小川紳介を語る 青の会は、内外さまざまの映画の流れをキャッチし、それに刺激を受けながら私たちがいた 講演 (講演録)『小川伸介と語る あるドキュメンタリー監督の軌跡』 所収 初版10月10日 映画新聞 <1992年(平4)>
 小川紳介を語る 青の会は、内外さまざまの映画の流れをキャッチし、それに刺激を受けながら私たちがいた (講演録)『小川伸介と語る あるドキュメンタリー監督の軌跡』 所収 初版10月10日 映画新聞 

 今回こういうかたちで、小川プロの全作品が上映されることになりまして、はからずも小川さん-つい「小川ちゃん」と言うかもしれませんが、ご勘弁ください-その小川さんたちのたいへんに熱い応援で、私が作らせていただいたこの『パルチザン前史』がプログラムに入り、今日上映ということで、私としてはありがたいやら恐縮やらしています。先ほど私も再見しましたが、このプリントは、たぶん主人公の滝田修が捕まります年(82年)の数カ月前に、滝田に対する”思い”の映画会をやったことがありまして、そのときに新しく焼いていただいたのだと思います。たいへんきれいなプリントで、私も十年ぶり近くで見たわけです。
 その話は最後にするとしまして、今日はすこし小川さんのこの時代(60年代)ぐらいまでの流れを、それと小川さんの映画が登場する以前の岩波時代の、私たち映画を志した人間たちの流れを前置きしまして、「青の会」にも触れてお話ししたいと思います。
 特に「青の会」に触れたいのは、皆さんご承知の『青年の海』という通信教育生の映画のタイトルをよくよくご覧になるとわかると思うんですが、キャメラマン奥村祐治、田村正毅、録音は久保田幸雄、その他のメインスタッフもほとんど「青の会」の方々です。それから、出演しておられる中に栗林豊彦さん、私のアフガニスタンへ行ったときの映画(『よみがえれカレーズ』8 9年)の録音や、『ゆきゆきて、神軍』なんかの録音をやっておられる栗林さんが、画面に登場人物として出ておられます。それからもっと子細に『青年の海』のタイトルを見てみますと、国学院のときの映研の同人が製作あるいは助監督として、おられたんじゃないかと思います。
 つまり「青の会」を芯にして、それまでの小川さんの映研時代などの蓄積が、期せずして全部からまり合って出来たと、そういう点でも非常に記念すべきフィルムではないかと思っております。そういった意味からも、「青の会」にぜひ触れたいと思います。
 私が岩波映画に入ったのは昭和三十一年(56年)、二十八歳のときでした。よく、「青の会」では黒木(和雄)、土本(典昭)、東(陽一)、小川(紳介)といわれるんですが、黒木君だけが私の入ったときにすでに入っておりまして、助監督をやっておりました。
 その当時の岩波映画は、ふたつのチャンネルの映画製作をしてまして、ひとつはですね、昭和二十五年(50年)に岩波書店の小林勇という、岩波書店をしょって立った人物ですね。戦前は鉄塔書院という別会社を作ってプロレタリア関係の学術・芸術図書を出版した経歴を持ってる方ですが、この方が、戦後は映像の時代が来るという予感から、岩波書店の下に岩波映画製作所を作ろうとしました。明らかにそれは、記録映画、科学映画、もっと言えば教育映画(社会教育映画を含む)を作りたいということで、そういう流れが昭和二十五年に生まれてました。それからもうひとつの流れというのは、わかりきった話ですけれども、そういったプロダクションを成り立たせるために、企業のPR映画を作り始めたと。
 岩波映画らしいものを作ってくれ、かなり良質な映画を要求する、ということで、それに参画した人たちがおのずとふたつの系列に分かれました。ひとつは、本来の志であった記録映画・教育映画、そしてもうひとつは、企業PR映画のほうです。そもそもその設立の中心になったのは、科学映画で戦前・戦中にものすごい映画を作られた、それは『雪の結晶』、『霜の花』という映画で、吉野馨治、小口禎三というコンビが作ったんですけど、小口さんは今でも岩波映画の会長ですね。その人たちの持っている科学映画の伝統と、それはもっと言えば吉野さんて人は、劇映画のキャメラマンで、考えるところあって劇映画でも名を成したキャメラマンが、記録映画に移る-意識的に記録映画に移ってこられたんですね。戦前の東宝映画文化映画部から、戦争の末期には日映の科学映画担当になって、そして、実際に撮影を続けると。で、その『雪の結晶』とか『霜の花』といった優れた映画の技術スタッフを核にして岩波に来られたんですが、同時に彼は、たくさんの映画人の友人を岩波に引っ張ってきました。企業PRというセクションは、そういう人たちが契約者として担ったわけです。
