映像で記録するということ 『新日本文学』 No.610 1・2月合併号 新日本文学会 <2000年(平12)>
 映像で記録するということ「新日本文学」No.610 1・2月合併号新日本文学会

 標記の題を与えられ、お引き受けした。丁度、私にとっても整理の時期だからである。ドキュメンタリーについて思いをめぐらす日々を送っているものの、整理されている訳ではない。時間はあるから物思いに更けることは出来る。その分、拡散と集中の波に揺すぶられ、まとまりがない。あと作品が作れるか分らないが、私に必要な機会であろう。

 私も七十歳、体力は視力を始め低下してきた。ながく私を支えてきた車の運転も昨年断念した。車は演出の道具であった。水俣周辺にせよ、原発地帯にせよ、車なくしては下調査もできなかった。それを諦めるのは脚をもがれるようだ。また、記録映画の現場では瞬発力を求められる。新鮮な感受性とそれに対応できるマメな動きが要る。風景ひとつ撮るにも納得いくまでカメラポジションを探す脚力がなければならない。劇映画と違ってドキュメンタリーの場合、椅子に座ってメガフォンでスタッフを動かすわけではないからだ。その点、年に追われる年齢になった。

 そんなこの頃、人生の総バランスは巧みに働くもので、今年一月から若い人達と研究会を自宅の仕事部屋で毎月定例で持つ事になった。つまりドキュメンタリー論を互いに語りあう場ができた。もっとも年齢的には一世代、二世代違うし、経験も違う。ともすれば先輩視され、私の"独演会"になる。あるいは参加者たちはそれを待っているのかとも思う。で、八方破れの話になる。
 やや脇道にそれるが、私には映画学校の講師への誘いには応えなかった。実作に時間を取られていたからだ。例外的に七〇年代、アテネフランセの映画講座に加わり、その生徒たちがクローム禍を追って下町の工場労働者の被曝人生を描いた『東京クロム砂漠』(ジョルジュ・サドゥール賞受賞作品)を指導しただけである。だいたい多人数の生徒相手は苦手である。この講座も数人の生徒であった。
 以来、各種の映画学校から「コマ」割の講座には招かれたが、何時も時間ぎれのようで、索莫感に耐えなかった。またコンクールで順位を決めるような機会は避けてきた。高みに立っての評価者の役は好まなかったからだ。
 どんな人間(作り手)にも可能性はある。それを同一線上で発見し批評しあうのは良い。六十年代の私の映画勉強の頃、「青の会」はまさにそれだったし、岩波映画の仲間の黒木和雄(以下敬称略)や小川紳介、東陽一らや大津幸四郎、田村正毅カメラマンらとの論戦の楽しみが体に刷りこまれているからだろう。

 今回の企画者は主にビデオで沖縄の記録映画を自主製作を始めている小川町シネクラブの中心的活動家、新田進らであり、それに近年異色作を発表しているビデオアクトの土屋豊、そして映画大学の学生、作家志望者(ともに女性)が加わり、六人でスタートした。
 本来、小川町シネクラブの正式講座だが、私の年齢上、無精を決めて、会場は自宅の仕事部屋、人数は机と座布団数の都合から限定した。欠席はしないことを不文律にした。
 テキストはエリック・バーナーの『世界ドキュメンタリー史』(映像記録選書、監修・佐々木基一・牛山純一)。一九七八年に出版された本だ。
 この起草に当たって、バーナー夫妻は三年間、世界各国の記録映画の古典、新作七百本を渉猟し、はじめてドキュメンタリーの通史を書き上げたものだ。
 私事になるが、たまたま東京、パリ、ニューヨークで氏と親しむ機会があった。バーナーとはクリス・マルケルのスタジオで一緒に記録映画グループ「スローン」集団の作った労働者映画を見たし、ニューヨークでは、どうして調べたか、私の誕生日にパーティーを開いてくれた。その際、彼の映画人脈の若さに人柄を感じたものだ。
 日本ではアメリカ版『ヒロシマ・ナガサキ』の制作者・記録映画作家と知られているが、アメリカのテレビの創世期に立ち会い、コロンビア大学のラジオ・テレビ・映画科の科長を長年勤め上げたのち、いかにもアメリカ流に十分な時間と調査費を得て書き上げられたと聞く。これが日本のテレビドキュメンタリーをリードした、日本記録映像の牛山純一の野心的な出版企画のもと、佐々木基一の監修を経て、早大以来の映画研究者市川沖のマニアックなまでの校正のもとに作られた(各氏はすでに鬼籍である)。
 実に平易に書かれている。その訳文の密度も高いが、映画手法や技術用語が適訳で読みやすいものだ。私のところを訪ねるアメリカやフランスの訪問者にはこの原本を手にする人もある。多分、世界的に貴重なテキストと思われるのに、日本ではそうでもない。

