考えるための道具としての映画 インタビュー アート・デザイン・エンターテイメントの「云々」 7月
ドキュメンタリー映画の研究会、第49回ロバート・フラハテイ・フィルムセミナーの招待出で30年ぶりにNYを訪れた。編集者で夫人でもある基子氏と、スタッフの案内を待てずに二人だけで真っ先に訪れたのはグラウンドゼロだった。「あれを見ないと落ち着かなかったから」ぽつりと言った。現代社会の影に光を当てる作品を半世紀近く撮り続けてきた土本氏は、水俣病患者に付き添った一連の作品群で友く知られる日本ドキュメンタリー界の「巨匠」である。それは、これまで氏の作品を見たことがなかった多くのセミナーの参加者が、上映後には氏のことを”JaPanese Master”と呼んだことでも証明される。
ただ一人の師匠という羽仁進監督の下で、1956年から記録映画と劇映画の現場を体験し、土本氏はやがて記録映画を自の手法として選ぶようになる。「劇映画はシナリオで全て円熟して完成していくけども、僕の場合には破片というか、現実のショットをどう選びどう組み立てていくかという方法論の方への興味を一度も失わなかったということですね」
そして劇映画の経験は、その後の記録映画作りにも豊かさをもたらした。今回参加者を驚かせたのは、上映された氏の5本の作品に明らかに異なる二つのスタイルがあったことだ。
特に、脚本と演出があり映画的に美しく構成された。『ドキュメント 路上』などは水俣に代表される作品とは印象を異にする。
「僕は二つの傾向のドキュメンタリーを使い分けてるんです。ひとつはシナリオや構成が頭にあって創り上げてくドキュメンタリー。それから、ある社会的な出来事を完全に連れ添いながら撮っていくスタイル。外国ではこのひとつの傾向、それは水俣が多かったもんですから、非常に古典的な精神的な旅の記録を僕の方法だと思ってる方が多かったと思います。日本では僕が二つのチャンネルを持つ作家だと大体知られてるんですよ。」
どちらのスタイルにも共通するのは、対象に向けられる氏の眼差しである。水俣では漁をする人々の姿が延々と捉えられ、演出された作品でも家族や同僚と談笑する労働者の姿に尺が割かれる。この一見重要でないようにみえる画は、我々に犠牲者や貧しい労働者という高みからの同情心を持つことを許さない。そして苦悩する人々だけを、見せられるより、同じ家族と生活を持つものとして我々は深く彼らに共感することになる。
「僕が描きたい対象は人間ですからね。撮る事で撮られた人が解放されたり、撮ったことによって彼自身がああこういうところがあったのかと発見していく。やっぱり表現できない人ですから、僕の映画によって表現ができるわけですから、非常に喜んで受け取る。だからその逆だとものすごく責任を感じるわけです。撮ったその人について起きた色んな出来事を全部責任を負わなきゃいけないと。その責任て何かというと、僕は最後までその人とつきあっていくことと思ってる、撮る撮らないは別として。必ずしも自分のプラスにもならないことを、しかしどうしても世の中に伝えたいことが心の中にある人を撮る場合には、その人の迷いもあるだろうし苦しみもある。それを少なくとも盗むんじゃなくて取ってきたい、分かってほしいということなんです。」
1971年の作品名「水俣一患者さんとその世界-」に、患者「さん」とあるのも氏の視座を物語る。
「作家だったらペンネームで書けます。フィクションだったらまるっきり作り上げて書ける。でも記録映画の場合には、精密に精密にその人を限定していく。でその人が考えて述べたことを僕は選んで掘ってくわけです。そうするとプライバシーの問題について罪の意識というか、ここまでやっていいのかしらっていうのはあります。」
そして作家の石牟礼道子の影響に触れ、「人を描写する人間につきまとう、恐れとか慄きとかシャイな感じとかに対する刺激を受けましたね。それはいつも踏み越えて作らなきゃならないし、そういうジャンルの仕事ですから、見た人にも撮られた人にも納得してもらえるように、それはいつも新しい問題です。」
