輝ける負の遺産 インタビュー 月刊『医事研究』 8月号 ニチイ学館
水俣四〇年の軌跡にふれて
ー公害問題というのはかなり古く、富山県のイタイイタイ病なんていうのは昭和四七年に患者が勝訴するまで五十年もかかっていますし、四日市市の煤煙による喘息とか、田子の浦港のヘドロも問題になったことがあります。これは高度成長期にあったわが国の状況と重なりますが、水俣病も大きな社会問題だったと思います。
そして、土本さんとお話しさせていただくにはどうしてもこの「水俣」は外せないんですけれども、当時の水俣は市長も議員も「チッソ」出身でしたから、そこでの取材やカメラを回すというのは、並大抵のことではなかっただろうと思いました。
土本 おっしゃる通りで、僕が初めて水俣に入ったのは一九六五年でしたが、こちらとしては、やはりどこかに正義感みたいなものがあって出掛けたんですけど、水俣に一歩入って体中で受け取ったのは、町中の拒否感だったんですね。
例えばタクシーの運転手さんに、「お宅は水俣病の患者さんをご覧になったことありますか」と聞きますね。そうすると、非常に不愉快な声が返ってきて、ほとんど答えてくれない。町の喫茶店でスタッフと水俣病についてどう撮ろうかという話をしていますと、そこのウェートレスが水の入ったコップをボーンと置くような感じで、水俣病に対するガードの固い町だなというふうに思ったんです。水俣病の患者の多い漁村では、撮影はしてくれるなという激しい拒否にあいましたね。「なしてこの子を撮るか。幾ら撮ったって水俣病は治るもんじゃない。私たちが幾ら写真に協力しても、後でテレビ局とか新聞社から金もらったとか言われる。その苦しみがわかるか」と言うんですね。そんなんで、第一ステップから水俣は怖い、水俣は本当に撮影が難しいところだという感じを受けたんです。
それはテレビの取材だったんですけれども、それ以後、また緑あって水俣をどうしても撮り続けなればいけないなと思いまして、それで結果として外国版を入れると十五本ぐらい撮りました。
ーぼくは『医学としての水俣病』三部作と『水俣-患者さんとその世界』を観させていただきましたが、やはりあれだけ入り込むというのは、いろいろな確執と同時に信頼関係がないとできないことだと思いました。そして、七〇年のチッソの株主総会でチッソの役員を前に、自分と一緒に水銀を飲んでみろという場面には圧倒されました。そして、患者や患者の遺家族が白装束で、御詠歌で鈴を鳴らしてというのは、言葉を超えた力がある。映像の持つ力というのを感じましたね。
土本 やっぱり患者にも一つの自己表現があったんですね。だからチッソの株主総会に行くというのは、本当にチッソと直にしゃべったことのない人たちだから、もう一生に一回だと思うし、大阪まで出ていけば、どういう格好していったら見栄えがあるのかみんなで考えてね。大阪に行けば、やっぱり「頑張るぞ」式の運動体の集団に出会うだろうと思うから、自分たちは自分たちだと。際立たせる意味で、やはりあの御詠歌を歌ってね。
ーそういう意識があったわけですか。
土本、ええ、非常にありました。白装束で出るということを患者の中で発議されましてね。自分たちの装束を縫って出たんです。水俣病闘争というのは政党や労働組合が全然指導しなかった闘争ですからね。
ーそうですか。ぼくは何かどこかに演出的なものを感じないでもないような構造の気もしたんですが、そうですか。
土本 水俣病の諸運動の最大の組織は、日本共産党系による「被害者の会」だったんですけど、それはどちらかといえば、旧来の政党主導型の、どうしても臭いを持っている運動だったんですね。だけど、第一次裁判を闘った患者の支援者たちは、完全に意識的無党派でしたね。例えば石牟礼道子がその火付け役ですけれども、彼女の訴えを聞いて参加した人たちは、元共産党員だったり、元運動家だったりした人はいるんですけど、本質的なところで自立した運動をしなければいけないと思っている人が石牟礼さんの訴えに応えたものですから、政党のセクトを絶対に持ち込まないということを考えてやった。
ーぼくは土本さんの作られているような記録映画が、その時代を告発したり、検証したり、問題を投じたりということはもちろんあるんですけれども、そうじゃなくて、やっぱり結果的にフィルムに焼きつけていく作業というのは、常に現在を切り取って提示する。もちろん撮る側の問題意識は重要なんですけれども、提示する。あとはやっぱり見る者がどういうふうに受け取るかということでしかないんじゃないかなというふうに感じて拝見していたんです。
