『留学生チュア・スイ・リン』と『原発切抜帖』を語る ゆふいん文化記録映画祭 5/27 講演 <2001年(平13)>
 『留学生チュア・スイ・リン』と『原発切抜帖』を語る ゆふいん文化記録映画祭 5/27 講演 

 たいへん目の疲れる映画を観ていただいて恐縮です。(笑い)
 (原発切抜帖のフィルムが古いため、カラーが赤っぽくなっていた)
 今日見ていただいて二本を久しぶりで見ながら、いろんなことを感じたんですが、チュア・スイ・リンからお話するのが順当だろうと思います。

 『留学生チュア・スイ・リン』 

 私は娘からよく「お父さんは反体制とかなんとかいうよりも、もっと端的に反日的ね」といわれるんですね。要するに日本のことが気に入らないというか。物心ついた時から学生運動とか、社会的なことに関心をもってましたけれども、実際には映画を選んで、政治の面からは遠ざかりましたけれども、私の中にはかなり敗北主義といいますか、ニヒリズムというのがわりと多いんです。

 というのは多くの仲間とメーデーを闘ったり、東京都の公安条例を闘ったり、安保を闘ったりしながら、いつも結果としては敗北していくと。
 だから敗北していくけれど、その時にはどうしてもこれはやっておかなければ気すまないという形で運動に参加したり。水俣もそれにつながりますけれども。
 楽天的にものごとをすれば必ずその甲斐があって、結果はよくなるとは実感出来ない人生が僕の中にはいまでもあるわけです。

 そうでなくて、闘いが勝った例というのは、水俣病にもありますし、いろいろありますけれども。それはその時までの一つの苦しみが取り除かれたことであって、次から次へ同じ質の苦難がおそってくると。

 どこまで本当にやっていったらいいのか。やってくるにはどういう取り上げ方をしたら自分が納得いくのか。自分が納得というよりも、自分と語れるものが出来るのかというが絶えずいまでも頭の中にあるわけなんですが。

 『チュア・スイ・リン』は1965年ですから、36年前の映画をみまして、やはりある感想があります。
 あの映画を撮り終わるまでに約4ヶ月かかっているわけなんですが。
 この映画の企画は、私が尊敬しておりました方に、特にアジアの中国系留学生の為に寮を開いて、お世話しながら、勉強を助けていくことをしてこられた大変に偉い人がいるんです。それは穂積伍一さんです。一部には日本の正統右翼と言われていますが、つまり日本人らしい日本人でありたいということから、中国に対しても恥じない日本のありかたを追求するということで、留学生の世話をして、左翼にもまねのできないほど留学生を大事にした方です。

 私はアジアの留学生については、映画を撮るというより友達になりたいと思っていました。ところがその先生ところで、ひとりのマレ-シア留学生が、100人くらいのマレーシアを中心とする留学生といっしょに、国がアジアの独立運動でイギリス独立したわけなんですが、イギリスはちっとも経済的権益をマレーシアに譲らないで、形式的に独立をしていると、「これでは真の独立ではない」と留学生は怒って運動している。その中の名義上のリーダーだった青年が、政府から強い帰国命令を発せられて、文部省にも通達されて、文部省が国費を打ち切ってしまった。国費だけでなく、千葉大からも除籍されようとしている。

 その話があってからまもなく除籍されたんですが、これはたいへんなことだと思っていました。私がその当時、自分の発表できるメデアとしては、その当時勢いがありました民放のテレビシリーズでノンフィクション劇場がありました。
 大島渚の「忘れられた皇軍」とか「ベトナム海兵大隊記」をつくった牛山純一が中心でした。
 映画ではドキュメンタリーは撮れないものですから、テレビで仕事をしていきたいとやっておりました時に、いくつかの企画を立てた中で一番やりたかったのは、「チュア・スイ・リン」の問題だったんです。

