「アフガン『映画論』」続・映画『よみがえれカレーズ』を顧みて …これから観ていただく人のために -十二年前の映画批評に答えて- 2002/3/25 ノート <2002年(平14)>
 「アフガン『映画論』」続・映画『よみがえれカレーズ』を顧みて …これから観ていただく人のために -十二年前の映画批評に答えて- 2002/3/25

 先に読んで頂いた「アフガン『映画論』」はこの映画発表以来12年目に、その間のアフガニスタンの激動を目の当たりにしつつ、いわば“旧作”が今日の観客の観賞に果たして耐えられるかについて語ったものである。これを書くことで、ようやく私は十数年を経過した旧作と現在のアフガニスタン問題との思想的回路と見つけることが出来た。
 この「アフガン『映画論』」では、当時のアフガン状況へのマスコミの傾向と、それとの葛藤に苦慮しつつ、いかにこの作品を“自己弁護”したか、それをありのまま語って見たい。

 「土本は“社会主義者”だ。おおよそこの映画もそうした観点に足をひっぱられているであろう」と見られがちだったであろう。その通り私は反権力の側に立った作品を作ってきた。だが、映画作家を選んだものとして、政治的プロパガンダは禁じ手としてきたつもりである。しかしこのアフガニスタンの現実を記録するなかで批評のヤスリに容赦なく掛けられた。それは苛酷だったが、一方またと得難い試練でもあった。

 ここで時間を十数年溯らせて頂きたい。
 1990年 1月、有楽町マリオンで『よみがえれカレーズ』ははじめて公開(この英語版はカブールでも同月、同時公開)された。
 当日、会場入り口には待つひとの行列が出来た。だが、その多くはこの映画への運動的な支持者たちであって、大衆的に迎えられた雰囲気といったものではなかった。「アフガン『映画論』」の主題の展開は、その観賞者の一部に観られた“浮かない”顔への釈明からはじまっている。観客のあての外れたような感じが雄弁な批評でもあろう。そしてこういう失速の予感はあったのだ。

 89年暮から、ジャーナリスト試写を何回かやった。しかし反響は鈍かった。例えば、私の作品には、通例は批評を惜しまれなかった方々も沈黙された。まして四大新聞の映画批評襴では“黙殺”され、わずかに東京新聞だけが取り上げただけだ。

 この映画の撮影のクランクアップは88年12月、引き続いて編集に一年、公開は翌々の90年になった。その間にソ連軍撤退は予定通り完了し、米ソ冷戦の下図は一応取り払われた。あとアフガニスタンの実効支配を争ういわば“兄弟殺し”の時代に入っていた。
 大ざっぱにいえば、ソ連の“カイライ政権”視された人民民主党のナジブラ政権はその後ろ盾を失った。が、西側(アメリカ、パキスタンなど)の予想に反して、カブールや主要都市を守って、平和的に「国民和解」政策を訴え、ムジャヒディンとの地下での連携の道を探っていた。後にこの時期の真相が十全にあきらかにされるであろうが、マスードらもこれに対応して、争奪によるカブール全市の戦場化をいかに防ぐかが焦点だったに違いない。
 カブールでの政権の“無血委譲”がナジブラの現実政策だったようだ。そのためにも人民民主党の軍とムジャヒディンの武装勢力との“和解”が模索された。だが、ゲリラの最強勢力、イスラム党(パシュトゥン)のヘクマチァルらはパキスタンの意向を受け、人民民主党勢力の一掃、イスラム主義者(ムジャヒディン)のみの暫定政権に固執して譲らなかった。米ソは武器援助の停止を論じるだけで、“消耗な”やりとりを続けていた
 思えばアフガン問題はソ連軍の撤退完了(89年 8月)で“一件落着”風であり、ムジャヒディンの内ゲバを気にするものの、アフガニスタン問題への国際的関心は急速に低下する時期に入っていた。

 またアフガニスタンへの関心の低下だけではない。映画への期待も低調だった。
 また題名も副題に「アフガニスタンのひとびと」とでも添えなければと周囲は気遣った。一体 『よみがえれカレーズ』のカレーズとは何だ。「アフガンの命は水にある」と私たちも気にしながらも敢えて使った。製作発表当時から仮題から『眠れる泉の復活』としていたように、訴えたいものは終始、変わらなかったのだ。

 「カレーズ」は地表からは見えないアフガンの農村の灌漑用の地下水脈のことだが、それにアフガンのこれからの、浮上してきてほしい地下の人材たちの所在…と言った暗喩をこめた。ともあれマリオン以後の上映はさっぱりだった。
 そのなかで第一回山形国際ドキュメンタリー映画祭の「招待作品」にセットされ、映画祭の開幕を飾ることになった。

 その映画祭には間に合わず、一か月遅れで出来た映画パンフレットに、蓮實重彦、松田政男、そして色川大吉の三氏が批評を寄稿された。あえてその見出しを記そう。

 蓮實重彦氏は「楽天的な肯定にも通じるドキュメンタリーの魅力」。
 松田政男氏は「『内戦』と『聖戦』のはざまで』
 色川大吉氏は「アフガニスタンの光源を映す『『よみがえれカレーズ』/民衆に寄り添った作品」とある。(ちなみにこの論文はのちに氏の『シルクロード-遺跡と現代』-小学館-にも再録された)。
 各氏とも、その“社会的冷気”を意識された上で書かれていた。

 なかでも民衆史で知られる歴史学者、シルクロードに造詣のある色川大吉氏のそれは、映画批評の範囲を越えていた。映画論、アフガニスタン論だけでなく、マスコミ批判にも及ぶ論文だった。
 氏はたまたまアフガニスタンに滞在中に、78年の『四月革命』に遭遇された。
 「あれは革命なんてものじゃない、クーデターだ」と見ていて、軽々しくその革命性を云々する識者とは違っていた。それが当然ながらこの批評の底流にあった。

 この批評文のため、氏が試写を見られた直後の表情にいささか気の重そうな様子があった。「あなたの映画だから、書かない訳にはいかないなあ」といって苦笑された。

 懇篤な文章だった。だが、私は氏の映画論には納得し兼ねた。全体には「よく観ておられるなあ」と思ったが、引っ掛かるのは氏の思想家、歴史家としての批評が、このドキュメンタリー映画を見るに当たってどうなるのか?
 私はアフガニスタンの真実を描く事、そして同時にドキュメンタリー映画であること、その当然のことがなかなか旨く行かない経験を味わった。しかし、氏の批評はそれにお構いなし、である。私はチクリチクリと刺された気がした。
 氏は歴史家としては人民民主党に極めて批判的なのだ。そこが私の見方とは違った。私はまだ取り返すことが出来る過ちと見ていた。だが重い課題である。
 その氏の批評文を実にこの十二年間、アフガニスタンのその間の変転をみながら反芻してきた。それは一記録映画作家としては手に余るものだった。

