映画『よみがえれカレーズ』を顧みて、これからも観ていただくひとのために(-後に「アフガン映画論」と題される) 『ドキュメンタリー映画のメールマガジンNEO』 28号、29号、30号 読売テレビ <2002年(平14)>
 映画『よみがえれカレーズ』を顧みて、これからも観ていただくひとのために(-後に「アフガン映画論」と題される) 『ドキュメンダリー映画のメールマガジンNEO』 28号、29号、30号 読売テレビ

 十二年前、1989年につくった映画『よみがえれカレーズ』が埃を払って上映されるようになった。アフガニスタンとはどういう国か、そこに暮らすひとびとはどんな生活をしているのか、あまりの情報のなさから、記録映画専門館ともいうべきBOX東中野で緊急上映された。
 館の予想通り、モーニング・ショーながら一か月のロングランでかなりの観客を動員した。またビデオは各地の小集会で学習上映され、今もとぎれなく続いている。
 ブッシュ大統領のアフガン空爆にさらされたその国の民衆像については知る機会が殆どなかったから、いわば飢餓感を持った観客層に受け入れられているのだろう。しかし、私としては十二年前のアフガニスタンの現実と現在との変転を思うとき手ばなしで見てもらうには不安がある。もっと今のアフガンの現実は深刻である。

 私たちの映画はソ連軍の撤退時の1988年に撮ったものだが、90年代からムジャヒディン各派(主に民族、種族軍閥間)の死闘が止まず、首都カブールを初め、有名なジャララバード、カンダハル、ヘラート各都市や周辺の農村地帯が戦場になった。
 あの美しかったカブールの記憶はもうフィルムの中にしか残っていない。瓦礫と砂の町に変っている。廃墟になったのは空爆によるものだけではない。住宅は主に泥煉瓦が建材である。冬季の豪雪に雪かきを怠ると、その重みで屋根が抜けるのだ。だから難民の住居は土くれの廃墟になる。
 アフガニスタンに国民なるものはいないに等しい。その荒廃と飢えで、こんどのブッシュのアフガン戦争がタリバンとアルカイダを追ってのハイテク国家テロが繰り広げられたのである。
 それがなくても酷い時期を向かえようとしていた。今年も暖冬異変か、山に雪がなく、三十年ぶりの大旱魃を招いた。三年間、連続してである。国連難民機関や世界食糧計画は飢餓線上五百万人、餓死者百万と想定し、救援を訴えていた。
 仮にアフガンへのアメリカなどの国家テロがなかったとしても、タリバン政権の失政もあいまって、未曾有の大量死が発生したであろう。
 無差別爆撃しながら食糧支援物資の投下という悪い冗談をもって、世界をあざむいているブッシュの詐欺とテロ撲滅に名を借りた皆殺し戦争。
 ビンラディンの首に30億円の懸賞金を懸けても、アフガン人は彼を守っている現実。アメリカはやはり悪である。その超大国と最貧国の激突…ここに幾重もの悲劇がある。映画を撮った88年当時の状況とは画然と違う。もっと酷い。

 私の手元にナジブラ政権下で出されていた「カブール・タイムス」がある。「カイライ政権のラッパ」として殆ど無視されたが、今、丹念に読むと教えられることが多い。例えば、外国記者がインタビューに必ず使う用語ソ連軍の「侵攻」(侵略のニュアンス)にいちいちナジブラ大統領は訂正する。「私たちの要請で来たのです」と。

 映画の導入部にジャララバードからのソ連軍の第一陣撤退のシーンを置いたが、その沿道に見送るアフガン民衆の姿は党のやらせであろうか。その画面を見据えてほしい。ベトナム末期のサイゴンを逃げ出す米軍の惨澹たる見苦しさを思い出すだけで充分だろう。
 基地のあるジャララバードからカブールまで私はソ連軍の戦車に乗った。ムジャヒディンの奇襲を覚悟で銃座に座り、生身で知りたかったのはゲリラの怖さである。沿道の民衆や見物を楽しむ子供たち。それも映画は記録した。