 そこには、戦後の記録映画の代表的な作家、キャメラマンがほとんど入れ替わり立ち替わり、岩波の中でその企業PRっていうか、大型の”ドキュメンタリー”を作っていました。
 それと同時に、岩波の本来やりたかった社会教育・科学映画の志は、羽仁進さんとか、羽田澄子さんとか、時枝俊江さんとか、そういった人たちにじかに受け継がれました。
 そのふたつの流れが、岩波を岩波たらしめていたと。その中で、やはり新しい人の教育については、やはり岩波はたいへんな一家言を持っているプロダクションで、特に技術を徹底的にたたきこむと。技術的にこういうふうなキャメラを使いたいと言えば、それにはどんなことであっても金にいとめはつけなかったと。まあ、撮影スタッフもそれほどぜいたくは言いませんでしたけれども。そういった側面がありまして、映画はやはり技術で完成すると。しかしながら、映画は考え方がちゃんとしていれば、映画の徒弟制度はいらないんだと。徹底的に君たち新人に先輩をつけてですね、勉強はさせるけども、君たちの能力で伸びていけ、ということを羽仁さん、羽田さん、時枝さんというようなグループにたたきこんだ流れがありました。
 それがちょうど両系統の映画シフトの製作が忙しくなった昭和三十年代のはじめに僕は入ったんですが、やはりあの、映画でもやるかな、というふうな入り方でした。まあ、もともと映画も、学生時代はほとんどやってませんで、映画青年でもありませんでしたので。
 直接の関心は、羽仁さんの初期の仕事で喚起されたのです。『教室の子供たち』とか『絵を描く子どもたち』とか見まして、たいへんに驚いて、映像でこれだけ心理的な、あるいは生理的な描写ができるのかとびっくりしまして、この会社に入って勉強してみようかって気になって、入ったんです。
 その当時の黒木も僕も、もうひとつのチャンネルのPR映画のほうが、たいへんに活況を呈していましてね、そこの助監督が足りないってことで、黒木は『佐久間ダム(第二部)』の助監督をやり、僕は鉄鋼所の映画(八幡製鉄企画『鉄』『新しい鉄』〔ともに56年〕)の製作進行でした。私の場合は瀬川順一という名キャメラマンの下でスタートしたわけです。で、黒木君は高村武次監督。『遭難』とかそういう映画を撮った人ですけれど。
 それから私の学んだ人に、伊勢長之助氏があります。亀井文夫時代から東宝の文化映画部の編集の仕事をたたきこんだ大ベテランの、彼の編集をじかについて学びながら、助手をやることで映画の仕事に入りました。
 その後、ちょうど時期から言いますとですね、戦後の第一次独立映画運動というのがかなり目覚ましい働きをしたあとで、戦線縮小した時期になってたもんですから、そこに働いていた若い助監督さんなんかが各社に入って、いろんな記録映画とかPR映画とか、種類を選ばずに仕事をするという時代でしたので、岩波映画にも経験を積んだ助監督も入る一方、若い映画志願者ですね、映画志願者で実際に肉体労働ができて、映画の製作部の下働きをしたり、助監督といっても映画を知ってる助監督じゃなくて、働き手の労働力としての新入りがたくさん入ってきたわけです。
 「青の会」以前にもですね、期せずして、勉強会をしたいという新人たちの要求が会社の内にありました。その勉強会というのは、羽仁さんとか、羽田さんとか、時枝さんなどの作品を教材に勉強会をやろうというふうにはならない。というのは、羽仁さんたちも僕たちと同じ世代で、実際に現場を作ってますけれども、いわば大人の映画人からいつも批判され、注意され、もっと勉強しろっていうふうに怒鳴られているような年代でしたから。たとえば羽仁さんといえば、僕よりひとつ(年)下ですか、羽田さんといえば僕よりふたつ上、時枝さんとは同い年といったようなものですから、同じ世代。その人たちも含めて若い人たちが横並びになって勉強をするという機会を持ちました。講師は、岩波だけではなくて他のドキュメンタリーの方もお呼びして、作品研究というのをまあやってたわけです。
 で、それには、一人ひとり名前は挙げませんけれども、亀井さんという方以外のですね-亀井さんはやりませんでした。なぜやらなかったかというと、偶然のことであったし、彼が多忙であったということもあると思うんですけど-それ以外のドキュメンタリーの監督の勉強会はやりました。
 その勉強会は、ある意味で演出論のレクチャーでもあり、編集論のレクチャーでもあり、現場処理のレクチャーでもあるというようなことで、いま思うとかなり古い映画の文法、平仄と言うんですかね、決まったかたちというのを軽視するなと、そういうことを丁寧にたたきこまれたと思います。
 その勉強会、昭和三十年代のはじめのころには、東も小川もまだ入社しておりませんでした。
