座談会 長編記録映画「怒りのこぶしで涙をぬぐえ」 座談会 『統一』 5月15日 <1991年(平3)>
 座談会 長編記録映画「怒りのこぶしで涙をぬぐえ」 座談会 『統一』 5月15日

 宮島義勇 映画撮影監督
 朴春日  文芸評論家
 土本典昭 記録映画作家

 司会 

 最近『怒りのこぶしで涙を拭え』が製作され、この前の試写会は大盛況でしたね。今日は今回の映画を製作するに至った経緯や、また北朝鮮に長い間滞在して撮影や編集をされたと伺っていますが、現地での苦労話、エピソードなどを踏まえてお話を伺えればと思います。


 宮島
 
 ところであれは映画ですかね(笑)。つまり一般的にいわれている芸術映画とはずいぶん違いますから、僕自身は映画という意識はあまりないんですよ。
 だけどフィルムを使って作ったものを映画と呼ぶならそれもいいだろう、そういう考えです。見た人は政治映画ではないかというでしょうが、そういう映画があっていいのではないか。必要なのでないか。
 だから映画作家みたいに扱われるとちょっと戸惑うんです。理屈こねてすいませんね。

 ところで第二次世界大戦後は民族分断の問題がありますね。ドイツ、ベトナム、台湾と中国など。ところが日本のすぐ隣の国、鼻をつきあわせている国がそういう状態で、しかも長いでかい壁が延々とに沿ってある。おまけに板門店の南側にはいわゆる国連軍というものがいる。国連旗を掲げているわけです。「ほんとかな」ということで、記録できるなら記録して、目にもの見せてやろう、そういうことですよ。
 
 大体、分断した責任はどう考えても日本にあるような気がするんです。映画人とかカメラマンとか映画監督などは抜きにして、日本人としてそう思うのです。
 こんなこと日本人はほとんど知らない状況でしょう。そんなこと考えているときにちょうど林秀卿さんのことが出てきて、他の仕事を中断してもやらなければと思ったんです。
 
 土本
 
 二八〇キロに亘って完全に軍事的障壁がある、あれを作っておいて統一なんて言ってもちょっと無理。分断された道の数、鉄道の数、消えた村、いったいいくつになりますか。二十四年前に『チョンリマ(千里馬)』をお撮りになって、日本で初めて共和国の姿を見せられた宮島さんが今回は分断を撮られた。宮島さんでなければ撮らなかったと思うんです。統一に関するどんなことでも拾って記録しておこうというのは、あの時代から革命的に生きてきた映画人でなければとらえられないし、筋立てできないでしょう。大体がお金がなくて、仲間がいなくても一人でも撮るという方ですから。

 朴 

 昨日からテレビをみていますと、南朝鮮の青年学生や労働者たちが 「盧泰愚政権打倒!」を叫んで連日、二〇万、三〇万と集まって闘っているでしょう。あの生々しい映像を見ていましたら、何か宮島先生の今度の記録映画の続編を見ているような臨場感にとらわれました。実にリアルで衝撃的な映画ですね。
 
 宮島

 あの映画を逆に見たら、今の若い連中はわかるんじやないかと思うんですよ。つまりどういうことかというと、南の学生が必死になって闘っているところかあるでしょう、あれは昨日、一昨日のソウルを映したと思ってくれればいいんですよ。湾岸戦争もこの映画を逆さまに見るとわかってくる。クウェートにしても、クルド民族の問題にしても、殺された連中は何万といるのに、死骸は一つか二つしか見せない。記録映画を撮って絵で見せると戦争とはどんなものかはっきりする。石油をかけられて焼き殺される、ああいうのはその通り見せてやらなければいけない。あれをきれいに撮ってどうするんです。
 最近福井あたりで、原発にちょっとひびが入ったといって大騒ぎしていますね。ところが地球上で一番原子爆弾が多い地域は対馬海峡を渡ったすぐそこですよ。だからあのフィルムを逆に見せてやりたい。しまいにはみんな泥の中に生き埋めになってしまう。現になりかけているんですからね。