 彼は祖国からどういう追及をされるかわからないし、拉致されて本国へ連れて行かれたら、必ず刑務所が待っているという状態なもんですから、住所を誰にもいわないんです。親しいマレーシア人だけが知っていて、姿を隠しながら文部省に対して国費打ち切り反対の闘争をやっていたわけなんです。

 その彼とようやく会うことが出来ました。そうしましたら彼が、「土本さん、テレビで出来ますか」いうんですね。「出来ると思う」といいますと、「実はNHKがずいぶん調べて撮影するといったんです。しかし、ぜんぜん連絡がないんです」。というんです。
「一ヶ月もほうりだされている。だから私のような話はテレビではタブーでないかと思っている」というんです。
 私はそんなことはやってみなければわからないと、私は彼に撮影をしたいと思うおもうけどその場合はOKかと聞いたら、彼はしばらく考えて、「やってみます」という返事だったんです。

 その承諾を得てから、シナリオというか企画書をかきました。その企画書にはずいぶんおさえて書いたつもりです。どういうふうにおさえたかといいますと、彼の生活のデテールを枠どっていくということの中で、彼がいま裁判所に通う生活をしていると、あるいは大学生活を続けることを願っておるということをにじませたいという方向で作るんだということを書いて、一応OKになったんですね。

 正月の新年会を撮影の第一日に選んで、カメラマンもそろえて、明日から撮るぞというその日の夜になって、「製作は上部からの命令で出来ないことになった」という電話が 牛山チーフプロデューサーからあったんです。
 会社のいうことによれば裁判で係争中のいずれかに有利なような番組を作るのは感心しない。特に日本の政府が絡んだ問題で、留学生から訴えられていると、その留学生のサイドを撮ることは、常識的に考えてもらえばわかるけれども、マスコミとしてやるのは非常にむずかしいことだという理由だというんでね。

 これはそれ自身として問題に出来ると思ったんですが、なによりも次の日から撮影するといっていた私の言説がチュア君にどううけとられるか。チュア君にとっては慎重に生きているつもりだけれど、土本という男から話があってOKもしたけれども、結局は日本では出来なかったんだということで、彼がガックリくるに違いない。

 これは一番しけなければいけないことだ。なによりも撮影しなければいけないと思いつめまして。そして、羽田澄子のダンナである工藤充という、僕の尊敬するプロデユーサーにかけこみまして。
 とにかくフィルムをまわしたいと。明日からまわしたい。カメラマンはどうするか。そしたら僕の知っているカメラマンに頼むよりしかたないということで、急遽みんなに電話しまして集まってもらって。そして、なんの制作費もないわけですね、なんの余裕もない。
 プロデューサーのところにある一台のカメラ、それは手で巻いてやるカメラですが、ボレックスという20秒しかまわらない、アマチュアカメラしかなかったんです。
 それでいいからということで、それにその当時でまわり始めた一般学生用のテープレコーダーをもって、撮影にのぞんだわけです。
 
 チュア君にテレビ局は撮らないけれども、我々はあなたを撮っていくつもりだといいましら、彼はその意味がピンとこなくて黙ってましたけれども。
 それで僕達が何人かのスタッフを組んで、チュア君のまわりに陣取って撮影をし始めたことから、ある変化が起きはじめました。というのは、他の留学生もチュア君がそういう立場にいるというのは知らなかった。なんだかしらないけど、キャメラをもっている人がチュア君をとっている。理由を聞いてみればなるほどだ。チュア君が裁判をやっていることをなんとか映画に撮りたいらしいということで、それはもっともなことだとわかってきたために留学生全体が好意的に僕達のことを受け入れてくれたんですね。
 撮影が非常に和やかな中でスタートした。
 