 そういうことを二、三年やる機会がありまして。で、岩波はキャメラマンが非常に力の強い会社でした。というのは、重役が二人とも、顕微鏡撮影から劇映画のキャリアまで持っている、つまりキャメラマンとして全天候型のキャメラマンであって、しかも”派手な”劇映画からあえて記録映画を選んだという、非常にマニアックな人たち、先ほど申しましたように、演出家の技術的な要求については、それをできるだけ認めるというふうな人たちでしたから、彼らの影響力は撮影部に非常に多く流れていました。
 で、その撮影部の中から名キャメラマンが生まれてきます。キャメラ助手をしていた鈴木達夫、奥村祐治、大津幸四郎、田村正毅というような人たちが、その撮影部の中の秘蔵っ子としていたわけです。
 やがて、いわば古い人から聞く話というのは、だんだん色があせてしまって、いろいろ、あっちの映画の流れ、こっちの映画の流れ、というなものに関心をひかれました。フランスのヌーヴエル・ヴアーグなども勉強したりしましたけど、その当時、今ここに森崎(東)さんがおられますけれども、松竹にはおもしろい映画の集団があると。何かシナリオを盛んに書いて、会社とやり合っているらしい、と。そのぶ厚い若者の層があるらしい、とか、今村昌平という人はごつい人らしい、彼らの周りにも、すごい映画青年がいると。そんなことをもっぱら紹介してきたのは黒木なんですけれども。そういったものも非常に刺激的に受け止めながら、僕たちがいたわけです。
 そんな中で、岩波にはテレビの時代がだぶってきました。これは、かなりおもしろいことだったんです。というのは、岩波のそもそもの成立は、テレビ時代をどっかで予測していたんですね。だからテレビ製作の仕事がきたことは、会社にとってほ自分たちが考えていた時代の到来っていうふうに考えたと思います。そして、戦後民主主義の中心は社会の教育であると、子供の教育であると、映像を教育素材としてとことん使うんだという考え方を持ってましたから、岩波はそれに対してすぐプロジェクトを組んだんですね。科学映画とか医学映画のシリーズとか、あるいは社会的なテーマをやれるスタッフを組みまして、テレビ部門を一切、若い人にポンと預けたということがあります。
 岩波の契約監督にも古い映画人育ちがおりましてですね、そういう人たちはテレビを全然やる気がしないんですね。電気紙芝居のテレビなんかで何が描けるかと、映画とはどんなに違うかと言って引き受けない。結局、岩波の中にポッと入った新人とか、それから岩波で育てられた人、そういった人がテレビのメディアで仕事をできる態勢が昭和三十年代の前半には準備されていたということがあります。
 ですから、私も岩波には一年だけ雇われ、あとはフリーということでーある事件があってフリーになったんですけれども-一年半で、一応テレビの短篇としては監督をさせてもらえました。それが、もし映画ということであれば、助監督の訓練は最低五年はかかったと思うんです。それを一年半で、自分で撮って、自分で編集し、自分でナレーションを書いて仕上げるということができるようになりました。
 それからキャメラマンの起用にも大胆でした。普通だったらまだまだ一本じゃないって言われていたキャメラ助手が、お前とにかく回してみろってことで、回せるようになった。映画ではキャメラ助手をやりながら、テレビではキャメラマンとして自分の力を養うといった、並行した仕事の仕方が生まれました。僕も同じように、テレビでは監督をやりながら、羽仁さんの『不良少年』では監督補佐をやっていました。
 そこでやはりこう、どうしても雰囲気としてわかってくることは、岩波映画に出入りする映画人たちの記録映画手法の流れが、ある曲がり角に来ているということでした。岩波に来た外部からの契約者、いわゆる大人の映画人たちは、九〇パーセントが共産党、ならびにそのシンパだったと言っても過言ではないと思いますけれどもー東宝争議の流れで来た人たちが多かったですから。そういった人たちから社会的な着眼とかですね、テーマ作りを勉強すると同時に、そういう人たちの手法の中の、やはり古ぼけたというか、かなり頑迷な映画手法に気づくようになる。たとえば、シナリオとかシノプシス的にはかなり社会批判を入れながら、作品の編集や構成段階ではサラッと”映画的処理”をやってのけるという職人芸に対して懐疑的になりました。やはり若いわれわれとしては、明らかに違うと、こうではないところに何か新しい表現があるはずだ、ということで、それらの人から学ぶということを止めました。
 それでそういう中で、フランスのアラン・レネとかヌーヴエル・ヴァーグ、特にゴダールが持ち込んだ流れにはですね、たいへんな衝撃を受けたと思います。
