水俣病公式発見から丸40年の1996年に「水俣・東京展」を開く インタビュー 『読売新聞』 6月7日付 読売新聞社 <1994年(平6)>
 水俣病公式発見から丸40年の1996年に「水俣・東京展」を開く インタビュー 『読売新聞』 6月7日付 読売新聞社

 なぜ、いま水俣展なのか。
 「水俣問題に関しては、様々な芸術作品や資料があります。しかし行政は、出来るだけこの問題に触れないようにしてきたから、埋もれているものがたくさんあるんです。四十年を機にそれらを一度集めて、水俣に戻そうと思った訳です」
 準備を始めたのは、二年ほど前。これまで水俣問題にかかわってきた学者、文化人、市民団体のメンバーらと一緒に会合を重ね、先月、ようやく実行委員会の結成にこぎつけた。
 公害の原点とされる水俣病との出合いは、一九六五年にテレビドキュメンタリー番阻「水俣の子は生きている」を作ったのが最初だった。
 「被害者からは、『テレビに撮られても病気は治らん』とどなられて、こんなしんどい仕事は辞めようと思った」。が、結局どっぷりつかってしまい、これまで手がけた作品は、記録映画を中心に十五本に上る。
 「義務感というよりは、漁民たちが国家権力や司法に立ち向かっていく姿に感動したから」と説明する。この間、作品を仕上げるのと同じくらい、記録として残すことを重要視してきた。未公開のフィルムは、膨大な量になり、それらも今回、編集し直す予定だ。
 水俣問題の風化は進む一方だが、国内では、未認定患者や国と熊本県の行政責任などの問題が残り、国外では、いまも公害が発生している。
 「だから、今度の水俣展も、単なる回顧展にするつもりはありません」。水俣病とは何だったのかを、現在に問いかけようという問題意識には、いささかも変わりがない。