 この本に特徴的なことは、単に映画史の各時代背景だけではなく、カメラ、レンズ、フィルムとその感度、そのコマ数の変化、そして音(トーキー)のプロセス、同時録音の技術などの進歩が、いかに映像を変え、作家をして手法の変革を促したかを詳細かつ具体的に語っている点である。これはいわゆる映画批評家の著書ではなく記録映画作家が書いたものだからであろう。エリック・バーナー自身がサイレント映画時代に育ち、戦前のニューディール時代の社会派作家の全盛時代にドキュメンタリーの洗礼を受け、第二次世界大戦から戦後のマッカシーの映画人への赤狩り時代を体験し、なおテレビ時代の映像文化を作り出す側に身を置いた経歴に負っているように思える。
 カメラとマイクのある現場でのスタッフ・ワークを知るものが持つ映像の解析力は独特である。彼の眼は作家そのものであると同時に、カメラマン的でもあり、それにラジオによる音声の役割にも通暁している点で読みが深い。「ドキュメンタリーの批評はドキュメンタリー作家のそれが一番鋭い」という私の持論に、さらに示唆を与えてくれた。
 このテキストの細部について触れては紙数が足りないが、このテキストの選択に誤りはなかったと思う。
 あらためて思う。映画百年の歴史は文学や美術、音楽などの芸術に比べてなんと若いものであるか、だ。文字が人類の歴史に登場して数千年、さらにそれ以前の、考古学的な世界にオーバーラップしているその歴史に比べ、映画は若い。その発明者リュミエールから記録映画の源流とされる『ナヌーク』のフラハティーや、『キノ・プラウダ』のジガヴェルトフ、それに続く社会主義ドキュメンタリーの旗手、ヨーリス・イベンスなどですら百年の時間の中である。その映像もいまはビデオで見られる。この作家たちが、私たちのとって手の届くところに居る。リュミエールですら私の曾祖父の世代であり、フラハティーやジガ・ベルトフは祖父、イベンスなどは父のイメージでその足跡を辿ることが出来る。そして映画技術の発展が、その時代々々の作家の熱望のなかで工夫され、その成果がまたたくまに映画作家たちのものになるや、エネルギッシュに新しい映画の言語、文体(手法)が作り出される様はドラマティックでさえある。いかにテレビ・ドキュメンタリーの時代になろうと、その先人の積み上げた映像のステップから離れることは有り得ないだろう。それほどにあらゆる試みが、この百年に試され続けてきたのである。

 こうした映画の言語、映像そのものの変革は、文学の文字・言葉の世界にあるだろうか。比較する方が無茶であろう。だが、映画の作り方、構想の根幹ににも「はじめに言葉ありき」ではないのかと思う。たしかにシナリオ乃至、構成案などそうだ。しかし、歴史は明快だ。映画はそもそもカメラ(とマイク)でなければ見えないものを見る(撮る)ことへの熱中から始まったことを教えてくれる。つまり「言葉になり難いあるもの」「言葉に表しがたいもの」に映像の開拓者たちは執着してきた。

