いま水俣病問題はどうなっているか『水俣-患者さんとその世界』を語る 講演 『くりっぷ』 No.34 7月 杉並記録映画をみる会
司会 それでは監督の土本典昭氏との質疑応答を始めさせて頂きたいと患います。尚、この映画の撮影助手の一之瀬正史カメラマンがお出でになっていますので、一之瀬さんからもお話しを伺いたいと思います。質問用紙をまだ頂いていないので、土本さんからお話をしていただく形でそろそろ始めさせて頂きます。
昭和27年に水俣病の第1号患者がでた。
土本 土本です、すわって話させて頂きます。どうも今日は長時間ありがとうございました。この映画から飛びまして、いまの状態をちょっと冒頭に申し上げた方がいいかと思いますけれども。この映画はいまから24年前に撮影したものです。水俣病事件ではどういう時期の映画であったかを、若い方もいらっしゃるのでお話します。
映画の中でチッソの江頭社長に「17年の恨みを語らしめよ」といっていますが、あの場所は大阪の株主総会で、1970年です。17年といっているのは、1952年(昭和27年)のことで、この年に水俣病の第一号がでています。映画の中で、猫がじゃれついている部屋の中で、おかあさんがしゃべっていて、女の子の写真(溝ロトヨ子)に患者番号一番と字幕がついていましたけど、昭和27年のことです。
猫の伝染病をもらった
昭和31年に、今度は、実子ちゃん(田中実子)といって、おかあさんが泣きっぱなしに泣いていたシーンの女の子ですが、実子ちゃんと死んだおねえさんが病院にみてもらいにいって、初めてチッソの病院長(細川一博士)が、こんな病気はない、非常にへんな病気だと気がついて、そこが水俣病の発見になるんですね。三年前に水俣病の患者は出ていましたけれども、わけがわからないということで。
実子ちゃんのおかあさんが、自分の娘を二人つれて病院に行く、その時にこういう話をするんですね。「猫の伝染病もらった、猫を何匹も飼っているけど、錨が狂って狂って、体中の力を出して海に飛び込んじゃうと、海に猫が自殺していくと。猫もよだれをたらすので、どうもよだれのたれ具合からみて、猫の伝染病をもらった」。というんで、細川さんがはっと「これは猫と人間をつなぐ不思議な特殊な病気に違いない」と思って、それから猫実験をやっていくんですね。水俣病がおきてから17年-、つまり昭和27年に第一号、昭和31年に細川さんによって、正式に「水俣奇病」というように学会に発表されて、追及が始まって、細川さんはもっぱら描実験をやるようになるんですね。
イギリスでおきた有機水銀中毒に酷似していた
猫に魚を食べさせたらすぐ発症すると、2週間で発症する。魚のどの毒かということで、ちょっと映画でも裁判所のシーンで出てきましたけれども、工場の中のみんなに疑われている製造工程、アセトアルデヒドを作るところで、大量の水銀を使っているものですから-。その水銀中毒の症状がですね、20年前にイギリスで確かめられていたんですね。イギリスの有機水銀の農薬・防虫剤を作っている工場で、最初に有機水銀中毒が工場の労働者の中に出現したんですね。それで水俣病という前に有機水銀中毒は、ハンターという学者とラッセルという二人の学者の名前をとって、「ハンターラッセル症候群」と命名されていたんですが、それを手がかりに、工場の中で水銀を使っているところはないかと調べて、アセトアルデヒド工場で水銀を使っているというんで、そのそばのドブの汁を猫の餌にかけてやったら、水俣病になってしまった。「ああ、これは魚だけではなくて、もともとはこの毒だ」と見つけたのは、昭和34年10月なんです。
国家犯罪といわれる理由
これは描400号実験といいますが、400匹目の猫でそれがわかったんです。その時に、工場と政府は、工場閉鎖とか魚を絶対に食べるなとか、禁止とかいう処置をすれば、水俣病患者はおそらく今より十分の一以下で済んだといわれているんです。そこのところがチッソの犯罪と同時に、それを監督する「国家の犯罪」と僕たちがいっているところなんです。その時は岸信介という総理大臣ですが、その翌年が安保ですね、60年安保というのがあったわけです。日本がともかくしゃかりきに技術建国、輸出大国になろうという必死な時で、チッソの中でつくり始めた、ビニールとかプラスチックですね、こういったものの原料の先進技術を、育成している最中におきたものですから、いろんな技術的な蓄積が、こんな地方的な多少の中毒事件で乱されたら困ると思ったと思うんですが、それの検討を中止してしまって、水俣病をしゃにむに解決しちゃつたと。それで、しかも昭和43年の1月まで有機水銀を流していたと、これが僕たちのいうところの国家犯罪というんですが、これがいまだに裁判でもあきらかになっておりません。
