「パルチザン前史」の時間について「表現」創刊号
限られた枚数なので、単的に触れる。
私のこの三、四年の映画は、撮った順序と編集した順序がほぼ同じである。
その点『パルチザン前史」もがん固にその方法をとっている。
八月末から十月末までの記録がそのままシーンの序列をなしている。
前作長編「シベリア人の世界」(未公開)もそうだし、更には『留学生チュア・スイ・リン」萌芽的にそうである。
「大阪市大落城」のシーンは「京大時計台」をみつめた三十時間がなければ、あの撮影コンテは出来なかった。
京大落城、その前日の百万遍闘争の一見みごとな闘いであり乍ら、そこに計画されたものより、その力量よりはるかに不発に終えさせられた権力の強制力とそのつめ将棋的な統合性をみてきた眼でしか、大阪市大の訴えかけているものを抽象出来なかった。
京大で促えた教師像、たとえば京大時計台をみつめる教師、九・ニ四の文学部再封鎖のときに「勧告」に来る教授たち、さかのぼっては九月上旬、同志社で「赤軍」ボックスのありかを密偵のように機動隊指揮者に売ったベレー帽の教授たち。
こうした使用,未使用のフィルムにのこった教師像のつみ上げがなければ、大市大の教師の構図と、あの「仰げば尊し」の歌に、ある感動をもって、私はフォロウ出来かねたに違いない。
滝田に関する一連の代表的シーンがほぼ一日で撮られている。
百万遍の闘いのあと、苦悩にみちた日々、ロックアウト、形式的最封鎖、民青の時を得た台頭、機動隊の校内支配等の日々を撮りつづけながら、実は蓄電されたボルテージがどこにむかって噴出するか?
滝田がある日、予備校で、”むき身”になり始めた時、その荷電が正常に流れはじめた。
それは午前の出来事であった。
その午後、全く予定しないプログラムでありながら、ごく自然に、家族を、彼の歴史をこめた書架を、彼の愛するローザと、その言葉を辿ることが可能であった。
だた一日の撮影であった。
大阪の予備校から、高槻市郊外の彼の自宅までの一、ニ時間の地点の移動の間に、彼の内部の劇的転換が、実はひそかに生起していく。
その生起をじっとみつめ乍ら、車中の彼の顔を、モノローグを撮る。
改めて万博の工事の強力な進行をみる。
(この途中フィルムと、テープは全然使っていない)
彼の、小さな借家の一間に、カメラをテープで入ることは私にとっては、百万遍闘争で機動隊の前に立つよりはるかに恐ろしく、難儀である。
何故ならカメラとテープがそこに在るからだ。
それが酸素か空気のように当然ある存在になる時はめったにないことだ。
この一日で滝田のディテールをとり終えたとき、この映画はできたと思った。
それは一つの旅の途中で、”見える”という気になれる一瞬があるが、それなのだ。
「撮る」「撮られる」の関係が、心の問題として、なくなる時、私は”出産”を感じる。
私が映画の特性である時間の転倒、空間の飛躍、フレームの自在化を充分有効と思いつつも、何故、日誌的編年史的な時間に自分を金縛りにして記録するのか、分って頂けるだろうか?
記録映画が、人を盗み、肖像を切り撮り、人の言葉をとる……。
そうした物理的武器、レンズ、フィルム、テープ等を私が一方的に独占してそれを”力”としてもっている存在である以上、被写体の人間と私とは同列平等ではあり得ない。
まして編集という個的な作業でイメージを創造でき、一見、全く別個の世界をつくり上げられる立場をもっているものが、シリアスであるべき事柄を表現する際に、フィルムの上でのみ、”映画作家”的であってよいであろうか?
私がこんなチマチマしたことに心患って以来、かなり意識的に、撮る時間序列とシーン序列を主体者、作家の旅の全行程として、そのままに陽にさらすこと過度的にせよ一時期の方法として私に強いる。
従って、撮影の日々がシナリオから編集まで、映画の生成のAからZまでを重層して混とんをなしていなければ、出産に至らないのである。
毎日、女と寝ているのに似ている。
そして私は女であり母であり、時にバギナそのものに似ている。
十日十月が要り、その順序は崩せないのである。
それは仕事ではなく、生きものの仕事なのである。