プロセスの<作家>として-映画<留学生チュアスイリン>の記録 『映像芸術』 7月号 映像芸術の会 <1965年(昭40)>
 プロセスの<作家>として-映画<留学生チュアスイリン>の記録「映像芸術」7月号映像芸術の会

 映画『チュアスイリン』は、本年初めから、私が作ったテレビフィルム『ある受験浪人の青春』『水俣の子は生きている』(二作ともNTVノンフィクション劇場)と共に、青年を主題としたTVフィルム三部作として出発する筈であった。
 チュア君のTVフィルム用台本は1月10日に完成し、クランクイン当日、キャンセルされ、その限りでは陽の目を見ない運命にあった。しかし、工藤充氏及び瀬川順一氏らの映画人の協力によって、今日、完全な自主作品として、完成することができた。全く幸運といってよい。
 
 私はかけもちの経験はないし、一本に集中しているときは、一本の処理能力しかないという自分を知っているので、三本を同時期に並行して作ることは空恐ろしい気さえした。だがどの1本1本も私にとってどうしても撮りたいものばかりであった。
 留学生チュアスイリン  製作 1月6日~5月18日
 ある受験浪人の青春  製作 1月20日~4月3日
 水俣の子は生きている 製作 2月10日~4月10日
(受験浪人脚本 泉田昌慶, 三作とも助監督は四宮鉄男)

 私は,当初から政治を主題としてチュアスイリンを撮りはじめたのか、そして今日完成したスタイルを予想できていたのだろうか?

 本年はじめ頃から、私の創作の根には、シェストフ流にいえば「存在するものは正しい」という存在者への肯定から始まり 「生きるには他者を手探っていかなければならない」という連帯のディテールの生起部分を描くことを自分のために必要としていた。
 私自身が映画運動の中で、或いは私生活の中で、たえず自問している孤独と連帯の結び目をときあかしたい原衝動のようなものに突き動かされていたからである。
 
 ついこの間、東陽一氏と語る機会があった。
 彼の最新作が,またまたスポンサーから"ぜんぜん違うものを作られた"と指摘されて、彼が抗弁しつつ「でもやっぱり仕方ない。仕事をすると,素材はなんであれ、自分を語ってしまうのだ」と首うなだれていた。
 だがそのラッシュは傑作であった。東君の出したいものが、スポンサーの意図を丸ごと消化した上で、然と発揮されて、音楽的な統一性をすでに帯びていた。彼がそうしか出来ないことを悄然としてみせることに同感しながら、"戦友感"を分かちあうよろこびを持たずにはいられなかった。

 チュア君の映画のTV局に本年1月初め提出したシナリオ冒頭にこう書いた。それは当時、TV局に通すために固くなった文体であるが、当時どのような志向を帯びていたか知って頂けると思う。
 
 『…映画は留学生のひとりとしてチュア君を描く。平凡な生活に見えながら、これは一つの極限状況に立たされた一留学生の数日の生活の記録となるだろう。
 学校を追われ,裁判の闘いに入っている。だがそのチュア君は茫然とした不安を未来に放っている。恐らく、その眼はつねに、一つの凝縮された見すえ方をするであろう。
 状況がきびしくなるにつれて、連帯のいかなる芽も見ぬき、非連帯の状況とつき合わせて身をすりよせていくであろう。そして連帯のすべての可能性の中から、諸階層のうちただ日本の青年学生との連帯を選び、そこにしか瞳をみすえない時があろう。
 この映画が、結果として、日本とアジア留学生の問題が、日本の戦争の責任として、あまりにも不毛であることに起因している事に突き当れば、この映画は本質的に人間的な映画となるであろう』