 亀井文夫は映画『上海』の皇軍のパレードを見る上海市民の憎悪の眼を写して私たちを震撼させた。それと比べて頂きたい。それ見る人にお任せしたいのである。やや「映画論」の横道に逸れた。

 昨年、9,11以後のニュースやルポでみるアフガン報道には、日本の映像ジャーナリストの真価が問われていた。あの十一年前のアメリカ式「大本営発表」の嘘八百と報道管制に懲りたはずである。すこしは前進している。だが歯がいい思いをするシーンが多かった。空爆すら一風景として撮られていた。報道者の痛みは皆無だ。
 私は黒柳徹子のアフガン国内難民のキャンプ訪問などのニュースを録画して繰り返し見ている。そこに見る老人や母親たちの顔の皺の凍てつきに私は金縛りになる。
 それに比べ、私たちがロケした十三年前(1988年)の映画『『よみがえれカレーズ』に描かれた民衆の顔にはまだしも微光が見えた。風土にも緑があり、羊の群れるカレーズなどにはこころ和む趣きがあった。そこを見比べてほしい。そこに私はソ連軍撤退以来の十三年間の歳月を思い、その間の空白と忘却を恥じ入る。
 今、この映画をご覧になる観客の方々は日々、毎日、垂れ流しのアフガン関連のTVと活字情報をつき合わせ、各自の想像力で補って、この映画を見て貰うほかない。
それでもアフガニスタン、その最貧国なるものの質感は画面から分かって貰えるとおもう。

 なんだか、去年のあの9,11以後、急に思いだされた、この“よみがえった映画”を見た方の感想文に「時間の古さを感じさせないものがあった」と言うのがある。。もしそうならば観客に信を置こう。でも、私の胸のつかえは一向に収まらない。そこでこの一文を書かざるを得なかった。

 私はこの映画の終わりにハッピーエンドを残せなかった。ナレーションで一言「この(戦争の)十年はどのような物語として(歴史に)残るのでしょうか」と言って、観客を突き放した。
 90年 1月、初公開は有楽町の「マリオン」だった。かなりの盛況だったが、観賞直後のみんなの読後感なるものはホロ苦かったであろう。そうしたのは怒りからだ。だが私自身、この映画ではダビングし終えても、スカッとした感じは全くなかった。スタッフもそうだったと思う。その苦汁を以て今の再上映を見守っているのではなかろうか。
 「これを見て指示性や予言性がないのは辛い」という人もいた。
 ソ連軍の撤退以後のこの国の未来について私は「ムジャヒディンによるイスラム国家が建設されるかも知れない」とか、当時の政権党である人民民主党(のちの人民党)のナジブラ政権が「生き延びるであろう」とか言わなかった。
 当時の観客は新聞やテレビの予想の乱れ飛ぶなか、アフガニスタンの帰趨、つまり人民民主主義か、イスラム主義のどちらにいくのか、その読みにほとほと倦み、この映画でそのいずれかを暗示されるものと期待していたに違いない。その無言の圧迫感みたいなものに悩まされた。スタッフのなかでも時にムジャヒディン側と政府(体制)側とに荷担の視点が揺れ動く危機があった。私にとってこれほど編集の難しく、遅かった作品経験は知らない。