 まあ、僕について言えば、全然その系統の勉強はしていないんです。私はそのとき、フランスのヌーヴエル・ヴアーグが日本の若者をワクワクさせていたときに、丸二年ぐらい九州の片田舎におりまして、地元の映画館では、そんな映画はやっていない。東京に電話すると「すごいフランスの作家が出てきたぞ」ってなこと言うんですけど、こっちは見られないわけですから、ゴダールが何やら、アラン・レネが何やらですね、僕は皆から遅れること、五年ないし十年後に、そういう作品に接して、そのころにはもうすでに新鮮でもなくなっちゃったというような、非常に不幸な経験をしましたけれども。
 われわれがどうしても、何か自分たちの映像作りの方法をつかみたいと思っているときに、いわゆるテレビにおける管理・内部規則の問題が生じてきました。で、それは科学映画や医学映画ならば管理ということはないんですけれども、たまたま僕たち新人がかかわったシリーズで、内容のチェックがスポンサーから行なわれるようになりました。
 「日本発見シリーズ」というのがそれでした。これは、ひとつの県ごとにまあ何項目か、こういうものを撮ってこいよ、というだけの便箋一枚ぐらいのものをいただきまして、現地に行って限られた二週間ぐらいで撮影して帰ってくる、ということでですね、これにはまったくシナリオがなかったんです。発表する様式と長さとかの形式があるだけで、自由に撮れました。
 僕たちは、それを”地理テレビ”と言っていましたが、これにはある感慨がありました。それまでの記録映画の作り方にはかなりタイトな、堅固なシナリオがあったんです。そのシナリオがないとですね、逆算してライトがいくらいるとか、ロケが幾日かかる、ということがわからないわけですね。ですから演出家は、ひどい場合にはナレーションまでシナリオで書いていると。それからこのシーンは何秒だとかですね、そういうすさまじいものまでありました。これはどこどこロケ、これはどこどこロケ、これは夜間撮影ってことで、製作部がそういうシナリオを基にして、だいたい予算いくらの映画であって、ここんとこ削ればもっと儲かるというようなことをやってたんでしょうけど。当然のことかもしれませんが、シナリオが契約書になっていたんですね。契約書というか見積書というか、あるいはあとで監督をとっちめる材料としてのシナリオになってるっていうことが、まあ肉体的にわかってました。
 そうしたシナリオ主義から比較的自由な作られ方をした作品群もありました。たとえば『カラコルム』って映画とか『メソポタミア』とか『南極大陸』とか、あるいはさかのぼって、亀井さんでいえば『上海』とか『戦ふ兵隊』という、いわば、その”作家性”に期待して、お前行って撮って、お前が編集しろといったタイプの、現場取材力に作品が左右されるような映画にはかなりの自由があると、つまりそういったものはやりようによってはかなり自由にできるという頭がありましたから、”地理テレビ”シリーズの製作を僕らほもろ手をあげて受け入れ、皆で画策して乗りました。シナリオがなくて、監督の思うとおりに撮ってこれて、しかもキャメラマンとしてほ、映画経験にとらわれない若い助手と思い切って組めるんですから。
 私が助監督の時代に、キャメラマンの助手の中で本当に話の合った者とですね、やっぱり今度は君とやってみようかというようなことが実現できたんですね。そういったことで映画を作っていく舞台としてほ、”地理テレビ”はありがたかった。で、各県一本ですから、五十本ほどあるわけですね。僕でいえば、六、七本やれたんです。
 そういったことで、そのテレビは黒木も東もやりました。キャメラマンでは、鈴木、奥村、根岸栄、その撮影助手には田村、大津らがいました。いろいろやりましたけど、小川さんは遅れて岩波映画に入ったので、まだこれには入りませんでした。
 その中で、やりたいようにやっていいっていうんで、やりたいようにやった僕の作品の『東京都』と『山梨県』、それから黒木の作った『群馬県』というのが、スポンサーの忌避によって放映禁止になりました。それの撮り直しを拒否したんで、私たちのものをある程度生かして、ほかの人が撮り直して、つまりあんまり会社は大騒ぎをしないで放映し、事態を収めました。
 しかし、このことはたいへんな波紋を生みまして、いわゆる「地理テレビ闘争」という、僕らが勝手に名づけているんですが、そういう闘争が起きました。この中でやっぱりいちばん僕らが点検していったのは、なぜ切られたか、この程度でなぜ切られたかと。要するに、スポンサーがそのとき、日本の産業のドンである富士製鉄ですからね、何かある種の勘を持っているわけですね、日本の国家意思を代弁する何かの勘を持っている。ですから不勉強な人たちとは必ずしも言えない。だから彼らの勘に対して、われわれの勘が負けたわけですから、そのことの点検をせざるをえない。
