終わるもの、終わらせてはならないもの-水俣を撮り続けて-土本典昭vs小畑精和 対談 『新日本文学』 No.575 10月号 新日本文学会 <1996年(平8)>
終わるもの、終わらせてはならないもの-水俣を撮り続けて-土本典昭vs小畑精和 対談 『新日本文学』 No.575 10月号 新日本文学会

記録映画の可能性ー水俣を撮る

小畑 今年、五月、土本さんはクロード・ランズマン監督と組んで「二つの世界の映画を観る」と言う映画とトーク・ショーの催しをなさいました。私も去年ランズマン監督の「ショアー」の上映運動を明治大学でやりまして。あれは大変長い映画で商業ベースに乗らないし、それにフィルムの貸し出し条件にお金を取って見せてはいけないというのがあって、カンパを募りまして、そしたら思った以上に集まってうまくできたんですけれども。今回、水俣病を撮り続けていらしやる土本さんがランズマンを呼んだと言うのでもう楽しみで見に行ったのですが、期待通りでした。
 さて、これは、土本さんが『わが映画発見の旅』などでだいぶお書きになっているし、月並みな質問かもしれませんが、水俣と関わる切っ掛け、それからもう30年以上なぜ撮り続けていらっしゃるのかということをお尋ねしたいと思います。

土本 なぜ、水俣を撮りはじめたかというのは、やっぱり映画である題材にぶつかるという時には、こちらでも何かそういう傾向のものを撮りたいというふうに出している触手みたいなものがあるわけです。たまたま、僕は割と社会的な不正というものに対して、映画が何事かをできるんじゃないかという考え方だったものですから、いわゆる芸術至上主義でもないし、表現主義でもない、映画が何らかの形で社会参加できることがあればと思ったものですから、そういった触手の中にたまたま、胎児性の水俣病の子供がたくさん発見されたという記事に続いて、水俣病という問題が一九六四年に僕の耳に飛び込んできた。そのことを東京でやっている人は、後で分かったんですけれども宇井純、それから写真家の桑原史成、この二人ぐらいだったんですけれども、やはりローカルな話題でしかなかった。しかしながら、やっぱり現地を見てみようということで、基礎的なことは熊本大学で調べましたけれども、余り深くは調べないで水俣に飛び込んで行きました。もうものを書くのと違って、映画はレンズで撮らなければいけないものですから、見た時、知った時にそれを撮っていこうとするわけです。
 これは、ニュースがそうですし、記録映画というのはそれが普通かもしまれんけれども、やはり水俣に行って見たら、もうこれは大変な出来事だなというふうに思いました。オーバーに言えば、人類が類的存在として激しく文明の中で自家中毒を起こしている。こういったことが地球上の悪意的な産業廃棄物の海への放流によって起きていいもんだろうか、しかも、それがこんなに知られなくていいものだろうかというので義憤に駆られておりまして、もう行った時から張り切って撮りはじめたんですけれども。
 知った、見た、聞いたということから、撮影行動が始まります。それで撮り進めていくうちに、もう撮って間もない頃から拒否に合うんですね。水俣病患者の拒否に合う。僕のその時の最初の映画は、水俣にこれからボランティアをやりに行くという女の人が一生の仕事として水俣病と付き合っていくケースはこうなるという話で、その中で、水俣病を描いていこうとしたんですけれども、その人を追っ掛けて撮りながら、病院なんかに訪ねていっても患者が全部隠れちゃうんですね。ベッドの影に隠れてたりして。でもそのケースワーカーになろうとしている人とは話をしたいんですね。もうベッドサイドにうずくまった患者の髪の毛しか振れなかった。これは随分撮影を嫌っているなと思ったんですが、その対象がたまたま娘さんだったから、いろいろ水俣病の自分の症状を恥ずかしがっているんだというふうに思ってまた撮っていったんです。が、今度は、病院じゃなくて、水俣病の患者がそこに生活している村へ撮影に行きましたら、そこで、それこそ石を持って追われるように激しい反発を食らいました。これは、こういう思いでこっちが撮っているのに、これだけの強い現地からのしっぺ返しがあるとはどういうことかみたいな矛盾を抱えて、ともかく最初の作品『水俣の子は生きている』というテレビ番組は何とかまとめたんですけれども。
 僕は一般的な病気物、難病物はあまりやる気はなかったんですが、やはりこういった城下町で、ある企業が、もう人間を人間とも思わないで、毒と分かりながら物を流している、こういったことについては個人的にも怒りの心情がありますから、そういうつもりで撮っていったんですけれども、このときに受けた印象は、二度とこの題材に出会いたくないというぐらいの後遺症を僕に残しました。

小畑 最初そのボランティアの大学生ですか、短大生の子を追うということから、患者さんのその生活のところにも入っていき、それから医学的に水俣病を解説しようとされ、さらに石川さゆりの「水俣熱唱」とか、また広島の原爆の図で有名な丸木位里・俊夫妻の作品制作過程であるとか、もう様々な角度から、土本さんは水俣をずっと撮り続けていらっしゃいますね。方法論というのは特にないのかも知れないんですけれども、何かその水俣を撮っていく上で、土本さんが留意なさっている点、それから、また、やっぱりずっと撮り続けていらっしゃるということは、まだ撮れてないところがあるとかそういうのをお感じになっているんじゃないかと、私勝手ですけれども想像するところがあるんです。そうすると、何が描けたのか、何が描けてなかったのかと、その辺を少し話していただきたいと思うんですが。方法論で特にこういうことをということはないんですか。