 生来、“理想の革命”を夢見る癖(ヘキ)のある私は、適うなら人民民主党の掲げる「国民和解政策」(諸民族ごとに別れている反対派各派との統一方針)を支持し抜きたかった。だが動揺したものだ。    
 彼等は1985年頃から三年かけて『新憲法』を作った。それまでに十数回の推敲がなされ、その討議に延べ数十万人に及ぶ集会がもたれた(カブール・タイムス)。発布されたのは1987年六月である。
 その憲法前文は「慈悲深きアッラーの名において」のコーランの章句で始まっている。
 それはそれまでの人民民主党創世期の勇ましい労働者・貧農賛歌とは全く違う。イスラムを掲げるムジャヒディンの慣習を出来るだけ尊重したものように思われた。
 例えば、第 2条のイスラム教をアフガニスタンの「国教」とする規定や、普通選挙と一党独裁ではなく多党制(第 4条)。さらに男女平等の明文化(14条)など、民族民主主義革命の思想とイスラム主義の慣習法の良い所を選び、いわば折衷型ながら“イスラム民主主義”とも言える新思考が窺えるものだ。依然として「一党の前衛性」などと、「赤い革命の尻尾」と反発され兼ねない章句も止めていたが、そのうらにある民主主義への渇望は伝わってきた。
 第二次大戦ご中東の独立した国は平等の思想を軸に「イスラム社会主義国」の試みをしたが、殆ど帝国主義列強の手で潰されてきた。その中で、文字通り創造的な志向で“新憲法”作った。いたるところにイスラム主義との妥協が滲んでいるように思われた。それは今、アフガニスタンの暫定政権による「憲法」の創出とどこが違い、どこがそっくりになるか、私はそこに興味を惹かれてやまない。

 映画はその憲法下での第一回国会あたりから撮影した。カブールはロケット攻撃の空の下でも、庶民は生き、泥煉瓦の家を新築し、バザールは賑わい、近代化した首都だけにブルカを脱いだ女性も散見した。新聞に『意外なほどの静けさと活気あるバザール」といった見出しは嘘ではない。
 アフガニスタン側監督、アブドゥル・ラティーフ氏は「ここ数年がアフガニスタンでは最高に豊かで幸せだった」という述懐は頷けるものがあった。
 ロケットさえなければ、であるが。

 ソ連や東欧の援助は社会基盤の創出が主で、利益を産む収奪型の進出はみられなかった。橋、道路、トンネル、発電所、巨大パン工場から義務教育の学校、複数の大学、南アジア最大の病院、水路などである。私もロケ中、カブールの病院で抜歯の処置を受けたが、無料で、ただ化膿どめの薬代だけ払った記憶がある。

 パキスタンからの大学生が「この国は授業料、寄宿舎がただだから…」と、同じパシュトゥンとして当たり前、という話は映画にある。国境は難民も通せば、留学生も往来自由で、それこそが何のこだわりも産んで居ない。ゲリラ戦士の話が日本で受けている最中にこうしたのんびりした話を聞いて、命の洗濯をした気持になったものだ。

 ど肝を抜かれたのは、私たちの長期滞在した街の中心、カブールホテルでの結婚式だ。これにはどこの国の話か茫然たるものがあった。三日かけて、酒もないイスラム国家である。ただダンスで恍惚になるまで踊るひとびとがいた。スカート姿で踊るヤングたち、顔に厚化粧の新婦のアッケラカンとした顔、「これがイスラムの国か」と見とれたものだ。そのスケッチで映画のひとつのシーンにもなった。
 だから陰惨な国として括られるアフガニスタンの前途にも、明るさの感じられるナレーションで締めたかった。だが、そうは問屋がおろさなかった。

 東京に帰ってから半年に及んだ編集過程でも、アフガニスタンの情勢はけたたましく報道されていた。事実、現地のゲリラ活動は有名な対空ロケット、スティンガーや長距離ロケットの供与などで予断が許さなかった。米国、パキスタンはソ連軍の撤退後もジュネーブ協定を守らず、武器弾薬の援助補給を続けた。ソ連も弾などは補給して政府軍を支えた。これでは悪循環は避けられない。依然として世論を支配する日本のメディアはパキスタンやムジャヒディンの発信をそのままゲリラのムジャヒディン優位を伝え、私の“楽天的なアフガニスタンの将来像”といった安易さは日々崩れていった。