犯罪的な見舞金契約
その後、水俣病が昭和34年に見舞金契約というので、葬式代30万、大人が年10万、子が3万というのにくわえて、原因はチッソにあると認めたわけではないが、水俣で生まれた事件だからお見舞金として出すと、これはチッソが責任があるということではないですよ、ということを文書に書いてですね、「将来もし工場に責任があるといっても、もうお金は請求いたしません」-ということを文書にとったんですね。
これが34年暮れの見舞金契約で、それ以前に描実験によって工場は毒を知っていた、工場が責任だということを知っていたと、国家もそれをつき止めたというのに、そういう見舞金契約で事件を終わらせた。
昭和43年にやっと政府見解がでる
こういったことから後、10年近い間、水俣病は終わったという時期が続きます。そうして43年になって、実は新潟で同じ病気が発生する。新潟水俣病という、やっぱり有機水銀を流して、川魚を食べた人たちが、広範に冒されるという事件があって、その事件と両方の因果関係をつなげて、隠しきれなくなった。時の厚生大臣で、天草出身、水俣病地方とは非常に選挙に関係のある、園田直という、いま息子さんが「さきがけ」でやっていますが、その直さんが「チッソの流した有機水銀によって熊本の水俣病が起きた」lと、「新潟の場合は昭和電工だ」ということを見解発表したんですね。
声をあげはじめた患者たち
そんなことを言っても、水俣病がまさか再び大騒ぎになると思わなかったんですね、事件が終わって10年も経っていましたから。ただ単に事実追認するということだったと思うんですが、その時から水俣病患者は、「なんだ原因があったではないか、国家が認めた」と受け取った。国が認めたことは、天皇陛下が認めたに等しいわけですね。漁民たちにとっては、国家というのは大変な権威があるものですから。それならば、普通に補償金をくださいと、われわれを償えとこれだけ苦しみを味わってきて、われわれは貧乏のどん底で働けない、償え、というんで裁判をします。
招かれて映画は水俣に慢いった
その裁判を始めてほぼ一年半たって、私たちは水俣に招かれて、ぜひ映画をということで、石牟礼さんやいろんな方の助力で、ともかく僕たちは、ぜんぜん金がないスカンピンの仲間たちで、ここにいる一之瀬君も、カメラマンの大津君(大津幸四郎)も、他で仕事をしていれば稼げるんですが、独立プロというものはまったく金がない、そういう中でとにかく水俣にくればなんとかするからというんで、患者さんの家の6畳と8畳の部屋を借りまして、そこを「根拠地」として撮影をし始めた。
一株連動が提案された
この撮影をしている最中に、ただ裁判の取材と患者さんの体験談と聞くだけかなと思っていたら、私たちのところに後藤孝典という弁護士がきまして、これは友人でもあったんですが、「俺は弁護士として、裁判はあるグループがやっているから、自分はそれは手を出さない。しかし、商法の規定によれば患者が会社と直接あえる機会が一つだけあると、それは株主総会であると、商法というのはイギリスの民主主義の中から生まれているから、一株でも発言権があると、それを手にして、社長にじかに物を言ってはどうか」ということになったわけです。だから映画の中で初めて、一株30何円だから買わんかという話をしてくるわけです。
初めてチッソに直にものをいった患者たち
そういった要素が撮影中に飛び込んできて、そしてそれに対して快く思わない弁護団が「あんなインチキ野郎のいうことをきくな」といって、「父祖の霊は、あなたがたに恨みをはらせといっているのか、敵討ちをやれといっているのか、そういうことではないだろう」と、僕はそういうことだと思うんですが、「そういうことではないだろう、お金をもらって生活を建て直すことが主力だから、おやめなさい」というんですね。ところが、患者はそれを聞いたような聞かないような形で、ご詠歌を勉強して、リハーサルして、どういうかっこうでいったらいいかとみんなで考えて、自分たちのアイデアでチッソの株主総会にでかける仕立てをすると、そうして総会で初めて直にものをいうという機会を得るわけです。
水俣病のニュースが東京に飛火した
この映画の数年前にも、僕は映画をとっていますが、それは今日ははぶきまして、この映画を撮りはじめたときには裁判という形で、九州地方だけでしたけれども、水俣病は一気に火を吹いていたわけですね。ところが東京のものになかなかならなかった。ローカルニュースにしかすぎなかった。