土本 そうですね、方法と言えるかどうか知りませんけれども、僕は、映画で一方的にメッセージを送るということは絶対に慎みたいという考え方を持っていて、僕が提示した映画に対して、見る人が自分で解釈して、自分で判断して、次のシーンを心待ちにしながら吸収してほしいと。見る側が自分で咀嚼してほしいと、そういうその観客の側からの映画への参加をしてもらいたいと思っていますから、それに邪魔な要素というのは全部捨ててきたつもりなんです。
 というのは、ナレーションをおびただしく入れるということはやっぱりやりませんし、全体に僕が本当に分かった話、僕自身が納得したことしか出せない。例えば『医学としての水俣病』でも、素人の一映画人が分かる限りの質問をして、僕が分かったことは一般の人も分かるだろうという形でやりました。そういった意味では現場との対話を尊重し、映画の専門家とか水俣病の専門家じゃなくて、全く本当に初心の人が向き合って分かるような映画の文体にいつも気をつけてきたつもりです。

上映運動-水俣を見せる

小畑 土本さんは映画に入る前の若い頃のことも本にはお書きになっていらっしゃいますが、自分はもう政治とは断ち切ったというか、政治の人間にはなれなかったんだと、映画で事を起こして、映画に収斂することでしか関われないんだというようなことを述べていらっしゃいますね。が、それでまた、映画に何ができるのかというふうな、ちょっとこれ答えにくいことかもわかりませんけれども、でも、映画で全部解決できるというわけではもちろんないにしろ、手応えがあるからこそ三〇年以上も撮り続けていらっしゃるんだと想像するんですが、そのあたりいかがでしょうか。また、ただ撮っているだけじゃなくて、土本さんは自分の映画を持って回って上映運動もなっさていらっしゃるわけですよね。

土本 おっしゃるとおりです。やはり映画は楽しく娯楽的に見られるというのが、多くの人が考える映画であって、みずから滝に打たれるような痛みを感ずる映画を進んで見る人はいないでしょう。題名から見て、取り扱っているテーマから見てしんどそうだと想像するような映画を見てくれる人はやはり少ないわけで。やはり意欲的に見ていただくということはあるにしても、進んで、放っといても見てもらえるという映画ではないもんですからね。
 ですから、一番私がほかの監督と違っていると思うのは、一番見せ難い階層に、一番見せ難い対象に僕がフィルムを自分の手で持って行って見せたということはあると思うんです。いろいろなところで、例えば大学にしても活動家がいて、上映していただきました。全国的に上映運動はなされました。けれども、いわゆる隠れ水俣病と言われる潜在患者の生きている、住んでいる天草のような地域には映画は届かないのです。たとえ持ち込もうにも、抵抗感の多い形が予想される水俣病事件の辺境に、映画を持っていくのは容易ではありません。上映運動すらサヨクや赤軍に思われる時代でもありましたから。そういうことがストレートにできるのは、やっぱり作った人間だからです。「僕の作った映画を見てください、僕はこういう気持ちで作りましたから、あなた方のために作った映画です」と言えるわけです。やはり余人ではない私自身が映画を持って歩かなきゃいけないと。
 それから、国際的にも、カナダなどの水銀汚染地を歩きましたけれども、それも多くいろいろ言われかねない中で、僕がつくった映画だから、私がぜひプレゼントしたいという形で、あえて現地の人々に見せに行くというような上映運動をしてきました。
 そういった中でいろいろ作家への質問や注文があるわけですね、映画に対して。あなたの映画には、どうも医学の詳しいことが、この今見た限りの『水俣-患者さんとその世界』では描かれていないというふうに言われ、追い詰められる。それは次に作りますと約束して日本に帰ってきているんです。
 そういったことで『医学としての水俣病-三部作』を作ったり、それから、『不知火海』などを作り進めてきますと、今度は「君の映画の連作を短いバアジョンにまとめてくれないか」と。「私は上映活動をしたいんだけれども、あなたの映画は二時間半とか三時間近いから何とか中編程度のフィルムにしてほしい」と強い要望がありました。僕はダイジェスト版を作ることはあまり好きではないんですけれども、なるべく多くの人に見られる範囲の上映時間の中に収まるフィルムを作ってみようというようなことになります。それは圧縮したなりにかなりシャープな作品になりますから、そういったものを作ることに意味も感じて何とかやってきました。

小畑 『水俣病、その二〇年』とか『その三〇年』という作品ですね。

土本 そうです。ですから、広い幅での範囲の言い方でいえばリメイクになりますが、全く新しい作品と同じぐらいの力量を使って縮めたつもりです。

小畑 ちょっと聞いたところによりますと、『その二〇年』というのも、カナダを回っていらっしゃって、それであちらの、カナダの方の何か放送局と協力して……。

土本 オリジナルはそうです。カナダのケベックTVで作った『水俣から世界へのメッセージ』というのが『水俣病その二〇年』の原型です。

小畑 そのカナダでのことも少し後で聞きたいと思いますけれども、患者さんに見せて、その反応というのは、撮られるのには強い抵抗を持っていたそうですが、見ることに関してはどうだったんでしょうか。

土本 やはり患者さん自身は自分が出ているだけで気恥ずかしいとか、自分が出て喋っているだけでもう頭がカッと来ちゃって、とても映画全体を見る余裕がないとか、そんな反応なんです。三回見て初めてこの映画はいい映画だなと思ったとか、第一回を見たときは、もう私のシーンがいつ出てきて、何を言っているのか自分で気になって気になっていろいろなことを考えちゃったりして、それで分からなかったみたいな、そんな非常にシャイな感じが多いのです。
 でも、反応は一言で言えばやっぱり、自分たちの映画ができたという感じ、自分たちの怒り、心を言ってくれているという印象をもたれたことは、共通していたように思いました。