 アフガニスタンでのこの映画に対する意見は少ししか聞いていない。共同監督のラティーフ氏は「これこそ私の目指す社会主義リアリズムの映画だ」と絶賛した。だが、駐日大使時代、この映画の助産婦役を果たし、のちにタジク出身の副大統領(四人制)になったアブドル・ハミド・ムタート氏は違った。
 「この映画が撮った後、すぐに発表していたらアフガンの状況を変えたかもしれない」とタイミングを失したことを悔いられたと聞いた。政治的評価としては分かるものがある。
 確かに編集には時間は掛かった。ニュースや政府広報速報の映画とドキュメンタリーは質が違う。アフガニスタンに劇映画は出来るようになったが、ドキュメンタリーは一本も出来ていない。
 共同監督のラティフ氏は処女作『兵士サブール』で、85年度モスクワ映画祭特別賞を貰っている。近隣の映画の新興国の作家に共通するが“ドキュメンタリー・タッチ”はともかく、ラティフもドキュメンタリー志向ではなかった。「この国ではまだドキュメンタリーのチャンスがない」と意味慎重なことを言うのだった。

 私は長年、映画でしかものごとを考えない癖をつけてきた。そのうちアフガニスタンのことは映画『よみがえれカレーズ』を作っただけに、そのアフガニスタンのこの十二年間の政治の変動ごとに、この作品は今も通用するだろうかを考えざるを得なかった。タリバンの時代は勿論だが、いまのカルザイの暫定政権のもとでは…と考える。これは記録映画作家の因果みたいなものだ。
 それに加えて“反権力主義者”のつもりの私はアフガニスタンの四月革命、人民民主党の十数年、そしてその敗北以後のアフガンの十年の内戦の悲劇には身がつまされる。この元共産党でもあった私には“因果”だけではおさまらず、“業”みたいなものを感じている。
 1991年、ソ連の崩壊に心理的に鬱屈しがら「ソ連が転向しても、俺は転向しないぞ!」と一人力んでいたのもそのせいであろう。
 フリーで自由に生きてこられた色川大吉氏にどこまで分かって頂けるだろうか。

 表題に敢えて「十二年前の映画批評に答えて」としたのは、氏のアフガン問題と映画を“ごっちゃ”にされた(と私の思っている)部分に反論したいのだ。こうした“ごっちゃ”への反論は多分単なる鬱憤ばらしではない。ときにドキュメンタリーの冒す誤りにも、その発展にも関わる命題を含んでいると思うからだ。

 さて、映画パンフの氏の論文を見てみよう。
 氏はこう述べておられる。少し長いが、引用したい。まず当時のマスコミの分析である。
 「…(この作品が)試写会の際、マスコミに無視されたのは、ある先入観をもって見られたことに起因していたように思う」(90年の 2月の執筆)。ちなみに山形国際ドキュメンタリー映画祭は、前年89年の秋であった。その半年あとの執筆である。十分に時間はあったであろう。
 「…水俣の映画を一貫して、患者の側から撮りつづけてきた土本が、今度は人民の側にたつゲリラ(土本注、ムジャヒディン七派)とではなく、ソ連丸抱えのアフガニスタン政府やアフガン・フィルムと協力して合作映画を作ったという。それへの疑惑や反発。あれほど国家権力に対して厳しい忌避の姿勢を貫いてきた土本典昭がなんということか。ソ連の戦車の上から撮っている。なぜ、五百万難民の側、ムジャヒディン(土本注、“抵抗戦士”)の側からカメラを回すのではなく、支配国家の体制の側からアプローチしたのか。“土本の転向”ではないのか」とマスコミに言及された上で、「…そういう否定的な先入観がこの作品を黙殺する結果になったように思える」と。

 マスコミの私への先入観を熟知されているものと思う。が、氏は“私の意見として”こう続ける。「この反応には、うなずける面とうなずけない面とがある」と。

 色川大吉氏の論は映画批評として書かれている。
 亀井文夫の記録映画の古典的名作『上海』と対比して、『よみがえれカレーズ』の映画の弱点(ポイント)をこう指摘される。ここが私には重大なのだ。
 「…ソ連の戦車に乗ってカメラを回したから悪いということはない。日本侵略軍の隊列の中から、沿道の人民のゾッとするような冷淡な憎しみの表情を映しとった『上海』のような名作もあるのだ。ただ、亀井文夫の場合、日本軍を侵略軍だと腹の中で決めていた確固たる思想があった。土本氏らには、それが結局あいまいだったように思う。そのあいまいさが侵略軍やアフガン政府を描く時の甘さにあらわれた。ソ連軍の女兵士にひときわ大きな親近感を示したインタビューのシーンや、ナジブラ大統領の国会演説をそのまま流したところ等々…日ア合作映画だから仕方がなかった“妥協”だといえるだろうか」。

 氏は続けて「亀井文夫は“妥協”をそれと分かるように描いてみせた」とも言われる。その亀井文夫氏の異化効果の手法は野田真吉氏をはじめ、映画史上ほぼ定説になっている。
 だが、私の作品では「亀井さんのような確たるバックボーン(日本軍の侵略軍規定のような)があいまいだったのではないか」というのが、氏の私への批判の前提になっている。そうだろうか。
 ソ連は“侵略軍”だったかは、ナジブラがあるとき外国人ジャーナリストに答えたように、「それはのちに歴史が答えるだろう」と。私も今そう考えている。しかし否定的に、である。その理由はこうだ。

 戦争はまた戦争を生む意味で、またこのアフガン戦争はソ連軍の空軍力(軍用ヘリコプター)とムジャヒディンのカラシニコフ(歩兵銃)との“不均衡”な戦力の戦いであった。さらに“人民の海”に隠れて戦うゲリラ戦術に対しては、住民そのものを巻き込む意味で、ベトナム戦争の二の舞いになった。人民民主党のアミン議長の時代-79年夏、いくら十数回のソ連軍派兵要請があったとしても、アフガニスタンに対する他国の侵略があったわけではなく、武装した反乱である以上、「ソ連正規軍」は出動すべきではなかった。
 それが当時はなかなか理路整然とはいかない。パキスタン、アメリカのCIAなどの隠然たる介入…といった事実も歴然とあり、ソ連の言い訳に一理あるとされながら、私はひたすら「ソ連は困ったことをしてくれた!」という感情のレベルに止まっていた。
 しかし当時すでにソ連の中にアフガン帰還兵や死傷者遺家族の憤懣がおこり、サハロフ博士らの「アフガニスタン戦争には大義がない」という公然たる国内の批判に強く同感していた。
 そもそも第二次対戦を経た今日、こと戦争に関しては、国家と兵士に一体感などありえないと思う。派兵に駆り立てられたソ連の兵士の個人ひとりひとりには、私は「さぞ辛かろう」と同情する。しかしソ連指導部には同情の余地はない。