 誰かが、この映画は、チュア君の表情の変化で説得される映画である、といった。そして、あのような主人公が見つかったから出来たのだろうといわれた。それは当たっていないとはいえない。私は、チュア君の眼に最後まで固執することは止めなかった。そこにもっともつよい集中が、私にはあった。
 だが、チュア君がヘン君でも誰でも撮ったであろう。つまり言いたいことは彼が異邦にあって,生きることの必要のぎりぎりから政治にも思想にも、すべてにアプローチすること自体が人間的であることを共感したい姿勢を私としては強く抱いていた。
 そのとき、日本学生のあれ程の決起を予想はしていなかった。つまり、そうした決起をいまだ獲得し得ない、信じ得ない地点で、それへとむかってチュア君自身が闘いすすめてゆく行為のディテールを描こうとしていた。
 そこには、私自身の問題である私の大衆不信のかたまりと、それを転換させようとする一見無効に見える非力な行為の中に、連帯を一転回復できる人間の連帯本能のありかを見たかったからである。「信じる、信じない」を同振幅の永久運動と見ることから脱れようとする私の願望が、こうした視点を当初もたせていたのである。

 『ある受験浪人の青春』では受験という行為そのものから脱けだすわずかの一瞬をとり出したかった。試験が終わって発表までの間にはじめてみせた笑顔の中の歯の白い輝きに賭けたかった。はじめて友人の家に足をむけるようになった頼りなげな歩き方の中に、彼が人を求めはじめたかすかな振り子の歯車の音を聞こうとした。

 『水俣…』では、患者から、あいまいな連帯を切断されつづけたケースワーカーの中に、ふとうごく直視をとらえたかった。無償の行為として訪問していた学生時代と、有償の行為として訪問する職業人となりはじめた彼女を襲う卑怯と勇気のディテールを欲しかった。そのどちらに賭けるかに私があった。

 そうした一連の強い志向性の中で、チュア君の映画がスタートしたし、つねにNTVの『ある受験…』と『水俣…』とだぶり、相互に影響を及ぼしあいながら、テレビと全くちがったシチュエーションの中で「留学生チュアスイリン」をつくっていった。そして「チュアスイエイリン」は当初と大きくちがって、一つの大きな振幅をもつドラマ的な記録映画として成長していった。

 このことはあきらかに、私の予見をこえ、私の人間不信の原点を自らくいやぶる程大きくなっていってのだ。同時に私の作家そのものが、ゆすぶられつづけ、いまだにそれをうけとめるのに時日と、それにふさわしい理論的、組織的批判がどうしても必要になっているのだ。

 『留学生チュアスイリン』の映画を、どちらかといえば存在論として組み方をしたのには、一つには、チュア君の視線の関にある日本学生、つまり、私自身をも浸していた「アジアなき日本人」からも出発していた。チュア君を描いたからといって、私はアジアにつねづね連続的な関心と運動をしていたわけではない。
 つまり、チュア君をおとし入れている今日の状況の加担者の一面をもっている私が、半面、激しいめぐり合いの一瞬に交叉しあい、そのスパークを通じて、意識的になり、自らの加担を、チュア君にかけるという対極変化を起こしたということだ。その時点では、『私はチュア君に加担する。一般の人々は未だ無関心、これはすなわち怒りである』という単純で無益なパターンからは何も生まれないであろうと考えた。
 
 そして自分のそれまでをかえりみると、やはり鈍角に今日の反アジア的体制に押し流され、無関心であった。かりに気づいたとしても行動しない人間であったのをかえりみると、やはり、意識的な加担なしには、チュア君の人間ですらとれないであろう。それはある種のしょく罪の意識に近いものであった。
 加担は宣言できたが、その中には、まだおびただしくのこる自己不信、大衆不信の根を大きくかかえたままであった。そのことが、存在論的方法論を決定づけていたし、そのときの私への゛誠実゛でもあった。
 
 だがもう一つの面では、正面きって非政治主義を標榜し、政治的発想から下降することを絶対に拒絶するTVの中の体制的な権力の網を喰やぶってゆく上でも、必要な方法でもあった。 
 ゛人間は゛許すが゛政治゛は許さない、という対置法でこの企画は没、これはOKと仕分けしていくしてゆく体制側の分類法に、どうしても、はまらないテーマの立て方があり、映像だけがもつ分類不能な表現が、人間と政治のかかわりを描かせてくれるだろうと思った。そしてそれは、過去何年も、PR映画やスポンサード・テレビで苦しめられてきた中から作り出した。私なりの映像論でもあった。
 