カナダの水俣病-映画を持ってカナダを歩く

小畑 私も全く知らなかったんですけれども、カナダでもそういう水俣病が、水銀汚染があって、それがしかも先住民の、いわゆるインディアンと言われている人たちの居留地で起こっていると。それで、ちょうど私もカナダに住んでいたことがありまして、モントリオールなんですけれども、友達がマニトバのウィニペグにいたので、そこまで行く途中でケノーラの湖も通りました。とても景色のいい所だという印象しか持ってなかったんです。土本さんの本を読まなければ、これ全く本当に知らなかったんです。見ているだけでは分からないのですね。不知火海の景色も土本さんの映画を見ればわかるように、非常に美しいんですよね。ケノーラも非常に夕日の美しいところでした。そのカナダに水俣の映画を持っていらしゃった時のことを少し話していただきたいと思うのですが。

土本 情報の発信はアメリカから来たんですよね。カナダに水俣病があるというのは。それがくしくも水俣を撮っていた友人、ユージン、アイリーン・スミスご夫妻が足もと、アメリカにとってカナダは足もとみたいなものなのでしょうか、アメリカ大陸の先住民の居留地区にこの汚染があるというのを知らせてきて、ともかく日本から調査団を送ってくれと。もうカナダの医学者たちも一生懸命調べているけれども、日本とは経験がないから対応が格段に違う。水俣病じゃないと結論を作り出す可能性も考えられるので、日本からぜひ来てくれと。
 そういったことにこたえて日本がわの動きが始まるわけなんですけれども、私も、カナダ先住民が日本に視察に来た時に映画を撮りながらずっと付き添っていたんですけれども、彼らが帰るときに、「土本さん、どうしても映画を持ってきてくれないか、自分たちでは説明仕切らん」と言うんです、説明が十分にできないと。あなたの映画を持ってきてもらえないかという強い言づけがありました。

小畑 最初は、じゃあ向こうから来たわけですか。

土本 そうです。一九七五年七月先住民の代表が五名水俣・新潟水俣病の視察に来たんです。その帰る時のお願い事だったし、実際どう考えても、差別されて、教育的に低いと言われているような先住民のグループが、日本で見たことを彼らが自分たちの居留地で幾ら力説しようと本当の水俣病というものの実態は伝わらないだろうなと思いました。だから、同じ年の九月からモントリオールまで行きましたよ。バンクーバーからモントリオールまで全部、大学それから……。

小畑 日本と違って広いですからね。

土本 居留地からはじめて、州政府、連邦政府の関係者から住民運動の人たち全部にまで見せましたね。翌年も入れると、全部で一五〇日ぐらい回って、一三〇回ぐらいの上映運動をやったんじゃないですかね。で、大変にそのことはインパクトを与えたと思いますし、一定の前進は見たと思いますが、やはり何といってもネイティブな人たちのその汚染された数は、二つの汚染集落を集めても一八〇〇人ぐらいしかいないんですよ。一八〇〇人の問題のために、一つの企業が壊滅されていくかどうかという話ですから、連邦政府としてはやっぱり新しい産業立国、産業育成のために企業を守りますよね。
 だから、やはりその後に映画を持って行ってどれだけのことがし終えたかというと、多少の改善はあったし、水俣病ということについての一定の認識は生まれたと思いますが、とてもじゃないけれども、多国籍企業を招くといったカナダの国策と先住民の運命とは秤にかけることが出来ない。それで、先住民の水俣についての運動は壊されていきましたけれどもね。

小畑 千何人という患者の数は少ないかも分からないですけれども、そのあのあたりのリザーブにいる先住民の人口自身がそんなに多くないはずですね。パーセンテージとしてはかなり高いんじゃないかと思うのですが。

土本 高いです。

小畑 土本さんは、自分の映画を持って行って、その先住民の人たちにももちろん見てもらったわけですよね。それで彼らの反応は。彼ら自身は分かってなかったんですか、その水銀汚染の……。

土本 分かってないです。つまり、初めて起きた病気ですから、何か体の調子が悪いというふうに、あるいは自分たちが溺れるように飲んでいるアルコールのせいかなと思ったりしていましたね。そして、その反応を知りたかったのですが、一番端的には水俣の猫を、猫の写っているシーンを見せますと驚いていました。インディアンのその集落で猫がやはり狂っているんですよね。だから、猫はアルコールを飲まないという単純な言葉が説明するのに効果的でした。
 その点では、自分たちはやはりこういう形でジェノサイドされるんだなという、水銀によって最終的には殺されていくのだという意識を持っていたと思います。それで、白人には違う生活圏があるわけですけれども、あのネイティブの人たちは、全く湖で観光ガイドしながら、観光ガイドが一番いい現金収入なものですから、それに圧倒的に人々が参加するわけで、その中でも目玉が釣りですから、釣りを楽しみ、魚をその場で食べるという、スポーティな生活を味わわせるわけです。自分でボートを漕げることと、料理をつくれることがガイドになるための必須条件なのです。結局魚を真っ先に食べるから、真っ先にやられていくという構造なのです。ガイドの人は魚を多食する生活が一年のうちで、春から秋までの何カ月にもおよぶのですけれども、訪ねる観光客の滞在は二週間とか一週間だから、そこで魚を食べようと別にそれほどの被害はない、ネイティブの人は明らかに直撃されたという感じでしたね。

