今月のひと 土本典昭 インタビュー 『すばる』 9月号 集英社
土本典昭が水俣を選んだのか、それとも水俣が土本典昭を選んだのか?作家が終生の主題となるような題材とのあいだで演じる決定的なしかしその一方で偶然にも左右されたに違いない邂逅についてしばし思いを馳せてみよう。
土本氏が最初に水俣を扱う作品を撮ったのは一九六五年、『水俣の子は生きている』というテレビ番組用の二十八分のフィルムだった。当時の日本映画はいわゆるスタジオシステムで培われた技術や人材を礎に黄金時代を謳歌した五〇年代を終え、質量共に摸索や分散の時代を迎えていた。そして、それはおそらく経済成長のみを目標に掲げて突っ走ってきた日本の戦後社会そのものの失速に対応するものでもあった。そんななか、ドキュメンタリー映画の世界にも生起しつつあった注目すべき変革の波。土本氏を始め、小川紳介、東陽一、黒木和雄ら後に国際的に高い評価を受ける若き映画作家たちが活動を開始し、彼らの野心に満ちたまなざしは自らの燃えたぎる情熱に合致する主題を探し求めていたに違いない。やがてその渦中から”土本の水俣”が”小川の三里塚”と並ぶ最良のカップルとして映画史に刻みこまれることになる。ただ話を戻せば、土本氏にとって『水俣の子は生きている』は希望に満ちた主題との出会いとは見なしがたい困難な仕事であったらしく、むしろ水俣病を映画にすることの不可能性に直面する思いに陥ったという。確かに水俣病は日本社会の歪んだ現実を映しだすのに最適な鏡だ。だけどはたしてこの複雑な成り立ちを持つ鏡を映画として呈示することが可能なのか?当時、水俣病は既に終息した(!)という考えが一般的で、水俣の人たちは外部からやって来た撮影隊に対し協力的ではなく、むしろ心を閉ざすかのようだった。『水俣の子は生きている』は水俣市立病院のケースワーカーの職をボランティアで志願した一人の若い女性の視線を通して進行するが、彼女を当惑させた水俣病を包囲する厚い壁は同時に水俣を訪れた土本氏らが意識せざるをえなかった障壁をも表象していたのだ。
「当時、映画やテレビはジャーナリズムの手段として新聞や写真に劣るものという考えが強かった。時間もかかる。だからそんな特徴を逆手にとって、皆が取材を終えていなくなり、引き潮になってから、負け戦のなかで何かが撮れないか、という思いがあった。じっくり時間をかけて、非日常的な事件から入りながら、そこから次第に日常性に分け入っていく。だから、私たちの映画には大きなドラマがないとよく批判されます(笑)」
だがやがて「ドラマ」が起こる。六〇年代後半、企業責任が明確になったチッソに対する裁判闘争へと水俣病患者たちが自ら立ち上がり、今度は患者たちやその運動を支援する側から、土本氏に再び水俣の映画を撮ってほしいという要請が強まる。”映画しかなかばい!”。こうして実質上、”土本による水俣”の出発点となる傑作『水俣-患者さんとその世界』(7 1年)の撮影が開始される……。
「前回の教訓から漁民の生活にもキヤメラを向けて、日常と非日常を往復するような映画にするという発想から始まりましたが、結果として全編にわたって闘争の映画になった。私の水俣の映画は海外向けのリメイク版なども含めて15本になりますが、最初から大きな構想を掲げて作ったのではなく、その時々の緊急性に応じて積みあげられていった。
私ほど自分の映画を上映して回る作家はいないでしょう。一番映画を見てもらいたい相手が実は水俣病の被害者の方々なんです。つらい映画ではあると思いますが、彼らに自分たちの立場を理解してほしい。”合わせ鏡”として地元の人に見てもらいたいという願いがある。だから私自身が地元を歩き回って上映にこぎつける。ああいう映画を上映する環境を整えるのは難しいですから。クタクタになって映画を完成させ、それを上映し、患者さんや観客の好奇心の前に差し出す。すると色々と突っ込まれるんです。、新しい映画を上映する度に、問いかけられ、ここが足りないと要求され、また新しい発見を求めて映画を撮る……。患者さんの反応ですか? 最初は大きな画面に自分たちが映るのを見て、ボーッとしてますね(笑)。やがてそれが一言でいうと、”よく撮ってくれた”という感想につながっていくようです」