 そういったことから「青の会」というのは、いつ始まっていつ終わったというのはうまく言えないんですけども、そういうグループが生まれて、たいへんに侃々諾々ゐ議論集団が生まれたわけです。
 それに集まってきたのほ、やはり会社のメインなコースを歩いている若い人たちではなくて、やはり臨時雇い、雇員、契約助監督、あるいはまだ作品を作っていない助監督、それから黒木のようにしょっちゅう問題起こす男と、それからまあ僕、というような者がー具体的にその作品で問題を起こしましたからーしょっちゅう常連で研究会をやらざるをえなかったと。その研究会の中身には共通した何かがありまして……。
 ちょっとこの調子じゃ、終わらなくなっちゃうなー笑ー。まあ、もうちょっとやります。
 その当時ですね、既成の作家集団があったんです。記録映画作家協会というのがありましてね、これが共産党系の、まあ共産党系って言わなくてもいいですけど、そういう人たちが世話役活動が好きなもんですから、幹部として多く顔を出しているところの協会がありました。この大衆的文化団体も、日本共産党のセクト的方針によって、新日本文学会や婦人民主クラブに引き起こされたと同様の分裂を強いられました。それは記録映画論争を含んだものでした。おのずから、それに反対する人たちと「映像記録の会」を作ったんです。そのリーダーは松本俊夫、野田真吾、大島辰夫、それから記録映画各社からメンバーが出て、私もそれに参加してましたけれども、一時はたいへんに理論的に高い仕事を会活動としてやりました。西江孝之とか、それから石堂(淑朗)さんなんかの原稿ももらったことがあると思いますけれども。
 ところが、それも一種の勉強活動ですけれども、岩波の「青の会」でやってることに比べてですね、僕にはその勉強はつまらなかったのです。というのは、ゴダールの映画方法論をめぐってとか言って、素晴らしい理論は言うんだけれども、会員各自が現場の画をどうして撮るんだということについての、みんなの赤裸々な討議はしないわけですね。フランスにいるゴダールのことをぎゃあぎゃあ言っても、彼と話せるわけじゃなしね、目の前の黒木や仲間とやってるほうがおもしろいわけでしてね。あるいは僕なんかに噛みついたほうがおもしろいってわけで、やはりわれわれの映画の勉強の素材は、恥ずかしながら未熟であろうとも、われわれの作る映画のラッシュにしかないという一種の現場主義を持ったと思うんです。
 これは今でもどこかに風俗として残ってるかもしれませんけども、その当時、ある何々監督組というような組が、ヤクザじゃありませんけども、撮ったフィルムはラッシュのときにその組の人しか見ちゃいけないと、「いま何々組スタッフ試写中につき立入禁止」というのが、試写室に貼ってあったそうですけど、「青の会」のメンバーに関するかぎり、その風習は取り払いました。仲間の映画はラッシュのうちから見て、一緒に討論すると。
 で、それはスタッフも一緒に討論するんですけれども、結局どうしてこんなカット、こんなシーンが撮れたのか、それが良ければ良いだけ、どうしてこんな見たこともない優れたカットが撮れたのか、これにはどういう撮影条件が与えられていたのか、どういうスタッフ内の討論があったのか、どういう監督としてのねらいがあったのか、どういうキャメラマンとの対話があったのか、というふうなことを根掘り葉掘り聞く。スポンサー映画であるために、どうしても撮らなきゃならなかったカットについては、聞いてもしょうがないから、皆聞かないわけです。いずれ編集過程で消えてくだろうと思いますし。だから、いいカットについて徹底的に聞きたいと、これが特徴だったと思います。
 つまり、人のラッシュを共有すると。だから編集する過程も共有したいんですね。その過程はまったく作家独自のものですけれども、それが次に編集されたときにはラッシュを見ている者として、各自のイメージを持ち、言うべきものをたくさん持ってると。映画の編集ということを一度もやったことがないにしても、編集の現場と隣接しているような勉強が、新人にも与えられたと思います。
 で、先に述べたその「映像記録の会」に対するかかわりは続きましたけれども、どんどん「青の会」のコアが熱くなり、二年間ぐらい無我夢中の映画時代を持ちました。その渦中に起きました問題としては、たいした問題じゃないんですけれども、僕の『ある機関助士』のカット問題というのがありました。国鉄のPR映画としてはふさわしくない画を三カット切れというスポンサー側の専門委員の指示がありました。それに抗して、カットを守るにはどうしたらいいかってことで、皆の知恵と力を求めました。そのころ小川ちゃんなんかは本当に労を惜しまずに、一緒に闘ってくれました。