小畑 それでやっぱり、白人にもいたとは思うんですけれども、圧倒的にそういう理由で先住民にその患者が多い。

土本 水俣病は、魚を多食することによって水銀が体内、とくに脳中枢に蓄積されて起きる病気です。先ほど水俣は美しい所だと、ケノーラも美しい所だと言われましたけれども、そういう非常に辺鄙なところに、原発もそうだと思うんですけれども、いわゆるあまり人口の多くない、つまり、圧倒的に過疎であるということは、ああいった危険物を取り扱うのに一番いいことですから。
 しかも必要な労働力はその貧しい人たちの中から幾らでも得られるという。水俣なんかも、水力電力があり、原料の石灰石が天草で採れ、あの辺の底辺住民の中で一定の義務教育を受けた人たちがいて、それを労働力として引き込むことができ、しかも、多少の産業廃棄物が出ようと出まいと、そこは圧倒的な資本力を誇る会社ですから問題にならない。そういったところでやるからこそ、過疎特有のきれいな自然と被害が隣り合わせにあるという、まことにパラドキシカルな風景になってしまうのだと思います。ケノーラもそうした風景の一つなのです。

小畑 もう私が尋ねようと思っていたことの答えがそこに一つ出ていると思うんですけれども、水俣というものが現在に投げかけている意味というものが、そういうところに見えていると思うんです。ケノーラとの共通点として、汚染する企業があり、それから、汚染された魚を食べた患者がいるわけですが、その背後に、そういう経済的な問題があるということを忘れてはならないのですね。

呼称論議-「水俣病」以外の呼称は歴史を担えない

小畑 「水俣病」というと水俣にマイナスイメージを与えるというので、差別用語とまでは言わないけれども、水俣病という呼び方に抵抗を感じるという人ももちろんたくさんいたと思うんですね。それに対して、土本さん自身は、水俣病という呼び方でいいんだとおっしゃっていたと思うんですが、その点はいかがでしょうか。「水俣」は国際語になっちゃっているようなところもあるわけなので……。

土本 水俣病と呼ばないで有機水銀病と呼んでほしいとか、あるいは発見者細川一(ハジメ)博士にちなんで、細川病と言ってほしいとかいろいろな意見があって、それは今傾聴に値するもんだと思うんです。というのは、水俣病というのはどういう語源で出てきたか考えてみますと、戦争直後、貧しさと、衛生状態の悪さから、全国至るところで奇病という名のつけられた疫病が蔓延しましたね。あるいは食中毒事件とか、特に寄生虫による何とか奇病という言葉がいっぱいあったんです。
 水俣病も厳密な言い方じゃなくて、水俣奇病というふうに言われてて、その奇病の奇が抜けて水俣病になってしまったんです。その意味ではやっぱり風土病と紛らわしい、いわゆる一般的な病気の原因に根ざした言い方をすれば有機水銀中毒というふうに言った方がいいんですけれども、水俣病という名前が発生当時から使われてきました。そうすると、ある時期に水俣病の呼称変更運動というのが、そういう呼び方をやめろという運動が水俣で起こるんです、水俣現地で。それのやっぱり一番の勘どころは、やっぱり水俣病散らしというか、水俣病のイメージを他の言い方をつけることによって、なるべくダメージを減らしていこうということに力点が当然置かれましたので、これはやっぱり、水俣病をないことにしよう、できるだけ隠していこうとする行政や、あらゆる社会的な、反動的なベクトルでそういうことが行われているというふうに思わないわけにいかない時期があったものですから。
 だから、水俣病という言い方が問題じゃなくて、水俣病をよく学習することが一番の解決であって、水俣病は遺伝でも伝染病でもないんだ、本当に毒を食らって病気になることですから、そういったことをはっきりと知らせることの方が問題じゃないかと。仮に違う呼び名をつけるにしても、その病気はいわゆる水俣病なんだという注釈がついて廻ることになる。
 だから、そういった意味では、僕はやっぱり名前は歴史的につくられたんで、その歴史全体を縦型に眺める以外にやっぱり説明のしようがないと。有機水銀病だと言っても結構だけれども、しかし、それは水俣病のことだというふうにくっつけないと、水俣病の持っている、持ってきた、引っ張ってきた、歴史的な経過的なことは分からない。だから、僕は水俣病という言い方は、生まれた時からそういった間違いを含んでいたかもしれないけれども、水俣病は水俣病として一つの歴史を語りたいと思っています。

小畑 そういうマイナスイメージとかそういうものも含めて、ほかの呼び方にしてしまえば、水俣の抱えてきた歴史が表現されなくなる、単に有機水銀病とかと言っちゃうとそうなるというようなことで。

土本 僕なんかは表現上できるだけ併記していますね、水俣病いわゆる有機水銀中毒症は、という形でなるべく併記するようにしています。

水俣東京展-遺影を集める

小畑 ことしは水俣病公式認定四十年でもありまして、土本さんには『水俣病その二〇年』『水俣病その三〇年』という作品があり、今度は『水俣病その四〇年』も出るのかなと期待しておりますが、秋に水俣東京展があるそうですね。それで土本さんがずっとこう、なかなか難しいことだと思うんですけれども、遺影を集めていらっしゃって、それも展示されるというふうに伺っておりますが、その秋の東京展に関して少し語っていただけませんか。

