 N0.12 杉並記録映画をみる会

 質問1
 
 清子さんが原田医師に質問をするシーンについて、清子さんが終始うしろ姿であり、引いた距離から撮つているのはどういう意図。事情でしょうか。

 回答 土本
 
 胎児性の加賀田清子さんが原田先生に質問するシーンがありますけれども、それは長いロケ中に彼女といっしょにドライブした時に、若い助監督に「私はどうしても原田さんに聞きたいことがある」と言ったことがあるんです。話の中身はその時には出てこなかったんですが、「原田さんと会いたい、原田さんに相談したいことがある」ということだったんです。

 そういう例があまりなかったものですから、原田さんに連絡をとって「何を相談するかわからないけれども原田さんに会いたいと、それもさしであいたいということを望んでいるので出てください」とお話した。それで原田さんが水俣に来られた時に海辺のシーンをセッティングしたといいますか、話をする空間にしたわけですね。
 その清子さんが一番うちとけて話すのが半永君という車椅子にのっている子で。半永君は清子さんが原田先生になにを聞きたいか知っていまして。いっしょに返事を聞きたいということでした。
 
 何故うしろからだけ撮ったのかというのは非常に大事なんですけど、前から撮ると彼女が言いたいことも言えなくなるという気がしたんです。仮に映画は失敗しても相談はしたいだろうということで、かなりはなれて撮影しました。マイクを蛸壷のなかに入れて撮影したもんですから、それは清子さんも知っているんですよ。

 そこで二人の少年少女と原田さんがしゃべっていることで、撮りながらいろいろ聞えてくるんですね。突然泣きだすし、これは初めて聞くたぐいの彼らの生の声だなと思ったわけです。あの五倍くらい撮っているんですけどなかなかフィルムを切れなくて。いまのようなシーンになっております。

 質問二
 
 土本さんが胎児性の子と縁側で話すシーンがありますが、撮影以外でも胎児性の子らとつきあいをかさねられたのでしょうか。
         
 回答 土本氏
 
 つきあいというところまで全然いかないと思いますけれども。映画の中でお雛祭りをやっていましたが、明水園にはいつも行くことにしていたんです。撮影しているのは一回か二回ですが、行くことは数えられないくらい行ったと思います。土日に子供たちが家に帰っていることがあるもんですから、子供の家まで遊びに行ったりして、いろんな話相手になるということはしていました。ですから縁側で長井君と話している時に、なにがとびだしてくるかわからない一つの例として、長井君が「いま一番したいことは、おじさんたちといっしょに全国をまわりたいことなんだ」というんですね、僕が絶句してしまうシーンが撮れていますけれども。記録映画というのはいろんなハプニングかおるものですから~聞き出しようによっては思わない言葉が出てくるといったことがしばしばでした。どんなふうに話がころがっていくのか全然つかめないで、その後も僕はへたくそなインタビュアーですけど自分をさらしてみていただくということは心掛けたつもりです。

 質問三
 
 相思社の落成式に京都の西本願寺(真宗本山)贈呈の札かおりましたが、宗教団体の関係は初めて見ましたがどのような関係があるのですか。

 回答 土本
 
 実は僕も今日見ていて気がついたんです。亡くなった患者さんたちの名前を書いた仏壇があのホールにありまして、年に一回、お経をあげてもらう時に石牟礼さんを通じて熊本の真宗寺の人達がやってくれたわけです。たしか西本願寺の本山からカンパをもらったこともあると思います。そういったことで、石牟礼さんはいまも西本願寺系の熊本の真宗寺とつながりをお持ちだと聞いておりますし、個人的なつながりで強められている関係だと思います。しかし宗教的なことを押しつけるとかそういうことは一切ございません。