 これからどうするかと考えたところが、僕も仕事をもっている、キャメラマンにも約束した仕事がある。スケジュールがたてこんでどうしていいかわからない。そこでともかくキャメラマンは3から4人が入れ替わり立ち代り、ピンチヒッターででられるようにしてくれと、僕は極力それに専心するということではじめたんです。
 それで彼にはある時間の制約がありまして、4月の25日にビザの期限がきれてそれまでに大学に籍がなければ本国送還と。その当時、本国では毛沢東全集をもっているだけで投獄されるというような非常にきびしい状態でしたから、日本にいって政治運動している学生などをつかまえて投獄するのは簡単なことだし、充分にチュア君はそれを知っていた。
 ということからそのタイムスケジュールにあわせて、やらなければいけない。
 この勝負の山は、新学期の新しい新鮮な学生がくる時期に、どれだけ千葉大当局を動かすことが出来るかということを想像していました。

 最初にいいましたように、僕はこの闘争が勝てるとは思わなかったんです。学校の偉い人は、言を左右してチュア君の除籍処分をまもりぬいていくだろう。特に教授会も開かないでチュア君を除籍したのを、認めさせるのはたいへんに難儀なことだろうと思っていました。
 新学期を前にして学生のところに訴えにいきますと、15人くらいの学生が耳を傾けてくれたんですけど、僕と同じでスタッフの誰も自信をもってないんですね。学校を変えるなんてことができるだろうか。またそれだけの力が千葉大にはあるだろうか。学生運動の盛んな大学なら別だけれども、千葉大で出来るだろうかと率直に心配するわけです。

 それで僕は出来る限りやるよりほかないじゃないかと励まして撮影に入ったんですけど、撮影に入るのに許可というものがないわけです。学校もそういうテーマならどうぞというふうにはいわないでしょうし、学生に組織もありません。活動的な学生にとっては媒体のキャメラが非常に都合が悪い。なにかで警察にひっかけられた場合、キャメラに顔が写っていることが証拠になって自分の不利になるかもしれないということで、学生諸君の許可も取らなければいけない。

 それでキャメラマンやみんなと話しまして、われわれはともかくチュア君を守っているんだということを、キャメラワークというかスタッフ全体の動きでみんなにわかってもらうようにしよう。つまりあえていえば、チュア君をたいへんな中心人物において、あからさまにチュア君を撮りつづけている人たちだということを訴えの中で、わかるようにしよう。いちいち口で説明しなくとも我々の行動や動きで、ピンと来るように動こう。そのためにはわれわれ自身が物怖じしてはいけない。チュア君を守るためだったら、誰かをつきとばしても撮っていくことにしようと話あいました。

 そして撮影を始めますと、最初15人ほどの日本人の学生がスピーカーで話しますけれども千葉大の留学生部は日本の学生との懇親会などはもったことない。留学生は留学生のかたまり、日本学生はぜんぜん別世界の人というんで交流がないわけですね。だから日本人学生も同じ千葉大といっても千葉大の留学生の一人が国費を打ち切られたといってもあまり切実には思わなかった。そういった雰囲気がありありと顔にでていまして、それで僕らがチュア君のことを追いつづけていきました。
 
 そのうち何故あんなに4、5人の映画スタッフがチュア君の訴えを撮っているんだろうということも興味を呼んだとおもいますね。僕自身に聞いた学生もいました。「あなたがたはどこのテレビですか」と、「いいえ、テレビではなくてチュア君を記録する映画集団なんだ」といいましたら、「そうですか、そういう人ですか…、チュア君は」というんでわかってくれるということで、2日もチュア君のことを追っているうちに、僕たちがチュア君を追っている映画の集団だということがはっきりしました。
 
 それから僕はどんどん学生代表といっしょに、キャメラマンは外にいてもらいましたけど、僕は大学当局としょっちゅう会いにいって、僕自身がつい言葉がとまらなくて学長を責めるんですね。相手は土本はなにものかと思わないけど、理屈はあるもですから答えるということで、その声も映画に入ってますけど。