土本 これだけもうローカルなニュースから日本全体の事件になり、世界的でも水俣と言えば、日本の都市の名前で知られているのは、東京、広島、長崎に次いで水俣は知られているということになっていますけれども、それを東京でちゃんと展示したということがないもんですから。だから、四年ぐらい前から、できるだけ早く東京展をやろうということで準備してきました。考えてみれば、水俣のいろいろな資料が、全国の人たちに見れるような形で整理されて、移動展示もできるし何でもできるというふうに、集約されたことがないんです。
 だから、東京の人力と資金力と、それからやっぱり東京で思いを水俣に馳せた人たちの連合体によって、水俣東京展とか展示物をつくって、できればそれが全国的に移動展ができるようなものを東京でつくり上げたいと。
 東京は中央ですから、いろいろな学者や研究者や、あるいは写真家や作家が水俣に行って、ある種の造形をして東京で発表をするということをやってきましたけれども、それが水俣現地には残っていない。だから、何かをつくりあげて水俣に残すということをしたいと。この遺影もそうですけれども、今分かってきたのですが、いろいろなこの愚かしい出来事、あるいは戦争という悲惨な出来事、あるいは原爆という出来事、そういったものがある場合に、被害者の一人一人を思い出すために名前を書くとか、あるいは肖像を出すとか、そういったことがまず第一に慰霊行為のスタートとなるような時代になってきましたね。
 ところが水俣病の場合まだはっきりと犠牲者の名前も出されたことはない。人数だけ出されたんです。数だけ、死者一一〇〇何人とかぴしゃっと端数まで出ていますけれども、記銘性を持ってないわけです。だから、やはりこれこれの人がそれぞれどういうふうな人生を持ちながら、水俣病に苦しみ抜いて亡くなったかということを端的に表すには、肖像を出していただいて、それを全部飾るとか、祀るとかですね。僕の場合は余り宗教的な心情を持ちませんが、慰霊ということはあるべきだと思っています。それには誰が慰霊されているのか実体が要るでしょう。そういった意味で水俣東京展の一つの発信源に、遺影を集めてみようということにしたんです。担当は、必ずしも僕じゃない方がよかったんですけれども、全部ボランティアでやる仕事で、これは何百人単位の撮影をしなければならない事ですし、最低何年かかるかも分からない、しかしながら一年だけはやってみよう、その範囲でどれだけ集められるか分からないが、その力の及ぶ限り展示しようということで、その範囲でやったんです。
 水俣病の連作は、さっき言いましたように、僕の場合にはもう上映するという上映責任がついて廻りました。言ってみれば「見せただけで済むのか」という声があるんです。これだけの衝撃を見せられながら、あとおれの気持ちをどこへ持っていったらいいんだと。つまり、おまえさんはやっぱり続けて水俣の現実を見せてくれるべきだというふうに迫られてきた気がする。これが作品を作っては上映し、上映しては作らされという繋がりになってきた。
 じゃあ、今現在すぐ映画を撮るだけの燃え方を僕がして、『水俣病-その四〇年』を撮るかと言えば、僕はちょっと今のところそれだけの意欲がないんですよね。水俣でのいろいろな運動の流れやいろいろなことからいって。いい映画を作るにはちょっと僕自身が今燃えていません。それは多分今高揚期じゃないから僕は燃えないんだという気持ちでいるんじゃないかなという、自分で自分をいろいろ怪しんでいますけれども、やはりそれも一面ありまして、今のところ運動の、かつて患者運動を引っ張っていった患者の闘いのエネルギーが、いわゆる解決案というか和解案ということで、お金を配られて今力が拡散していますから。だから、今の時期あんまり僕自身が内発的に作るようにはならないと思うものですから、もう少し時間を置きたいというふうに思っています。

「和解」の真の意味-これは本当の解決ではない

小畑 その和解ももちろん患者さんたちもかなり年をとられて、すき好んで和解に行っているわけではないと思うんですが、そういうのも含めて水俣に関してこれからの問題点はどこにあるのでしょうか。それから、さっきのカナダの先住民に関して、もし土本さん、どういうふうに連邦政府が最終的には補償なりをしたのかということをご存じでしたら、ちょっとお聞かせ願いたいと思います。

土本 僕の知っている限りでは、先住民の生活問題の解決のために民生的なプロジェクトを作って、水銀というのは水との生活、魚との生活の繋がりから水銀を摂取していくわけですから、それ以外の食えるプロジェクトをつくろうというようなことが多少あった程度で、あとは生活保護ですね。僕の知っている時は月々五〇ドルでしたけれども、今は上がっているとして一〇〇ドルぐらいのものだと思います。そんなことでやっぱり蓋をしてしまったというのが、カナダの実情だと思います。もう何も問題になっていないですよね。

小畑 水俣はどうなんですか。和解が成立したということだけで、水俣の問題というのはもちろん終わっているわけではないと思うんですが。

土本 僕は、本当は敗戦なのに終戦という言葉にしてしまったような、言葉のすり替えがあると思うんです。今度の和解というのは、何か患者も和解を求め、そして、政府もどっかでこじれた気持ちを直して和解するみたいなそんな印象を受けますけれども、とても水俣病の縦の歴史を眺めてきた場合は絶対そんなことはないんで。つまり、これは一方的に加害者が悪くて、被害者は一方的にやられまくっていた歴史で。水俣病というのはそこが大変に難儀なんですけれども、外見は別に糜爛したり腐乱したり、骨が曲がったりするわけじゃないですから、慢性的水俣病では見た目は健康人とあまり変わらない。だけど神経中枢がやられている。このやられ方はもう、それは手の痺れや口の痺れや味覚の痺れといったものだけでも、どれ一つとってもやはり被害者にしか分からない苦しみです。歯を抜くときに麻酔かけますね、その麻酔が何十年と続いているとしたらどんなにダメージかというようなことを考えれば分かると思うんだけれども。

小畑 外見では分からない。

土本 外見では分からない。結局、ニセ患者という言葉がずっと仕組まれて、十五年も患者の上に投げかけられてきたんですよ。患者の方も、自分の病気は人には分かってもらえないだろうなということを知っているんですね。人に分かってもらえないものにどうやって自己主張していくかということで、苦しみ抜いてきたと思うんですけれども。結局今度は、認定制度上の水俣病とは言えないが、あなた方に有機水銀の影響がなかったわけではない、そうした健康被害に対して救済するという持って回った言い方が横行していますね。結局日本で一度はつくられた補償体系を取り崩して、そしてそういった汚染地帯に何年以上住んで、当然魚を食べて障害をもっているであろう人に対して、ある種の見舞金を出すというような形ですから。
 だから、水俣病とはっきり認めてくれることこそが名誉回復になるんですけれども。自分はニセ患者じゃなかったということで。それもなかった。それから、この間題における国家の責任、政府の責任というか、行政の責任ですね。これを明解に責任があったと、お詫びすると、それはもうお金の問題じゃなくて事実問題として責任があった、というふうに言えば患者もすきっとするんですけれども、遺憾なことであったみたいなことで、自治体総体が主役であってだれ一人個人の役職が問われないというので、こういう解決では、本当の終わりにはならないです。