東京全体に飛火させたのは、映画の前の方にありましたけれども、重症の女の患者が口角泡をとばして、「国に陳情にいったら、厚生省から”黙っとれ”と一喝されてなにも言えなかった、あれが国だろうか、国というのはあんなもんだったのか」といって怒るところがありますけれども、あの時の担当がいまの橋本龍三郎なんです。彼の最初の厚生次官、当選一回か二回目だったと思いますが、いかにも倣慢なあれですね。
そのことが朝日新聞に載り、石牟礼さんやいろんな人の文章で出たわけです。それは全国版の社会面で、8、9段抜きの、ほとんど1ペ-ジの3分の2くらいついやして、水俣病の事件から、患者の切実な思いから、国の対応のけしからんことから、朝日新聞が徹底的に書いたんです。
支援の全国なひろがりの中で映画も生まれた
それが70年の5月15日なんですけれども、それから10日くらいの間に、熊本、水俣から全国に「告発」のふれ状がまわって、なんとしても彼らをみすごすわけにいかないと、九州に隠そうと思った事件がここに現われたと、これはわれわれはなんとしてもやらなければいけない。
その70年の5月という前の年はどういう年であったかというと、69年の1月に、全共常運動は東大の落城を迎えています。三里塚は闘っています。つまり多くの人たちが、おかしいおかしい、日本の世の中に異議あり、ということをいいながら鬱鬱としていた時に、水俣という事件がでてきた。そこで、若い人たちはやはり異議申立てはしなければならないと、しかも学内のことではなくて社会のど真ん中にこんなことがあると、彼らは一挙に結集したし、行動したわけです。ですから、そういった流れの中で、僕も映画を作る勇気と条件が出たということです。
勝訴後、生きるための補償協定を結ぶ
この映画が完成しましてから後、ここにいる一之瀬君たちが、手作りで途中の経過を撮影した作品、これは前ここでやりましたけれども、「死民の道」を作ったりして、映画を撮ってから2年半ぶりに裁判は終わりました。訴訟は一応当時としては画期的な患者の勝利に終わったわけです。チッソはぐうの音もでなくて、挫折もしないで。そして患者は、ただ単に慰謝料をもらうだけではすまないと、なぜなら水俣病というのは働けないんだ、生活は根本的に破壊されたんだ、特に胎児性の子供は切実ですけれども、一生涯面倒を見ろと、一生涯なんらかの補償をせよ、ということで、裁判が終わった時から座り込みが始まりまして、その判決があった年に水俣病についての協定書というのが、チッソとの間に結ばれました。その時の立会いの大臣は、自民党の中で最も良質だった三木武夫です。そういった形で一応水俣病の第一の波は終わりました。
今だ救済されない患者たち
現在どうなっているかといいますと、この映画を撮った時に患者数121人と書いてあったと思いますが、現在は認定患者は2,000人こえています。それから自分が水俣病ではないかといって願い出た人は、15,000人になっています。その中で、おまえさんは水俣病ではないと、僕は水俣病の気は全部もっていると思うんですが、お金を出すほどの水俣病ではないという理屈でしょうか、どんどん棄却されて、現在まで闘っている人が、いろんな裁判を含めると、3,000人くらいが現在まだ水俣病かどうかも認定されないで、救済されないで、現在、和解という方法はないかという流れの中で動いております。
加害者と被害者との和解は成り立たない
この和解というのは、非常におかしいんですね。ひどい目にあった人を、ひどい目にあわせた奴が、ひどい目にあわせた側の理屈で、”和解しろ、和解しろ”といっているわけで。しかも交通事故とは違って、当事者というのは個人ではなくて、企業と、県と、国、という重層的な加害構造があるわけですから。和解というならば、チッソと県と国と三つがテーブルにつくべきなんですが、国は、自分たちはなすべきことはしておったはずだと、参加しておりません。ですから、和解の前途は非常に困難です。
返済能力のないチッソを支える県債
というのは、チッソは始め100人とか150人くらいの患者、あるいはもっといいますと、1,500人までの患者は覚悟していた気配があるんです。