 そんなわけで闘争しているのか、映画を撮っているのかわからない状態が生まれる。(笑い)
 チュア君にピッタリついている青年が、穂積さんのアジア学生文化会館の組織に一員で、非常に頭のいい、アジア人思いの青年でした。彼はチュア君の事件が引き金になって、ずっと一貫して、アジアの問題、学生の問題、入管の問題、アジアの問題では日本の権威者の一人になって、愛知大学の教授から一橋大学の教授になって、いまも岩波新書に書いたりしている田中宏という方なんです。(聴衆どよめく) 

 その方がまだまったく無名でしたけれども、彼と一緒に動いていると。彼を映画としては一人称にしまして、「私」というようにナレーションしてますけど、それは田中さん自身のことを人格化してナレーションにしたものです。

 そういったわけで進めていくうちに、ひょっとすると大学の方針を撤回させて私費留学というか、国費ではないんですが、千葉大の留学生としてみとめるというとこにこぎつけるかも知れない。それまでは3日4日夜も寝ないでがんばってみようと撮影しました。
 ですからそのロケはかなり長いことかかってますけど、山場の4日ばかりは闘争と撮影といずれがどうかわからないような状態で過ごしてですね。結局、僕は80パーセントの勝利だったと思いますけど、彼の望む千葉大復帰まではたどりつけたということです。

 その記録で、いまみても頭の方は本当にぼちぼちとした人間しか動いてませんけど、最後はあのような学生によって闘われた。かなりストレートに物語ることが出来た。おこがましくいえば、映画を撮ることで人びとの関心を呼び覚まさなかったら、もうすこし違った展開になったかもしれない。
 
 あの当時、映画なんか撮るのは珍しいことでしたから、そういうことをしている事件というものが3日4日の動きの中では大きかったのではないか。そういった意味であまりこういうケースはないんじゃないかな。僕のなかでも非常に少ない勝ち戦というか。80パーセントですけど、もし国費留学生になれば100パーセントですけど。自分で金を出すという私費留学生にという解決ですから80パーセントだとおもいますけど、そういったことがやられなかったんじゃないか、その顛末を映画に撮れたというのは幸せだったと思います。

 いろいろヘタクソなところが多くて、冷や汗をかきながらみていましたけれども、全体のトーンはつかんでいただけたのではないかと思います。

 チュア・スイ・リンという映画がもう一つ私にとって大きいのは、あの映画から自主製作ということが、結果として僕にはあまり不思議ではなくなって、水俣の映画や、京大の学生の闘争を描いた「パルチザン前史」とか、そういうものにつながっていく変わり道になった。私にとってはそういった意味で、テレビはもちろんやりますが、テレビで撮れなくても自分達で映画を作って見せていくということを始めようと思いつかせてくれた映画です。
 撮るときはチュア君に対して恥をかきたくないという思いで始めたんですが、映画はその後、裁判公判闘争や、支援闘争に使われまして、チュア君を守っていくのに一定の役割をしたということで、チュア君にとって思い出深い映画になったのではないかと思います。
 ちなみに彼は本国に帰りまして、日本で学んだ造船系の技術をいかして、海底油田とか海上構造物の技師になって、本国でたいへんなエキスパートになったと。僕も一度会いましたけど、大学で学んだことをいかして祖国のためにがんばっておられるということでした。

 『原発切抜帖』

 原発切抜帖ですけど、プログラムに書いておいたと思いますけど、水俣という映画を撮ったことで実にいろんなことを考えさせられました。特に水俣の映画を外国に持っていって反響をききますと、やはり世界中が新しい文明の生み出した毒物、汚染物、放射能について悩んでいることはひしひしとわかります。
 日本でもそういった映画の企画をしたいと思いまして、水俣の映画を現地でみせるということから、知り合いを作っていこうと考えましてやりました。できましたのは六か所村を全部落上映だけ。ほかの地点には及びませんでした。