こうして三十年以上の歳月をかけて築きあげられてきた水俣を巡る壮大な映像叙事詩(サガ)を改めて見直していると、土本氏の試みは、障害のために自らの思いを他者に向けて充分に表現する手段から隔てられた人々の声を丁寧に開き取り、翻訳する営みであるという印象を受けた。患者たちとその家族は懸命になって自分の思いを自分なりの言葉で伝えようと、土本氏が向けるマイクやキャメラに向かって語りかける。その言葉の断片はいかにもたどたどしく、映画のなかで企業やある種の運動家が口にする言葉の整然とした連なりとまったく異なる性質を持っている。そしてもちろん土本氏の映画はいつもそのたどたどしく、しかし豊かな表現となる潜在力を秘めた患者たちの不確かな声の側に寄り添い、その内容を何とか聞き取ろうとたゆみない努力を続けるだろう。実際、こうしたプロセスを経た”土本による水俣”は国内だけでなく、世界の人々の前で度々上映され、MINAMATAは幾つもの言語へと翻訳されていった……。
「私が一貫して守ってきたのは、患者さんたちが表現したいもの、言いたいことが彼らの口をついて出てくるのを待つという姿勢です。新聞などの通常のインタヴューだと、メディア側はある種の回答を期待して質問しているわけですね。私の場合はそうではなく、彼らが何かを言いたくなり、その言葉が”語り”になる瞬間を待つのです。映画が出来る、出来ないは別にして、とにかく水俣に出かけて、そうした瞬間をとらえうるような関係性を患者さんたちとのあいだで築く。私たちが映画に求めるのは”答え”ではなく”語り”による構成なのです」
水俣病の公式発見から四十年という区切りの年を迎え、水俣病患者としての救済と国家賠償を求めて、長年争われてきた水俣病全国連訴訟が「和解」という形で 「解決」されようとしている。だけど、土本氏の目にはこの「解決」が「敗北」の言い換えとしか映らないようだ。「長年にわたってたえず付き合ってきますと、社会的な変動や環境にあわせて彼らの”語り”の調子が微妙に変化していくのを感じます。時に高揚し、またその後には逆に沈黙の時期が訪れたりする。今はまた”失語症の時代”なのではないでしょうか。語ることへの拒否感のようなものを感じます。以前のように国家や企業に騙されたわけじゃなく、取り引きに応じた以上、何とも言いようがないという感じでしょうね。”敗北”について積極的に語ろうとする人は誰もいません。ある意味で暗い時代ですね……」
もちろん、現在の失語症を次代の闊達な”語り”の為の胎動期へと移しかえる作業を実践しなければならない。そのきっかけとしても期待されるのが、この秋に十六日間にわたって開催される『水俣・東京展』での、メイン展示、写真、美術、講演、映像などを通して多角的に”水俣”の表情を伝えようとする試みだ。「たとえ不十分な”解決”であれ、明らかに患者さんたち自身の訴えによって、長い裁判闘争を通して勝ち、とられていったものです。国や社会、企業、医療の良識によって、自然な流れで”解決” へと向かったわけじゃなく、様々な壁をとっぱらおうとする患者さんたちの運動や表現がそれをもたらした。その文脈で水俣の表現を見ようとする催しです」
土本氏は『水俣・東京展』のために水俣病で亡くなった患者さんたちの遺影を撮影して回る作業を一年間かけて行った。現在、水俣では”鎮魂”や”再生”を目指す作業が盛んだが、その前にまず”記録”が必要なのではないか、という思いに駆られたという。整備された資料もなく、昔の新聞記事などを頼りにしながらの作業は困難をきわめ、ようやく探しあてて訪れても、撮影を拒否されるケースが少なからずあった。美しい景観に囲まれた共同休に水俣病が残した傷の深さを再確認する作業でもあったようだ。「亡くなった患者さんたち一人一人が顔を持ち、個々の人生があった。そのことを記録し、現代史のなかに刻みこまなければならない。集まった遺影の数は五百点ですが、下に名前や亡くなった日付や場所など簡単な個人史的なデータを添えて会場の壁面全体に展示するつもりです。この作業を終えなければ次の映画のことなど考えられない」
土本典昭の水俣を巡る壮大な映画の連作は、患者たちの声ならぬ声を時に美しく、時に怒りに満ちた”語り”の表現へと翻訳し、世界に向けての奇蹟的なコミュニケーションを実現させた。そして今、土本氏は既にこの世を去った死者たちの声をも聞き取り、翻訳し、僕たちの許に届けようとしているのかもしれない。驚嘆すべき営みの持続である……。