その思いは、複雑な社会構造の中で対立者として描かれる人々にも注がれる。「僕は悪者はいない主義なんですよ。誰にもそれぞれの立場があるしそれぞれの苦悩があるはずだと。そういう苦悩がありながら、しかし社会的にはどうしようもなく僕の反対者の姿で一生を終わるという人もある。例えば資本家とかね。でも撮る側面においては、その人の全面的な人間性を取り上げるようにしたいと思ってます、、、なんてうまくいってるわけじゃない。(笑)」と土本氏は謙遜したが、水俣の公害を引き起こしたチッソの社長が亡くなった後、家族が患者と立派に対峙した父の思い出として「水俣一揆」を持ち帰ったという。
「対立しても、時に憎々しくとか、皮肉をきかせてとか、そういう撮り方はあんまり好きじゃないですね。」対立する人物を悪者として描写することで、社会を分かりやすい二項対立の図式として見ることに慣れた我々には厳しい批判だ。
記録映画において、素材となるのは現実の断片だ。このことは作家の主観が介入しないことを意味するのではなく、逆に作家はいかようにも現実を色づけできる大きな責任を負うことを示す。日本ドキュメンタリー映画の草分けである土本典昭監督は、このことに触れ「見る人の生理」という表現を繰り返した。「編集では見る人の生理とか心理とか非常に考えます。この画をどういう呼吸をしながら見るか。それから決してだまされたくない訳で、彼らがこの画からどう判断できるかと。手法によってはクローズアップばかりで写す人がいますね、それは非常に強い強制力をもつわけです。
だけど一度離れてこの画はなにを何を意味しているかと自分の判断で対話していく間がいります。そういったサイズ、絵の構成は考えます。だから自分の主観との闘いというか、俺はこういうつもりで撮った、こう受け取ってほしいというのを決して押し付けない編集を心がけます。
追っかけたから見えたシーンがあって、その順序を変えると実にいやらしくなるんです。撮るにつれ発見したこと、それにつれて僕が緊張感を持ったこと、そして『あ、見えた』つていう。だから僕は『旅』つて言うんだけど、歩いた順序通りに繋ぐと人々の心の旅に合ってきます。」
音楽も同じだ。「音楽は僕は良く分からないけども判断はできるんです。記録映画では音楽はあんまり高鳴らせるべきではないと考えてますから、見る人の心理、生理に連れ添った音楽を入れるぐらいで、クライマックスを作るとか、ここは強調すべきだという使い方は苦手です。音楽が饒舌でまるでナレーションのように入れる人がいる。ここは喜び、ここは悲しみとかね。そういうのは全く必要ない。ドキュメンタリーの場合には受け取る人が心の中に音楽を作るべきだから、それを助けるだけでいいんですよ。」
水俣、原爆、労働者、若者、旧ソ連、アフガニスタン、様々な社会を見つめてきた氏は「僕の教科書はほとんど新聞ですからね。」と言う。撮りたくてついに機会が巡らなかった北朝鮮やキューバも30年に渡る切り抜きがある。長く切り抜いていると、時間がたつと嘘だったと分かる記事も多い。「瞬間瞬間には僕たちはガセネタの波に追われてるわけです。だから少なくとも映画はきちんと見ていかないと。」現代の日本社会の状況にも厳しい。「中産階級が同じような認識をテレビや新聞で持つようになりましたからね、今の生活がいいとそれを変えることは賛成しないとか、均一化して保守的なんです。保守と社会、民主って桔抗してる時には判断の大きい幅があったのが、今どんどんせまくなってる。」
「僕は最近つくった言葉があるんです。『考える道具としての映画』。見て感じる時代に、繰り返し見ながら考えをたしかめていく、感じたり興奮したり娯楽としての映画はもちろんあっていいけど、一種のフィロソフィーとして考える道具としての映画があっていいと、それが今の僕の考え方です。」
誰もがそれなりに充足し、政治も巷の出来事も情報としてのニュースでしかない時代。だからこそ、我々が生きている社会を見据えて考えることを迫る映画の役割は大きい。
現在は、思い残していたフイルムをもう一度少しづつ繋ぎ始めているという。
「水俣の波が静まって、割とゆとりを持って考える時期になったので、その人たちの残す遺言をそろそろ撮ってもいいかなと思って。」
若い人には、「古い人の残した言葉をいつも新鮮に受け取られるように読み込んで欲しいですね。たいして人間って進歩をしてないんですよ。技術は新しくなりますけど、精神はあまり変わらないですからね。」世界の人々を撮り続け74歳になる氏の確信に満ちた言葉だった。
2週間近い滞在にリュックひとつ。首から提げた一眼レフカメラが一番の荷物だった。