唐木清志さんを送る言葉 弔辞 4月2日 <2002年(平14)>
 唐木清志さんを送る言葉 弔辞 4月2日

 唐木街子さま、ご遺族のかたがた。この度の唐木清志さんのかつて聞いたこともないような急死の知らせに接し、取り乱し、嘆き、すぐにはお悼みの言葉もでませんでした。しかも郷土の先輩でもある、水俣の安川栄さんの追悼文集のことで、伊那に行かれるその朝であったということは、ともに切れない絆の縁であっただけに、なんとも名状しがたい感情が襲いました。ここにこころからお別れの言葉を述べさせて頂きます。

 私にとって唐木清志さんは単なる新聞記者をはるかに超えたかたでした。水俣病事件史のなかで、1975年は水俣病はじめ日本の公害問題が世界中に繋がった記憶すべき年でした。カナダのインディアン社会に発生した有機水銀中毒事件をはじめ、米国、北欧など世界各地の水俣病が一挙に日本に伝えられ、世界の環境問題のいわば元年ともなった年です。この年、スケールの巨大な報道のプロジェクトを立案し、優れた調査団を組織し、東京・中日新聞の朝刊一面を割いて、数回にわたる連載の特集を組み、その写真までこなしながら、目を見張るジャーナリストの仕事をなされ、「東京新聞」の志と相俟って、水俣病の悲劇を世界のものにされたのは唐木清志さん、あなたでした。当時まだ三十歳台の若さだったと思います。
 私たちはその後の同紙の環境特集紙面の名記者として四分の一世紀以上にわたり唐木清志さんのメッセージを受け取ってきました。その記憶はすでに深く刻まれています。こうした思想的に堅牢にして、柔軟な記者魂をほかには見ることができません。
 唐木清志さんの組織された二回以上に亘る世界環境調査団の活動が日本のみならず、世界の各国のひとびとにあたえた警告と環境問題を介しての連帯は、計り知れない足跡と功績を残しました。
 その調査団のメンバーは当時、力はありながらも、決して各分野のいわゆるボス学者ではありませんでした。宮本憲一さんをはじめ、宇井純さん、原田正純さんなど精鋭の方々、それに淡路剛久、飯島伸子、中西準子さんらその後いい仕事をなさった若い方々を組織され、二十世紀の日本の公害研究の分厚い層を、あなたは育てられたと思います。その組織者であるあなたはまた洞察力のある研究者でもありました。同時に信頼度の高い書き手であったのは当然でした。
 私もあなたの敷いたレールに乗り、カナダ横断の水俣病フィルムツアーをし、やがて不知火海一帯の巡海映画や水俣病受難者の遺影あつめなどをしたりしたのも、あなたから学びの旅の意味を教えて頂いたからです。

 最後にお会いしたのはあなたの力を借りて、去年でしたか、あの二十五年前のカナダインディアンを水俣市での水俣病展に呼ぶという思い付きをお話したときでした。実現はしませんでしたが、運動者としての夢を共有した真の友人として、あなたは私の身辺のかたでした。

 いま皆が望んでいる安川栄さんの記録文集のドライブ役も、生前の安川さんを励まされた貴方でした。
 惜しんでも惜しみたりない貴方です。しかし、ジャーナリストとして余人には出来ない業績をすでに十二分に積まれたと思います。どうぞあの世というものがあるなら、安川さんやインディアンの皆と晴れ晴れとお会いになり、遊んでください。それがご遺族や目下呆然たる私たちへのなによりの慰めです。
 では、唐木清志さん、お元気で!

 二千二年四月二日 記録映画作家 土本典昭拝
       
 街子さん、気の張ったお声に接し、「さもありなん」と一人、合点しました。
 私、本来はお別れに馳せ参ずべきところですが、告別式当日は余儀ない予定のため失礼します。本当に済みません。
 いずれお目にかかる日もあろうかと存じますが、どうぞお許しください。ご遺族ご一同さまによろしくお伝えください

 四月一日 土本典昭