 宗教といえば、杉本栄子さんが立正佼正会の人の話をヒントに自分が立ち直っていったということが言われていますし、これは立正佼正会でも非常に大きい人間の変りよう彼女が迎えられて、そして彼女も一生懸命話していくということかあります。石牟礼さんがなにかの本に書いておられましたが、「彼女が宗教に入ったのではなくて、宗派が彼女によってとても大きくふくらみをみせた」ということで、彼女の持っている人格が人を揺さぶっている、それが立正佼正会と非常につながっているということだと思います。全般には宗教的な誘いは水俣病の中ではなかったと記憶しています。

 質問四
 
 今日の不知火海は患者さんにまた一歩近づくことが出来たようなとても感動的なフィルムでした。水俣病の少女が「頭を手術すればなおるのか」という質問を医者にあびせた時私はドキッとした。あの少女のシーンを撮る時監督はなにを考えていましたか。

 回答 土本
 
 さっきの補足のような説明になるかもしれませんけれども、本当をいうと僕は話の内容は解っていないんです。イヤホーンが一つしかなくて、マイクからのイヤホーンはカメラマンが持っているんです。カメラマンが原田さんとのやりとりでズームしたりパンしたりしているんです。そういう時の映像的な演出はあの瞬間はカメラマンが持っているわけです。僕はうしろ姿を見ながらつぶやきを聞いていると、これはたいへんな事を言いだしたに違いないということはわかりましたけれども、宿に帰ってテープをまわしてようやく話の内容がわかっていくということがございました。
 だから心の中にはなんの企みもないし、ともかく素直にあの人々を見つめていたということで、あまりなにも考えていなかった。そういう意味では意図的に考えることはなかったと思います。

 質問五
 
 この地図をみてびっくりしましたが、水俣病というと水俣湾沿岸が問題であるという頭が一番あるんですが、水俣湾は不知火海の中のほんの一角にすぎないと、水俣湾に近い所の患者さんはどうしてもチッソという企業城下町の一部分に組み込まれているという非常に難しい状況の中にあると思うんですが、御所浦とか不知火海全般の人から見た時に、チッソはただ単に廃液を流したはた迷惑な会社だという印象なんでしょうか。それとも水俣市の人とは違った印象がチッソとかそういう会社に対してあるんでしょうか。

 回答 土本
 
 昭和三十一年の水俣湾の汚染が激甚たったものですからね。いっぺんに五十一人発症すると、その四十%が死んで行くというものすごい状態だったものですから、しかし原因をつきとめていくと水銀をたれ流したチッソだということでだんだんむすびついていくんですが。水俣の隣の町とか南の鹿児島県の出水とかそれから離れ島にどんどん水俣病が出てくるという事だと思います。

 鹿児島県の人の方が「隣の県の水俣の工場で俺はこんなになった」というんで、見ていると熊本より・鹿児島県の認定審査会のほうがどんどん認定していく勢いがあるんですよ。水俣は中心が腐っちゃったみたいで認定作業が進みません。水俣の人たちがそういう周辺の患者さんをどう思うかといいますと、そういうところをみている暇がない、自分のことでいっぱいだろうと思いますし、同じ周辺の遠くはなれたところで発症した人はなかなか疫学的にも、自分たちの労働した場所とか漁をした場所とか、親戚のありようとか、魚の食べようということを説明しきれないことで、水俣と周辺とははっきりと断層があるように僕は思います。

 ご覧のように『不知火海』は非常に長い映画なんですけれども、御所浦の牧島に920PPMという人間で採取した毛髪水銀では例のない人が現れている。その方は女性ですから、よそへ行って食べたわけではなくて、自分の手元にきた魚を食べて水俣病になったわけですから、この怖さというのはつきつめなければいけないと思います。いまは切り捨てが一番早く進む理由に「そんな遠くにいていまごろなにを言うんだ」という言われかたをするんですが、新聞も十何年前は入っていないんですから、電気が通じたのが昭和30年代という島かありますから、テレビの時代になって裁判の進行や結果を見ながら。判決の日の患者の姿を見て私と同じだというかたちで分っていくということで、十年おくれ二十年おくれの水俣病問題になってしまっている。その人たちが非常にむごたらしく否定されていくと言うことになっていると思います、大雑把には。