 さて、亀井文夫の名カットに立ち戻ろう。
 ジュネーブ会議の決定で、八十八年五月十五日、ジャララバードのソ連軍基地からの撤兵第一陣の日が来た。それに立ち会うことをはやばやと決めていた。
 その撤退のシーンでは、帰還の軍隊と沿道の人民を、亀井さんの方法に学んでワイドでとらえた。カメラの高さも真似している。
 『上海』の場合、三木茂のカメラは馬上の目の高さでの横移動である。歓声と日の丸を振る日本人居留民の描写と同じフレームで中国人民衆を移動撮影でとらえている。便衣隊、つまり民衆に身をやつしたゲリラがたしかにそこにいると思わせ、彼等が睨んでいると察知させるスリリングなショットがある。
 ちなみに当時の東宝では記録映画はキャメラマン任せ、『上海』までは編集構成者は同行を許されなかった。現場は三木茂氏の自由であった。亀井氏は次作『戦ふ兵隊』で初めて同行を許された。この『上海』における演出者の現場不在は、論者はご存じだろうか。
 さて、ソ連軍のジャララバードからの撤退は世界的なニュースだった。写真映えのするセレモニーはソ連側で用意されていた。現地行きはマスコミ一社でひとりの割り当てとあって、多くは写真取材に限られた。
 数知れぬ世界中からの報道員が総数二十名に制限されたなかで、私とキャメラの高岩仁は特例的に映画で同行できた。映画は当然ながら描写力では写真に勝る。
 朝、すべてに先立ち、歓送式での地元のジルガ(長老会議)代表がメッセージを朗読した。言い慣れない長老の口から「インターナショナリズム」という単語を何回も聞いた。
 この社会主義陣営の合い言葉は当時ですら死語になっていたので印象的だった。

 ソ連軍の報道担当官は私たちの戦車の上の乗りっぱなしは心配だったようだが、撮影のためには砲架に跨がるほかカメラポジションはなかった。これ見よがしに乗っていた訳ではない。
 氏は「ソ連の戦車に乗ってカメラを回したから悪いということはない」とさらりと言われるが、ムジャヒディンのテリトリーでの“宿敵”ソ連軍の取材とはそんなものである。カメラ・ポジションが画を決めるのだ。

 ここで映画のシーンを思い出して貰いたい。
 基地からの沿道に出て、驚いたのは歓送のひとびとの様子だった。あきらかに何千人の民衆を長い沿道に集めるには人民民主党地区委員会の段取りが必要だったと思うが、あの画面にある千余の民衆の歓呼は演出できるものとは思えなかった。

 ジャララバードの基地周辺の人民は沿道にはみ出んばかりに身を乗り出す。娘らが花束を帰還兵に手渡し、喚声をあげて送っている。写っている女性はブルカ姿ではない。
 キャメラはロングのままそれらの群衆を撮った。あえて選択してレンズを向けることはなかった。

 戦車の砲口にはそのカーネーションが突っ込んである。高岩仁は必ずそれを舐めて撮った。私たちは、無言で腕組みする住民がいたら、見逃さないつもりだった。だが、居なかった!
 
 ベトナム戦争の末期、アメリカ軍兵士のサイゴンの撤退のシーンはいまだ記憶に残っている。みじめでボロボロの敗残兵だった。そんな対比を戦車の上で考えた。

 砂塵にまみれながら百五十キロの行程を戦車上に座ったまま、何時、山峡からのロケット攻撃に会うかと構えていた。画にある渓谷の道はゲリラの主戦場だけに休憩どころではなかった。
 戦車もカーネーションも砂に萎れた。なにもかも砂塵まみれのアフガン撤退のシーンは戦車の上からが最適だったことを分かって頂けたであろうか。

 私は映画作家であるが、75年から水俣病研究班のリーダーとしての色川大吉氏のフィールドワークには運転手としても、案内人としても応援してきたし、また、氏の胸を借りて勉強もした間柄と思っている。だが、亀井文夫の“妥協”のとの比較で私の“妥協とその曖昧さ”をいわれても、映画の上の話には収斂しがたい。
 『よみがえれカレーズ』の映画の意図は、「ソ連軍の撤退したら三日とは持つまい」と観測するムジャヒディンの広報やペンタゴンの予測に逆らって、重圧とされていたソ連軍が去ったあとの政府、民衆の姿をありのまま記録映画することだった。だからソ連軍撤退シーンは冒頭に打って置くべき必要不可欠なシーンだったのだ。また、その時点を選んでクランク・インした。それは“妥協”では絶対になかった。

 企画以来、そのタイミングを三年待った。アフガンでのフィルム取材はロケハンのつもりで八十五年、八十六年にも回している。四月革命記念日のデモのシーンはそれである。
 いわゆる“ソ連寄り”といわれる私としては、その時もソ連の経済援助に焦点を当てて取材しておけば良かったと悔いている。
 溯ればザヒール・シャーの王政時代からの国際援助、そのなかでソ連の担った社会基盤建設、例えば、アジアハイウエーイなどの道路、サラン峠の長いトンネル、水力ダム、火力発電所、大学増設、南アジア最大の病院の建設といった、いかにもソ連らしい社会基盤への計画的投資が主だった。アメリカのように収奪型の経済協力とは対照的だった。その非収奪型、「五か年計画」建設型のソ連の援助パターンを撮っておくべきだったろうと、いまは思う。それはなんと今日のアフガニスタン復興に向け、ナウな映画になったことか。
 私たちは旅の記録のように、出たとこ勝負で撮影したものも多い。だが、「国民和解」というテーマに合わせて撮るようにしてきたつもりだ。
 新兵訓練のシーンもそうだ。ソ連軍の撤退でソ連兵は去っても、ソ連軍事顧問団制度は残るであろうと西側軍事筋は予想していた。それを考慮しながら、カブール郊外最大のレシュホール国軍基地を取材した。
 そこは外国ジャーナリストの誰にも取材を認めていた。当然かもしれないが、撮影時、すでにソ連の軍事顧問員はひとり残らず去っていた。それでは“画”にならないとして、ほとんど外国ジャーナリストは興味を持たなかったところだ。

 アフガニスタンは徴兵制の国である。いわゆる普通の市民の男性が入隊している。
 元教師だった中年の新兵(アフガニスタンでは45歳まで兵役義務)はインタビューに答える。「誰の利益にもならない戦いだと、子供たちみんなに、いつも話していました」と。
 私は“ソ連寄り”と言われるのには往生するが、“アフガン寄り”、アフガニスタンの“人民民主党寄り”と言われるのに抵抗はない。
 私は元全学連であり、党員でもあった。人民民主党員に対しては、いわば“友党の同志”のの感覚が残っている。その人民民主党の党内党派闘争や、未熟な党員の失敗を聞いても嗤うことは出来ない。
 日本の革新も誤りと失敗を繰り返してきた。社共の反目は労働運動から原水爆禁止運動にまで及び、広範な意味で政治不信を生んできた。党内闘争についてはあらゆる悪を敬虔してきた。その誤りの質もそう違ってはいないだろう。
 いまアフガンで党派を問わず頭角を現している人士は、日本の六十年安保から七十年安保の時期にかけて闘いの狼煙を上げた青年たちである。全学連や全共闘世代と若さの点では同じである。それぞれの思想、宗教は異なっても、彼等がアフガニスタンの改革にそれぞれ汗を流したことでは変わらないと思う。