 水俣の仕事をする一方で、機会があれば原発地点を歩いて、原発の下請け労働者の臨時雇いの泊まるような民宿に一緒に泊まったりして、その原発をつかみたいといろいろしましたし、だいたい八割ぐらいの原発地点は歩いたと思います。
 ところが原発のガ-ドはものすごく堅くて、しかもそこで働いている職員やあるいは被爆されたといわれている下請け労働者とのつながりが出来ませんで、その前できることはないかと思っておりました。

 私は映画をやらなければジャ-ナリストみたいなことをやりたいというのが頭にあったもんですから。わりと新聞に対しては関心をもっていた方だと思いますけど。水俣を撮り始めてから将来のナレ-ションを書くときのために、水俣の記事を切り抜くということを始めました。そうすると関連して環境汚染のいろんな事件も切り抜かなければいけない。それと平行して原発の事故も切り抜くと。あるいはいろんな核の問題も気になってくる。次々に切り抜きが増えまして、全部で60から70ぐらいのテ-マについて、1000冊以上のスクラップができました。その中で一番力をいれたいくつかのテ-マの一つが原発だったんです。

 私はきりぬきというのは、面倒臭いんですが、非常に心引かれるものがあるんです。どうしてかというと、いまはコンピュ-タ-の時代で、うちでもつれあいが一生懸命やってますが、デ-タ-を引っ張り出すのにコンピュ-タ-は早いと申しますし、私も良く分かるつもりですが、切抜きとは違うんです。

 切抜きをするときに、少なくとも三回記事を眺めているんです。一度は読むとき、それから切り抜きをしようと思って切るときに、どういう記事の形かを眺めます。中のキ-ワ-ドは使いますが。それから張るときは日付順ですが、どういうふうに張るか眺めます。そして時々ひとたまりたまったところで赤線をひっぱって記事を眺めます。

 そんなふうにしていくと、スクラップが自分のなかに取り込まれてきます。たとえば海外旅行や大きく家をあけたりして一か月もたまることがあるんですが、それでも新聞は捨てないで、残らずとっておいてもらって続けていくと、続けることしかないわけですが。
 それだけたまったスクラップをある日まとめてみると、非常に自分が怖くなるんですね。というのは忘れちゃっているんですよ、どういう事件があったかですね。その時はたしかに気にして切り抜いたし、赤線もひっぱってあるのに、それがきれいに忘れていると。
 数字もうろおぼえだということで。

 じゃあ本を読めばいいんじゃないかというけど、本は書いた人のキャラクタ-にひっぱられておもしろく読みますれども、新聞記事はどなたの家にも公平に配られている、だれも膝のうえにも乗っかったことがある代物ですね。それを私は選択してスクラップにするんですが、それをまとめて読み直してみると、われわれが忘れたころに、また同じ手抜きで日本で事故がおきる。スリ-マイル島の事故の教訓もわすれている。人間の健忘症はどうしたら止まるだろうかというのを自分に思うわけなんです。

 戦後の原爆史というか原発史を早めくりしてみると、『原発切抜帖』が82年ぐらいまでの記録で、86年のチェルノブイリは入っておりませんけど、早めくりしてみると、ほとんど問題は出ているという気がしました。
 原発問題のテ-マを映画にしていくには、普通の映画の作り方や予算を考えることがなかなか着想できない。とりあえず出来ることはこの手許にある記事を、われわれが一度は眺めた活字として、文章として、新聞として切り取れないか。それをつみ重ねて、自問自答しながらやっていった時に果たして映画というものが出来るか。なるべく映画は絵が主体で活字で読むようなものを使わないほうがいいと漠然と思っていましたが、心をきめ覚悟をきめ、全編新聞記事で作ったらどうなるかと思いました。

 そして、あらためて新聞をみますと、新聞には活字のやり方から字文の飾り方から、グラフのいれかた、地図のいれかた、写真のいれ方、全体の紙面の流れのなかには映画の広告もありますし、他の記事の見出しも入って時代を反映しているから、なんかこれは出来るのではないかと思いました。