 意外にもこれすら、TV局から拒否された。『反マレーシア映画になりうる。そして裁判中にこのテーマは裁判批判にもなりうる…』
私は、愕然とした。それは通る筈のシナリオであった。拒絶できないほど、戦略戦術に自ら耐えたシナリオであったと自分でかたく信じていたからである。

 チュア君のことを知ったときから、私は退却路を遮断していた。その時までに多くの留学生の声が脳裏にこびりついていたし、チュア君と会うことが出来、そして語りあうにつれて、私にはすでに是が非でもという背負わされたものがあった。TVの企画が没になったから、といって、チュア君に説明してこの映画から身を引くことは絶対に出来なかった。
 だからTVのプロデューサー(大学時代からの旧知の間柄であった)との血の出る程の交渉をしたのだ。そして、こうした交渉は、必ず結果として作品を充血させ、良い結果を生むものなので、実にタフに、楽天的に喧嘩を数日続行していた。
 
 今まで企業の仕事で、制限や圧迫のない仕事は一つもなかった。スタッフ獲得の闘い、予算の闘い、製作スケジュールの闘い、そのすべてはスタッフを団結させ、芸術上肥えふとることにすべて結実した。
 私にとって,゛企業゛という,眼にみえる敵があり、その敵によって分裂された仲間との闘い、そして共感を得るまでの執拗極まる論戦、それらはすべて前進的であり、そうした緊張を生みつけてくれる゛会社゛や゛職階的ヒエラルヒー゛は、まったく有難い存在ですらあった。
 だから、TVはとくにシンボリックなTV塔あるだけに,相手にとって不足はなかった。だが、,結果としては,事務上の言葉,『企画中止』ですべて終わった。私はチュア君にすでに加担を表明していただけに,怒るだけではすまなかった。

 1月13日はその意味で、チュア君の映画の発足記念日であった。この日、ファースト・シーンのロケ予定であり、その2時間前に局として最終結論が出て、私は、あきらめと共に、すでに頭の中に,工藤氏の協力を思っていた。とにかく時間がなかった。その上、それまで一言もチュア君のことを工藤氏に話していなかった。
 
 工藤氏はシナリオをパラパラパとよみ、私の憤慨を聞いていたが、すぐに「撮ろう」といってくれた。私の予想を超えた即戦即決であった。その場で、フィルムその他の充分な量を手配した。残るロケ時間を読んで鮮やかな段取りだった。
 瀬川順一氏はたまたまその時に居なかった。黒柳氏がカメラを持ち、居合わせた長野千秋氏がテープをかついで同行してくれた。

 実のところ、チュア君へのすまなさが私の気持のすべてだった。この瞬間,映画が完成まで撮れるとは思っても見なかった。ただ、この時、撮らなければ、チュア君が、又「日本」に裏切られたという失意をもつだろうということがあった。そのことを、あわただしい中で、工藤氏をはじめ全員が分かってくれていた。

 会場で、チュア君と会い、彼を撮った。彼はロケ隊をTV派遣と信じていた。後、これが少数の映画人の自発的参加であると知ったとき、彼は完全に私たちを信頼した。『いまの日本の実情では、TVが私のような立場のものをとりあげられるとは思えませんでした。今夜きて下さった誠意だけでだけで充分です』彼は、日本のTVを全く信じていなかった。
 
 だが、私たちには明らかな連帯を表明した。 私はこのときから,映画は撮りつづけたいと決意した。彼の日本での孤立と,人間としての孤独を支えるには、TVで訴えるという直接目的があっての撮影でなく、彼のこの状況を記録するという゛友人として゛の映画グループが、彼を注視しつづけ、よりそいつづけること、そのことが必要であろうと直感したからである。

 今思えば、誰にも製作の見透しがあった訳ではない。それほど困難極まる条件にとりまかれていた。私自身、シナリオ化され契約した2本のTVが放映日まで決定されていて降りる訳にはいかなかった。ただ,人のつながりだけだあった。
 そして一回のロケでチュア君をめぐる情勢を誰もが理解し、撮影行動をへて、チュア君は他人ではなくなっていた。恐らく私と同じように屈折をへて、チュア君に加担していた。歯をくいしばるような誰もがもっている状況の苦しさを、チュア君の中に見、TV局でその映画さえ切られていく状況の反抗と,生きるものの証しが先ゆきの分からないこの映画を,撮れるところまで撮っていこうという行動に結実したのである。
 
