アフガニスタンの映画人と日本の映画人の合作による内戦時代の唯一の記録フィルム『よみがえれカレーズ』を語る(講演録) 『くりっぷ』 N0.27 12月 杉並記録映画をみる会 <1992年(平4)>
 アフガニスタンの映画人と日本の映画人の合作による内戦時代の唯一の記録フィルム『よみがえれカレーズ』を語る(講演録) 『くりっぷ』 N0.27 12月 杉並記録映画をみる会

 土本

 この映画はプログラムにありますように、女性監督の熊谷博子さんとアフガニスタンの監督のアブドゥルーラティーフ氏との共同監督作品ですが、今日は僕が代表してお話しさせて頂きます。弁解になるかもしれませんが、僕としてはこの映画が中途半端だという気がして、今日はみなさんに映画をどう受け取って頂こうかと悩みながらまいりました。どうして作ったかを映画の前にお話ししてから見て頂くと、映画の読み取りが深くなると思いますので、そうさせて頂きたいと思います。

 うまくいっていないと申しますのは、撮り始めから終わりまで非常に情勢の動きの早い時期で、あらゆる局面がカラカラ変っていったものですから、それに振り回されないで作ろうという意図があっても、どうしても振り回されてしまうんです。というのは、大事件がありますと、現地には外国人記者が何百とたむろしますが、取材するものは決っているわけです。
 それはソ連軍の撤退時とかステートメント発表とかが政府側からセツトされるのですが、そうした中で違うものを撮ろうと思ってもご案内者の数が少ないんです。ぞの上、自由にうごけませんから、どうしても時事的なものを撮らざるを得ないし、それをそれを撮らなければ傍観しているよりほかない。ニュースは撮らないつもりでしたが、そういうわけで、自由に撮りたいものが撮れなかったという事があります。

 時代背景を申し上げますと、お渡しした年表に「一九八八年四月、ジュネーブでアフガニスタン、パキスタンと米ソの四外相が和平合意文章に調印」、つづいて「五月、協定に基づいてソ連軍が撤退を開始」とあります。撮影は一九八八年五月からその年いっぱいでした。
 そして翌年、「一九八九年二月、駐留ソ連軍部隊が撤退を完了」します。その年の四月にいわゆるゲリラといわれる国外の組織がパキスタンのペシヤワルで臨時政権を作ります。しかし、ゲリラは国内にまだ入ってきません。「一九九二年四月、ガリ国連事務総長、アフガニスタン全当事者が和平実現に向けた暫定評議会設置で合意したと発表」します。しかし、この後、たいへんな国内戦が始まります。「一九九二年六月、ナジブラ大統領が辞任」します。

 一九七三年、ザヒルーシャー国王の外遊中にクーデターがおき、王族の元首相モハメドーダウドが共和制宣言をします。貧富の差がはげしく、王一族だけが栄える構造に危機感をもち、自ら共和制にせざるを得なかったと思うんですが、それが一九七八年まで続きます。
 一九七八年、隣国イランではイスラム原理派によってパーレビ朝王制が倒されます。それがアフガニスタンの共産主義グループを刺激して、同年四月、クーデターによってダウトを倒します。それを記念して、ソ連の「十月革命」にならって、「四月革命」という言葉が政府によって叫ばれます。

 ゲリラは、四月革命を契機に生まれたのではないのです。いわゆる共和制になって二、三年後からゲリラが生まれているんです。最強のゲリラのヘクマチアル(イスラム党、原理主義・強硬派)が亡命したのも、共産主義になる前です。王は倒したけれども王族の支配ではどうしようもないと、反王制ゲリラに1978年に共産主義革命(四月革命)がおこって、政府は地主たちの土地を小作人に分配してしまいます。かなり機械的に分配してしまったので、政府は地主からものすごい、反発をくらいます。地主たちは小作を私兵化したりして、。アフガニスタンを出ていってしまいます。これがモハマディガィラニ、ムジャディディで、彼らは王政支持・穏健派と呼ばれています。彼らがすでにのがれていたゲリラに加わるわけです。
 しかし、そのカラーは全くの正反対なのです。こういった過程で国王に反対するゲリラと、国王支持で共産主導者に反発して出てきた地主たちのゲリラーが、主としてパキスタン、イランに亡命します。