 同じころ、黒木の『わが愛北海道』も問題を起こしていました。PR映画で初めてベッドシーンを入れたものですから、これを生かすべく、皆で闘いました。小川ちゃんはこの映画の助監督でした。「青の会」というのは一種の映画創作の自由を守るための、いわばフラクションになりました。しかし、これは隠れてやることじゃなくて、公然とやってました。公然とやっても、首切ると人手が足りないもんですから、会社も首切れませんから、公然とやれたんです。
 そういう中で、また松竹で起きている新しい流れ、それから日活で起きている新しい流れ、それらをやはりわがことのように夢中になって勉強した、という時代がありました。その中から僕がいちばん最初に岩波を離れ、次いで黒木が離れたんですけれども、岩波に残っていた仲間とは「青の会」のつながりは持ち続けました。黒木がほかの会社で作った『あるマラソンランナーの記録』のスタッフ・タイトルカット問題が起きて、それもたいへんな騒ぎになりました。
 その黒木が日映で初めて劇映画を撮ろうということで、松川八洲雄という人のシナリオによる『とべない沈黙』という、これは名画だと思いますけれども、まあ、そうでもないかなー笑ー。その映画を作るにあたって、劇映画の玄人、劇映画をやった経験者は、録音の加藤一郎という人ただ一人で、あとは全部劇映画を一本も撮ってない人間がやったんです。ですから、当然現場は大混乱に継ぐ大混乱なんですけれども、もう皆夢中になってやりました。その映画には「青の会」がほとんど精神的に引っ越してしまったぐらいの感じでー。スタッフに加わらないメンバーも、ロケの情報を逐一追って、このシーンではこういう試みをしたそうだ、ここはたいへんだったが、良いシーンが撮れたそうだと、わがことのように熱中しました。そのとき、監督・黒木、助監督・東、キャメラは鈴木達夫、小川ちゃんはそのときはついていませんでしたけど、まあ「青の会」の”卒業”と言っちゃおかしいんですけど、そういった観がありました。
 私としてはそのあと、テレビのドキュメンタリーで何かできないかと思って、ノンフィクション劇場シリーズ(NTV)に進んで参加しました。チユア・スイ・リンというマラヤ(当時は英領マラヤ)留学生の放校事件が起きて、それをテレビドキュメンタリーに取り上げようと思いましたが、局の製作中止の憂き目に遭い、これは自主製作でやらざるをえないということで、自主製作を始めました。その自主製作の『留学生チユア・スイ・リン』が仕上がるころには、小川君は前に述べた「青の会」のメンバーと一緒に通教生の『青年の海』のスタッフ活動に入っていたという流れだったと思います。
 そんなことで、「青の会」の歴史には、戦前からもっとも良質な部分と思われた記録映画の流れが岩波に入っており、しかも岩波の会社を作る精神として、新人期をきわめてフリーに、玄人らしくなるなっていうか、徹底的に調べて科学的精神でやれ、と若い世代を励ました時代、それから左翼の問題として言えば、共産党に対する相対的な批判を持つ時代、それはひいては独立プロや記録映画作家協会の映画方法についての批判、それから共感としてはやはり松竹の新人・助監督の流れ、それから今村昌平の流れ…、そういったものをキャッチしながら、大きくはやっぱり世界的なヌーヴエル・ヴアーグということがありましたけれども、その時代の生んだ映画のひとつの運動だったと思います。
 特に黒木の『とべない沈黙』の成功は、皆を大きく勇気づけたと思います。テレビとしてはですね、みんななんらかの場数を踏んでいるし、どこに行って作っても恐くないという気概はありました。で、その中で僕は、ノンフィクション劇場の企画のひとつとして水俣の子供に出会い、それから五年後、水俣シリーズの連作に入っていくわけですが、それから小川ちゃんは『青年の海ー四人の通信教育生たち』を発表、次回作に進んでいました。ここに大津君が来てますけれども、彼と『圧殺の森』をやると。
 ですから、それぞれの中の強烈な個性と、いわば自分の作りたいものを、そういったものを大きく前に突き飛ばしめた時代の闘い、映画人の闘い、それから映画人の置かれた状況についての、自分たちの置かれた状況についての把握ですね、それについての訓練をしたと思います。