 ただ物理的な困難は、私自身、他の作品があってチュア君映画にすべて没頭できる時間はなかった。もし私がいけないときは瀬川氏が演出する。瀬川氏もいけないときは他のカメラマンが立つ。ともかく、誰かが、チュア君のあとをたえず追うことにした。そしてそれは、何の報酬も期待しないことでなければ成り立たなかった。 だが、映画につきものの膨大な出費は、工藤氏が負わなければ他に負うものはなかった。

 しかも、チュア君と日本学生との出逢いは,恐らく三ヶ月あと、つまり4月新学期である。その間の空白のスケジュールは突如、裁判、デモ、千葉大訪問、学長会見と埋められる。だがその連絡も諸種の事情で前もって分らず、その形態も予想困難である。
 
 つまりスケジュール化し、集中的に撮影して完成するというテレビ型の撮影より、更に息の長い方法をとれる反面、予算も、拘束期間も全く不明な映画として製作に入ったのである。
 
 と同時にそれは、運動の中のチュア君のうごきを微速的に追い、彼をとりまく諸条件にスタッフ自身が頭をつっこむ時間を与え、映画の中に彼をひきこむのではなく、彼をフォローする映画の立脚点をつくり上げたのだ。ここに遊撃的な製作システムがとられた。それは現実的な形であり、チュア君をとらえる網の目であった。

 工藤氏の周辺には若い十名近くの映画人及び瀬川氏、そして私の間で、日常的な仕事を続けながら、どうやってこの映画に取り組んでゆくか、独得な形が考え出された。それぞれが生活のための職をもっている。それを棄てることは出来ない。だからここからしかこの映画をつくる条件はない。

 つまり我々の今生活している場はジャングルであり、ひとりひとりが独立した遊撃兵のように行動してゆかなければ撮れないだろう。正規軍のような製作体系は今とり得ない。
 ここに集約された方針は極めて現実的必要から打ち出されたものであった。これは゛自主映画製作委員会゛ではなかった。もっとそれぞれの生活をひきづった遊撃戦形をもっていた。これを私はべトコン方式と呼んだ。

 土本、瀬川、工藤氏、この三角点のどれかにチュア君から連絡があると、工藤から人員配置が決定され、機材の手配が行われ、きめられた集合地点にあつまった。
 フリーの四宮鉄男氏が助監督として演出部を終始一貫つなげてくれた。以上が主なベトコン配置図であり、1月~3月の間延べ10数日間のロケが、連絡のある度に続けられ、欠けることはなかった。

 チュアスイリンの映画は、こうして針のメドを通すようなわずかの可能性が組み合わされ、参加者それぞれが自分の条件を生みだす主体的な努力の重ねあいから生まれた。何よりベトコン方式が唯一現実性を帯びてきた。だが私にとって不思議なカケモチとなった。
 
 テレビの二作は、まず放映日がきまっており、スケジュールがはずせなかった。一作では受験生を、一作では水俣病ととりくむケースワーカーを、期限のなかで作品に作り上げなければならなかった。ともに外的にはドラマ的な要素は極度にそぎ落として、全く日常的の中の変革の因子を見出そうというような作品であった。
 体制側が日常的であるが故に見落としている人々の動きの中に、つまりTVでも通る企画範囲にふくまれる人間の営みの中に、現実変革以外、本来いかなる行為も残されていない、ある現実を切りとるのが、二作に賭けた私のイメージであった。

 一方チュア君の場合は、その行為が、現状に対する態度として、変革そのものを求めてぶつかっていった。その点全く他での作品活動と対照的であった。
 それにもまして対照的な状況が並行した。
 『ある受験浪人…』『水俣…』は、ともに、起承転結のドラマがない。慟哭といったクライマックスがない。つまり巨大なドラマをずり落としていく方法論だというので、TV内の一部で反対に会わなければならなかった。