土本 いや、そう見ていただければ大変ありがたい。僕自身が、それまでの記録映画というのはどちらかというと、ナレーションや音楽のつけ方も含めて、一方的な指示性といいますか、この映画はこう見ろという形の強いフィルムが、戦争後も随分作られてきたものですから、やはり社会的なテーマであり、政治的なものを含めば含むほど、どこかで見る人自身が判断して、これは自分の見方で見て判断していくべき映画だなと受け取ってくれるような作り方を、絶えず気をつけてね。
ーですから、これはあとで話題にしようと思っていますけれども、昨年、土本さんがクロード・ランズマン監督を日本に招いて映画のお話しをされていましたが、ナチスの大量虐殺を検証した『ショアー』を彼が作った時も、まさにそういう意味では実録フィルムさえも挟まないで、ただただ証言者の言葉だけで綴るといった手法で、まさに土本さんと交叉する部分ですね。
土本 ええ。彼はそれを非常に意識化していまして、多分にフランスのドキュメンタリーの流れの中でユニークなものを出そうとした歳月があると思うんですけれども、ナレーションが横行しているドキュメンタリーに対してナレーションをつけない。それからニュースフィルムを随所に使って話を運んでいくような、いわゆる羅列的な作風は一切排除するとかですね。いくつか自分で禁じ手を作って、自分が眼にし、耳にした証言をいかにして伝えつくすかということをやったと思うんです。
ー彼はそれで充分わかるはずだと言っている。ちゃんと見れば、瞬きさえしなければというような、自信もあるんだろうけれども、映像にはそれだけの力があるという確信を持っていますね。
土本 その点では徹底性を持っていますね。九時間半かかってしまった映画なんですけど、やはりそれは止むを得ない。水俣にしても本当に患者の証言だけで全体像を示すにはそれだけの丁寧な長さが必要だと思いますけど、これはなかなか冒険ですよ。九時間半の映画というのは誰が考えても、どこで食事したらいいのかわかりませんし、見始めたら止まらないわけですから。
ーところで、水俣に関しては昔のきれいな海が取り戻せたということで、九七年九月までに仕切り綱が取られるそうですが、ぼくには、同時に水俣が閉じられていくというか葬られていくような気がして仕方がないんです。
土本 おっしゃる通りだと思います。やはり仕切り網を外すかどうかということは、仕切り網があっても船の通行のために真ん中は開けてありますし、魚は網の目をかいくぐって自由に動いているわけです。問題は、この湾自体の汚染が、やはり本当に安全宣言をするには、魚の検体に水銀値がなくなってから十年とか十五年ぐらい経たなければ安全とは言えないですね。じゃあ、仕切り綱があったから安全かと言えば、それは漫画みたいなもんで、あの仕切り網ではどうしようもないんですけれども、目に見える形であるかないかということは決定的です。水俣病を終わらせよう、済んだことにしようという人たちにとっては、非常に邪魔なもんなんですね。
ー意識づけとしてもの凄く大きな役割を持つものですよね。
土本 だからあれがなくなっていくと、水俣に刺さったトゲが一つ抜かれるわけです。風景の変貌は人々の意識を変えます。だから水俣市民が、あった方がいいのかない方がいいのかと言えば、安全なら取ってくださいよと言うに決まっていますけれども、患者にしてみれば、まだ医学的に探っている最中ですからね。ごく微量の水銀とはいえ、よそよりは強いわけですから、そういう魚を日常食べるようになうたらどうなるかということについては非常に心配していますね。何よりも山本さんがおっしゃるように、水俣病はなかったことにしたいという勢力があるわけですから、そういった人たちによって、やっぱり自分たちの存在が忘れられていくんだという危機感を患者たちは持っていますね。
ーでも考えてみたら、結審するまで四十年もかかってしまって、水俣病に罹った人間にとって、こんなふざけた詰ってないですよね。大きく言えばわれわれが住んでいるこの国に対しての不信感と言いますか、あてにならないなという気持ちがどうしても残りますよね。
土本 だからランズマンに水俣をお見せしたのも、大きな不知火海という自然の一角に、美しい海の色を残しながら世界で初めて生態系による濃厚な汚染の事実があった。だから風景に騙されてはいけないし、風景が美しければ美しいだけ、そのむごさがわかる。ランズマン自身も、かつてユダヤ人が大量に虐殺されて埋められたところが、植林してきれいな森に変わっていることを映画の中で訴えてきた人ですからね。
ーその凄絶さと静譜さのコントラストというのは堪らないですね。
