関西水俣病訴訟上告の意味 『社会評論』 126号 5月14日号 活動家集団思想運動
四月二十七日、チッソ水俣病関西訴訟の高裁判決で国県の責任が認められた。この点ではいわば勝訴である。原告患者の団長川上敏行さんはいまは亡き前団長岩本夏義さんを念頭に「これで墓前に報告できる」と語っていた。岩本さんは七年前の九十四年七月、大阪地裁第一審が国県の責任が認めず原告側が敗訴した時の団長である。彼は判決集会で支援者を前に「私は恥ずかしい!」と吐き捨てるように身をよじって叫んだ。それは怒りより強く人々を衝った。岩本さんの苦悩と絶望の声だった。その三か月後、「川上、後を頼む」と託して逝った。この大阪第一審訴訟に先立ち、八十七年三月、熊本地裁での第三次訴訟第一陣、九十三年三月にも同じく第二陣、そして同年十一月の京都水俣病訴訟と三地裁で国県の責任を認める判決がだされていた。東京、新潟地裁は行政責任を否定したが、三対二である。関西訴訟弁護団(団長松本健男氏ら)はその成果を踏まえて闘ってきた。岩本さんも国県の責任、とくに水質保全法、工場排水規制法(水質二法)の規制権限を行使しなかった国家の責任については、三地裁の勝訴の判決によってほぼ定着したものと信じて疑わなかった。それだけに彼の衝撃は大きかった。国県の主張を引き写した判決だった。これがまかり通ったことに怒りより羞恥の念がこみあげた。自分はどういう国に生きているのか、このような日本国家のもとに生きていること自体が恥ずかしいと言うように。
今回の水俣病関西訴訟は、六年前の一九九五年の村山内閣時代の政治決着による和解以後、唯一闘われた裁判であり、初めての「高裁判決」として待たれたものだった。知られるように「和解」では“最終全面解決”として、控訴した原告二千三百人の全裁判と千三百人を超える認定申請、行政不服審査請求の総取下げという過酷な条件が付けられた。係争事案を一切なくすことが政府の方針であり、早期解決を望む被害者の心情につけこみ、夥しい原告患者や未認定患者を一気に処理した。この流れにひとり抗して高裁の継続を選んだのが関西訴訟であり、国県の責任を問うことを中心に据えていたのは言うまでもない。
高裁は初級審より重みがある。当時の「和解」の過程で自民党は判決間近に煮詰まっていた福岡「高裁」の判決を待つという態度を幾度も表明した。「国の責任については高裁の判決にゆだねる」という。高裁の権威づけをした上で、政府に有利な判決を予想するかのような態度で、「和解」における政府の直接謝罪を逃れようとしたのである。結局村山首相の「遺憾表明」で決着したが、謝罪はついにしなかった。それだけに国県の責任を問う関西訴訟の「高裁」判決はかれらにとっても重大な意味をもっていたはずだ。
四月二十七日の大阪高裁の判決は国と熊本県の行政責任を明確に示し、国家賠償を命じた。水俣病の原因物質があきらかになった昭和三十四年末以降の行政の違法を、つまり国には水質二法、県には漁業調整規則に照らしてその不作為を断罪した。それはいままでの三地裁の行政責任論よりさらに徹底した理論が展開されたものである。
そして水俣病の診断基準にメチル水銀の大脳皮質の損傷という中枢神経説を採用し従来の認定審査会の墨守した病像論を完全に否定した。末梢神経の障害は他の疾患でも説明できるとして、水俣病とはしなかった環境庁・熊本県の方針の根幹が医学的に崩されたのだ。
この判決が確定すれば一万人を超える「和解」処理した全未認定患者の全面的見直しは必至となる。低額の賠償金や水俣病と認められなかった原告の存在など問題はあるが、この二点では水俣病事件史に残る判決になった。ただしこの判決が確定すれば、である。
この日から当面の目標は被告三者(国・県・チッソ)の上告阻止の戦いになった。当日のマスコミ各紙も「被告三者は上告することなくこの判決を受け止めるべきだ」という論調で一致していた。関西訴訟を支える会、東京告発など水俣から全国に及ぶ運動体は声明を発表し、識者ら百六名のアッピールもだされた。原告患者と弁護団は連休明けの五月七日から九日にかけチッソ、環境庁、熊本県庁に交渉、上告しないよう要請した。平均七十歳を超える患者たちは激務に疲れ、女性たちは交渉の場で床に座って耐えていた。チッソの社長は用務多忙で顔を見せず、川口環境大臣は「検討中」との言葉を残して早々に席を立った。環境庁官僚は同じ顔触れだった。誰にも逡巡の色はみられなかった。
上告期限の五月十一日、チッソは下りたが、国県は最高裁に上告した。その理由はやはり行政にとって致命的な二点だった。「当時の水質二法の解釈と適用に納得できない」と行政の賠償責任を否定し「病像論についても変えない」とするものだった。国県はあらたな加害のページを加えた。今も私の耳には岩本さんの「恥ずかしい」の一語が繰り返し聞こえる。「水俣病は終わらない」ことをあらためて痛切に感じ、背筋を正す思いである。