 私の手法そのものも批判され、ノンフィクションのパターンに何とかしてほしいという意見と論争があって、私は全力をそれに注がなければならなかった。何よりも私のドキュメンタリーの方法が、テレビの中では、実験的過ぎるとか、視聴者にはわからないということで否定され続け、この意見、動きとの対話は実に困難をきわめた。
 
 それと並行して、とっていたチュア君の映画には、まさに無限ともいえる自由があった。瀬川氏のカメラも自由であり、武装といたみずみずしさをとりためていった。

 私は、TVの仕事ではサイゴン市内で生活し、全身武装の身がまえで仕事しつつ、チュアスイリンの仕事ではジャングルに入って、気やすい仲間と共に武装をといて行動する気安さがあった。

 素材であるチュア君に対して、この映画のクランク・インから正常な対話が成立していたこともあって、撮影は、様々の制約を含みながら撮りすすめられていた。だが、ここにも、演出上の様々の問題は横たわっていたのだ。
 それは当初考えていたチュア君の孤独そのものの質をみつめるショットをとることに端的にあらわれていた。シャワーで体をあらっている皮膚の毛穴までとりたかった。彼が、われわれの前にあらわれる間の時間、どのように街で、室ですごしているかを根気よくねらいつづけたかった。

 そうした映像のふくらみは、恐らく、一人の人間が他の人間にさしのべる゛連帯゛の内部的必然を黙って説明してくるものに思えた。 瀬川順一氏もそうしたものの欠けているのを指摘していたし、ぜひとりたいと考えていた。
 だが、私にとって、それをいつ、どのようにチュア君と連絡してとるかに緊迫した時間の計測がなかった。早くとっていればとれたものを,引きのばしているうちに四月の闘争が始まって、ついにとれなかった。このことが手痛かった。それは私の誤算と怠惰であり、これはかなり深い部分から生まれたものであった。
 
  更にさかのぼると、とり上がったラッシュの中に、今一つそのシュチュエーションの中の独自の中心環を映像化しているか否かの点では、微妙な演出と表現とのわずかの差もあった。私が現実に演出家として現場であったときにもそれが起きた。そこに、私はいつもなら必ずまきおこす、討論と葛藤をもたなかった。どこかで無意識に手びかえる心が動いていた。表現と意図とのかすかなちがいの中に、実は映像の開拓があるであろう。だがそれをどこかで感じながら、つきつめることなく、すごすものであった。

  散発的に言えば、私は長廻し、望遠レンズといった機材と分かれがたい゛文体゛をもっている。それが手に入らないとき、作家のエゴイズムとしては、何より欲しかった。それも、どこかであきらめていた。

 
 私は反対に、同じ時期TV局での仕事では条件の獲得に熱心であり、執拗をきわめた。それを作品の質にかかわるものとして強力に楽天的に要求してうむことがなかった。その敵対的な機構そのものの中で、スタッフ間でも苛酷なまでの討論をしてきた。ほしいものは全部ほしいと言った。

 その場合、憎々しい相手がいる程、朗らかに闘えた。だが、全く事情の違うベトコン方式の中で、この方法の無力は当然だが、これにかわる私の態度が今一つふんづまりになって出ないのである。
 体制との闘いでは元気がよくて、仲間ばかりの自主制作の中で反対に駄目になってゆくのは一体どういうことかと自問する。
 ゛怠惰゛というほかにまだまだ多くの未切開の部分が自分にたしかにあると思える。

 企業やTVでとげだらけのくらやみの中で闘っているところからすぐに陽光のあたった原っぱに出てきたような、瞳孔拡散的な現象であったことが一つ。
 何より、仕事の中で、まず気持を一つに出来、無償の行為に創造行為をだぶらせているスタッフの一人一人の、精力的な協力、工藤氏の超人的な努力にかこまれている。
 被写体のチュア君は人間的に間然とするところがない。作家として無限の自由と可能性にとりまかれながら、私にどこかに、その連帯のスバラシサに酔い、自らのエゴイズムを全スタッフとつき合わせてゆく作家としての大事な創造上の唯一物を見失っていたのではないかということを思う。
 