『ショアー』-消されたものを証言のみによって再現する

小畑 ここで、ちょっと『ショアー』との関係をお尋ねしたいと思います。ことし五月から六月の最初にかけて、ランズマン監督を土本さんはお呼びになって、上映とトークショーの催しをなさいましたね。なぜランズマン監督を水俣に呼ぼうとなさったのか、その辺を聞かせていただけませんか。

土本 非常に単純なことなんですけれども、日本に来てもらって、僕が親しくランズマンさんとお会いして、彼の映画をどうやって作ったかを僕が聞いてみたかったし、『ショアー』のように九時間半もの映画をつくっちゃったら、一人の映画人としてはこれは観客無視みたいな意識もちらつくんですけれども、しかし、見てみればちゃんと分かるわけで、そういった映画をつくるには勇気がいったと思うし、そういったことをお聞きしながら彼にやっぱりエールを送りたいと思って。
 その来ていただく一つの理由としては、やはり水俣病のおきた現地をぜひご案内したいと。あそこも圧倒的に美しい所だと僕も思い込みがありますから、そういう一番美しいところに、こういった事件が起きたということの一つの驚きを彼にも与えたいというような、若干の茶目っ気を含めて、彼を招いた一番のお礼に水俣を案内したかったということです。

小畑 ランズマンさんは、水俣に行かれて、どういうふうに感想を述べていらっしゃったんでしょうか。

土本 汚染した海と聞くから、やっぱり海が濁っているとか、ヨーロッパのいたるところの河や湖にもよくあることですけれども、大変な汚れがあると思ったところが、水俣の海はきれいなんですね。魚も泳いでいるし。それがみんな微量に水銀を含みながら、その食物連鎖を経て最終的には人間に極めて高いレベルに濃縮されたという、そういった舞台が不知火海ですからね。それこそプランクトンの汚染から始まって、小魚の汚染、大きい魚の汚染、それを丸ごと食べた人間汚染というふうになったわけですけれども、そういった水俣病の舞台として、こんなにまたきれいな海があり得たのかという、これは人間の視覚としてきれいな風景、きれいな海、きれいな水、そういったものに少しも疑いもなく信頼を置いていた人間の今までの生活と、水俣以後では違うわけです。
 そういった意味で水俣のきれいさを見るにつれて、今の化学産業だけじゃなくて、文明の持つ危うさがどしんと体に来たという印象を彼は受けただろうと思いますけれども。

小畑 『ショアー』についてですが、あれは九時間半という長い映画で、しかもナレーションは抜きで、本当にインタビューだけで、ナチスによるユダヤ人虐殺を明らかにしようと、加害者も被害者も含め様々な人を訪れ、質問するのですが、ある時にはもう答えを強要するような、とにかく証言のみで構成しているという映画なんですけれども、そういう手法面では、土本さんどう思われましたか。

土本 非常に感心しましたね。証拠になる原像は全部消されていて、もう物として追跡していくとことがかけらもできない。絶滅収容所の跡は絶滅収容所の末期に全部骨を燃やして、粉にして川に流して、そして生き残りは一人も出ないように皆殺しにして、建物は全部壊して、あと植樹して林につくり変えて。今行ってみると、彼が取材した以後三〇年ぐらいの時間がたっていたと思うけれども、何も残ってない。
 そういう中で、アウシュビッツのように形が残っているところは話題になりますけれど、絶滅のみを目的とした収容所は跡形もなくなくなっていた。絶滅の装置も持っていたけれども、半分は生産の強制労働の場所だったアウシュビッツとそういった絶滅収容所とは全然違う所がある。へウムノやトレブリンカなどの三つ、四つの収容所は、殺すだけの工場だったわけですから。
 だから、そういった工場を現代に再び記憶の中に引っ張りだしてくるということは、言葉・証言でしかできなかったわけですからね。だから、その言葉をどういうふうに組み立て構築するかという意味では、彼の才能というのは大変だったと思います。その大変な一つに、生き残った人というのは、何らかの意味で生き残ったやましさを持っている人ばっかりですよね。自分は生き残った、多くの死者たちは自分の目の前で死んでいった。そのことを語るのに、やはりランズマンさんは、その証言者の個人生活には一切、あるいは個人の歴史にはあまり光を当てませんから、ともかくあなたが見たものを正確におっしゃってください。即物的におっしゃってくださいと言って、極めて具体的に答えを引き出しました。
 それから、もう一つは、この事件が幾ら消そうとしても消えない、鉄道とか、それからいろいろなそこの周辺の農村、農家というところまで足を運んで、やはり人々は殺されるのを見ながら今まで沈黙を守っていた、それをどうしても問いただしながら消えうせた世界の再現・死者のよみがえりを徹底的に、あらゆる角度から、もうこれ以上ないというぐらいにやられましたから。
 だから、姿があるものなら記録映画ができるということは常識だったんですけれども、姿がない、ともかく生き残っている人の話しかないという、そういった状況から二〇世紀の最大の犯罪の一部がこれだけ出たわけですから、そういった映画の使い方として、映画を手段として使う使い方として、やはり一つのピークを極められたと思うんです。それへの尊敬はあります。