 1989年~1990年頃、ソ連軍撤退と同時進行的にペシャワルを仮の首都とするムジャヒディン七派は、国連、アメリカ・パキスタンの庇護と期待のもとに、いわゆる“影の政府”を作成中だった。が、その権力の座のポスト争いは熾烈になった。九十年代の倫理なき殺し合い、イスラム教徒同士の内戦の芽はふいていたのだ。にもせよ、時の勢いは彼等にあった。東側陣営がガタガタ東欧からしきみだしていた。
 ナジブラ政権は一方的停戦声明や国境からの政府軍の発砲禁止令などを出し、「国民和解」の手を打っていったが、いつも証文の出し遅れのような齟齬と失意を味わっていたであろう。撤退に一年間かかったソ連の撤兵はその約束通りの段取りを果たすことだけで忙殺されていた。さらにソ連国内にも帰還兵、傷病兵などの厭戦機運がじわじわ露出してきたからなおさらである。

 パキスタンに“影の内閣”を作ったムジャヒディンの最強硬派(ヘクマチアルなど)の原則は、「人民民主党の勢力の一掃」、政府軍の「降伏、解体」に尽きた。加えてソ連のゴルバチョフ体制は軍事費の過重負担に喘ぎ、さらにチェルノブイリ事故(86年4月)が痛手となって、その弱体化はあらわだった。いずれアフガン・ナジブラ政権と取り決めた経済援助の尊守すら覚束かなくなっていった。これがナジブラ政権を動揺させた。
 「ソ連軍が撤退したら、カイライ政権は三日持つか、精々一か月か」とペンタゴン筋は予想していた。それに負けじとナジブラ政権は、92年まで三年も生き延びた。米国・パキスタンは予測が狂った。しかし、世界的規模での社会主義の崩壊、ソ連のゴルバチョフ体制の終焉は決定的だった。いわば「本家」が倒れたのだ。だが、その後、なお半年、「国民和解」の可能性を地下、公然の両面で探っていたナジブラは、カブールのこれ以上の混乱、破壊を恐れたのか、なかばみずから進んでムジャヒディンに政権を譲った。ムジャヒディン各派の軍事部隊はほぼ首都の無血入城を果たした。
 ナジブラは家族をインドに逃し、自分は国連の庇護の方途を選んだようだ。

 後日談だが、その後四年、彼はカブールの国連の機関で生き延び、19世紀からの英国とアフガン関係史のダリ語の翻訳をして、「国民和解」機運醸成を待っていた。
 だが、96年、タリバンのカブールに入るや、事態は急変した。狂ったタリバン兵は国連の職員の留守を狙って、拉致の上、市中を引き回し、睾丸を抜くという、コーランにも禁じられた暴行を加えたという(アハメド・ラシッド『タリバン』)。
 この時から私はタリバンの原理主義も国連(カブール)の力の信用できなくなった。
 話を戻すが、映画の仕上げ当時(89年)の時点では、権力の帰趨については確かな情報は西側にも東側にもなかったのだ。私は一人で頭を抱えた。

 一体このアフガン戦争は何だ。アフガン人を操っての米・ソ連の暗闘ではないか。
 私は両者を批判した。だが、ソ連は長大な国境で隣接する国である。米国は地球の裏で、いわば無傷の国だ。故に米国のイラン敵視やパレスチナ問題での帝国主義干渉の意図があらわなだけにより憎んだ。
 ムジャヒディンはソ連軍の1989年の全面撤退で“ジハード(聖戦)”の目的は達成したことになる。としたら以後の戦いの意味は何なのか。その主敵は誰なのか。まさに「倫理なき戦い」以外の何者でもない。
 ジハード(聖戦)側は「ついに社会主義に勝った」と凱歌をあげ、アメリカはベトナム戦争の二の舞を今度はソ連が…といって、積年の恥を濯いだように喜色を隠さなかった。
 世界はやはり歴史的な転換期をむかえた。1917年、ロシア革命以後の70年の社会主義は瓦解し、そして冷戦はアメリカのひとり勝ちで終わろうとしていた。
 世界の進歩的潮流のひとびとも息をのんで寡黙になった。
 社会主義者であり続けたいと思う私も、反骨の支柱の中心を失ない、深い虚脱感に陥った。それで鬱にもなった。