 その流れは米ソの冷戦に深く結びついています。ソ連の進駐は悲しいことだと思っておりますが、進駐に先立って米ソの冷戦がこの地域にあり、アメリカはイランにおいて大失敗をし、サウジアラビアにおいても石油ダラーを確保しつつ、侵略的な支配をします。そういうようなことで、その根源には牢固としてイスラエルとパレスチナの問題があると思いますが、そういう刺激をうけながらアフガニスタンの内戦は米ソの代理戦争のような状況を呈します。
 お渡しした記事の表をみて下さい。ヘクマチアルの兵力が五万とあり、その下に並んで*印で二万と二つ書いてあります。二万はイギリスの国際的な軍事問題研究所が出した数字で、五万はアメリカが援助するための基準とした兵力推定です。
 以下、各ゲリラの戦力数を見て下さい、実数より二倍から四倍水増しされています。アメリカはその数字を部隊編制に必要な重兵器の算定基準としました。
 その各派の中でヘクマチアルの一派は最強の軍隊で、最新のアメリカの兵器で武装されています。
 アフガニスタンはシルクロードの中心地であったことと、あの辺ではずばぬけて農業に適していたので、いろいろな民族が住んでいました。そのひとたちは本来は遊牧民族で、羊を追って国境を越えた生活をしていましたが、イギリスの植民地政策によって勝手に国境線が引かれるという、一、二世紀からの傷をしょっています。
 いまのユーゴスラビアのように、五つ六つの民族に分かれ、更に人種に分かれ、部族に分かれ、信頼できるのは人脈だけというわけです。

 私がどうして撮ろうと思ったかといいますと、その時の日本の報道やフリーなルポライターは、パキスタンゲリラの拠点、ペシャワールに根拠をおいて取材していて、パキスタンからしか情報が届かなかったからです。それは、アフガニスタン政府が1985年から西側外国人記者の入国を認めなかったからでもあります。
 国内の人たちの生活がどうなっているかというのが、私の素朴な発想でした。日本はアフガニスタン政府を認めませんから、アブドラ・ムタートという大使は来ていましたが、大使として遇していませんでした。今の大使も天皇の即位にもよばれません。ただ身分の安全が保障されているだけです。私はムタート大使とお会いして、いろいろ勉強させてもらいました。そして、大使の手引きによって国内が撮影できるという見通しがあったものですから、私は国内のひとびとを描いてみたいと思いました。

 特に知っておかなければならないと思った重要な資料は新憲法草案です。
 お手もとの資料をご覧下さい。アフガニスタンの新政府にはそれまで憲法がなかったんですが、それらしいものが撮影の直前に発表されました。そこには人民革命党の一党独裁の憲法ではなく、各党による「国民和解政府」としての憲法がつくられていました。
 その憲法によって米ソとの関係をただし、どういう国になるかを謳っています。特に私か注目しましたのは、それまでの臨時革命政府的な国ではイスラムをみとめるけれども、イスラム教を国教にする」ことを明確に規定しました。イスラム教が多いことは映画でも描いていますが、国教になるのは当然なんです、これが実態ですから。

 第三条で「…いかなる軍事ブロックにも属さず、その領土内に外国の軍事基地の建設を認めない」としました。それまではソ連の軍事基地がありました。国名もアフガニスタン人民共和国から、人民をぬいて共和国に変更します。ソ連やベルリンの壁の崩壊も、天安門事件も起きていない時期にその時代にこういった変化が、第三世界の国の憲法の中で起きていた。憲法草案のバックには、ソ連のシュワルナゼ外相などのめざした新思考があったと思います。新しい考え方による、仲間の国との友好関係があって、こういう憲法が出来たと思います。

 私が最もびっくりしたのは第十二章の「外交政策」です。外交政策において、して良いことと悪いことがこまかく書かれています。

 第一三五条の「武力不行使」はどこの国でもあてにならないんですが、はっきり書いてあることは事実です。

 一三六条に民主主義に対する規定がございますが、「アパルトヘイト、ファシズムに反対する」というところまで書き込まれた憲法を初めて見ました。
 
 一三七条で「完全軍縮、地球と宇宙空間での軍拡競走の停止」として、米ソの軍拡問題について、反対の意思をはっきり謳っています。これは一九八八年一月の憲治草案です。

 最も感心したのは、第一三八条の「アフガニスタン共和国においては戦争宣伝は禁止される」でした。いかなる戦争をも正義化する言葉を禁止するという、他の国の憲法ではあまり見たことのない条項が入っていた、これが内戦のはてにたどりつく憲法だったんです。この時、ナジブラ大統領は、「一二一カ国の憲法を学んだ」と言っています。資本主義国の憲法、社会主義国の憲法、イスラム国の憲法、アフリカの非同盟諸国の憲法、そのいいところを学んで作った。その修正のための会議は二十回に及んだ。