 この本で知ったジガ・ヴェルトフの話に、その「文字化」に政治がらみの葛藤が伺えた。
 一九一八年、ロシア革命のただなか、彼は二十二歳の若さでモスクワ映画委員会の一員としてニュース映画部門の責任者になり、その膨大な内戦・再建のフィルムから、長編『革命記念日』(一九年)、『内戦の歴史』(二一年)などを発表し、早くも二二年に彼は革命的な映画運動をめざして、妻イェリザヴェータ・シヴィローヴァ、そして弟ミハイル・カウフマンと「三人委員会」を作り、「キノ・プラウダ(映画真)」運動を興している。彼はカメラの役割を映画の核にした。無論、カメラマンは同時に演出者でもあったが、ドキュメンタリストとして、いわゆる「シナリオ主義」には徹底した批判者であったようだ。ニュース映画を重視したレーニンの時代に彼は輝いた存在だった。同世代の劇映画作家にあらがうように「生の記録」を使う映画にに執着した。だがネップ以後の一九二八年に始まったスターリンの第一次五ヵ年計画に伴う映画統制には、なにかと抵触しはじめたようだ。映画機関は政治目的に合致させるために、ドキュメンタリーにも予めシナリオを求めたのである。それは企画の承認と予算の認可のためとされたが、ヴェルトフのドキュメンタリーの理念とは相容れないものだった。「実生活の現場でどんな真実を見つけて、記録することになるか、どうして記録映画作家が予言や保証ができるだろうか」と問い、かれはシナリオは書けないと言い切った。「その態度から、彼は危険な『反動的』意見の持ち主とマークされた」(前掲書)。
 彼は仕事を続けるために妥協したが、シナリオは書かず、シノプシスや字のコンテすら書かなかった。のちに妥協して、彼は意図を書き込んだ、みずから「分析」というノートしか提出しなかった。これでは「ソヴィエト・リアリズム」体制とは相容れなかったろう。だ かれの映画的遺言とされる『カメラをもった男』(二八年)に燃焼しつくし、主流の座を追われた。一九三〇年代半ばにはニュース編集デスクの無名の存在になっていたという。このエピソードはドキュメンタリーが社会体制を問わず、「委員会(規制)の思想」と拮抗する必然性を内に孕んでいる事を察知させる。たしかに社会主義体制(東ヨーロッパ・中国を含め)のドキュメンタリー映画は悪しき「委員会主義」に縛られて、身動きできず、個人の作家的な光は失われた。
 私の実見も似ている。ソヴィエト時代に八ミリカメラとフィルムは個人の道楽として許されても、十六ミリカメラは持てなかった。「映画大学があり、映画委員会がある。シナリオが通ればチャンスは国が保証する」との答が返って来るのだ。
 欧米では第二次大戦前に開発され、ドキュメンタリストの常識的な武器となっていたそれは、ソヴィエトでは従軍記者にも許されなかったらしい。映画製作は原則的に三十五ミリ方式に画一化され、その映写機はどこにもあったが、十六ミリは特殊な大学、機関にしかなかった。私も環境問題で招かれた八〇年代後半、持参した水俣映画のフィルム上映にあたって苦しめられたものだ。