1,500人くらいはなんとか総資本の援助で、バックにある日本興業銀行、この前身は戦争中は日本の侵略を支えた国策銀行ですけど、その銀行から江頭豊という人が出て、いまの皇太子妃のおじいさんですね、チッソに社長として乗り込んできた。そういったカを借りれば、1.500人くらいまではなんとかなると思っていたんですが、現在、どうしてもいまやらなければいけないことが、チッソの上にかかってきまして、チッソは経常利益では、水俣病問題がなければ年間に10億円とか20億円とか黒字なんです。黒字だけれども、いままでの患者の生活費を払わなければいけない、また新しく認定された患者の、補償金を払わなければいけない。それから水俣湾の埋立て地の浄化、埋立てですけど、それにも金を出さなければいけない。つまり、それは国際的に認められたPPPの原則というのだそうですが、汚染した企業が一切の代償をペイするというんで、それはいわゆる企業責任にともなう鉄則である。それはどんなに企業が困ろうと、国家がかわるべき性質ものでなくて、企業はそのことで破産してもなんでも、責任をもつべきだという厳しい原則が、国際的にあるんです。しかし、チッソはそれが出来ていないんです。チッソにいままで、ある仕掛けでつぎこんだ貸し付け金は1,000億をこえています。まだこれからどれだけ出るかわからない。それは県から借りているんで、「県債」というんですが、その1,000億に、まだこれから何百億かかるかわからない。考えられる患者を全部救済したら、1兆かかるかもしれない。
水俣病問題の二つの焦点、和解とチッソ救済
そういったなかで、現在二つ焦点が水俣病の焦点になっています。一つはどういうことかというと、患者をいかに和解にひっぱりこむか。
和解の額は、いままで水俣病として決めた額の5分の1とか、3分の1の額で、非常に低額です。それで処理してしまう。そのために、非常にはっきりした患者(和解としてはかなり高額を出す患者)、はっきりしない患者、中間の患者というでたらめな患者の分類、つまりランクづけをしているわけですよね。医学においては水俣病か有機水銀中毒か、そうじゃないかという二つしかないんですが、その間に、疑わしいとか、灰色とか、そういったものを作っているというのが現状です。
ランクづけで患者の気持を分断する
なんで、ランクの輪切りをせっせとするのかというと、それによって和解を簡単にしたいというのと、患者の気持を分断しているんです、いっしょにまとまらないように。というのは、誰もが自分が一番重いと思っているわけです、人は軽そうにみえたりするんですね。病人というのは、自分でしか自分のことがわからない、医者はかなりまでわかりますけれども。
軽重でくくれない、多様な水俣病像
水俣病の場合には明日がわからないんです。年をとって急にガタッと、いままでひっぱりあげていた脳細胞が、痛めつけられていますから、ポコっと抜けて、即座に失語症になったり、動けなくなったりという例が、医学的に証明されていますから、明日がわからない。手はしびれている、明らかに手のしびれというのは水俣病ですけれども、そういった実態をぬきにして、重い軽いということはいってほしくない、というのがありますね。ところが、なんとなしにランクという話が入りますと、みんな脇をみてしまう、つまり権力をみるんではなくて、脇をみてしまうことになります。そのランクづけのおかしさについて、みなさん声をあげてますけど、どうしても和解という重圧がかかってきています。そのことはこれからも尾をひくたいへん大きい問題です。
「チッソを救え」というおかしな流れ
それからもうーつの焦点はどこかというと、加害者チッソが被害者みたいに扱われるようになった。チッソは加害者だ、にくい奴だ、こんなに加害行為をかくして患者をふやしたと、ほんとうにとんでもない企業だというんで、裁判まではチッソには誰も味方しなかった。いまの補償金は、県が金を支援しようと、チッソが払う体裁をとっていますから、水俣病患者の補償の当事者はチッソです。そのチツソが1000億も借金をしょっていると。ところが県債はもう期限がきれているんです。県債なんていうのは、無限に払うなんてことを誰も約束していないんです。だから、もうここで手を引くという条件が、数年前からきているんですが、手を引いたらチッソが倒産する、チッソが倒産すれば患者の補償は、もろに国にくるわけです。
国はチッソを矢面にたてておきたい