 憲法が出来た一九八八年には政府はすでに弱体化していて、憲法を実現出来なかったんですが、現在のアフガニスタンに、この憲法を作った勢力が残っていることは僕には見逃せません。これだけ立派な憲法をみますと、日本でも憲法は守られていませんが、いわゆる第九条は書いてあることと実態がかけはなれてしまっているので、アフガニスタンがこれだけ細かく明確に憲法に書いたことに対して、私は日本の憲法が恥かしかったということを申し上げておきます。

 その後のアフガニスタンの動きについて、多少はわかる資料を持ってきました。ソマリアを思い出して頂きたいんですが、政府がないという状態は最も悲惨です。現在のアフガニスタンは政府がない一歩手前の状態です。
 国家としての機能を維持しているのは、ナジブラ大統領が残した政府機関の働き手です。これは新聞にも出ております。
 どういう国になるかというのはたいへんに難しいところです。冷戦というむごたらしい図式の中で、多民族をかかえ、部族社会から脱していない国が、どんなに苦悶するか見ていただきたい。海外協力という前に、どういう国なのかよく見て頂きたいと思います。

 映画の中のイランのアフガニスタンの難民政策に対して、誤解がないように申し上げておきます。その前に申し上げたいのは、いま日本にはイランから労働者がたくさん来ていますが、そのイランの国民総生産(GNP)とアフガニスタンの国民総生産(GNP)とを比べますと、一九七九年の段階でイラン十に対してアフガニスタンは一です。アフガニスタンはアジアの最貧国で、たとえばイラン人が日本にくるために用意する旅費などはアフガニスタンの一般の労働者の結果からは得られません。日本に飛行機代を払ってこられるほど豊かではないんです。ですから、彼らが歩いて十倍富めるイランに行き、歩いて帰ってきたのを見た時初めて、難民に対する自らの無知がいましめられたと思った次第です。イランをどうこういうのではないんですよ、イランと十対一だという現実です。
 
 難民=五百万人という数字も国勢調査があるわけではないし、国連や各国から援助物資をもらう場合、たくさん欲しいので五人家族を七人家族ということもあるかもしれませんが、やはり何百万人という単位だと思います。アフガニスタン難民はもともと季節移動する膨大な人の流れがあり、もう一つは「戦いが起きたら、女と子どもと老人は同じイスラムの仲間のところへ逃げよ」というコーランの教えがあります。

 イスラム教についてもう少しお話しますと、イスラム教が国教になるのは当然だというのは、コーランの中にあの国に生き延びるノウハウがちゃんと書かれているんです。世界宗教の最後に生まれたイスラム教は、他の宗教を排せず、いっしょに並び立つのだという考え方ですから、私は宗教を信じませんけれども、非常にすぐれた宗教でなないかと思います。 
 また、一夫多妻制などにも根拠がありまして、マホメットが予言者として生まれた六世紀頃、ある戦いの後に働き手の青年が失われて、未亡人がいっぱい出ます。その未亡人を養うためにもう一人の妻をめとったという、歴史的に決決められた時期のコーランの教えです。
 アフガニスタンでも一人で何人もの妻を持つというのは、まれなケースでした、豚を食わないというのも、遊牧民族ですから、遊牧しようとしても、羊やトナカイは群れますが、豚は群れないんです。豚を放牧する技術はないんです・豚を食べる習慣があったら、あの平原では餓死するしかないんです。だから食わないというのが私の説です。
 中央アジアやシベリアの人々のくらしを見れば心から納得いきます。

 そういったコーランの教えや、気候風土、歴史、経済、文化など全部ふくまれたアフガニスタンの世界です。外国人である僕はわからないことが多く、説明も十分出来ませんが、この映画の画面からそれぞれの感性で読み取って欲しいんです。申しわけないんですけど、僕も勉強の途中なんです。いま申し上げたことを頭にいれて見て下さい。映画の前にこんなことを話してすみません。

