耳にこびりついていたー水俣・東京展にむけてー 講演 <1994年(平6)>
 耳にこびりついていたー水俣・東京展にむけてー講演

 どうも、土本でございます。2、3だけちょっと私の考えを述べさせていただきます。
 水俣にはじめに関わりました時に、宇井純さんという方が一一まだ本当に東大の助手で、まだ「公害言論」もやっておられない頃に一一水俣の記録を、合化労連の機関誌にずっと続けておられて、トンダヤロウ(=「富田八郎」)って名前で出されておったんですが。ちょうど昭和40年、1965年前後だと思いますけども、彼が私の家に来られまして、私がちょうどテレビ映画を撮った頃なんですが、こういう話をしたのが耳にこびりついて、私は、なんか、水俣の映画を撮り続けてきたように思うんですが・・・・・・
 田中正造の足尾公害事件が、明治にあれだけ大きく取り上げられながら、後世たどってみようと思ったら、資料が、どっかの農家の物置きの片隅に一包あっただけだと。本にはもちろんなってるけれども、ともかく探索できないほど資料が散逸してしまったということを聞きまして、その時代と違って、今は映画がある、写真があるわけですから。これは表現というよりも、全部、ともかく、いつか役に立つなら、ともかくすべて撮っておいた方がいいんじゃないかっていう感じがありまして……。そこは無限のことだと思うんですけども、結構、焦点絞って(映画は)作らざるを得なかったんですけれども。どうもそのことが、ずっと頭に引っかかっておりまして・・・
 で、僕の映画っていうのは長すぎちゃってですね、もうほとんどオクラ状態で自分でも〈どういう風にこれから、皆さんの目に触れていくようにしなきやいけないか〉ってことを考えておりました。私自身の問題として、やはり一番新しい記録と、やっぱり自分のスタートの頃からの記録、あるいは先ほど最首(悟)さん言いましたように、多くのテレビ局の方が数十本にわたって、ほとんど間断なしに記録しておられるわけですね。そういったものも視野に入れながら、やはり自分で記録を残す仕事を、もういっぺん考えたいと。そのためには「水俣・東京展」、絶好の機会だという風に思ったわけです。ひとつは、私はこの2、3年水俣に行って、非常に自分でびっくりしていることはですね、最初水俣市が、埋立地の脇の明神岬に「水俣市立水俣病資料館」っていうのを作ったんですが、その資料館の時には僕は協力しませんでした。どっちみち、水俣事件に幕を引くですね、口実に過ぎない、という風に思って、徹頭徹尾協力しませんでした。それが今、改めて行ってみますとですね、やはり良かったのかなと反省するところがあるわけです。もうひとつは、相思社にですね、「歴史考証館」っていうのがありまして、相思社の運動は、重点を「歴史考証館」においてやっていると。だから僕の仕事も、最終的には水俣では「あそこ」に収まるんだなと、「あそこ」に収めりゃいいんだなっと思ってましたけども、そこは残念ながらお金がないわけですね。例えば市の資料館は、経営費にですね、年間3人の人件費で4000万かけてます。相思社はですね、5、6人が何じゃかんじゃ考証館のことをやってるんですけども、四百何十万かな、年間。もう桁違いなんですね。しかしその中で、自由にものを展示できているのは、明かに相思社の考証館であり、市の資料館は、僕たちが協力しなかったことも含めて-映像なんかでは、桑原(史成)さんは優れた写真をお出しになりましたけれど、僕たち、ちょっと非協力的だったもんですから、そういう点ではいささか悔恨が残っております。
 で、水俣の市の資料館ができた時にですね、私は思いました。これがあることがですね、やっぱり水俣を変えていくなっていう風に思いました。というのは、やっぱり水俣病も何にも知らない子が生まれ育っていきますから。で、水俣に訪ねる人もないわけではありませんから、「あの資料館、あそこに白い建物があるのは何だ」って言った時にですね、やはり親は、市民は答えなきやいけない。あれは何のためにできたか答えなきやいけない。それだけの答える情報を持っている市民がどれだけいるかと……。これは、水俣では本当に、問題だと思うんです。で、そういった資料館を作ったことによって変わっていくということをまざまざと見てですね、最近僕は、国、県、行政といいますけれども、市は、やはり変わってきたと。それは一面から言えばですね、行政に巻き取られるというような言い方もあるかもしれませんけど、患者さんと支援の人々は、もう何十年も前から、「市は水俣のことを見つめよ」と言ってきたんですから、見つめるようになったのは、患者の闘いの、僕は前進の跡だという風に思ってます。
 そういうことで水俣に、できれば情報発信の、いささかのマテリアルをですね、この際に作りたい、という風に思ってます。どうもありがとうございました。

 この文章は、この5月14日に行われた「水俣・東京展実行委員会発足の集い」において、土木典昭氏が語られた、呼びかけ人あいさつの全文である。水俣・東京展事務局のご好意により、杉並記録映画をみる会がテープから採録し、土本氏による加筆訂正がなされている。 
 (しば)