チッソが前例になってせんぶ国にきたら、国は通産政策ができない、環境政策できない、厚生政策ができない、こういったたいへんな怖い事態になりますから、チッソをやっぱり矢面にしておかなければならない。そこで、現在、チッソを倒すなと、チッソになんとか支援をというんで、水俣では全階層あげて、チッソの応援に立上がっているんです。へんな話ですけど、チッソを倒産させないということでね。これは切実なんです。チッソが倒れたら、事態が打開するまで、金が止ってしまうんですからね。患者にとっては、金が止るというは大変なことですから、預金先の銀行がつぶれてしまうような感じをもちますからね。ですから、この辺は、もっと大きな仕掛けでやらなければいけないんですが、さっき申しましたようなランクによる「輪切り」と、「チッソを救え」という、結局は「患者を救え」という本音が、レトリックをかえて「チッソを救え」ということになってしまっている。そのことは両方とも、水俣病の闘争を非常に低めています、出来ないことにしています。これが現在の状況です。
水俣市が変ってきた
この大状況は現在も続いておりますけど、一つだけ、このところ起きていることを申し上げますと、いままで市当局は、水俣病の患者を市の厄介者にしてきたんですね。市の広報にも出さない、水俣病についてあれだけの歳月があっても。年に何回か出している「水俣」という広報があるんですが、その広報にのったのは、水俣病事件がおきてから20年後です。それから、”申請の手続きをなさい”というふうに、その広報を通じて、みんなにわかるようにクリヤーにしたのは、さらにその数年後です。それから、水俣病の患者に、なんらかの形で水俣病のことをしゃべらせる機会を作ったのは、ついこの3年前からなんです。
だから、患者は映画ではしゃべってる、東京へきたらしゃべっている、大阪ではしゃべっている、熊本ではしゃべっている、しかし、地元の水俣ではしゃべっていない、ということなんですね。やっぱり、こういう公害闘争のどまん中の空洞化、権力の操作による、ドーナツ化の現象がおきるわけです。被害者の声は事件の、ど真ん中ではしゃべらせない、よそでは勝手にしゃべれってなもんです。そういった悪役であった市役所が、やはり水俣病のことを無視出来なくなったんです。
地域医療としての水俣病対策
というのは市の中にね、はじめ121人だった患者が、認定患者だけで1,000人こえたんです。あと何千人と、水俣の中から申請しているんです。すると、もはや、みんなしゃべりあうと、俺のおじいさんが、嫁さんのおとうさんがというように、誰かが患者なんです。しかも、その患者たちは補償金をもらっただけで、医療の救急対象にはなっていないんです。歩けなくなったり、しびれて動けなくなったときにすぐ来てくれるような、いわゆる老人医療が進んだ町がありますけど、水俣ではそういうことのカケラもないんです。だから、みんな不安をもっている。そういったことが基礎にあると思いますけど、水俣の市がとても変ってきました。
市が初めての出した「恥宣言」
これはほめすぎると間違うと思うんで、あまりほめすぎてはいけないんですが、一つだけ間違いなくすばらしいことをしました。それは今年の5月1日、水俣病がおきて30何年目ですけど、今年の3月に変った吉井という市長が、初めて「水俣病患者をこれだけ苦しめ解決を遅らせたのは、市の落度であった」という一種の恥宣言、謝罪を文章で出したんです。それを九州の新聞は大々的に出しました。東京で読んだ人はいますか。東京では出ていないんです。これは歴史的な市の態度変換なんです。だけどローカルニュースにしかなっていない。
世界に環境都市として発信したい
これはまた別な考察がいりますけれども、ここで市はなにを考えたかといいますと、市としては水俣病ということをかかえて、環境問題の体験の豊富な町として、海外からの見学、研究、研鑽を、受入れられるような市にしようと、そのための受け皿を作ろうと思いついたんです。このところ思いついたんです。思いついてから5年目ぐらいです。だけれども、5年かかって「恥宣言」を出すところまできたんです。
市側のレイアウトで作られた水俣病資料館
それから、2、3年前から市立水俣病資料館というのを作りました。その資料館には、僕は協力しませんでした。いろんな僕たち手持ちの資料はあっても、協力しませんでした。彼らの考えのレイアウトで展示をやるということが、私たちにわかったからです。特に映像は僕たちは多少はもっていますね。そうすると、“青林舎の土本にはいじらせるな”という形で映像を作ろうと思っていたわけですね。つまり、映像資料はほしいが、まとめは別人でやるつもりのようでした。それは困るわけです。充分な資料は他にないんですから。僕は手伝いたい、ところが僕には手伝うなというわけです。あいつが手伝うと、告発や市民運動の柵で作るだろうからと。そういうんだったら手伝いませんよね。ところが、そのことはみごとに資料館の展示の仕方に反映しまして、やはり欠落部分の多い展示内容となりました。
