私の水俣体験 『熊本日々新聞』 10月29日 熊本日々新聞社
(東京・品川でこのほど開かれた「水俣・東京展」の会場。水俣病の死亡患者五百人の遺影が、三万人の入場者と対面した。撮影したのは記録映画監督の土本典昭さん。「水俣の子は生きている」(一九六五年度)を皮切りに、水俣をテーマにした十五本の作品を撮ってきた)
アウシュビッツにはナチスに虐殺されたユダヤ人、沖縄のひめゆり資料館には戦死した女学生たちの遺影が残っていて、亡き人をしのぶことができる。(水俣病という)大きな悲劇的事件に遺影という死者の記録がないのが、かえって不自然だと考えたんです。東京展では遺影を展示することで本当の主役はだれかが分かるようにしたかった。
(水俣病の死亡者は認定患者で千二百人以上。その氏名や遺族の住所を把握しているのは原因企業のチッソだけで、公表はしていない。頼りの資料は古い認定患者名簿や新聞記事のスクラップだけ。助手と二人で聞き取りを重ね、遺族宅を一軒ずつ回った。訪問先は七百八十二人分に上った)
水俣市の月浦から始めました。「月浦が撮れたから湯堂も頼む」「月浦、湯堂が済んだから茂道もお願いしたい」-。そんなふうに歩きたかったもんですから。初めは千人集めるつもりでしたが、途中で三百人が限界じゃないかと思った。被害が多発した湯堂は、当たった人の半分しか(遺影を)撮らせてもらえなかったんです。
(拒否の理由は「子供が許さない」「孫が嫁入り前だから」など。無言で追い返されたこともあった)
拒否の理由はよく分かるんです。無理もないと。だから一回断られたら、それ以上は行きませんでした。二、三年かけて行くならいいけど。僕自身はこれ以上、遺影を続けて撮るつもりはありません。これからは少なくとも水俣市が公にやるべきだと思う。患者団体の幹部も口を添えてくれない、行政も「ご随意に」という状況だと、東京から来た僕らだけでは、先々(遺影の数はこれ以上)伸びないだろうから。
訪ねた先で、三分の一は丁重に扱ってもらい、三分の一は断られた。残り三分の一は、最初は緊張感があったけど話し合いの末に撮らせてくれた。この三分の一が、僕にとって新しい財産になったと思っています。
(水俣病連作の大半は七〇年代の作品。「医学としての水俣病ー三部作」(七四年度)、「不知火海」(七五年度)などの代表作が相次いで発表された。八〇年代の作品は三本だけ。「水俣病-その三十年」(八七年度)の撮影から十年近く、水俣を扱った作品はない)
この十年の変化は大きかった。こちらが意気込み過ぎて階段をつんのめるような、何というか力のない水俣を見ました。患者運動なんかエネルギーが衰えてますよね。のれんに腕押しみたいで。七〇年代から巻き起こった水俣病運動と、そのあとの変化のはざまで僕自身が映画を作りきれなかったところがある。
(遺影集めのため、水俣市内の旅館を拠点に一年間滞在。その過程は「ビデオメモ」として記録した。水俣病公式発見から四十年日。戸惑いが消えない節目の年だった)
振り出しに戻ったという感じですね。また新しい人を見つけて関係を結び合わせていかないと駄目で。
(アウシュビッツでのユダヤ人虐殺を扱った記録映画「ショアー」のクロード・ランズマン監督と今年、テレゼ番組で対談した。「ショアー」は十一年の歳月をかけて当事者を訪ね、八五年に完成した大作。上映は九時間に及ぶ。記録映像を使わず、証言だけで悲惨な歴史を再現した)
二十年、三十年たっても、まだこういう方法で映画が撮れるんだと、希望は持ちましたよ。でも、率直に言って、今水俣に行って何を撮るかというと…。以前は、「土本に映画を撮らせよう」という勢いがあったし、耳を澄ませていれば、そういうパルス(信号)が飛び込んできた。和解以降は、当分(映画作りも)駄目でしょうね。
(これから水俣と、どう向き合っていくか)
東京展の後、遺影をどこに安着させるかという問題があって、皆目見当が付かない。僕はフィルムも含めて水俣市に差し上げますと言っているんで、水俣に返していく回路ができれば、そこからまたひとつのドラマが生まれると思う。だけど、今の水俣に受け取るだけの力があるかどうか。水俣での遺影の公開は嫌だという遺族もいる。これからの水俣とのかかわり が、ずっと僕の頭を占めているところです。