土本 そうですね。やはり東京湾とか大阪湾みたいに汚れているところであれば考えられなくもないんですけれども、水俣は本当に素晴らしいところですから。
エイズ十六年の軌跡にふれて
ー水俣病は公害病でしたが、薬害エイズを考えた時に、その対応というのは行政にしろ企業にしろ、水俣病の時代とそんなに違う構造ではないなという気がしたんです。
土本さんは実際に水俣を長年撮られていて、何というか、積めども積めども賽の河原の小石のように足下から崩れていくようなものってお感じになりませんか。
土本 それは感じますね。やはり水俣病のことを徹底して記録したり文章で取り上げたのが石牟礼道子さんであり、映画では僕であり、写真家では桑原史成とか、みんな在野の人なんですね。社会学的な記録作業とか、あるいは国家的な単位での社会病理的な面まで含めた記録とかいうのはないんです。いろいろなデータの集積とか資料は集めることは集めているんだけれども、それらが地域の被害を受けた住民に公開され、ポイントをちゃんと明らかにしてというようなことはないんです。そういった意味では国としての立場はお粗末なんですね。
ーそうですよね。ですから、薬害エイズにしても、当時の厚生大臣であった菅直人さんがいたから、ある意味では実態が掴めたというか、それがなければ当然隠蔽されたと思うんですね。ですから、ぼくは構造的なものだと思っているんです。水俣でもそうでしたけれども、いまだに出身地が言えなかったり、もちろん私はエイズのキャリアですとは言えないと思いますけれども、そういう問題にまでなってきてしまう。われわれが生きている国であり地域社会であるにも関わらず、そこから爪弾きになる構造になっているということなんですね。
土本 そうですね。象徴的に言えば、全ては患者に合って、患者の声を聞くことから、それを参考に諸対策を立てるのが当然なんですけれども、水俣病の患者に直に会った大臣とか、担当者というのは本当に少ないんです。今までに三十四代環境庁長官が変わりましたけど、水俣に行った人は九人です。直接担当している部署の人も、患者の代表には会いますけれども、一人ひとりの患者に会っていくというようなことはしませんからね。だから、自分たちの声が反映されないで一生が決められていくことについてのやり切れなさは、水俣病患者は一人残らず持っていますよ。
ー声を聞いてもその場で答えられることも、将来的に答えられることもないということを、水俣を訪れた行政の関係者は知っているんですね、きっと。
土本 それは本当に今後の一番水俣病で大きい問題なんですけれども、水俣病の教訓を後の世に活かすということを誰もが言います。誰もが言いますけれども、その主役は患者自身が自分たちの受難を語り継ぐということだと思うんですけれども、その患者たちにとっては自分たちがしゃべることによって得したことがないんですね。新聞に出ても「新聞に出た」となるし、テレビに出たらましてのこと、「また魚売れんようなことをしゃべって」とか、チッソに刃向かうようなことを言っているということで白い目で見られますからね。患者自身が口を閉ざしていく。患者自身が口を閉ざしていく限り、今度は周りがすぐに逆利用して、患者自身が言いたくないものをどうしてギヤーギヤ一言うことがあろうかとなる。患者自身がそういうことは辞めてくれと言っているという。あるいは患者の名前一つにしても、本名で書かれちゃ困るとかね。
ー水俣病に限らずそうだと思いますが、そうするとその患者は何のために倒れて行ったのかということが証明できなくなる。われわれにはそうしたことがあって今日を生きているわけですから、当然背負わなければならないものの一つとして、水俣病もあるのだというふうにぼくは思います。
土本 水俣病で亡くなった方は認定患者だけとっても千三百人いますけれど、僕は去年東京で開催された「東京水俣展」に五百枚の患者さんの遺影を集めて出展したんです。
名前だけでも障害があるのに写真まで出すということは水俣では許されないことだという雰囲気があって考えられないことなんですね。東京だからできたということもありますが、それは僕が大袈裟な努力をしたんじゃなくて、やはりあなた方を記憶したい、亡くなった方を記憶したいということなんです。写真のない時代なら名前だけだったでしょうけれども、写真もある時代ですから写真とお名前をちゃんと出したいということで一軒一軒歩いて、三分の一ぐらい断られましたけど、出してもらったんです。そういった意味で水俣の犠牲者の遺影なりお名前を永久に記録していくということは、患者自身でなくて、患者に対してどう思っているかという周りの志を示す意味で、そのことによって患者自身の味わった苦労から家族を守りたい。いろいろな気持ちで口を噤んでいるに限ると、写真なんか出さないでひっそりと暮らしている人たちを、そういった志によって解いていくというか、わかっていただくということですね。そういったことがこれからの水俣には本当に必要なことだと思うんです。