 六十年代のカブール大学の学生運動では、人民民主党系のナジブラも、イスラム党のヘクマチュアル(工学部)も、マスードも、官僚腐敗を許した王政批判では一緒に統一行動を取った。ともに学生運動当時、すでに相手を知り抜いていたと聞く。
 その諸党派の中でも、人民民主党の党員(十九万人)は政権を十三年担当しただけに、自己批判の度合いは最も深い。最近、ナジブラの89年の人民民主党大会での基調演説を読む機会があったが、その大胆な自己批判と憂国の信念には改めて感動したものである(ホームページに掲載予定)

 アフガニスタンが世界の最貧国であることは今も当時も変わらないし、その国が例え“カイライ政権下”の国民、兵士であろうとその生きざまは見たかった。いまのアフガニスタンもアメリカ、英国、国連筋の“カイライ政権”と醒めて見ているアフガンの人士もいよう。いまは物が言えないだけだ。決してそれを笑えないのは自明のことだ。

 「歴史に学べ」とは色川氏の持論である。私もそれしかないと思っている。自分の境遇の歴史、カブールの歴史、アフガニスタンの歴史、そこから教訓を引き出す事だろう。
 ワルはどこにもいつの時代にもいる。彼等とお偉い風を吹かす人やゴリゴリの官僚はどこの国の誰であっても憎むが、そこの民衆は違うはずだ。
 その意味ではは歴史の記録者・色川大吉氏と、記録映画作家の私は同じ立場に立つと思う。

 映画にも歴史があるとすれば、私の知る限りでは亀井文夫氏が先行者だったと思う。
 亀井文夫のそのどこかアーナキーなところが好きで、晩年の氏へのインタビューは忘れがたい。とくに生来、無党派的な人間であることを隠さなかった氏に惹かれる。しかし氏がどこかで共産主義者らしい節操を求道者のように持たれていることと矛盾してはいないのだ。
 亀井氏がその死の寸前、「おれはまだ党籍が党に残っているよなあ」と娘婿の阿部隆氏(日本ドキュメント・フィルム)に気遣わしげに念を押し、「そうです。残っているでしょう」というのを聞いて安堵されたというエピソードほど最近、私のこころを撃ったものはない。(その辺を昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭の亀井文夫特集の文献に書かせてもらった)
 つまり人の最後に浮かんだ思いには意味があろう。党員としてはその晩年にはそれほどの存在感を日本共産党にもたなかったが、氏一流の党員としての誇りの持ち方は生涯貫いておられたであろう。ちなみにその近親のみの葬式は簡素なもので、たしか棺は赤旗で覆われたと野田真吉氏に承った。

 氏は“共産党員”という言葉が革命的な人間の衿恃とされた時代に生きた方だと思う。だが、間違っても、いまの日本共産党とごっちゃにしないで欲しい。かれらはその前衛性を失った。いまは議会主義政党に専心し、もっぱら選挙運動と国会内での闘いが主要で、世界の革新の波からは置き忘れられている。いっそ“国民党”とでも改称したら、すっきりすると思う。だがこうした“変態”は日本だけではない。しかし絶望するほど私は短気ではない。時代を見据えたいと思う。

 私の学生運動の時代は“党”とは、幻想的なまでにヒューマニズムを養うもの、人間の未来を託するに足るキーワードであり、精神上に価値あるものであった。しかし今は「これがコミュニストの“党”だ」というものはグローバルに見てもない。これからも外在し、可視的で依拠し得る“党”は生まれるであろうか。
 亀井文夫氏が死の床で確認したかったのは何であろう。

 かつて氏は慈善でも施す説教者のように党員勧誘に熱心で、その名人と言われたことは語り草になっている。戦後の東宝争議の頃である。そして、原水協や平和擁護委員会、あるいは部落解放同盟が社共の党派間闘争に分裂するまでは、氏の映画はその大衆団体のエネルギーを期待しつつ、かずかずの民衆を描いた優れたドキュメンタリーを作られた。
 その亀井氏が七十年代、ふっつりと映画の世界から去られた。骨董屋開業と聞いてさらに釈然とはしなかった。

 私のインタビュー(岩波書店の『日本映画講座』参照)のなかで「映画を諦めたのは、中ソ対立で、日本の自主的な独立映画の製作と上映運動の先行きが見えなくなったからだ」と言われた。
 どの大衆団体、平和団体も日本共産党系と社会党系にキレイに分裂し、氏の依拠した上映の運動体の末端まで、そのセクトがはびこり、これらに嫌気が差したことが、氏の背骨を折り、映画人廃業にまで追い詰めたらしい。
 二十年の沈黙を破って作られた遺作の『トリ、ムシ、サカナの子守歌』は、一市井の思想家の乱世への警告といった切迫が込められていたが、もはやかつての党派の上映運動に頼られることは一切されなかった。孤立のなかで憤死された感がある。

 またも脱線じみるが、ここで話を折るわけにはいかない。
 亀井文夫氏はまだ生かさず殺さずに放置されていた方だ。かつて非転向神話に彩られた日本共産党もその神通力は戦後の一時期であった一億の総“再転向”(軍国主義・天皇主義から民主主義へ鞍替え)の数年で消えた。
 アメリカ占領軍を解放軍と見ていた日本共産党へのコミンフォルム批判は党の分裂を決定的にした。そして党員としては死刑宣告に等しいとされた除名が乱発された。その国際版が中ソの争いでもあろうか。社会主義国相互の分裂と近親憎悪的確執は革命を志向したすべての人を傷つけた。

 六十年安保闘争という輝かしい全大衆的闘争もあったに関わらず、それに続く六十年代半ばは、党員の大量追放の嵐の吹き荒れた時代だ。党の指導性、党内民主主義を巡って、宮本顕治ら一派はその指導部の確立過程で、多くのコミュニストの作家、芸術家、評論家を除名した。私はとっくに自然離党し映画界を選んでいた。私の三十七、八歳頃、身辺に起こった出来事であって、終始、その惨たらしさを凝視していた。

ところで、死んだ児の齢を数えるようだが、除名者の名を列記してみよう。

 64年11月、有名な“十二人の文化人グループ”の除名”がある。
 佐多稲子(以下敬称略)、出隆、国分一太郎、山田勝次郎、渡辺義通ら文筆家、そして芸術家は朝倉攝(画家、舞台美術家)、佐藤忠良(世界的に著名な彫刻家)、丸木位里・俊(ともに鬼籍にある原爆告発の画業)、本郷新(「わだつみの像」で知られる反戦彫刻家)、そして映画人では宮嶋義勇らである。