 質疑応答

 土本 (野村さん何かないですか)。

 この映画を撮り終わって日本に帰ってきましたら、東独からハンガリーを経てたくさんの人が流れ始めていました。そして、一九八九年六月に天安門事件があり、その暮れにベルリンの壁が壊れるという激動がその後の世界を襲いました。その中で、アフガニスンのことは、なんとかなっているだろうという形で情報量が極めて少なくなってしまいました。そして年表にありますように、世の中の流れがすっかりかわりまして、1991年の夏にはソビエトがなくなりました。そのソビエトの激動の中でアフガニスタンは、国連によって一九九二年一月をもってようやく米ソの武器援助が、ゼロになったんです。それ以降、米ソの後ろ盾のないアフガニスタンの政府を、いかに作るかという試みが始まりました。
 映画の中に爆弾によるたくさんの死傷者が出てきましたが、あの新型爆弾をアメリカはアフガニスタンで初めて実戦に使いました。
 あれはロケットにも使われている、あの起爆装置が戦車の長い砲身にも取り付けられています。特徴は、落下した時、地面をえぐって、破裂した場合には、四五度の角度で破片が斜め上に飛び散るんです。画面では地面のえぐられ方が浅いと感じられたと思いますが。
 すべて横に水平に破片が飛び散るんです。しかもその破片が非常に細かくて、二つ一つが小銃弾のようになって飛び散るんです。ですから、一発の爆弾で、人間は原型をとどめないです。あれは撮ったカットのごく一部ですけど、人間のボロです。そういった新兵器が冷戦下に開発されまして、それを実戦に使ったんですね。あのショットは世界のどこにも出ておりません。僕たちがかろうじて撮ったものです。だから、一発で百何十名怪我して30何名即死です。それがゲリラの占領するロケット基地の20キロから30キロ遠くから飛んでくるわけです。

 質問1
 
 三人の演出家の役割分担は、どのようなものだったのでしょうか。

 土本
 
 僕は最初から英語の話せる女性監督を予定していました。というのはアフガニスタンの女性をぜひ撮りたいと思っていたからです。
 アフガニスタンのダリ語の通訳は最初から用意するつもりでしたが、後半の農村地帯の撮影の時に、大学を卒業したてのペルシヤ語の出来る女性が到着して、ペルシャ語系のダリ語を話すことが出来たんです。それまでは英語しかできませんから、英語のインタビューを通訳がダリ語に訳してインタビューして、返ってきたダリ語の答えを通訳が再び英語に訳すというふうでした。
 街では女性がベールを脱いでいましたが、あれは革命以後なんです。農村では外に出る時はベールをかぶるんです。誇張ではないのですが、アフガンフィルムの人が、ニュースでフィルムのでも農村の婦人の素顔を撮った映像はない、僕達が撮影したのが初めてだというんです。ですからどんなに戒律が厳しいかわからないんですけど、男は近づけませんから、ぜひ女性監督と女性キャメラマンで撮ってもらいたいと思っていました。しかし、女性キャメラマンはアフガニスタンの情勢が悪く、あまり怖いので帰ってしまったので、女性監督だけになりました。
 僕たちはほぼ行動を共にしていまして、私は戦いと関係のないものに興味があって撮っていました。
 そんなような役割分担をしたんです。国境の秋のシーンは彼女の班だけで撮りました。
 アフガニスタンの監督は、一生懸命もっぱら段取りをやってくれたんです。

 海外で合作映画を作る場合、普通は政府に頼むんです。しかし、政府はこと映画に関してはよく分かっていないことを、国際的ロケーションの何回かの経験で知っていました。また、第三世界のテレビ局もだいたい半国家つまり国営放送ですから、映画会社と合作したんです。そのアフガンフィルムという企業の一番偉い監督がアブドルーラティーフでした。私の話を理解してくれて、「反政府ゲリラが撮りたいんだな、政府サイドだけの話ではないのだな」と言って、「それには友達に絶好の男がいる。前にゲリラをやっていて、いまはヘラート近くの農村にいる。いまでも本心はどちら側か分からないが、ともかく村人を守っている。その男を撮ったらどうか」と言ってくれました。
 