 更に言えば、心の片隅に、どこかで、かくも無償の行為を強いるという負担感があり、それが私から自由を奪い、ひいては、全スタッフへの信頼を更につきすすんで検べたしかめ、芸術の強靱度を高めつつ、先に進めていく指導性をうばい、そのことの裏をいえば、あと二つの作品の並行という条件に甘えて、チュア君の映画に割くべき時間が、テレビの二本にさかれていることを口実に、演出上のエゴイスティックな要求を出せない事、それに対して当然うけるべ批判のルートを状況の名の下に閉ざしていたのと同じではなかったか。そこでは私は、チュア君及び、全スタッフ、とりも直さず自らの作品を裏切ったのであると自らを断罪せざるを得ない。
 だが誤解しないで頂きたいのは、その中で実に様々の方法が、用意され、ベトコン方式として画期的なやり方が次々と生まれたことだ

 ごく初期の頃はTVのデンスケを流用したが、そのうちに、ソニーのデンスケをかい、ついに音付け用の高級プロ用テープレコーダーをも買って、手づくりとよぶ録音部(実は撮影部と演出部)が生まれ、音づけを自分たちで立派に出来たこと、或いはボレックスを、完全にドキュメント・カメラのスピードまでにしあげた瀬川氏のカメラワークなど、枚挙にいとまもない努力と創造性によって、この作品は、私のうろたえを包んで戦闘的な撮影行動がつづけられたということである。
 カメラはますます自由になった。チュア君のひとりの人間としてのつっこんだシーンをとれる条件さえ獲得出来れば、といいつづけながら、チュア君をそのためにとらえる時間を日一日と失っていた。

 このように曲折をへながら、4月上旬、私のTVはすべて終わった。それまでにとりためられたフィルムには、日本とアジアの接点をチュア君の眼でみたショットがとりためられ、それはあきらかに゛加担゛を示していた。

 と同時に、その頃チュア君の事情もジグザグと混迷をつづけていた。当時の調査網は映画で一人称となった田中氏とマラヤ学生であり、その判断は苦渋にみちていた。何より4月半ばとなって、チュア君が母校の日本人学生と触れ合う機会を持つ以外になかった。それはニ、三日のうちにきた。
 
 それまですでに数千フィートのフィルムが出来ていた。実質計上は相当額と見越され、誰もが、この回収を考えざるを得なかった。そしてフィルムは、直言するナイーブさを豊富にもつものであった。
 かりにテレビに出すとしたら、反マレーシア、゛反日゛的ということで何らかの制限を免れない。それにひきかえ、ラッシュの質は、チュア君を支援する体温をもっていた。私は「白毛女」の前半を思いうかべた。いじめられ、したげられて、尚行きぬく白毛女にチュア君をみた。だが一体このフィルムをどこにむけて作っているのか?
体制の狙撃者にとって、あまりに裸の標的然としておおらかでないか?

 工藤氏は決心した。『このフィルムでは一切の有償の行為を切る。チュア君ひとりにプレセントする映画、彼の運動に役立つ映画でいいのではないか? 作品の純度を明確にした方がいい』
 それまでモヤモヤしていたことが、これでふっきれた。
 
 その後、数日して千葉大の新学期が始まったのである。
 私は千葉大での三日に賭けた。私はこの映画のラストを、「日本学生いまだ立たず」という時点においていた。
 それはTVのもつ、一ヶ月あまりの撮影期間を念頭におき、その相互の緊張を準備するという終末のないおわりを構成上のラストとしていた。
 だがその頃までに、チュア君の復学を望みたかった。映画をとりつづけながら、全スタッフもそれがかちとれなければ、今までの映画としての諸行動さえ意味がないという程、色々感じ、過熱していた。

 前から行動者の気配は、われわれの間におのずとあったが、4月新学期、チュア君を守る体制がまだまだ不備であることを第一日に知ったときから、全員が行動者に変身していた。そして肉体化さえしていた。
 私にとって、『水俣…』や『ある受験生…』では、変革を祈るという被写体との接点があった。チュア君の場合には、チュア君をとりまく状況がかわるべきだというさしせまった思いがあった。