それから、もう一つ水俣に民衆の側で作った「水俣病センター相思社」という運動体の展示室があります。「水俣病歴史考証館」というですが、これには私たちの資料は全部あります。
「考証館」の資料を通して協力していきたい
そういった形で、水俣には水俣の悲劇をもとに、環境の問題について世界に発信していこう、という市政の大きな柱が立った。そのことについて、いろいろ変化が出てきた時に今はあるわけで、そういったことをみまして、これから市にも協力していこうと思っています。それは、私たちの運動体である相思杜の資料の部門を通してですね、現地でもっとも良い展示をやってほしい、というような形で市に協力しようと思っています。
水俣・東京展の成果を水俣に返していこう
そういうことをふくめまして、少し宣伝させて頂きますけれども、私たちは2年後に、東京で「水俣・東京展」をやろうと思っています。まだ金も集めなければなりませんし、どのようにしようかと思いますけども、例えば、僕のフイルムは東京にあるんです、ネガが。それから、多くの学者の仕事の果実も東京にあるんです。あとは熊本です。ですから、東京で絵もできたし、芝居もできたし、写真家も仕事をなさったし、僕たち映画も作った。「東京一極集中」だったともいえます。ならば、これをどうやって水俣に返すかということを考えなければいけない。そのためには東京で2年かかって、それぞれの水俣にかかわった人の仕事を、ぜんぶ展示して大展覧会をやろうと。それを終わったら、水俣に返していこうと。それから、われわれの考えの「水俣病」ということを、はっきりいわなければいけない。
水俣病の本質はまだ解明されていない
いまの水俣から聞えてくるニュースは二つなんです。「和解」と「チッソ倒れる」なんです。これは水俣病の本質でもなんでもないんです。水俣病の怖さ本質というのは、いまだ解決されないであるわけです。水俣病がなにかということが、まだ具体的に社会化されていないから、輪切りの論理とか出てくるわけで、そういった点では論旨のはっきりした「水俣・東京展」というのをやろうと思っています。みなさんのお手もとにパンフレットが渡っていると思いますけど、まだ実行委員会を作ったばかりで、この会の活動を通して水俣へ出かけたり、調査したりという活動をしたいと思っています。参加をお待ちしています。
どうも勝手なことをいいまして、カメラマンもきておりますから、どうぞ自由に質問なさって下さい。
質問 (録音状態が悪く、聞き取り不能のため省略)
水俣病が社会病といわれる理由
土本 正確に聞き取れたかどうかわかりませんけど、これが水俣病が”社会病”だといわれる、生理的な病気と同時に、社会の病といわれるんですが。水俣病が補償ということにかかわらなかったら、医学はもっと進んだのではないかと。これは医学の人がいうセリフです。医学が水俣病を確定し、その上で、チッソが補償金を出すという中で医学が、いわば関所の役目を担ったために、なるべくハードルを高くして、チッソにたくさんの補償要求がいかないように意識的に認定を狭めてきた。長い水俣病の歴史や中でそういう習慣がついてしまった。このことはもうほとんど九州、水俣では常識です。認定審査会は科学者ではない、医学者ではない、お金をどういうふうに払うかということで、認定という決定権を委嘱された、そういった人たちだと。これに反対するお医者さんは数少なくいます。数少なくいますけれども、認定という業務からぜんぶはずされているというのが現状です。
水俣病の全体像はまだつかめていない
基本的には、患者さんたちや、あそこの住民たちの、ちょっと他にはないような病状は、これからも出てくると思うんですね。それもぜんぶ含めて水俣病の全体像だと思うんですけど。水俣病を早く終わらせようと、病像、症状をちょんちょん輪切りにしていますから。今のところはっきり水俣病とわかる、これはもう誰からみても補償しないと具合が悪いという人を、2,000人まで現在認めていると。後はもう切りすてです。今も認定審査会が二か月に一回くらい開かれますけど、0とか1人です。認定する人はないに等しい。そういったところで、あと残っている人は「灰色」患者ということで、「灰色まで含めて、最低の和解金ということでどうですか」というところに追い込まれているといっていいと思います。
有機水銀中毒は今も世界的に拡がっています。その病像を灰色で済ますとしたら、水俣病患者たちの苦しみは何であったか、問われざるを得ないでしょう。