 アフガニスタンの農村では、ふつうなら一晩泊っただけで、明日の朝にはもう帰ってくるみたいな撮影スケジュールしか設定されないんですが、とても考えられないような人脈を辿って、ラティーフ氏はあの村に二週間も滞在出来る条件を作ってくれました。
 アフガニスタンではフィルムの現像が出来ないので、ラッシュが見られませんから、彼には何を何フィート撮ったと報告~、検討会議をやって、彼が『これで充分ですか』という気づかいのもとに撮っていった。そういう意味でアフガニスタンの演出家は僕らの映画独特の仲立ちをしいます。ベテランのアフガン側の製作部、通訳が、僕たちの要求を飲み込んで、出来る限りのことをやってくれました。監督が三人顔を並べて「ヨーイ、ハイ」なんてやっているではなくて、あの国における各階層と素材によって役割分担した。
 あの国を撮るには、映画人同士でなければこちらの撮影意図をわかってもらえなかった。政府だとイデオロギーでわかったりして、その他のことはわからないわけですから、そうではなくて映画人と組んであの映画を作ったということです。
 ですからこの映画は、アフガニスタンの映画人の作品を含めて、あの内戦の時代の唯一の記録フィルムだと確信しております。

 新兵器の実験場となった

 質問2
 
 最初のシーンで飛行機がパラパラと落としていたのは何ですか。

 土本
 
 ジェット機を攻撃するロケットをさけるためなんです。ロケットは熱戦追尾で、ステンガーミサイルといいます。ジェット機のエンジンから熱が出ますが、その熱を追っかけていくので、必ず命中するわけです。ですから、アメリカ本国でもあまり実験ができないんです。実験ごとに飛行機を落としてしまうし、無人の飛行機はなかなか飛ばせられせんから、飛行士が落下傘で飛び降りてから実験したといわれている、強力な新開発のミサイルなんです。あれをアメリカはアフガニスタンで初めて使ったんです。だから、いま回収しようと思っても手で持ち運べるほど簡便なので回収できないんです。えらいものをゲリラに渡してしまった。
 スティンガーミサイルの銃身だけで五百丁、実弾はもっと渡しましたから。いまヘクマチアルが撃っているのはあれです。
 ジェット機からバラバラまいているのは発熱金属箔です。ミサイルの弾頭が金属も探知するものですから、感度を狂わせるために撒いているんです。焼けながら落ちていきますから、エンジンの熱を追いかけるミサイルが狂って、発熱弾の方を追いかけていくわけです。苦肉の策ですが、あれはソビエトが考えて、渡したと思います。

 質問三
 
 映画の題名をつけた理由。他にも考えたと聞いていますが。

 土本
 
 時間があまりありませんので、早口でお答えします。映画の題名は他にはあまり考えませんでした。なんてつけようか悩みましたけれども。「地下水脈」とか、「水脈」という言葉を使いたかったんです。アフガニスタンの現象の下にある、みずみずしい泉というか流れをみたいということでやってみたんですが、なかなかうまくいきませんで。「よみがえれカレーズ」ということにしました。

 質問四

 爆音の下で暮しているという事は、ゲリラが飛行機を持っているということですか。

 土本
 
 違います。カーブルは偵察機や、軍用機が絶えず旋回しているのと、内陸部にもかかわらず鉄道がないし、主要な道、いわゆるシルクロードですが、それはゲリラによって時々脅かされますから、食料、弾薬、医薬品などの輸送は全部空路なんです。首都カーブルは空路補給でもっていたという事です。

 質問五

 アフガニスタンの遊牧民の暮らしについて、教えて下さい。遊牧民のいる地区、人口。戦闘中はどうしていましたか。現在どうなのか。減少しているのか。遊牧民に対する政策は?定住化について。

 土本
 
 説明していると長くなりますけど。遊牧民は現在減ってきていて、20%ぐらいだと思います。定住策については、歴代の政府が頭を悩ましたことなんですが、戦争で国の総予算の六十%を直接戦費にさかれたので、計画はなにも出来ませんでした。戦争を終えなければ、そして政府を作らなければなにも出来ません。遊牧民の場合、国境はパスポートなしの自由なんです。羊は草を追って自由に動きますから。難民はパキスタンに羊を何百万頭と持っていっています。

 最後の難民のシーンを今日見ていて思い当たったんですが、アフガニスタンでは富める国に出稼ぎにいくのが当たり前なんですね。
 それが戦争で仕事がなくなれば、なおさら。難民というより、出稼ぎにいくんです。しかし、戦争によって国境が閉鎖されて隣りの国との銀行取り引きがなくなりますから、送金のために仲間はお金を預けて飛脚をやるんです。イラン側はそれを知っていますから、国境警備の民兵が待ち構えて、身ぐるみ剥いでしまう。