 世界の映画の歴史に依れば、作家はドキュメンタリーを個人の表現とし、現実をより自由に撮影し録音できるために、思想的にも技術的にも力戦苦闘してきたといえる。それはゴダールが説教のようにいうが如く「リュミエールにかえれ」ということと符号している。
 リュミエールは発明家としてエジソンより優れていた。かれは一八九五年にマガホニー製の小函の撮影機を考案し、それをちょっと調節するだけで映写装置にもフィルムの焼き付け器にもできたことだ。エジソンの撮影機は「扱いにくい怪物で、数人がかりで動かさなければならなかった」(前掲書)という。勝負は始めからついていたのである。
 リュミエールはそのカラクリを「企業秘密」にし、専属の技師にだけ伝授した。この数はシネマトグラフの発明後、たった二年の内に五百人、というから凄い起業家である。
 技師たちは世界中に散り、持参したフィルムの公開に止どまらず、その地で撮影し映写した。実写映画といわれたこれらが手掛けたモチーフの多彩さは目を見張るものがある。戦争の記録、お偉い皇室や貴族の生活、祭りに行事、旅行記や教育映画から民族誌映画のはしりのようなものまで、さらに産業映画やPR映画の試み、観光映画や探検映画など、記録映画の大方のジャンルの原型は、映画発明後のほぼ十年間に出揃ったといわれる(前述書・第一章)。
 リュミエールはみずからは『リュミエール工場出口』、『列車の到着』、そして"演出"したといわれる『赤ん坊の食事』、『水をかけられた散水夫』などを実演用に作ったのち、独占的にシネマトグラフ(カメラ)やフィルムの製造に専心し、製作をやめた。が、その弟子のカメラマンたちは撮り、写し、いわゆる活弁を加え上映するまでになった。その日撮った風景やスナップをその夜までに現像、焼き付けして上映し、ときにはフィルムを逆回転して、映画ならではの珍シーンや笑いの種を工夫した。またその映写の速度も、クランクが手回しのため自由に変えられた。ときに大受けを狙って、早回しやスローにもし、見せ物を一層際立たせた。つまり技師たちは興行師でもあったし、撮影に当たって、個人の裁量が自由であり得た。このことは「リュミエールの時代」という時、数百人の技師、つまりそれぞれの技師の活動の総量で、その勢いを見るべきだろう。彼等は、演出家でありカメラマンであり、上映者(興業者)でもあったのだ。それはどこか時空をはるか隔てて、今日のビデオに表現を見出だそうとしている青年たちの現実に似ていなくもない。
 ビデオはカメラの機能として、映画技術の歴史を集約している。カメラと録音のために数人がかりでスタッフを組んだ往時に比べ、それらが一人で可能である時代なのだ。この二十年、とくに九十年代の小型ビデオの発展は目覚ましい。子供でも撮れる。そしてビデオ・プロジェクターの開発も日進月歩である。映画館でのスクリーン上映もほぼフィルムと遜色がなくなった。その内、フィルムのこだわり派は芸術派と見なされるかも知れない。
 リュミエールから話は飛躍したが、記録映像の本質は依然として変わらず、その表現はさらに作家に課題を突き付けていることに変わりない。ビデオの大衆化はメディアを変えるであろうし、個人のビデオ映像の受け皿は、多チャンネル化や双方向テレビの発展によってすでに予定されている。この時ほど、映像とその技術の発展史のディテールへの再考察があってよいのではなかろうか。そこには記録とは、映像とはと問い詰めた、層々たる先人の知恵があるからである。

 映画技術の歴史のなかで、例えば一番目立たない三脚一つとっても、何時、どう改良されてきたか。カメラワークの基本になるパン棒や、スムースにパンの出来る雲台が、カメラマンたちの希望に合わせてどのように実用化されたかを見ても分る。
 私の体験によれば、一九六〇年代、急なパンニング(横に振る)カメラワークを可能にしたのは、オーストラリア製の油圧式の雲台が開発されてからであった。岩波映画製作所で初めて、黒木和雄のスタッフが『ルポルタージュ・炎』で新幹線のスピードに併せ、風を切るその車体のアップのフォローショットを流れるように撮った。それまではパンは金属部が摩擦し、ガクガクしてカメラマンを泣かせたものである。
 また、レンズ一つとっても、映画の文体は変わった。一眼レフ系のカメラの登場なくしては羽仁進の『教室の子供たち』の自由な表情、行動の描写はありえなかっただろう。ファインダーで見たままのフレーム(枠)で撮影できること自体、驚きだったのである。
 レンズでいえば、ズームレンズの実用化はレンズ交換の手間をなくし、空間処理を変えた。だが、とりわけ大きな変革は同時録音の時代を迎えたことだ。これは記録映画にとって手法、つまり文体を変えるものだった。