 主に八十年代を見据えて、アフガン民衆は戦火の終息の期をひたすら待った。「ソ連軍の撤退でジハードは終わり、戦火は自ずと収まる」と期待していたアフガン人の多い一方、少なからぬ醒めたアフガニスタンのひとびとは、今後のムジャヒディン七派といわれる武装党派(各軍閥)の間の戦争、全土の民族別覇権を争う戦場の全国への波及、つまりアフガン全土の焦土化を恐れていた。
 前に述べたように、すでに八十年代後半から、パキスタン・ペシャワルにセクトの拠点を別れ持つ各ムジャヒディン同士の流血(内ゲバ、戦闘)は、アフガンの知識人や都市部の人たちの顰蹙と杞憂を買っていたからだ。それは国連筋でも隠しがたい醜聞、大問題になっていた。
 私のアフガンの企画と取材をたすけてくれたもと在日アフガニスタン大使、アブドラ・ムタート氏(タジク)は、日本から召還され副大統領(四人制)のひとりになり、87年同じタジクのマスード将軍とも意を通じて、首都カブールの「非武装中立」を策した。だがヘクマチァルら過激なパシュトゥーンのムジャヒディン(イスラム党系軍閥)は米軍から最強の援助武器を以って、いかなる話し合いも拒否し続けた。いま北部の支配者で、危険な策士のドスタム将軍(ウズベク)はかつてはナジブラ政府軍の将軍だったが、反政府側に寝返った。ソ連軍時代の軍用ヘリコプターを保持し、その空軍力をもって軍事的優位を顕示していた。

 また話をタリバン政権登場前の内戦熾烈の九十年代中期にもどそう。
 ことカーブルに関してはナジブラ時代のほうがはるかに安全だった。その後に首都の制覇を争ったムジャヒディン各派には「まず銃を置く」という発想はなかった。アフガニスタンの武器社会は途方もなく上りつめていた。
 国民和解に疲れたナジブラは八十九年、国連に、「援助の武器をアメリカ・ソ連ともそれぞれ本国に引き上げてくれ!。首都はじめ国境を武器のない非武装地帯にしてほしい」とまさに断末魔に近い訴えをしている。ひろく信望あるマスード将軍(タジク)の理解は得られたらしいが、ムジャヒディンの過激派には歯牙にも掛けられなかった。
 私はこの記録映画では政治的な角度から撮ることはいままでの作品同様、避けてきたものの、アフガニスタンのひとびとの未来像については前向きに語りたかった、だが、私自身が確言出来ず、いえわば、突っ放したようなナレーションで幕を下ろさざるをえなかった。ソ連の理念の喪失もあって、当時、ムジャヒディン側、つまり米国、パキスタン側の「正義の戦い、聖戦の勝利」一色に彩られたマスコミ世界の中では“判断中止”といわれても仕方がない。多くの映画批評家も沈黙した。わずかにその中で、好意的な批評を寄せて頂いたのは三氏である(蓮實重彦、松田政男、色川大吉…この三氏を私は忘れることはない)。

 いまイスラム専門家の著作は多い。私も読み漁った。しかし、もし「イスラムの大義」というものがあるとしたら、と考える。
 コーランはいわれなき“兄弟殺し”はきびしく戒めていると、どの著書にも書いてある。そうなら“倫理なき戦い”で無駄な血を流させたたムジャヒディンの蛮行は断じてジハードではない。主敵のソ連軍の撤退の以後も十三年、さらにこの二十一世紀まで続くとは!
 さらに言えば、この醜悪な戦いを支援した独裁の国サウジアラビアはじめ、石油産出国のやや富裕なイスラム諸国や、理想に燃える若いイスラム原理主義者たちはこのあまりにも非イスラム的な悲劇をどう見てきたのだ。ビンラディン氏もしかりである。私は「アメリカ人を殺せ」という彼には首を傾げるが、いまのイスラエルのパレスチナ人への総テロ視と、最新鋭の兵器による皆殺し戦略はアフガン戦争と全く区別できない。辺見庸氏「私の敵はアメリカである」と言い切られるとき、同感する。それを早くもアフガンの民衆のなかの知恵者は気付いていた。