 それで特に「三里塚」や『パルチザン前史』を作った時代というのは、七〇年万博の前なんですね。で、その万博に先立って民族の大移動が始まります。ほうぼうの労務者が、北海道・九州・東北から大阪へと、そしてその前にオリンピックがありましたから東京へと、民族の大移動があって、日本改造、列島改造がね、どんどん進んでいき、公害も深刻の度を増すという時期だったと思いますけれども、記録映画界でもっとも知名度の高かった人が、万博の展示の監督に起用されていくわけです。これには長期間の撮影とギャランティーが保証されました。これは誰しも貧乏であった監督にとっては、技法的にも実験的にも、思い切ったことができたでありましょうし、それからたいへんにその生活全体を変えることにもなったと思います。しかしながら、そこで僕たちは、国家のナショナルなプロジェクトの際には、必ず記録映画が利用されるということを学んだんです。万博と七〇年の展示で。
 記録映画は普通なんというのか、反体制のようにいわれてますけど、もっとも体制的なジャンルであると。戦争中には極端に記録ニュースというかたちでわれわれは動員されたし、今でも節目節目は記録映画で飾られると。オリンピックしかり、天皇の即位しかり。今度の天皇即位でNHKは35ミリの映画キャメラを五台買いましたからね。もうビデオ万能の時代だと言ってたのが、やはりハイビジョンに合わせて映画の見直しがすでに始まったのでしょうか。あらためて、記録のために映画キャメラを買うというようなことで、今後ともそういうふうな流れがあるだろうと思います。
 その七〇年の前にわれわれの中に予感があったのは、万博への誘いでした。それは僕にもきました。で、僕は断りました。そういったぐらいに足元にきていた作家の争奪戦が、やはり七〇年安保というのにはあったんですね。それによっていわゆる旧左翼、新左翼を問わず、大きくふるいにかかってしまった。その中で「青の会」はほとんど生き残ったと。生き残ったというのは、ドキュメンタリーのほうにしか進路がなかったと。で、そのことに情熱を燃やしたということが言えると思います。
 私、その当時にですね、「我々はいつも軽蔑されていた」と、「ちんどん屋映画を作っている会社にいると軽蔑されていた」と、「我々はいつもどこかでコンプレックスを持たないではいられなかった」と文章に書きました。
 僕はわりと持ってなかったつもりですけれど、でもまあ、持ってたでしょう。しかしやはりその同じ時期にですね、思わぬところから映画の作家が生まれてくるということを知りました。若松(孝二)さんとかですね、いろんなケースが出てきて。それで、もっとも体制側から軽蔑されていた映画の中から、もっとも端侃すべからざる映画作家が生まれるんだということを、まのあたりに見て、勇気づけられました。われわれの時代だというようなことで。まあこれはみんな酒飲んでしゃべったことでね、その当時は。威張った話ばかり思い出してて恐縮なんですけれど。そういったことに励まされて進んできた、これは間違いないところだと思います。
 それで、小川さんの「三里塚」ですが、三里塚で彼は自分のポジションを明確に据え、自分の戦いはここであり、君がどこで戦っているかを知っているーといった戦友感を僕たちと共有していたと思います。小川さんの強さは、本当に映画が好きで、映研の方法をそのまま持っていくんですね。いわゆるプロダクシヨンには金銭が伴うんですけど、映画を作りたいってその一点で、全部おんぶしていくんですね。ですからこれは強いです。僕なんか、ふっとしやばっ気というか、しやばの商売を思い、迷いますけど、彼はどんなことがあろうと皆を引っ張って、一直線に進んでいくという決め方がありました。「青の会」が何か迷ったりしたときもそうでした。「オレは青の会底辺だった」なんてことを、彼はよく人には言ったらしいんですけれども、「青の会」には民主主義があったと思います。でも彼はそこの「底辺世代である」というふうに言いたかったんだと思います。そのとおりに受け取りましょう。しかし、「青の会」では彼の提案によって非常に迷いのある事態も撤去できて前進できた、ということが集団的にも確言できるし、それからいろんな討論の中でも推進力を持っていたと思います。もっとも熱烈な語り手でした。
 そういった時代として一挙に『キューバの恋人』とか、僕の『パルチザン前史』とか、小川の「三里塚」とか、そういったものの時代が、その蓄積によってほとばしっていった、その流れの中に、六〇年代の末から七〇年代の頭にかけての、私たちの映画の出発があったと言わせていただいていいんじゃないかと思います。

 それで、『パルチザン前史』になりますが、今日見ていただいたので、あまり多くを語る必要はないと思いますので、この人(滝田修)はその後どうなったか、ということをちょっとお話ししておきます。 
 この映画が出来ましてから、彼は全国の全共闘ですね、地方の全共闘が、どういうふうに姿を変えていったらいいか、ということについての、たいへんなアジテーターになりました。”映画と実演”というのではありませんけど、この映画を持って歩くことが、彼に運命づけられてしまったと。