 そして若い人達のグル-プに相談して見ました。一番最初に相談したのは自分の娘なんですが、「おもしろい」というもんですから、そのグル-プを頼みまして新聞を集め始めました。そしてこの間亡くなられた高木仁三郎さんに、実はこういうふうに考えて資料を集めていると、全部で12000点ぐらい記事を読みまして、2000枚くらいコピ-を取ったんです。その段階で高木仁三郎さんに見せたら、これは俺たちも勉強になるとおっしゃって、快く監修を引き受けていただいた。
 
 それから小沢昭一さんに会いました。小沢さんというのは僕の中学の一級したなんです。どういうわけか彼は僕に親近感をもってくれ、僕もかれに親近感を持つという関係で、僕は彼のラジオのお話が大好きなもんですから、6時くらいになるとラジオをきいている習慣もありました。実は新聞記事だけに説明を加えるような映画を作りたいんだけど解説をやってくれるかといったら、「これはブレヒトの『戦争案内』ですな」と彼はいうんですね。

 ブレヒトの戦争案内というのは、ヒットラ-の専制時代に、いろんな新聞雑誌にでた写真を編集して、それにブレヒトが特有のコメントをつける。すると一枚の写真がぜんぜん違った意味をもってつながってくるんです。同じ情報源が全く違うメッセ-ジになるんです。彼はブレヒトだなといって快く引き受けてくれました。

 これは、ナレ-ションはいけると思って、僕は新聞を撮るのはタダだと思ったんですね。朝日新聞が一記事5000円よこせというんですね(笑い)驚いちゃいましてね。それでまたタダに近くしてもらうために、学者がいろいろ話しましてそれも解決しました。一枚5000円だとすると資料代の権利料だけで何百万になりますからね。
そんなことはとてもできない。

 そして実際の作成は私のスクラップだけでなく東大までしらべました。東大新聞研には朝日と読売と毎日の三大誌は全部とじ込んであるんですね。
 稲葉という新聞研の所長がOKしてくれまして、そこの地下室で記事を引っ張り出しながら撮影してまとめたものです。
 これはわりと安くできたものですから、安い値段で売りまして、プリントで何十本か売って回収することができましたけど、私としてはこれは映画なんだか“紙芝居”なんだか、よくわかわない映画であると思いますが、みなさんそれぞれどうお感じになったか知りませんが。

 やはりわれわれはいろんな形で情報を得ているんですけれども、その情報の整理というか、蓄積をしながら記事を追って見たときにどういうことが頭の中におきてくるかということでは、健忘症の私としてはこういった映画でつなげてものをみることをやってみたことによって、原発に対する興味が肉体化されたように自分では思っています。

 決してみなさんにはお勧めするつもりはないんですが、僕の恥をいうつもりでお話したんですが、記事を忘れていることはいかに多くて、そして忘れていたということがありながら、そういった昔の歴史的出来事を書いた新聞にまた巡り合いますと、非常に時間の経過の早さと時代の流れの早さを感じます。情報が右からきて左にぬけていくことによって次第次第に憲法が改悪されたりするのではないか。これはわれわれの頭の方向をかえて、しょっちゅう日本の命運については考える機会が必要だという意味で、こういった映画祭なんかでは上映の意味は大きいと思います。
 
 映画かビデオかとよく言われますけれども、僕はどっちでもいいんですが、ある会場で何人も集まって映画をみると、そのことによって例えばこういう機会のように話す場があって、そうしてみなが同一の記憶を、記録映画によって記憶を作っていくというようなことが、あらゆる局面でおこなわれていかないと、われわれは非常に弱いもろい忘れっぽい、尻抜けの多い存在だということを思います。そういった意味で『原発切抜帖』のひとつの側面をみていただければありがたいと思います。

 終り

 採録 土本基子