 映画『よみがえれカレーズ』のなかで、打ち込まれたロケットの現場が出てくる。危険な撮影だった。撮影禁止の規定違反でもあるその現場に連れて行ったコーディネーターは首を覚悟の上だった。その現場で、「なぜ、こんなことが起きると考えますか」とのノーテンキ質問に、身をのりだした老人が拳を振り上げて言った。「同じイスラム教徒が何故殺し合わなきゃならないのだ!」と絶句し、「ソ連軍の撤退さえあれば」と言いかけて、言葉を噛み殺して身を震わせて絶句していた老人を思う。

 このイスラム教徒の殺し合いの十三年は、ムジャヒディンがいかに暴走、堕落し、いかに変質したかの不幸な時代としてアフガンの歴史に残るであろう。とくにナジブラ政権崩壊(92年)から、タリバン政権(96年)までの間、権力争奪の市街戦が熾烈を極めた。さらに各派の兵士は市民へ欲しいままのリンチ、強奪、幼児虐待、少年(銃が持てる年齢)の誘拐。さらに婦女暴行は放題だった。それが後にタリバンの潔癖な学生原理主義者の急速な台頭を促したであろう。
 アメリカの女性の人権運動家たちは、ブルカもその例としてタリバンを弾劾するが的はずれである。若い娘も主婦もブルカを被ることで、強姦を避け得る思うのは当の女性たちの防衛本能でもある。少数の学生兵士タリバンが圧倒的にひとびとに迎えられ、いわば破竹の勢いで実効支配したと聞いて、むしろ私は救われた思いすらしたものだ。流血をとめる力があればどこの勢力でもかまわないと思った。

 また、こうも思った。それに比べれば、78年の四月革命より始まった無信仰者(ソ連・社会主義とその人民民主党)との戦い、ソ連軍の進駐以後の八年数か月にわたる“聖戦”は、五千年のアフガニスタンの歴史にある物語性を残すかも知れない。が、実質的には1986年頃からはムジャヒディンの内ゲバと亡国の争いのはいかなる美化もされないだろう(ソ連軍の駐留は九年間だった)。

 このイスラム教徒同士のいわば“暴挙背教”の記憶は深刻な精神的後遺症をカブール市民に残したことがボツボツ明るみに出始めた。さらにそれには十年二十年の時間をようするだろうが、賢明なアフガニスタン人は必ず自分の歴史から教訓を抽出すると思う。
 「何事も、アフガンでは十年単位の刻みで考えるべきだ」とはアフガンロケでいやという程教えられた言葉だ。その流れる歳月への感覚…時間感覚が日本人の私にも掴めない。

 そもそもこの映画の企画は88年~89年の「国民和解政策」とソ連軍の撤退のいわば隙間に作ったことになる。しかもアフガンの映画人(アフガン・フィルム)との合作である。
 体制と体制との合作ではましてない。企画段階から私たちはいわゆるゲリラとの戦場シーンを描く気は無かった。それらならあり余るほどマスコミを通じて氾濫していたからだ(もっぱらパキスタンからムジャヒディンに同行取材して撮影されたものだが)。そしてロケットの照準は同じアフガニスタンの同胞に向けられている。その標的にされたカブール市民はどう殺され方をしているのか。ロケット現場で、われわれに一言、救援隊員は怒鳴った「アメリカ!」。その翌朝地獄図の現場でじっと思索的な顔々があった。その人々の記憶の強さ深さは窺い知れないと思った。
 記録映画はつねに“人間発見”究極のテーマである。敵、味方も人間に変わりない。例えば死刑廃止運動も死刑囚の“人間なるもの”を見失ったら成り立たない。たとえ革命も反革命(ムジャヒディン)にも共通するのは“あるがままの人間なる存在”であろう。