 京都の百何十人のノン・セクトのリーダーであった彼に対して、どんどん虚像が生まれてくるというようなことがありまして。で、彼のアジテーションとしてはいろんなことを言いました。敵を殺せとか言ったかもしれません。絶対に陰湿な策謀じゃなくてですね、酒飲んで、三里塚を火の海にしようとかなんとか、いろんなことを言ったかもしれません。それはアジテーションで、誰でも言うような範囲のことなんですが、朝霞の自衛官殺しのバックとか、あるいは世界赤軍の黒幕とかいわれて、この映画の二年後の七二年の一月には警察に追われました。で、それから徹底的に十一年逃亡しました。そして半ば自首のように縛につきました。彼がみずから「もう、ここまで闘ったら良い」というふうに思った時期に、突然罪名が変えられたものですからね。それまでのように強盗予備罪だったら二年の時効で済むんですが、潜行十年目に殺人共同正犯というふうに容疑の罪名が変えられた。これでは十五年経たなきゃ時効がこない、ということで、彼がある覚悟をして出てきましたのは一九八二年。それから七年間拘置所にいました。未決でおりました。ですから、この映画から延べ二十年に近い歳月、彼はこの世の中に出られないという生活をしてきました。
 で、獄中からいろんな運動に手紙を書き、本も書きですね、いろんなことをしたと思いますが、たいへんに働き盛りの三十代そこそこから、もはや五十代に入った年代まで、運命が地下生活と牢獄の生活ということになりました。そのために、浦島太郎同様の世の中の変貌に出合っています。
 ですけれども、彼の基本は私変わっていないと思います。いちばん最近に会ったのは三カ月前ですけれども、彼とまた仕事をしようかと思っております。やはりなんといっても彼の思想そのものが罪であるとされ、そのこらしめのために牢屋があるんで、それに抗しての彼の地下生活があったと思います。
 が、しかしながらこの映画の最後に言っていることは、自分の手で働き、自分の手で武器を作り、自分の手で闘争をしですね、自分でそれを確認していくんだと。要するに個であると、闘いは個であると。それで横並びにやれる人があったらたいへんありがたいと。それは拒まないけれど、もともとは個で闘うだけの自分に作り変えることだと言ったことは、見事にそれは為遂げたし、それを為遂げなければ、これだけ本当に潜ってこれなかったと思います。それはこの平穏な、いちばん日本が浮かれに浮かれた時期を全部潜ってたわけですから、その目から見た日本批判は、いかに鋭いものがあるか。それからアジアへの想いとかですね、それから三菱のビルを爆破した東アジア反日武装戦線の”狼”の死刑囚たちへの想いがいかに深いか、わかっていただけると思います。
 それから、この主人公について僕は最後まで共感を隠しませんでした。やはり水俣を撮っているときも、多くそのことゆえに、土本は水俣に暴力思想を持ち込んだ男であると、共産党の機関誌と、チッソの御用組合の機関誌でやられました。それは最近もしょっちゅうぶり返し、同じパターンでやられます。これは僕にとってはなんともないことなんですけれども、やはりもし僕が自分の映画の主人公を裏切ったらですね、それを水俣の人は、僕が水俣を裏切ることと同じだというふうに取ると思うんですね。そのへんは、被害者の非常にシャープな勘がそうさせると思うんです。ですから、この映画以後の僕の映画生活には、どうしてもこの『パルチザン前史』と主人公の滝田がですね、やはり一年も一日も忘れずつきまとった、ということは言えると思います。
 僕が水俣に本当に行けたのも、ひょっとしたら、この映画で果たせなかった願望ですけどね、大学を出たら、われわれはどこに行くのかと。もう企業なんかには行きたくない。体制側の仕事はしたくない、どこに行くのかという彼らが煩悶し抜いた問題ですね。だから元パルチザンの人たちの中には、本当に小さなプロダクションとか、小さな独立した編集者とかになって今四十、四十五になり、優れた仕事をしている人がいます。東京の元全共闘、大阪の元全共闘の人々にも出てますけど、それのリーダーの一人であった彼、というふうに考えていただいていいんですが、そういった人の流れが、こういう時代にあったと。ということは日本にとって非常に良かったことではないかと。これは映画が良かったということではなくて、そういう人たちがいたということは良かったんではないかというふうに思っています。
 水俣に行けたのも、パルチザン五人組みたいな、そのときは水俣実践篇みたいな気持もどこかになかったと言えばウソになるということは言えると思います。
 (講演日は6月3日、この日の上映作品は 『パルチザン前史』)