 なぜ、こんなウロタエた監督に、多くの人が作品づくりをさせてきたか、皆チュア君の幸福をいのればこそではないか。
 私と同様、゛マレーシア゛と゛マラヤ゛の区別もチュア君から聞いてはじめて知った程度である。だが、その連帯は可能だったのではないか。まして学生にない筈はない。映画ははっきりと加担の途を歩んでいる。その果てに、状況そのものの変革、それ自体を祈る以外にない。苦しい状態をそれぞれがかぶってベトコン方式をとったときに、映画運動と並行して、チュア君をまもるうごきに、実は誰より精通し、誰より心情をかたむける人間となっていた。これはその方式をとった゛本質゛のつきうごかすものであったのだ。

 だが確信があった訳ではない。私と四宮君はチュア君の眼で、学校の動きを一分も休まず看視した。それを学生に連絡した。カメラはそれを察知して学生を撮りまくった。助手があわただしくボレックスのゼンマイをまく間、瀬川氏は、空の両手でキャメラを廻しているようだった。彼の緊張だけが、その時間をつなげた。
 
 学生はある傍観者が望遠レンズのついたカメラで学生たちをねらったとき、そのカメラを奪って、フィルムを引きぬいたほど、撮影には敏感であった。だが私たちが何の断りもいわないのに、このカメラだけは許した。瀬川氏に言わせると『学生諸君は、キャメラはチュア君なんだと思ったのだ』恐らく、ベトコンの体質が、学生のベトコンに通じたのであろう。スタッフ全体のうごきは一つの呼吸の中にあった。何より学生そのものと化していた。上でも下でもなく全く平等の力を出し合った感じであった・

 このベトコン方式が、状況そのものに深くかかわりあうという行動を生んだ。私にとっても、初めての経験となった。長時間、人間をみつめることで政治のかかわりを発見するというドキュメントの一つの分野に一すき鍬を入れ得たかもしれない。だが、私は、創造上悔なき闘いをしたかと省みるとき、部分的にせよ自らを裏切ったことからくる傷跡が、映画『留学生チュアスイリン』にのこっていることを見る。

 作品が完成すれば、個人の「作品」としてうけとられることへの違和感がこの作品ほど、つよく私にくい入ってくるものはない。映画作品が、映画行動のプロセスの質にかかわるとすれば、行動への参加の前に、労力の多少、ポジションのちがい、役割の区別はなく、全く平等のはずである。だが、その中で作家は誰にも分有出来ない唯一物によって、どのような状況でも終始自分の中のエゴイズムの声をきき、自らの創作純度を洗い、原点を求めつづけるべきだろう。
 私の場合、可視的な敵の中で出来たことを、今回裏切り的にためらった。この矛盾を作品の完成までに見とどけられなかったことによって、私は参加した全員に対し、自らの非ベトコン的ともいうべき「負担」の心情をのこしている。

 ベトコン方式に必要なものは、作家とスタッフとの創造上の厳しい論理をぶつけあう無型の委員会を組織できるかどうかであろう。くりかえすが、可視的で、敵対的関係を見分けられやすい資本制生産に変わって、今度のように自主的で可変的且つ散開的なベトコン式生産方式の場合、私の今までの製作習性は殆んど無力であり、新らしい形の作家としての方法論をもたなかった意味でこそ、その裏切りをとらえるべきであった。そしてそれは恐らく、外に存在する矛盾からくる緊張を、なれあうことなく、内部の矛盾の発見にもとめ、それに集中し、つよい相互の批評の場をもつことであったろう。
 運動をとる映画製作自身、深部に創造のための内部運動をおこす以外にない。チュア君の映画にそれを完うし得なかったことを、一つに私の責任としたい。

 この映画が、新しい芽をもっているとしたら、それは歴史をかいくぐった様々の映画人の未来にかける期待が、創造上、全く自由を確保できベトコン方式の中でこそ発芽したものであろう。
 そしてこの方式の中にも資本制生産の鉄則が襲うように、この中の映画方法論にも様々の混だく物が入りこもう。それを純化し、極端にいってどの場でも唯一の創作、これしか出来ない芸術の自立にたちむかわせるもの、それはいかに孤独な作業であろうと、作品と作家とのかかわるただ一つの創造という作業であるだろう。