 土本 

 今の若い人たちが隣の国のおかれているシチュエイションについて、それが宣伝的と言おうが、政治的と言おうが映画に描かれたものは現実なんです。
 たとえば、林秀卿さんが三八度線を越える。その姿は本当に英雄的です。そういったことは日本の若者にもストレートに入ると思うんです。また、韓国の学生がいままで気にもしていなかったアメリカにたいして、どうして星条旗を焼いたり、アメリカの文化会館に寵城したりするのか、光州事件とはいったいなんだったのか、この映画を観て、若い人は話し合うと思うんです。日本語版のお手伝いをさせていただいたわけですが、至る所に宮島さんが秘めている暗号があるんですよ。それを非常に感心しながら見ていました。たとえば努めて朝鮮の統一という問題を人間の動きで見せるシーンなど。

 朴 

 僕は今回、日本語の字幕で少しお手伝いしましたが、林秀卿さんのシーン、とくに林さんが文奎鉉神父と軍事分界線を越える場面はどうしても先に目頭が熱くなってしまいます。涙で両目がかすんでしまって仕事にならないんですよ(笑)。そうすると日本のスタッフの皆さんは、僕の心情を汲んでくださって、しばらく黙ったまま待っていてくださるんです。これまで映画の字幕の仕事を何回もしてきましたが、こんな感動は初めてですね。

 宮島
 
 今回撮ってよかったと思っているものに昨年(90年)の八月に板門店で開催された汎民族回大会があります。その大会でソ連の樺太から来たという老人に会ったんです。その老人は大会の報告をじっと聞いているんですね。三カットぐらい使っているかな。去年から今年にかけて樺太のいわゆる在留日本人がよく来てニュースになったりしていますが、その朝鮮の老人はその連中と一緒で、強制連行で樺太まで連れていかれ、そのままおきっぱなしにされた人なんです。おもわず僕はその場そのおじいさんに謝ってしまいました。僕一人が謝ったってしょうがないんですけど。
 あのフイルムが10年たち二〇年たったとき、意味を持ってくる、日本の連中もわかってくると思うんです。だけどそれまで持てませんよ。あの大会は、別な意味で頭をぶん殴られたような感動でした。

 土本
 
 歴史的な映像もずいぶんありましたが、北朝鮮でのフィルムの保存状態とかはどうなっているんですか。ちょっと想像がつかないんですけど。

 宮島
 
 冷凍室に入れて保管しているんですね。いきなりぱっと出すと傷みますから、よく冷凍野菜や魚を解凍するようにして持ってくるんですよ。朝鮮戦争の初期に一時ピョンヤンが占領されますよね。その時三人ぐらいで撮ったらしいフィルムがあるんですが、そのなかに女性をカメラマンもいて一人いて、その女性が撮ったものの中に屍骸を見て泣くおばあさんの姿があります。『世界に告ぐ』という記録映画のカットなんですけど、今回使わせてもらいました。ああいう本当の意味で全民族が敵と戦っていくという状況の中で、たとえワンカットでもああいう場面を撮ったというのは、そこにその女性カメラマンの心がありますね。それと 「三八度線」と道路にかかれたカットはワンカットしかないんですが、よく保存してありました。
 
 土本
 
 アメリカが撮ったと思われるフイルムもありましたが、ああいうのはどうしたんでしょうか。

 宮島
 
 アメリカにも朝鮮人はいる、ソ連にも、日本にもいる。そういう人たちが貴重なフィルムを収集して保存していたんでしょうね。マッカーサーが出て来る場面があったり、よく集めましね。それにちゃんと保存して。

 朴 

 あの歴史的な記録フイルムを見ていますと、朝鮮半島を分断した張本人がだれであり、朝鮮戦争を挑発した元凶がだれであるか、はっきりと教えてくれます。だから、とくに日本の若い人たちに今度の映画を見ていただきたい。そうすれば日本との係わりも明確に浮かび上がってきますね。
 ところで映画の中で南側が築いたコンクリートの壁が出て来るシーンはすごく長いんですが知り合いの日本の方に、あのシーン長く感じましたかって聞いてみたんです。最初は長いな、と思ったそうですが延々と続くあの壁が朝鮮半島を分断しているんだと思うと、宮島先生が何故あのシーンを長く扱ったのかわかる気がしたって言ってました。
 あのシーンを撮られるのは大変だったと思いますが。

