水俣病を風化させるな インタビュー 『東京新聞』 3月20日付
水俣病事件とは何だったか。水俣病に関するすべての表現、研究、記録をひもとき、再構築して伝えようと来年、東京で開く「水俣・東京展」の会場に、水俣病で亡くなった千余人の全遺影を展示しようと、多くの水俣病映画を製作した土本典昭監督(東京都杉並区)が、死亡者の跡を一軒一軒訪ねている。
土本さんは昨秋から水俣の旅館住まい。「かつて水俣病を奇病といって社会的に水俣病隠しが行われた初期の時代に、いままた水俣は戻りつつある。行政はプライバシー保護の名のもとに患者の名をいわず、患者家族も口を閉ざす風潮が強くなっている」という。
チッソ水俣工場から排出された有機水銀を原因とする水俣病で死んだことが証明されるのは、公的には認定患者であることだ。しかし認定患者への補償金はチッソが支払っているので、患者に関する原簿はチッソの中にしまい込まれていて行政は公表しない。
熊本県はこのほど、熊本・水俣病の認定患者で死亡した人は千百六十三人と公表した。しかし名は明らかにしない。土本さんは三十年間の地元新聞の資料や患者団体の名簿などの手づるをたどって、現在までに八百二十人の名前を拾った。
住所が変わった人も多く、古い人ほど所在が分からない。分かった遺族を訪ね、取材の意図を説明し、写真を複写させてもらう。現在、訪ね当てた人は百五十人、うち撮影させてもらえた遺影百七人、あとは辞退・遺族の態度不明で撮影できない人である。
土本さんが知ったいまの水俣の現実は次のようなものだ。
「患者側からみると、認定は患者の申請によるという制度が重くのしかかっているようだ。認定申請というと、金をくれというに等しいと受け取られる、と考える風潮が強くなった。だから、認定されたことを知られていい目にあわないと思い、申請や認定を知られたくないと考える。そこでプライバシーを守るということに医者の方もとりこまれる。とくに和解問題が現実性を帯びてきて、ますます重苦しい雰囲気になり、家族の中でさえ水俣病を語り継ぎにくい空気がある」
だが、感動的な発見もあった。胎児性患者の男性が結婚し、玉のような男の子が生まれていた。胎児性患者が子をもうけた初めての例だろうという。
水俣病が生んだ誤解のひとつに「遺伝する」という風評があった。この誤解はいまだ解かれず、患者を差別し苦しめている。土本さんはいう。「あの赤ちゃんは水俣の偏見を砕いた宝子に見えた。私が水俣との付き合いを半ばで放棄していたら新しいドラマを見ないで、暗い水俣観にとらわれたまま終わっていたに違いない」
「来年までやってどれだけの写真が集められるか分からないが、頑張って集めたい。患者の脳みその解剖資料もあるだろうが、水俣病事件とはこの人たちの事件であったという意味において、遺影こそ水俣病の最大の資料だと思うから」