 かつて映画の表現を分析して「画が八十%、音は二十%を占める」と言われてきたが、音の比重を映像に比べいわば添え物としてきた従来の観念は改めなければならなくなった。記録映画の人間描写に音をともなうのが常識になった。ナレーションと現実の効果音(声や音楽をふくめ)中心だった編集、録音の仕上げ過程そのものが変わった。「画と音」に一致が普通になったのである。
 一九六〇年代半ば、同時録音を獲得したフィルムはダイレクト・シネマや、引き続いて起こったシネマ・ヴェリテの運動を牽引した。記録映画はインタヴューやダイヤローグによって、その記録性を飛躍的に高めた。登場人物たちの証言性が同時録音であることによって揺るぎないものになったのである。
 私がシンクロのシステムを使えたのはかなり遅れてからだった。水俣病映画の連作もその初期は録音と映像が別々の作業であり、『水俣ー患者さんとその世界』(七一年)では口と言葉がシンクロしていない。それは厳密な信憑性でいえば、隙間があいている感じを否めないのだ。その事から編集もその難を補う工夫に明け暮れた。だが『水俣一揆』(七三年)ではシンクロ・システムを使うことが出来た。このことで映画の編集は変わったのである。喋る人の喋っている時間の生理が表出でき、患者の内奥により近付くことになった。そして、言葉を採録したシナリオは、時に学術書にまでの引用に耐えるようになったのである。これは演出された言葉ではないと故に、第一次資料に応え得たことを意味する。それまでの音声の録音テープは演出によってはほしいままに切り張りできた。また、それがまたイギリスのグリアースンなどから学んだ表現でもあったのである。

 資料性と作品性とはなかなか一致しがたいが、ここに大きく問題を投げ掛けた作品がある。私が"これは事件だ"と受け止めたクロード・ランズマンの『ショア』がそれである。八〇年代半ば、発表され、注目をよんだユダヤ人に対するホロコーストを描いたこの作品は長く日本に紹介されなかった。十年遅れて非興業形態でフランス政府の文化事業の一環としてプリントが公開された。この遅れは九時間半という一作品としては常識を破った長尺だった事もあろう。にもせよ先進国で日本ほど公開のズレた国はなかった。
 この映画はユダヤ人問題の最終的解決と言われるナチの絶滅政策を過去の資料フィルムを一切使うことなく、奇跡的に生き残ったひとびとの証言によって彼等の歴史を描いたインタビュー映画である。オーラルヒストリーとも言われる手法である。つまり"語りによる歴史"とでも言おうか、その証言性は登場するひとりひとりの長く徹底したインタビューによって余すことなく定着されている。
 人が記憶を呼び覚まされる過程にはしばしば押し黙った長い沈黙が続く。登場している人物の生理的、状況的な時間がそのままフィルム上の時間を支配しているのだ。

 映画の無声映画時代は映画は映像モンタージュによって、作家の「時間」に編集し得た。トーキーになっても、ドキュメンタリーではナレーションが重視されたが、まだフィルム主体の編集と構成であり得た。しかし、同時録音はその音声の流れがいかなる表情と心から生まれたものかをあからさまに描きだし、それを生かした編集にならざるを得ない。声が映像を生かし、映像が声の真実を支える。こうした映画のすべての言葉は採録シナリオ集『ショア』(作品社)として出版された。欧米では記憶そのものを絶滅した記録として多くの研究者の対象になった。ジガ・ヴェルトフが「生の記録」(フィルムで)といったことを想起する。まさに「生の言葉」(画と音)として生かされた。ナレーションに詩人の参加したアラン・レネの『夜と霧』以来、この『ショア』までに三十年の映画史を閲したのである。ここに映像による記録の総体的発展の背景を見落とせないと思う。

 二十世紀、人間は記録映画として果たして何を残したか。例えば南京大虐殺の記録映像ひとつとっても、忸怩たるものがあるではないか。
 今、若い人たちとドキュメンタリー史を読み直しながら、"リュミエールからビデオ作家まで"を貫く、ドキュメンタリー理念の再構築を、出来る範囲で試みてみたいと思うのである。
 (九九・十・一)