 宮島
 
 それは軍事機密ですから言えませんね。(笑い)映りは小さいんですが、あれでも大きい方でしかもなかなか撮れるものではないんです。ですから側へ行って撮ったんだろうって、協定違反したんだろうと冗談半分に言う人いるんです。実際は望遠レンズで撮ったんですが。望遠レンズにアタッチメント付けて。風がびゅうーびゅうー吹いて大変でした。
 回転を早くして絞って撮ったんです。朝鮮のカメラマンが撮ってくれたんですが、うまく撮っていて、それ以来彼、自信持ったみたいですよ。
 
 司会 

 二〇年前に『チョンリマ』の製作のために共和国にいかれたときと比べて、平壌など町並みや人々の姿などどうでしたか。
 
 宮島

 向こうでもよく聞かれました。僕が最初に行ったのは一九六三年か四年でした。だから第一期チョンリマ運動が終わった時期で、見るものすべてにすごい勢いを感じました。その時と比べるとどういったらいいのか、確かに町並みも違い、女の子はきれいになり。でもこれでいいのかなとの思いもあります。つま本当の意味で朝鮮革命はこれからだと一一一一
 考えているんですよ。朝鮮は日本の植民地から解放された。けど本当に解放されたのは半分。今は一番大事なときじやないのかなって思うんですよ。
 それから今回は普通江ホテルに泊まったんですが、きれいな公園になっていましたね。三〇年前は田圃や、埋立地で、整地に植えられていた柳も小さかったのに今度はこんなに大きくなっていて。三〇年というのは自分の顔を見ればわかりますけど、木も三〇年たつと黙っていても大きくなる。その公園を毎朝おばさんたちが掃除してるんですね。
 これは有名な話ですが以前、作曲家の間宮茂輔さんが平壌を訪れたとき、「おばさん、どうしてそんなに丁寧に掃除するんですか」と聞いたら「ここは私の国ですから」と答えたと書いています。日本が本当に解放されたら僕も掃除するだろうな(笑)。
 
 朴 

 ここがかけがえのない自分たちの真の祖国だという信念に燃えているんですね。そのため強烈に、一日も早く祖国を統一しなければならないと主張するわけです。だから共和国に行って帰るときになると、別れの言葉は決まって「統一祖国で会いましよう」なんですね。決して「さようなら」ではない。
 
 司会 

 これから全国で上映していくわけですけど、具体的な予定はどうなっているんでしょうか。
    
 宮島 

 六月初句から東京で一斉にやりたいと思っています。それから関西に行って京阪神、広島、島根、九州などで上映していく。これからが本当の苦労だと思います。

 土本 
 
 上映のことで僕の考えをいいますと、今、自主的に作った映画が非常に上映しにくい時代になっているということです。上映できる条件がない。地方の公会堂にしても避けたがる。ビデオが発達していてビデオにしてはどうかと言いますが、この映画の場合はみんなで出かけいって、帰りに居酒屋などで三々五々、けんけんがくがくとやってもらいたいんです。
 また話も広めてもらいたいんで。
 そういった意味で僕たちも『水俣』をやったり、『三里塚』などをやりましたけど その時の熱気が今はかなりしぼんでいます。そういう中でこの映画をどうやってみせていくかという場合の一番大切なことは、やはり日本人、宮島義勇個人が全責任を負ってのメッセージであるということ、どちらかの立場では見えないという感覚でこの問題を訴えたというところを、日本人の心あるジャーナリストにつかんでもらいたい。

 宮島 
 
 本当のことを知らせる必要があるのではないかと思ってああいう映画を作ったんです。だけどあれは総論であって、各論を撮らなければいけないですね。
 それは僕の手に負えないから立派な映画人にとってほしい。そうすると僕はダーウィンの進化論というものを信じています。あとからのものがいいですよ。その時は僕も上映運動に参加してみてくれといいます。

 朴 

 とにかく在日同胞、広範な日本国民のみなさん、また外国人の人たちにもぜひ見ていただきたいです。そして朝鮮問題とは何かについて考えてほしいですね。