司会 一之瀬さんからもお願いします
「水俣」には全面的にかかわった
一之瀬 土本さんとは、この映画が二本目です。この前の年に撮影した「パルチザン前史」という京都を舞台にした映画が、土本さんのスタッフになった最初で、これが二本目になります。その時と同じで撮影助手ではあるんですが、なんかスタッフが少ないものですから、助監督的なことから、製作部的なことから、撮影部以外のこともずいぶんやってきまして、最終的には編集助手とか、仕上げの時には録音助手的なこともやるとか、すべて引き受けると、さらに上映までやるという形でやってきました(笑)。
カメラマンは大津幸四郎さんという大先輩がおりまして、私は撮影助手ということでやってきました。個人的には、はじめて水俣にいくと、いまでももちろん痕跡は残っていると思うんですが、もうとにかく一言で良いところなわけですよ、不知火海というところは。なんでこういうところに、こういう事件が起きたのか。
社会的な事件として記録されていかなければならない
これはさっき土本さんも触れられましたけれども、水俣病事件というのは、”社会的な事件”としてきちんと記録されていかなければいけないのではないかと、現地にいってみて痛感したことです。と同時に、この作品だけでなくて、その後、何本かの作品に参加していくことになったわけですけれども、そのなかを通して非常に痛感させられたことの一つです。
水俣病を病気という世界だけでものごとを考えるではなくて、さきほど土本さんの解説もありましたように、当時の社会的な背景とか、日本の経済の問題とか、いろんなことが背景にあってこういう事件があり、なお尚、その中で医学はどうだったのか、行政はどうだったのかということが、一つ一つ検証されていくべきもめであって、医学とか病気とかいう概念の中でだけ、空まわりしないほうがいいのではないか、するべきではないと非常に強く思います。
一線を越えなかった大津キャメラマン
撮影的なことで、一つ記憶に残っていることがあるんですが、今日の2時間47分版の中にも、使われていないシーンなんです。はじめて熊本に行きまして、熊本市内の撮影から始まったんですが、その中で、熊本市のある寺で、亡くなられた患者さんたちの慰霊祭が開かれまして、私たちも撮影に参加したわけです。本堂に遺族の方たち、患者さんたちが並び、写真が祭壇にならべられていまして、読経の中で焼香とかいろいろあるわけです。
その時に、こっちが祭壇だとしますと、患者さんたち遺族の方を、マスコミ、テレビ、新聞、その他の記者とか、かなり大勢の人たちが取り囲んでいるわけです。よい画を撮りたいために、テレビのキャメラなんかは、かなり祭壇のうしろの方にまでまわって、患者さんたちの表情や、遺族の表情を撮影するというようなシチュエーションがあったんです。その時に、僕は大津さんの助手ですから、キャメラの脇にいて、いろんなアシストをするわけですけれども、大津さんは絶対に一線を越えようとしなかったですね。
そのことはいまでも明確に記憶に残っていまして、その後のいろんな撮影で、もちろん、「水俣」の現地水俣取材でもそうなんですが、この映画に限らず、それ以降、私自身がキャメラマンとなって動いていく世界のなかで、いろんな意味で折々に思い出されることであります。やはり大津キャメラマンが一線を越えなかったことが、この映画の中にあったんだということが、僕にとっても非常に大事なことでしたし、おそらくこの映画もそういうことが一つ根っこにあって、こういう映画として完成できたのではないかというふうに思います。一つのエピソードをお話しして、後はなにかありましたらご質問下さい。
司会 残念ですがそろそろ時間になっておりまして、一之瀬さんの水俣の作品は、その後「水俣の甘夏」がございますね。
一之瀬 ごらんになったと思いますが、「わが街わが青春」というのが、土木さんの監督で、私のいわば処女作といますか(笑)、それがはじめで、78年ですか。石川さゆりさんを、胎児性水俣病の患者さんたちが水俣に呼びまして、「さゆりオンステージ」というのをやるわけですが、それの一切を彼ら自身の手で、もちろん大人も手伝っていますが、それのプロセスをずっと追いかけた映画があります。それから「水俣の甘夏」です、丸木位里さん俊さんの「水俣の図・物語」にも参加しています。
司会 残念ですが、そろそろ時間ですので長い間ありがとうございました。
(この原稿は講演のテープおこしをしたものに土本・一之瀬両氏より訂正・加筆をいただいたものです。)