患者の素顔通じ「水俣」告発 インタビュー 『北海道新聞』 2月23日付
戦後社会の矛盾とその時代背景を切り取る記録映画の世界で、長い間、「三里塚の小川紳介」、「水俣の土本典昭」と言われてきた。
戦後日本描く遺影500枚
熊本県の不知火(しらぬい)海に三十年通い続け、水俣病を題材に送り出した映画は十五本。公式発見から四十年の節目に当たる昨秋の「東京・水俣展」では、亡くなった人たちの遺影五百枚を会場に展示した。
「訴訟は昨年『和解』になったけれども、水俣は終わっていない。鎮魂の前に記録。死者の数は端数まで出ているのに、だれであるのか、どういう人なのか。鎮魂という言葉に隠れた一人ひとりの像をとどめ記録することが、水俣病を風化させない上で大事なことだと思いました」
その顔写真集めの作業は困難を極めた。国や県に名簿がない、チッソも出さない。千二百人近い死者のうち、名前が分かったのは約九百人。一年間水俣に移り住み、海沿いの集落を一軒一軒訪ね歩いて、遺影の撮影ができたのが五百人だった。
「名のない人にも名前はある。偲(しの)ぶことのできる姿かたちがある」-この思いは、一連の映画づくりにも込められた。患者に「答え」を求めず、相手に「語らせる」待ちの姿勢。単に患者としてではなく、人間を丸ごと浮かび上がらせる切り口。そうした手法が徹底した告発につながり、水俣病という鏡を通して戦後の日本も描き出した。
病むオホーツクにも目
「患者への差別や偏見など社会的条件も併せて記録していかなければならなかったし、何より患者の前に漁民、漁民の前に人間なんです」
最近はオホーツク海に関心を寄せている。一九九二年から二年間、映画の下準備で道東やサハリン、北方領土を回り、その取材をもとに九四年、「されど、海 存亡のオホーツク」(影書房)を出版した。
被害回復に五十年はかかるといわれる不知火海と同様、オホーツク海も「病んだ海」だった。
「水俣の教訓が求められているのに、人間のおごりというか、乱獲や密漁、核廃棄が横行している。オホーツクを仲立ちにして、各国が共存共栄できる可能性を残した素晴らしい海なのに」
時間かけ命長い作品を
六十八歳。映画の仕事の「まとめ」を意識するようになったという。テレビがフットワークのいい仕事をする中で「寡作を恐れず、時間をかけ、命長く観賞に堪え得るものをつくっていきたい。そして、いつでも最後の作品になるかもしれないという緊張感をもって」
いま、十六作目の「水俣」を編集中。現在の水俣で営まれている人々の生活の裏に水俣病がどんな影を落としているかを描く予定だ。もう一つ、オホーツク海の映画づくりに向けた資料集めも続けている。「四十代、五十代の元気はもうない」といっても、製作意欲は衰えない。
文・田辺 靖記者