 その前後に、新日本文学系の作家、評論家への除名は徹底的ですざましいものだった。 花田清輝、阿部公房、大西巨人、中野重治、井上光晴、関根弘、野間宏、石堂清倫らはすでに亡き人である。生き残りの批評家では武井昭夫(50年代の全学連の委員長)、松本昌次(影書房、私の親友)、松本俊夫(映画監督)、針生一郎(丸木美術館代表)、津田道夫(社会評論家)、いいだもも(マルクス主義者)らである(順不同)。これらのひとびとを特徴づけるのは、自立してその思想を堅持しておられることだ。孤立を恐れず、みずからの中に“党”を抱いて闘っているように、私には見える。じつは私もそのひそみに倣って自分を持してきたつもりだ。

 脱線に次ぐ脱線を余儀なくされたが、ふたたびアフガンと映画、そして色川大吉氏の胸を借りることにしよう。
 色川氏は党とは無縁の方だった。その分だけ強烈な思想的営為をされてきたと思う。そうゆう氏のアフガニスタンの見方、映画の見方に私は教えを受けたいと思った。

 ここで色川大吉氏がその批評のなかでも特記されたロケットのによる虐殺シ-ンへの毅然とした氏の姿勢に、私が大きく励まされたことに触れたい。もっとも編集で迷った箇所であり、氏の批評がどう出るかを心待ちしていたものだった。

 アフガニスタンで、私は映画史上はじめて人間のぼろぼろの死体を実写した。
 夏の夕刻、カブール市のバスターミナル、盛り場の広場の賑わいに、二十キロの射程を持つ最新鋭のアメリカのロケットが打ち込まれた。
 その一発で三十五人が即死、百五十以上が負傷した。96年にアメリカの新規の武器援助でゲリラに供与された、“高性能爆弾”とはいかなるものか、世界はしっかりと眼を開いて観るべきだと思ったからである。

 私は戦時中、黒焦げの焼死体を見たことがある。だが髪の毛の一部が焼け残っていた。それは炭化した死体を見るより強烈だった。それを遥かに超える死を撮った。そのロケットは人間の大量虐殺用に特殊に開発されたものだ。爆発して鉄片がナイフのように飛び散り、切り裂くのか、世にも恐ろしい威力を備えていた。腹が裂け、はらわたが青、赤、褐色と色彩をもってだらりと露出している様はいかなる映画でも写真でもみたことがなかった。まして千切れた手首をつまんで担架に拾う場面を想像することもできなかった。

 完成プリントでそのシーンをみたアフガニスタン側の監督、ラティフは「遺族が嘆くだろう。切れないか?、これでは…」と絶句した。アフガンでもそうしたシーンは撮影厳禁で、撮れば逮捕されるという。このシーンの撮影に同行した通訳のマスーム氏はそれを恐れて震えていた。

 しかし、カブールの市民は毎日のようにそれをじかに見ている。立ち去ろうともせず釘付けにされたように凝視している。市民は「死者何名」という報道に接しても、ボロボロの死体のあれこれとしてそれを受け取っているはずだ。この記憶は市民の血肉にまで食い込んでいよう。
 同じ現場に居合せた、イタリア人婦人記者は撮っている私たちを憎々しく見つめ、「こういうものは撮らないものだ」とぎょうぎょうしく十字を切って立ちはだかった。なぜ撮るのかと抗議もした。自分自身が怖くなった。あらゆる表現者がそれの表現だけは堅く禁忌してきたのかもしれないと。カメラマン一之瀬正史はその作業に従事する兵士、医師、看護卒の表情をドキュメンタリーのカメラワークに徹して撮った。私は動揺していた。

 編集中も動揺し続けた。この吐き気に耐えて撮ったシーンのうち、もっと無残なカットもあったが、ち切れた掌ひらの塊と、色鮮やかな臓物のシーンしか使わなかった。スタッフには今も、このシーンに心痛める。

 このシーンの意味について色川大吉氏はただひとり書いている。
 「カブールホテル(映画班の宿)から歩いて数分のバザールにロケット弾が落ちた。撮影班はすぐに駆けつけている。そしてそのすざまじい無差別殺傷の現場を写す。なぜ『国民和解』が必要か、『内戦』とはなにかを示す最も本質的なシーンである」と。
 この指摘は氏が本物の戦争世代であるからだろうか。歴史家として、記録としてこの映画表現を直視されたのだろうか。
 色川大吉氏が「国民和解」、「内戦の停止」を示す“最も本質的なシーン”と言われた事をズッシリと受けとめる。カブールの市民がそうしているように、だれもが直視してほしい。
 とくにこの爆発力を鋭意開発したアメリカ軍部や兵器産業技術者から労働者、その妻から子供たちに至るひとびとまでにである。彼等はそのテストに生きた人間の生身は絶対に使ってはいないだろう。また、二十キロ先から打ち込んだゲリラも、この被害者のボロボロな姿を見た訳ではないだろう。無惨な死に様はやられた市民の側にのみ焼き付けられている。この両者間の懸隔には言葉を失うのみだ。

 言うまでもないが、今日、アメリカの空爆を思うと、例えアルカイダであろうと、タリバンであろうと、その死者の“死に様”はかくのごときものと思い知るべきだ。
 「ハリウッド映画を見ているようだ」と茫然自失したアメリカ市民(だけではないが)は、ニューヨークの死者にはまだ想像力が働くだろう。だが、これは想像だに出来ない死に様だ。映画の歴史はこうした写実力を恐れる体制側の道徳と常識に屈してきたのだ。

 さて日本に話をもどそう
 89年の第一回、山形国際ドキュメンタリー映画祭ではこの作品は招待された。いわゆるコンペには出されなかった。小川紳介氏はまだ元気だった。
 彼が私の参加を求めたてくれた頃は、私は三浦半島の国立久里浜病院のアルコール依存症の専門病棟にいた。一応、開放病棟であった。近辺の散歩も電話も自由だった。
 氏から何回も電話があった。時に「横浜まで(オルグで)来たからそちらに行って、山形での準備状況を詳しく報告するからすぐ直行したい」といわれたが、こわい看護婦に断られた。

 私のアル中については別の機会にも触れた。アフガニスタンでのウオッカの飲み過ぎが原因である。
 禁酒の戒律の厳しいイスラム国家、アフガニスタンだが、ロシア兵にはソ連軍部はウオッカはふんだんに供給したらしい。その闇市場への横流しで、安く、いくらでも手にはいった。日々の緊張を和らげるためなら、アヘンでも吸ったであろう。それは神経を痛める仕事だったのは事実だ。そのツケが脳にきた。