終わらせられないもの-従軍慰安婦やエイズ問題も同じパターンだ

小畑 土本さんやランズマンのそうした、忘れられてはならないものを記録しようとする姿勢の対極には、消そう、終わらそうとする者がいるのでしょう。水俣は和解で終わりだとか、ホロコーストでいえばもう跡形もなくなかったことにしようと。『ショアー』が切っ掛けかで、結局「マルコ・ポーロ」が廃刊になったと思うんですけれども、あれは証言だけで物証は何もないんだと、ユダヤ人虐殺はなかったんだというような極論も出てきたと思うんです。そう言う終わらせよう、なかったものにしようという流れに対して、やはり映画であるとか芸術、文学というものは忘れさせないために力を発揮できるのじゃないかと思います。「権力というものは忘れさせようとする、しかし、それを覚えているのが弱い者のできることなんだ」というようなことを、チェコから亡命してフランスへ行ったミラン・クンデラが言っています。『ショアー』のランズマンはやっぱり、あれ以上短くできなかったと思うんですね。土本さんも水俣をずっと撮っていらっしゃってやはり止められなかったのではないでしょうか。先ほど、今ちょっと撮ろうという気力がしないとおっしゃってましたが……。

土本 現実に触発されてないというか。

小畑 これで土本さんはもちろん終わってないと思うんですね、水俣を。その辺、今後のことも含めていかがでしょうか。

土本 『ショアー』の場合には、このランズマンも言うとおり、一九三〇年代の終わりから、四四年に確実に終わったあるピリオドを、いつ始まっていつ終わったということは言えるんですけれども、水俣の場合にはまだ終わっていませんからね。だから、まだ終わっていないということを考えますけれども、僕が今申し上げたのは、今すぐ目の前にこういうふうに撮ろうという心弾むものがあるかないかということを率直に申し上げたんですけれども。
 一つ言えますのは、今までの連作の中で、かなり聞くべきものは聞いてきたような思い上がりがあるんですね。ですから、これから水俣で何が、何の発見があるのだろうかというふうにこう考えた場合、僕にはすぐ水俣でこういうものを続けて撮っていくでありましょうというふうに、断言断定はできない立場にいるんです。
 ただ、言えますことは、今度遺影を五〇〇人ぐらい集めましたけれども、みんな名前も知られたくない、自分たちのことを知られたくないということでずっと来た患者世界だったと思います。五〇〇人という遺影は、その遺族がやっぱり二人や三人はいるわけですから、その人たちがよかろうと思って僕たちに出してくれたんですから、のべ一〇〇〇、二〇〇〇の水俣病の人たちが、精神的にジャンプされたんですよね。要するに写真を出してもいいという形に。それこそさらし者になるかもしれないということが分かりながら名前も出した。それは、僕は慰霊ということをもし口にして言うならば、だれを慰霊するかがはっきりしてないということは、やっぱりあり得ない。慰霊する対象をあなた方が出してほしいと言ってきたわけです。
 このことで水俣が少しでも変わるとしたらこれは興味があります。つまり、水俣にある隠し事がなくなり、被害者が被害者として胸を張って、自分たちの被害のおかげで公害の恐ろしさというのをこれだけ知られることになったと、やっぱり自分たちが非常に辛く悲しく生きたけれども、そのことは少しは人の役に立ったという風になってほしい。そういったものが手にできて、その人たちの一生が成就していけば、これは一つの何らかの悲劇の終わり方になると思うんです。しかし、今のように辱められ、自分をこう顔も出したくないような、水俣のことの話題があると心がドキンとして、何か悪口を言われるんじゃないか、何だおまえたちは補償金をもらってとか、何だおまえたちはニセ患者のくせにとか何か言われはしないかと、水俣病という言葉を聞くのが一番幸いというような水俣病患者がいる限り、こんなことはやはり僕はもう許せません。このままで多くの人が一生を終わるならば、この被害者の数今一万を超えようとしていますから、これだけの人たちに共通してそんな暗い心の負担を与えたまま一生を送ってもらっていいものだろうかと思います。責任は加害企業のチッソにあるともうこれははっきりしたわけですから次は国です。これだけ広げたのは国の責任だと、まことに申しわけないとすっきり詫びて、障害のある人は、程度の差こそあれみんな水俣病なんだと思うと認めて欲しい。それに対してお詫びの補償金は少ないけれども、そのことは分かってほしいというのならまだ分かりますからね。
 国の責任もはっきり言わない、水俣病とも言わない、それで二六〇万円で一応和解と。僕は今、患者の実相は敗北感にまみれていると思うんです。敗北感にまみれているんだけれども、あなたたちの心の広さによって和解できましたというようにして、何というか、患者を納得させようと意識誘導しているのは卑劣極まることで。それこそ従軍慰安婦の問題と同じようになる。あれも職業じゃなかったかなんて言うことがあってはならないはずなのに。

小畑 個人補償でごまかしてやろうという、国家の責任というものには一切触れずに、拙かったことがあるのは認めるが、国としての責任は認めない、遺憾であったと言うだけで……。

土本 同じパターンでまたかと思いますよ。エイズ問題にしても、そもそも発祥の根本は厚生省でしたけれども、やっぱりあれだけのエイズ隠しがあって、薬害がこれだけ悲劇を生んだ。ちっとも変わってない。もう本当に進歩するためには僕は最終的には官僚の責任、個人責任まで立ち入らないといけないし、宗教的になるかもしれませんけれども、これだけのことまで自分はしゃべったと、これだけの誤りまではっきりとことん認めたということによって、その官僚なり個人なりに救われていく。意識が救われて、胸を張ってやっぱりおれは詫びたと。胸を張って詫びたというのはおかしな言い方ですけれども、これだけ事実を明らかにして謝罪して、事を終えたという方が、よっぽど僕は人間的なことだと思うんですけれども。今は個人責任は追及しないという、プライバシーの次元で処理していますからかなわないですね。仮に僕が何か大きな過ちをして、その時には機構の中で仕方なかったとしても、それについてはどういうことでどうだったと克明に、告解というんですか、告白というんですか、それをし抜いた時に僕は救われて、次の段階にいけると思うんですね。けれども、今のままじゃ実に陳腐な解決で、責任ある人がみんな自分で意識の中に持っていながら、それを公の財産にしないで死んでいくというのは残念だと思います。