 孤立した首都カブール。そこでの市民生活はまだ新聞の特派員記事で想像できるが、農村や地方都市、アフガニスタンの誇るモスクや仏教の遺跡はどうなのか。ロケット攻撃、テロの中、もっぱら国内に根付いて生きるほかなかったひとびとは何故その地に生きるのかを知りたい。その日常と労働、そしてその風景は。
 カレーズとは何か。人々の絆であるイスラム信仰とその慣習は…。
 映画にシナリオはなかった。出会えれば、“兄弟殺し”の十年の戦いに疲れた民衆、とくに息子や夫を失った女性たちのブルカにかくされた嘆きと苦しみ。そして希望しか“知らない子供たち”を撮って繋いだ。その旅の記録がこの映画になった。
 数か月の撮影の旅の終わりにようやくヘラートやイランとの国境近くで、ゲリラから身を転じて国民和解政策に協力しているゲリラ、イランに職を求めてさまよった“出稼ぎ難民たち”の帰郷の感慨を辛うじて撮ることができた。そこで映画を終えたに過ぎない。撮影から十二年後のいま、この古い映画を見たひとびとの反響は別の機会にまとめたい。ただ「古い映画とは思えない。いまアメリカの空爆下の人間はこのようなひとびとなのだ」。あるいは「この人たちとなら話せるし、仲良くなれる気がした」というアンケートが複数見られた。このように、アフガンのひとびとと肩を触れ合い、隣人の暖かみを感じてもらえようなら、作り手の冥利に思う。アフガニスタンのひとびとはテロの遺伝子を持つ民族でも、復讐の慣習にとらわれた徒輩でもない。まして生来好戦的な民族でもない。政治環境がそうさせたのだ。
  むしろシャイで、自己顕示を慎む信仰に帰依するひとびとである。最近見るアフガン暫定機構の若き議長カルザイ氏にしても、元国王ザヒールシャーにしてもこのアフガン現代史を内省的に見ることの出来る人たちと思う。だがそうでない“ムジャヒディンくずれ”もまだ横行している。
 生来、シルクロードの民は命にかけても旅人を遇する伝統的な慣習法をもつひとびとである。それだけに人間の質を一瞬にして見抜く眼力をもやしなっているのだ。

 今後、長い付き合いとなるアフガニスタンのひとびとをこの映画で描いた。
 題名の『よみがえれカレーズ』のカレーズとは有史以来の代々の民衆の手で掘削された地下水脈のことだが、見えない地下人脈にも想像力を働かせてほしいとの願いを込めてこの題を付けた。
 陽の当らない無名の群衆のひとりひとりが自れの過去を抱きつつ、いまアフガニスタン人としてのよみがえりの苦闘が始まっている。
 この血を血で洗った同時代を分かち持ったアフガニスタンのひとびとである。つい十三年前まで民主革命に献身したひとびとがいる。かつて人民民主党の党員は十九万人いた。つまり、かつて民主革命を夢見、ソ連軍の援け借りて「上からの革命もあり!」誤った指導者と言われみな献身した。若気の至りで公式主義を振り回したり、土地改革を実情を無視し、中農を地主側に追いやったり、ユネスコに評価された識字運動に参加させるべく、無理やり主婦たちを識字学級にひっぱりだしたりしたことが、イスラムに生きる反対派を怒りかい、この作風のあやまりが各地の部族を武闘に追いやったともナジブラは自己批判している。(88年10月)
 なお、あえてたびたびナジブラに言及したが、この映画に彼のシーンが残っている限り、作家はかれを「亡き者」にはし得ない。これが記録映画人の掟であるからだ。
 
 数十年後であろうか、イスラム世界のただ中から、二十世紀には予見しなかったイスラム型民主主義がアフガンや中東から芽生える日が来るかも知れない。最近のイランの動向、ハタミの思想にその兆しを見るような気がしてならないのだ。
 
 末尾ながら、強く望まれる方には、『アフガニスタン新憲法』(1987年)のコピーをお送りできます。こちら多忙の際は失礼の段をご容赦頂きたい。(アフガニスタン再訪をのぞみ)