 私は『路上』『ある受験…』『水俣…』とつづけた映像そのものへの試行を止めるつもりはない。だが、『留学生チュアスイリン』の方法が、いま一番たしかで未来的な気がする。つまり『路上』以下の一連の作品は習作であるだろう。その意味ではチュア君の映画も一つの苦しい軌跡をもった習作であるかもしれないが、だが少くとも、それまでの映像そのものの試行のすべてはチュア君の映画のための習作であることが望ましかった。

 私にとって『チュアスイリン』はそうした位置づけをもっている。それだけに、そうした厳しい「相互批判」「作家主体」への問いかけが自らうすかったことへの内部の空洞は許しがたい。そしてそれは恐らく、『映像芸術の会』
での私の非運動行為への点検とむすびつくであろうし、今後の回復もそこに至らなければならないだろう。チュア君以前まで、私の最高とした連帯の質の低さは、芸術的にもチュア君への加担の質に対しても、゛いまだし゛の線を残していることは明らかになっているのだ。
 

 丁度この映画の編集中、『ベトナム海兵大隊戦記』の問題が起きた。見終わってすぐ、スタッフ連名で激励の手紙を、私とかってこの映画では意見を異にしたプロデューサーに送った。そしてその日から放映が狂いはじめた。
 私は同質の映画の同質な運命を予感した。あれより、はるかに意図まるだしのチュア君の映画が、いかなるルートで見られるだろうかを考えた。ベトコン方式の映画だっただけに、被写体との間に独自の相互関係をもつストレートな゛加担映画゛となった。それなりの感銘度をもつ作品となるであろう。だが、どこで見られ、どう歩きつづけてくれるだろうか?

 製作が終わって、その予感は、当たりはじめている。運動の所産として生まれたこの映画は、再び運動の中に帰っていってこそ意味がある。私は、ある民主的映画配給社に、数回足を運んでいる。いまだに回答はない。多くのTV局は、そのタブーとの接触を恐れている。
 
 それはすでに予見していたことである。そしてそのことは、チュア君がこれだけ苦しんだアジアへの無関心そのものに、この映画がいま立ちむかっているという一面と、ベトコン方式だけでは今一つ組織できない配給部門への困難さを思い知らされる。いま参加したスタッフのひとりひとりが、母校をオルグして学生に見せるという献身的な活動をおこなっている。その力だけでは限度が眼に見えている。にもかかわらずつづけられていることに感動しないわけにはいかない。映画をつくることにつづいて、更にむずかしいことは、映画を見せることだということを、胸苦しいまでにしらされている。

 この映画はある種の政治映画であろう。すこしずつではあるが、チュア君をめぐる情勢を人々に知らせ、とくに学生の間で、身近な地点にアジアとの連帯のあることを示した。だが、それはスタートにおいて政治映画をつくろうとしたのではない。参加した人々の軌跡が、政治的たらざると得なかったことで政治力の一端に加担した映画になった。故に今直面している大状況の下では、非商業的フィルムとなりかねない。だが果たしてそれだけの原因からであろうか?
 芸術的に欠くるところがなかったか。それがあれば尚作品のひとりあるきする脚力は更に強められたであろう。それは真の戦闘的映画の個性であるはずだ。その一点が、今後私自身を追い込め、次の地点への匍匐前進を迫るであろう。私はそのことに気づき始めている。

 最後に工藤氏はじめその周辺の若い真摯な映画人に心から感謝したい。とくに、困難と闘いながら、カメラを通じて、スタッフを結集し、そのラッシュをもって、チュア君とスタッフ、即ちうちと外を組織し、学生をひきこんでいった人間的カメラワークに始終した瀬川順一氏に心から脱帽し敬意を呈したい。

 『留学生チュアスイリン』は、私をあきらかに次の地点にかりたてる。それだけのものをもつ作品であることを私は声を大にして言いたい気持に駆られている。恐らく、スタッフから検討を開始し、そして、映画づくりにとりくむ様々のグループの中に、今後、更に厳しい点検報告をおくりたいと決意している。   (40.7.1)
               (つちもと・のりあき―会員・演出)