 不思議だが数日半徹夜のダビング作業だったが、その最後のロールになって、初めて狂いを自覚した。高岩さんの労働映画社の録音場。その深夜のラストロールに手間取って、いつもアルコールを呑む時刻はとっくに過ぎていた。あと音楽を1ロールだけだったが、体内時計では飲酒時間の定刻を過ぎていのだ。自分は今なにをしているのか分からなくなった。症状は記憶喪失に近い。
 母屋で酒肴の支度をしている高岩夫人にウィスキーをコップ一杯貰い、呑んだ途端に正気に戻った。これを薬代わりにちびちびやりながら、白む早朝までにそのグラス一杯を舐めて最終のダビングを終えた。

 持つべきは友である。心配した全学連以来の武井昭夫氏と高岩仁氏の計らいで、「海を見にいこう」の口実で車で久里浜海岸の禁酒専門病棟に運ばれた。「自分にはこれから上映の仕事がある。こんな事はしておれるか!」と相当逆らったそうだ。娘の亜理子と、当時助手の基子(現妻)さえも「そこが精神の病気の証拠!」と私を説得した。

 89年 9月の夏は暑かった。日本一の禁酒治療の実績を持つ横須賀の国立久里浜病院は元の海軍病院とかで、規律は喧しく、看護婦にも威厳があった。
 八月のお盆すぎに親父が死んだ。その葬式にも、規定の二泊三日の期限しか与えられなかった。この点、禁固刑の等しかった。
 入院は規定通り四か月で終わった。その十日後に、山形国際ドキュメンタリー映画祭は開幕する。滑りこみセーフではある。
 私は小川紳介氏の「土本典昭ぬきでは駄目だ」という意味は理解できたが、精神的には参っていて、欠礼するつもりだったが、彼の弁舌には負けた。いつもそうだが。
 気持の準備のため、あらかじめ贈られた日英のプログラムのカタログを読んだ。著者名のない『よみがえれカレーズ』の解説があった。それは一読して嫌気がした。作品批評も加味したなんともいえない文章だった。
 曰く「…この作品は一貫して政府側から撮られている。この一貫した視点こそがこの作品の根本的な弱点でもあり、同時に意義にもなっている」。この「一貫」「一貫」の重複使用にもある威圧を感じたが、「弱点」が「意義」にもなっているとはどういう意味か。
 「政府側から撮った視点」という言い方もすでに耳にタコ、である。

 企画のあたまから“政府側に”なることを避けるために、プロデュサー山上徹二郎は苦心した。政府指定の米系のインター・コンチネンタルホテルは断り、普通のアフガン人の泊まる市内のカブールホテルを定宿にした。また昼間は単独の外出を自由にして貰った。それ故にというべきか、政府の秘密警察はひとりで街の音ロケにいた録音の栗林豊彦を拉致し、数時間しごいた上で、アフガンフィルムと日本側スタッフの情報の提供を申し出る始末だった。スパイになれというのだ。彼は知っている数語の英語で徹底抗戦した。
 いわば、政府側の“革命的警戒心”はスタッフの行動にも向けられていたのだ。
 「解説」ならばそうしたエピソードのほうが面白いはずだ。だが誰も取材されなかった。
 この政府サイドではなく、野次馬精神あるアフガン・フィルムの映画人との共同監督ということが私たちの開拓した“合作映画”だった。その結果、アフガン・フィルムの映画人の個人的な人脈を辿って、初めて国内の反政府武装集団の支配するヘラート近郊の農村に入れたのだ。

 元ゲリラの首領サイーディ氏は西側からも東側からも取材の申込みがあるが、ガンとして断ってきた見識あるリーダーである。それだけに、もとの仲間を「国民和解」に近付ける力量があったのだ。
 ものを読むに当たって「紙背に徹する」いう言葉がある。映画の場合も同じであろう。
 さらに「解説」氏はいう。一応、市民生活が取り上げられているとした上で、「この作品が基本としている“客観的なルポルタージュ”という姿勢のために、結局、皮相と批判されることになるだろう。とはいってもこの作品は決して魅力の少ない作品ではない」。
 まあ“皮相かどうか”は、観客に任せるのが常識ではないか。客観的ルポルタージュというマスコミ好みの手法には、決別してドキュメンタリーの道に入ったわれわれとしては開いた口が塞がらない体である。
 私はシグロの事務所で「もう行く気はない」と言った。プロデュサー(山上徹二郎と庄幸司郎)は「あんたの好きにしてくれ。…止めたら」と答えた。

 結局、私は行った。友人らしい人は小川紳介氏ひとり。ただ、旧友の勅使河原宏がいた。
 彼とはお互いに二十幾つのころ(1952年初夏)、日本共産党の誤った軍事路線のもと、奥多摩の小河内村の山村工作隊員として、岩山の“根拠地”で起居をともにして以来の仲である。
 山形国際ドキュメンタリー映画祭は小川紳介氏が命を縮めるほど献身して誕生したことで知られる。コンペの審査委員長が勅使さん(通称)だった。氏も照れてもいた。最近作の『利久』については「なんとも堪能したなあ!」の一言ですんだ。
 それにしてもあの在野的な辺境の小川紳介と、天性の芸術貴族で通る勅使河原宏との取り合わせはおかしかった。余計ながら彼は映画祭でリラックスできなかったと思う。

 その勅使さんの映画の前史はドラマ的でさえあった。1950年代後半、亀井文夫氏が東宝争議前後の劇映画連作の時代を脱し、再びドキュメンタリー映画の旗手として活躍を始めたとき、彼は率先して亀井氏の懐に飛び込んだ。
 『生きていてよかった』(56年)、そして『砂川闘争三部作』(56年)ではキャメラも回したという。かつての『ホゼイ・トーレス』(59年)、『おとし穴』(62)は「“純粋映画”なるジャンルが生まれた!」と叫び出したいほどの衝撃だった。やっぱり山窩のような山村耕作他の麦粥生活にもあの独特の“勅使河原スマイル”を絶やさない彼の体験があればこそだろう。

 「前衛美術」の細胞のグループだったが、村への工作新聞に版画を刷るのが日課だった。チーフはのちの前衛画家の山下菊二氏だった。
 だが、あの草月会の巨大な華道の家元、勅使河原蒼風さんとしては、御曹司の生き方をどう見ていただろう。映画作家になることは賛成しただろうが、山村工作隊志願といい、亀井文夫への心酔といい、よくも許容したものと思う。
 そのころの彼は哲学的で探求者風だった。どこかでサウジアラビアの大富豪の御曹司、ビンラディン氏の風貌と似ているような気がする。底辺のひとびとにも“貴種の流離譚”を思わせるものが氏には備わっていたのだ。