現実と作品-無機質な現実の捉え方はない

小畑 ちょっと抽象的なことになりますけれども、ドキュメントを土本さんはずっと撮っていらっしゃって、それでまさに現実と関わっていらっしゃるわけですけれども、あるがままの現実そのままじゃなくて、映画を撮っていくとか、文学作品で表すとかということは、現実に対してある種の意味を加えていくことだと思うんです。土本さんは、ドキュメント映画を撮っていく場合に、意味を加えるということに関してどうお考えになるか。意識的に意味を与えるのでなくても、映画なり何なり作品にしていくということは、何らかの意味付けをしちゃうことに繋がると思うんですけれども、なるべく、その意味から漏れていくような意味をすくいとろうとしてもです。ドキュメントといえどもフィクション的なものがあって、現実の意味付けに関わっていると考えられるのか、それとも、できるだけありのままの現実ということを目指されるのか。どちらとも答えにくいかとも思うんですが、いかがでしょうか。そういう現実との関わりについて……。

土本 どうしても映画には選択がありますからね。どの話を撮る、どの話は撮らない。それから、映画のフレームにしても、この限られた四角の中に、真四角のフレームの中に何を撮るか全部選択が働きますから。それは選択と同時に発見のサイズなんですね。物事を見ていく発見のサイズですから、その発見にはやっぱり意図が働いていますから。だから、この意図はやがてその意図を連ねていく一つの意味性との絡みを持っています。その点では、その作り手の見た水俣、作り手の発見を通してみた水俣ということになって、それが普遍性を持っているかどうかが問われるんで、そういう意味では僕はあるがままの現実というような、無機質的な現実のとらえ方というのは全くない、あり得ないと思っています。それは生身の、人間の言うなれば心とか精神を通してつかんだものを出していくわけで。
 カメラはどこで切るかといえば、カメラは放っておいてオートマチックにしておけば今だって映像を撮ります。それが人がカメラを握ると、動いていくものに沿ってカメラを動かします。これは意図ですよね。また、カメラは、無限大に自由に視野にいろいろなものが入ってくるわけなんですが、その中からここを見よというふうに限るわけです。こういったことの中にはやっぱりどうしても、選択と発見がある。それは非常に意図的なものだというふうに思います。自分の主観主義に陥ってないかどうかの点検はします。自分だけの独りよがりではないかという点検は編集で徹底してやります。けれども、やはりそこには私が見た何々ということが必ずついて回るだろうと思いますけれどもね。

小畑 水俣をこれだけ様々な角度から撮ってこられても、やっぱり土本の水俣なわけですか。

土本 そうでしかないと思いますね。

今後の抱負-朝鮮半島とオホーツクを撮りたい

小畑 最後に、水俣が土本さんの仕事の中で一番大きな部分を占めていると思うんですけれども、水俣だけではなくてその他のものももちろん撮られているわけで、よろしかったら今後どういうものを、水俣じゃなくてもですね、何かこういうことをやりたいというようなことがございましたら聞かせていただきたいと思うのですが。

土本 あまりまだやってないことを言うわけにいかないんですけれども、一応今調査をしているのは二、三ありまして、一つは朝鮮半島ですね。朝鮮半島の、もう日本との全部絡みですけれども、朝鮮半島と日本という問題で、特に北朝鮮がやっぱりこれからどういうふうな日本との関連を持ってくるだろうかという意味で、その間題が一つ視野にありますね。韓国・朝鮮人の従軍慰安婦の問題が前景にありますので、そこから切開していくつもりですが。それから、もう一つは、日本の魚資源の四割がロシアの領海からきていると言われていますので、日本の食糧問題でもあるんですけれども、最近オホーツク海を取材して、これは次回作にどうかなというふうに思っていますけれども。切実に今目の前にあるのは北方四島問題とか言われますけれども、海というのはやっぱり民族の共生を保障していく立体像であると思うんで、その点は昨年でました『されど海-存亡のオホーツク』(影書房版)で書きましたが。
 戦前にはオホーツクのもうどんな辺鄙なところまでも日本人の漁夫が行っていたわけですよ。春から秋まで、氷結前、凍る前ですね、流氷とか海面凍結のない五月から十一月ぐらいまでは、オホーツクの本当に深いところまで漁業をやって、そして日本に鮭だとか、タラコとか、カズノコとかあらゆる物を持ってきたわけなんです。その部分がいわゆる冷戦構造によってソビエトと日本に分かれて、日本は全くいわばこの北の海についての関心をなくしましたが。東京からでは北の地図は分かりにくい。ちょっとその取材の場所を北にずらしていって、根室あたりに行ってみれば、オホーツクというのは大変な、自分たちの死活にかかわる海であるわけです。その辺のところで僕はオホーツクにいるロシア人たちの生活を思いますし、それから海一つ隔てた日本人の生活を思うし、そういう意味でひとつ映画をつくりたいなと考え今調査を続けているんですが。

小畑 海がお好きなんですね。もう、不知火海に始まって、今日の話は対馬海峡、オホーツクへと繋がる。

土本 海はやっぱり、最後人間が滅びても残るという感じがしますよ。

小畑 海は生命の源でもありますし。きょうはお忙しいところを貴重な時間をいただきまして本当にありがとうございました。

(七月十九日、於 明治大学和泉校舎)