事実経過の諸問題-『あるマラソンランナーの記録』事件の真実 "真実"委員会 <1964年(昭39)>
 事実経過の諸問題-『あるマラソンランナーの記録』事件の真実 "真実"委員会 

 我々は執拗に訴える
 あのー、僕も黒木君も、戦后、PR映画の花ざかりに、始めて助監督から入った人物なんですけれども、戦后あの、レッドパージがありまして.第一次、まあ会社から首切られて、非常にフリー化するという現象があって・・・・・(ここで録音テープ交換のためヌケ)。
 そして、今度の黒木君の事件をみてみますと、非常に、東京シネマという良質なプロダクションが、あまりに賞をもらいすぎたのかどうか知りませんけれども、プロダクションこそが、映画をつくるんであって、作家が映画を作るんじゃない、だからプロダクションのいうことをきかない作家は困る、それは、経済上のこともあるでしょうけれども、創作上、その方法論が理解出来ないと、もうすでに、なんというか、せまりくる新しい波に対して、危機感を覚えるという、非常にこう、感情的になるという事態がありまして、まあ僕達は、それを予感したもんですから、続々、自発的に、くえても、くえなくてもフリーになるという、第二次フリー運動という形で、フリー化連動という形で、創作の場をるつくってきたわけなんです。
 で、黒木君も、あの岩波以後、東京シネマに入りまして、やっぱり、色んな作品をつくらせられて、このマラソンランナーには、ある意味で、やっはり、我々の考えと、ヨミガエリ作用ってもののピークを、彼自身も、体ごと、つくっていったという風に思うんです。
 で、之が抜けると非常にマヅイんですけれども、今、東京シネマはですね、デマゴギーとして他の事もいっぱいありますけれども、今、ダビングした、この作品というのは、出来たときに、黒木君のタビングが、あまりよくないという様なケチをつけまして、二回目も黒木君が、大変な困難をおかして、ダビングの条件をかちとって、そして自分でかき、自分でキューを押し、自分でなっとくいった上で作り上げたものなんですけれども、第二回目のは、東京シネマがつくったんだ。東京シネマの作品で、第一回目はみられたもんじゃないっていうようなデマゴギーがあるんですが、これは大変なインチキで、そもそもこの"マラソンランナーの記録"ってのが六十分になりました経緯を、僕は、友人として、ずうっときいてるんですけども、始めは、あらゆるオリンピックのですね、各種目の、あらゆるものをまじえた、ア・ラ・カルトにしよう、そして、まあ皆が戦って、金メダルをうんととるであろうと、とれなくてもゆるしてくれ、みたいな種類の、まあ、一種の準備期の描写映画だったと思うんですけども、それを、唯一人のマラソンランナーを描くことによって、その存在の中でつぶやき続けている声をひろいたいということから、マラソンランナー一人にしぼっていった過程があるわけなんです。で、それが、四巻の約束が六巻になり、その六巻に対しても、いろんな意見があったんですけれども、やはりこの映画は短かすぎちゃあ、短かくなったちゃうと、あたりまえですけど、あの短かくきるとつまらなくなる。まあ、長く使えばとてもすぐれた作品だという。あの非常に映画をみる目のあります岩崎昶さんとか、日活の活動屋さんですね、そういう人がズバリと、まあ映画の本質をみて、六巻になったわけです。
 で、それに対して、創作過程でですね、一人じゃもたないとか、マラソンで十分もったら.まあサカダチとはいわないでしょうけれども、そういうことは信じられないという様なことを、まあ、いっとったわけです。それで、こういう風に出来上りましてですね。最后まで何かケチをつけて、プロダクションが優位に立たなければいけない、まあ一種のプロレスになりましてですね、で、あの何んとか優位に立たなければマヅイということから、一切の妨害行動、ほんとの感情的な妨害がうまれてきて、そのピークがですね、タイトルに”脚本”吉見泰という名前が出て釆たわけです。
 この吉見泰という人は、大変脚本がうまいんですけれども、この映画には終始一貫一行も書いていないという事実があるわけです。それであの、東京シネマの伝統としては、すぐれた作品にはみな、脚本吉見泰とつけるらしいんですけども、今回の作品は何も書いていないんで、スタッフタイトルの原稿に彼の名をいれなかったところが、じゃあ、吉見泰のタイトルをひっこめる代りに君達のも全部切っちゃうってな、まあ、いう様な無謀な経過が、事実あったわけです。これは、スタッフとしては、自分の作品は非常によくてですね、東京シネマの考えている方法論、創作の歴史ってものは、つまんないんだということは、いえませんからですね、僕が代りにいうわけですけれども、今度の"あるマラソン・ランナーの記録″てのは、僕達が、研究しつくしてきた、ドキュメントの一つのピークであり、いかなる題材の世界であろうともですね、この描き方をもっていけば、絶対に真実をつかみうるという、不敗のドキュメントだと思うんです。
 その作り方がですね、やはりあの、PR映画で今後一生懸命なんとかしていこうと考えている人々に対して、非常な驚異であったということは、僕はかたく確信できるんです。
 そういう意味でですね、やはりこれを埋没させようという努力は非常に根深いものであり、非常に十五年の顆廃の歴史を背おっておりですね、埋没しようとする人がですね。
 それであの、皆さんは、チョットおききになったんでは、何故、フィルムを貸すか貸さないかってのは、おわかりにならないと思うんですけれども、その根は、実は、僕達が当面している問題であり、今後必ず、数多くくる問題だと思うのでですね、まあ僕達は、ちょっと馬鹿みたいにこの問題を、皆さんに、訴えているわけなんです。