 たしか映画祭開幕の日、招待作『よみがえれカレーズ』は上映された。
 マスコミのだんまりはさておき、観衆の反応も危惧した通り低調だった。恥かしかった。
 質問に入った。真っ先に出たのは意地悪いものだった。
 「共同演出ではどこの場面を誰が、どこのシーンはだれがと分担したのか」という“共同演出”にメスを入れるといった意気ごんだ質問だった。最前列の小川紳介がはらはらしていた。どうやら質問者は“解説”を書いた批評家らしかった。
 私は喉が渇きに乾いて、水を所望してから一言「曰く言い難いです、やはり、曰く言い難い」と答えたが、これでは返事にはならない。頭を下げて謝りたかった。「どうもここ(山形)とは相性が悪い…」と心のなかでこぼした。

 だが二、三日はいた。小川紳介氏には悪いが一日でも早く山形を脱け出したかった。
 幸いに琵琶湖湖畔で開かれた「バイカル湖・環境問題日ソ作家会議(日本側野間宏、ソ連側C・ラスプーチン)への出席の約束があったので、それに飛んだ。
 これはAA会議の最新のアクションで、バイカル湖の水汚染にたいし、体制を徹底批判する日ロ文学者のシンポジュームで、水俣映画が重要な参加の意味をもつものであった。私の頭はすぐに切り替わった。

 短い山形国際ドキュメンタリー映画祭の会場で、短い滞在中にも関わらず、嬉しい反応もふたつほどあった。一つはこの映画の上映直後、蓮實重彦夫人がウインクしながら「エクセレンス!」といって微笑んでくれたこと。
 もう一つ、シンポジュウムの壇上で隣席の台湾の女性プロデューサーが、手話を交えて批評してくれたこと…。
 「ふたつに分断された国の民族にはこの映画は良く分ります。血と血で争った悲劇を理解できるからです。韓国の映画監督(名を失念)も同じ感想でした」という。
 これらアジアの映画人たちにはどうやらストレートに通じたのだ。
 勅使さんと逢えたこととこの二つのエピソードがなかったら、惨澹たる思い出になったろう。たしか台湾の女史には名刺を貰ったが無くし、氏名を失念したのは残念である。

 『よみがえれカレーズ』の上映には、責任者のひとり、私の入院とその後の放置もあって、上映組織らしいものも生まれなかった。また、大阪、名古屋の上映くらいは行けたのだが、行った記憶はない。病院の日程が優先だったからだ。
 そして私にとっては陰湿なアルコール依存症による“鬱の季節”に入った。その後、妻の癌の介護と無職の日々が続いた。全然芽が出なかった。
 人形劇の人形製作で稼いで、生活を切り盛りしてくれた妻は糖尿に癌を併発して死に、そして“盟友にしてライバル”と、何時も私を気にしてくれた小川紳介も癌で亡くなった。いご続く空白の時間、それが九十年代前半の私であった。

 書き下ろしの著書『されど海-存亡のオホーツク』(影書房)と、現在の妻・基子と94,5年にかけて一年、水俣東京展のメイン展示『記憶といのり』とした水俣病患者の死者五百柱の遺影を収集したぐらいだ。あとクロード・ランズマンの出会いが大きい。その九十年代の締めくくりが、私家版ビデオ『回想・川本輝夫-ミナマタ井戸を掘った人』である。
 さて再び話を色川大吉氏の批評文に戻す。
 氏の批評文『アフガニスタンの光源を映す/「よみがえれカレーズ」/民衆に寄り添った作品』への現時点での私の意見を続けよう。
 この色川大吉氏の構成は前段と後段にはっきりと分かたれている。前段は批判的、後段は評価が高いというものだ。

 ここで色川大吉氏の亀井文夫論にも意見を述べたい。
 ぼくは亀井文夫論をいくつか書いている。
   岩波書店の『講座・日本映画』第五巻、
   井上光晴編集の雑誌『辺境』(影書房)、
   『社会評論』(思想運動)、
   今年の『映画芸術』誌の最新号などがそれだ。
 さらに『講座・日本映画』第五巻に亀井文夫氏の生前最後のインタビューが載っている。死去の一か月前、東大医学部の分院のベッドで取材したものである。そこで理解した亀井文夫氏の像から、色川大吉氏の“亀井論”を考えることになる。

 再度引用する。
 色川氏は「亀井文夫の場合、日本軍を侵略軍だと腹の中で決めていた確固たる思想があった。土本氏らにはそのあいまいさが侵攻軍やアフガン政府を描く時の甘さにあらわれた。ソ連軍の女兵士にひときわ大きな親近感を示したインタビューのシーンやナジブラ大統領の国会演説をそのまま流したところ等々……。日ア合作映画だから仕方がなかった“妥協”だろうか」として、亀井文夫の『上海』場合の妥協と土本の妥協の質の違いを指摘された。ならば私は私の「亀井論」で答えるほかない。

 まず私は亀井文夫には日本軍を“侵略軍”と見る確固とした思想などあったかと首をかしげる。それは当時のコミンテルンにはあったろうが、亀井氏にはそれとはほぼ無縁である。第一、この現場は三木茂氏ら技術スタッフしか行っていなかった。
 前の触れたように、亀井氏は上海ロケには行っていない。例に引かれたガーデンブリッジの皇軍の行進と中国民衆の顔々々のシーンは三木氏のカメラアイによるもので、これを見事に構成し、亀井作品となった。ちなみにスタッフタイトルには「編輯・亀井文夫」となっている。

 氏が「戦争は汚いこと、無駄なこと、愚かしいこと…それを描きたかった」と言われた有名なく言葉は『戦ふ兵隊』での述懐である。『上海』は軍の宣撫映画であり、その枠を逆手に取って、中国兵の執拗な抵抗戦を描きだした。それは三木茂さんのカメラとの類いまれな精神のシンクロ性であって、二人に共通する適度の感傷と痛みが見事に生かされた。とくに音楽が全編に流れ、ナレーション以上に詩的表現を助けている。
 私は『戦ふ兵隊』より『上海』のほうが好きだが、それは「投書にみられる真実味をねらった」(亀井文夫)という。そこがこの映画の余人に真似できない秀逸さであろう。
 つまり、亀井氏に“日軍を侵略軍とみる”思想と忖度することは、ある種の持ち上げ過ぎと褒め殺しにならないだろうか。
 さらに亀井氏はインタビューで“反戦映画、厭戦映画”と言われることへの違和感を述べている。色川氏がいわれる「日本軍を“侵略軍”と見る確固とした思想」より、鋭く且つナイーブな感覚や俳諧的な洗練さに拠って、庶民精神とヒューマニズムを貫かれた(その点を『季刊・映画芸術』(2002年春)の亀井文夫『後方記録・上海』論として私なりに分析したつもりである)。

 さらに違和感を覚えたのは、「ソ連の女兵士にひときわの親近感を示したインタビューの甘さ」に対する批判である。これが「侵略軍(ソ連)を描くときの甘さ」「日ア合作映画だから仕方がなかった“妥協”だといえるだろうか」とひと括りでのべられると、氏の批判した日本のマスコミの先入観と全く同質になる。むしろそれ以上の効果を持とう。

