患者の世界からの逆照射 『熊本日々新聞』 11月2日付 熊本日々新聞社
日日を撮る。約百四十日のロケを経て,私たちには、水俣のその日その日を撮ったという想いが残る。某月某日という日記としてでなく、その日に至って初めて成熟した疑問や関心をもって、ある晴れた日に塵煙を吹き上げる工場一帯を、ある日はボラ釣りを、ある日は胎児性の子供とその周辺を、ある日は市役所をとカメラとテープをもって、その日の"水俣病"と"水俣"を撮りつづけてきた。
一度撮影した人を再度撮りに行くこともある。一本の煙突を何度も折にふれレンズを通して見つめなおした。そのつど、わが視点は変わり,深まらざるを得ない。四ヶ月余はそのためにギリギリの日数であり,決して長くはなかった。患者の記録_そのうちで水俣病で恨みを残してこの世を去った死者と、患者、とりわけ胎児性患者については、全部フィルムにおさめたかった。一任派、訴訟派と分かれている困難はあったが、この限られた家族を二度三度とふりかえって見つめるごとに、心から恐怖すべき水俣病の実態が浮かび上がってきて、平静な気持を心底から動てんさせるのである。その一家ごとに十年、十五年のひしがれた歳月をもち、その忘れかけたひだから"告発"ともいうべき真情がほとばしり出てきて、ともすれば、水俣病になれなれしくなる私たちを深い淵にひきこむのである。
"悲惨な"患者という。"恐るべき"水俣病という。その悲惨とか恐ろしいとかいう了解事項的な形容のことばで,何と私たちの日常感覚を破壊せずに過ごしえてきたことか。
女の患者がおとなの年齢になり、乳児期の面影のまま、おんなのからだになる。しかも運動失調のため、浣腸する以外,便秘を防ぐ方法はない。テープを回しながら、話が"難儀"の核に近づいていく。十七歳の生理をもったおんなを狭い浴室の中で折り敷ながら、羞恥に全身を堅く閉じるわが子と格闘して,浣腸する。それが母の日日の難儀なのだという。突然に声にならぬ声で、その母はかたわらの老いた夫に目もやらず"おとうちゃんにも…言えんことがあるのです!ほんとに、つらか!"その母はおえつしてしゃべりつづけることができない。夫は、わざと身を反対の方によじって黙して伏している。患児は、おびえたように異様な母を見つめている。その凍りついた瞬間にもテープは物理的に回転している。マイクをささえている自分の手が、その口もとのそばで上下している。それが文章の世界でもフィクションの世界でもなく、ただひとりの患者さんの世界のありのままに向けたカメラであり、テープである時、撮ってはならないもの,見てはならないものを記録してしまうことの非情さに、自分ながら、空漠の中に、さまよわずにいられない。私は嘔吐の癖があり、心理的に追い込まれたとき何も吐くもののない乾嘔発作によくとらわれる。帰路テープを肩に海べの斜面をのぼりながら、こみあげる吐き気にうずくまることもあった。
そうしたスタッフの共通体験として、一つの峰を辛くも越えた後では、以前に撮った工場のたたずまいにせよ、排水口にせよ、町の人の顔にせよ、まだ一つ物足りなく、わずかに見当ちがいであったりする。つまり、別の貌が見えてきて、改めて,同じ対象にカメラをつきつけてゆくことになるのだ。
シナリオも構成も、スタッフ間の対話の中にあるということを、相互に確認している私達四人のスタッフは、直接性に触発されたもののみを手がかりに次の日の撮影をひとりひとりの胸で考える。その意味でこの映画もまた、全員が創造主体の重たさから解き放たれることはない。夜毎の激務ともいえる"憤耐のみ"は、だから爛れたように熱い話にからみつくのである。演出,撮影、録音,製作というパートの分担はあるにせよ、生理的に同一主体でありたいという架空願望に対して酔うのである。醒めてカメラをもってその日、その日を撮る。そのようにして、約二十時間分のフィルムがまとめられた。したがって、この未編集のフィルムを見ると、日ごとに、深まっていく映像になっている。それは日ごとにある水俣との出会いの重なりである以上、当然であろう。
私は予感として「光る映画」というものになる気がする。明るいのではない。かといって暗く悲惨で同情的に耐えぬといった映画ではましてない。それらをつき抜けた地点で生き、生きることで戦い、審判を求めて裁判に行動している患者さんの世界は、見る人の目には光って映るのだ。その意味で発光体のように光を自体発しているフィルムとなるであろう。それは私の、まだ知らない種類のフィルムであり、完成までに私の負った責任は新しくもあるし,当然に重いものと覚悟している。
この十七年、水俣は忘れつづけられていたという。一方、厚生省や、県や市は行政日誌をめくり直して、あれこれやったと言いもしょう。しかし、ロケ中にあった参議院公害対策委員会の現地視察の一コマはこうである。
「知ラナカッタ。公害認定後、患者ハ快方ニムカッテイルト聞イテイタ。コノ子イツカラコウナノデスカ?ナニ?ウマレタトキカラ……ソウデスカ?…何トモ…知リマセンデシタ…スミマセン…」
50歳を越えた議員、選挙当選歴数回のベテラン議員が、公害対策委員会の委員となって,初めて、この現実をジカに見たのだ。隠すことの出来るなら隠したまま葬りたかったチッソ、市,県、国の本能的姿勢に合わせて,見ることなく、水俣病を扱ってきた官僚と資本と「善良な」市民たち、それを見続けた患者さんにとって、まさに、水俣病はおおい隠され、忘れられてきた歴史でしかなかったであろう。私もその「善良な市民」のひとりでしかなかった恥を、このフィルムに痛くとどめて、発光体の一細胞に化身したいと思う。
水俣病の現実を見ることからすべては始まる。そして人は見えるだろう。繰り返しいうように、患者さんの世界は、光っているのだから。