 イラン政府にしたら、難民は不法入国して不法出国するわけですし、観光ならいいんですが、不法に稼いだ金は違法だからおいていけということになって、書類を渡して全部巻き上げてしまう。だから平常時だったらたら金を持って帰れるんですが難民ということのために、家族を養おうと稼いだ金が全部巻き上げられる。これはたまりません。難民は戦争がなければそんなに出ませんけど、以前から出稼ぎのパターンはあるわけです。イランはこの国の10倍のGNPです。アフガニスタンはアジアの最貧国ですから、イランは国境地方の人々にとっては富める都だったわけですね。
 
 日本には外国人労働者がたくさんきていますが、アフガニスタンからは日本に出稼ぎにくることはできないんです。自分で隣国へ歩いて出稼ぎにいくほかない。ですから、僕はアジアの難民についてちゃんと見ないといけないと思います。アフガニスタンの人々こそ本当に難民になりたいんです。

 パシュトーン族はイギリスにより国境を線引きされ、分離を余儀なくされたことはごらんの通りです。パキスタンに行った難民(パシュトーン族)は、パキスタンに住みついているパシュートン族よりも救済の資金によって生活がよくなってしまったんです。ですから、パキスタンのパシュトーン族から同族の難民に対するやっかみと反目があった。その当然のキレツを統一出来たのは、ゲリラのジハード(聖戦)の「共産主義を倒せ」というスローガンだけだった。

 それが米ソが手をひいてしまったら、今日では穏健派と原理主義者とのゲリラ同士の撃ち合い、殺し合いになった。タジク族にはマスードという有名なゲリラがいます。僕が好きなゲリラですが、国内のバンジシール渓谷にとどまって政府やソ連軍を悩ませたゲリラです。マスードと、アメリカから金をもらっていた国外のヘクマチアルというゲリラが、いま正面きって戦争し、権力中枢をめぐって殺し合っているわけです。多民族国家が求心力を失った時に殺し合いをやっていく、いまのユーゴを考えていただければわかると思います。

 これを統一するのはなんだろうかと考えてみますと、共産主義ではなくなったから勝手に暮せといっても、女性がチャドルを脱げた、大学が無料だった、病院が無料だったという恩恵を十数年うけた人が、チャドルをもう一度かぶれないだろうと僕は思います。ですがら、いろんな報道だけでなく、現実をみて記録しないと間違うのではないか。

 この映画の編集に半年かかりました。その間にも現地の情勢は刻々変わります。時のずれから、「ゲリラの天下になってしまう」とかいろんなことをまわりでいうものですから、内心動揺しましたが、この映画の狙いとしてはアフガニスタンの人たちの心の中を見たい、女の方たちの悲しみをみることに主眼を置くときめて作りました。

 冷戦の終りを告げたアフガニスタンの協定今日私も久しぶりに見まして改めて感じたのは、世界の冷戦の終わりの一番最初の波がアフガニスタンの協定だったんです。アフガニスタンにソビエトがいろんな変化のパターンのひな形を与えて撤収していくわけです。「人民共和国」から人民を抜いて「共和国」にしたり、一党独裁から多党制議会にしたり、イスラム教を国教に戻したり、自国の軍隊を含め外国の軍事基地を認めないことにしたり、そうしてどんどん変えていく。憲法のよりどころとしたのは、アフリカやラテンアメリカの非同盟がその同盟国のトップはいま四分五裂しているユーゴなんです。

 ユーゴはスターリン時代にソビエトから離反して、中立という概念を建てて生きてきた非同盟諸国のリーダーなんです。それに共鳴してアジア、アフリカ、ラテンアメリカにも非同盟主義の国がたくさん生まれ、そのネットワークが出来きていた。アフガニスタンはソビエト寄りだったけれど、非同盟をたえず考えてきて、それを憲法に謳ったと思うんですね。

 その求心力であるソビエト自身が壊れてしまい、アメリカが世界のリーダーシップを握ろうとしている、その中で湾岸戦争が起きてくる。こういった状況ですね。ソマリアの問題も、いいかげんには見ていられないと思っています。現実をどう見るかということが、一人一人に問われていると思います。僕の映画はうそを言っていませんけど、十分だとは思っていません。撮影の時間が足りませんでしたし、未熟です。
 今日のアジアからきている難民の話や経済難民の話とくっつけながら、アフガニスタンを思い出してください。いま日本にいわゆる難民にといわれる人がいるとしたら、アフガニスタンの人びとよりも幸せな人たちだと私は思います。