 あるいは歴史家である色川史観によって、私はマスコミの見るとおりの「ソ連丸抱えのアフガニスタン政府やアフガンフィルムの合作映画を作ったという、それへの疑惑や反発…」がさらに氏によって強められたことになっていないか。
 映画の出来不出来でいえば、私はまあまあぐらいの映画だと思っている。製作のプロセス、スタッフの一体化、通訳の欠乏、ロケ日程の不自由さなど、あげれば私は天に唾することになる。だが「合作映画」ゆえの“妥協”、“ソ連よりのあいまいさ”…そうした作り方に堕した気は、言葉を返すようだが毛頭ないのである。

 ソ連軍女性兵士(リュドミラ)の描き方のどこに「ひときわの親近感を示している」か。終章のイランから帰国した難民の叫ぶ「わが大地、わが母の国、同じ血を流すなら、他国ではなく自分の国で…。神に千回も感謝する、祖国に帰れたことを」。
 この声と、リュドミラの歓喜と、人間としてどこが違うであろうか。
 ふたつのインタビューには演出兼インタビュアーの熊谷博子はそのどちらにも感動している。ただ女性兵士リュドミラのシーンを「ひときわの親近感をしめした」として不快に感じられたら、そうした人には間違ってもドキュメンタリーは撮り得ないと申し上げたい。

 撤退中のカブールでは抑制して寡黙だったリュドミラの瞬間で変貌したあの歓喜のさまは、たしかに“ひときわ”私たちを感動させた。そこでインタビュアーが親近感を感じた。それが“甘い”ことになるのだろうか。

 “アフガニスタン”の怖さは一個人に還元すれば、政府軍兵士もムジャヒディンも等しく同じ血の流れる生き物であることをときに忘れることにある。ロケットを飛ばすその相手を憎む。それは自然なことだ。
 しかし、もっと個々の人間を超えて、戦争総体にひそむ巨悪を見ることができないか。
 いかに至難な思想的営為であろうとも敵をも相対化してとらえることがなかったら、ドキュメンタリーの未来もその可能性も開かれないと思う。
 そこが十年、二十年のスパンで思索する歴史家と瞬発力にすべてを賭けるドキュメンタリー作家との違いと言ったら言い過ぎであろうか。
 スタッフはカブールであのリュドミラを延々たる戦車の列から見つけた。瞬時に選択した。そしてぴったりと彼女を追った。そしてまずカブール市内の「政府の公式の歓送式典」で第一のインタビューを試みる。
 熊谷博子は「卓抜したパソナリティーの持ち主」(松田政男氏の批評より)で知られている。知的でお人よしのリュドミラは、熊谷の女性に禁物の年齢などのぶしつけな質問にも笑顔で返事をする。が、軍務については「答えられない」と厳しい。

 熊谷とスタッフは彼女が自国領域に一歩でも入った途端にどのように変わるか、それにひたすら熱中した。そのためにはソ連のウズベキスタンの領土に撮影班も入らなければならない。だが、その越境許可は出なかった。ソ連軍当局の全く予期しない要求でもあった。
 翌朝の話である。ソ連側の外国人ジャーナリスト対策担当者は「国境・アムダリア川の橋の中間点でUターンすることになっている、それを通すにはモスコワの許可が要る」といってらちがあかない。多くの外国人ジャーナリストは半ば諦めていたが、のちらは違った。制作部の外山透(照明兼務)は「いまからでも間にあう、モスコワに電話してほしい」と数時間かけて食い下がった。そこには抜け駆けや功名心のかけらもなかった。まして「甘さ」も「曖昧さ」もなかった。外山氏のドキュメンタリストとしての真骨頂だけがあったのを私は見た。

 ソ連の担当はついにモスコワの許可を電話でとり、ようやく異例の通過許可となった。
 あとはウズベキスタンに入った途端、喜びに両手を開き、哄笑しっぱなしの兵士リュドミラの解放のシーンが撮影できたのである。

 色川大吉氏の批評はその後段でがらりと変わる。『四月革命』の持論のクーデター説を延べた上で、「…だが思想イコール映画ではない。映画の生命は映像にある」として、後段に話を一転される。「この作品は後段が格別に良い」として、例挙される。
 ゲリラの領袖同士の「国民和解」への心の動き、そして無益の戦いをやめようと本音を吐露しあうシーンに、「暗い土壁の密室で交わされたふたり(領袖)の言葉のなかにアフガニスタンの微かな希望の光が見えた」と評価した。そして、前にも触れたが、終章のイランからの“出稼ぎ難民”の帰還と、他国に出て始めて知る祖国への愛、アフガニスタンの国なるものの発見といったシーンに「私はこの映画の啓示を感じた」と言われる。
 そして「…“よみがえれ”という製作者たちの願望をこめた情感が、この後半部では抑えても抑えてもあふれてくる地下水のように重厚な映像に滲み出ている。すばらしい作品ではないか」と結ばれた。これはまた色川氏らしい思想の流れであろう。

 あえて私は色川大吉氏の批評文を前段の批判と後段の評価に仕分けして詳しく書いた。後段には氏の映画に対する共感が溢れている。では何故、亀井文夫氏との比較や「ソ連より」批判をもって私に辛辣ともいえる言葉を残されたのか。それこそ謎だった。
 私は「アフガン映画論・」の原稿を氏に送った(それはこれからも読者には読まれるだろう)
 そこに私のアフガニスタンへの十二年のジグザグの屈折を述べて、ようやくアフガン再訪へのドキュメンタリー作家としての腹が座った気を述べた。
 その「アフガン『映画論』・」を読まれて書かれた氏の手紙をもって終わろう。
 
 2002,2,28 付  色川大吉氏の手紙
 「…さて、東中野の BOXでの『よみがえれカレーズ』の成功、良かったですね。アフガニスタンの民衆を撮って、あれ以上の映画はありません。初見の人が感動するのは当然です。十数年前より、もっと身近に感受されるのではないでしょうか。
 あの頃、私はムジャヒディン側にいて、そっち(マスードらを)を評価していましたから、土本さんの理想主義に批判的でしたが、あの映画のもっともすばらしい所(人民民主党の「国民和解」メッセージ)はちゃんと見ていましたよ。あとで私の本(『シルクロード-遺跡と現代』-小学館-)に収録しました。その昔の話にふれて書かれた今度のエッセイ(注、土本執筆、NEO連載/映画『よみがえれカレーズ』を顧みて……これからも観ていただくひとのために)は素晴らしい。判断は的確で、少しもボケてなんかいない(失礼!)。敬服の限りです…」。私は適うならすぐにも色川大吉氏を抱擁したかった。
 このアフガニスタン問題の変化に囚われ続けた十二年はこの映画の評価の上にも流れた。そして、私のアフガンへの思いはまたよみがえろうとしている。胸を貸して頂いた色川大吉氏の友情に感謝したい。妄言多謝。

 2002,3,25 改稿