ーそれがないと、もしかしたら水俣病というのは終わらないかもわからないですね。ただ包み隠していくだけでは。
土本 それが一番大きい問題です。だからさっき山本さんがおっしゃったように、水俣出身ということを十人いるとすれば、恐らく八人までが、私は九州の南の方が故郷ですとか、鹿児島の県境ですとか、あるいは天草だとか言ってみたりしますけど、水俣という言葉は自分の故郷としてすぐ出てこない。そういった悲しい状態なんですね。
水俣の中では水俣病の患者を差別しますけど、日本の諸都市に出ていけば、水俣生まれということで差別されるんです。だからこれは水俣病事件に関わってきた僕たちとしては、どうしても取り除かなければいけない。
ー本当に難しい問題です。ですから、エイズにしても、感染者が昨年六月末で全世界で三千六百万人いる。ああ、すごい数だなって全くつかみどころがないような感じなんですね。でも、薬害エイズもまた、自分の預かり知らないところで降って湧いたような災難を抱えて、自分で処理できるはずがないんですけれども、気がついてみると、みんな個人個人が向き合う苦悩で終ってしまっている。
土本 あと、薬害エイズの人は、自分たちの罪ではない、全くいわれのないことへの怒りの出し方、あるいは川田龍平さんみたいに名前を出してやっていくという人も出てきますけれども、それ以外でエイズに罹った人ね、この人たちのことが陰に隠れて、その人たちの暮らし方や生き方についての助言が社会的な声として出てこない。アメリカと違って日本はそういう点では偏っていますね。
ー確かにそうですね。日本の場合、薬物でエイズに罹るケースは少ないと思いますが、同性愛も含めてセックスによる感染者というのは全体の三六パーセントはいるわけです。しかし、セックスでエイズになったとは、ちょっと言いにくいし、社会もなかなか受け入れてはくれないと思いますね。
土本 やっぱりこれは日本だけじゃないかもしれませんけれども、水俣の七十年、八十年前の歴史をみますと、伝染病が起きた時に、まずすることは「隔離」なんです。不知火海にも明治のころコレラが蔓延したことがあるんですけれども、そのときに村人たちがとった態度というのは、山の中に小屋を作ってそこに外から錠を掛けて、ご飯を運ぶとか、天草の海では無人島にその患者たちを運んで、飯だけ時々与えに行くというように、やはり隔離だったんですね。
そして水俣病も、隔離すればないわけですから、そういった意味で、いわば隔離病棟を作って患者をそこに収容するということはわりと初期からやりましたけど、患者たちに対する支援とか社会的責任を水俣市が自覚して市民に訴えていくというようなことはなかった。だから市の出している広報紙に、二十年間水俣病という文字が載ったことはなかったんです。
表現とは何かにふれて
ー土本さんに表現についてお聞きしたいなと思っていたんですけれども、ぼくは結局表現というのは、ある対象に対して自分をどう立たせるか。それによって自分がどう見えてくるか。結局自己認識でしかないだろうという気がするんですね。だから自分自身と言ってもいいと思うんです。
土本 そうなんですけれども、ちょっと言葉を変えて言えば、やはり自分が関わっていく対象に対して、自然であれ、人間であれ、その関係性というか、興味の持ち方というか、それへの執着というか、そういったものを自分の手持ちの方法で切り取っていこうと思う。そして、やはり劇映画と違って記録映画には発見が三点あると思っているんです。
最初はそこの場所に立って物を見る時の発見、それから撮影した時の発見、そして編集から仕上げの発見ですね。この三つの過程を経て、やはりある種の凝縮がある。それが表現と言えるのかもしれませんし、作品と言えるのかもしれませんけれども。
ーぼくは、例え記録映画でもノンフィクションというのは多分成り立たないだろうと思っているんですね。事実は事実なんですが、そうではなくて、表現されたものというのは、あくまでも、例えば土本さんなら土本さんという映像作家の眼を通して表現したものであって、他の人が見たら違うふうに感じたかもしれないというような意味において、フィクションじゃないかと思っているんです。
それで、カメラマンの大津幸四朗さんとは長年のツーカーの仲だと思うんですけれども、撮りたいものというのはご自分がカメラを覗いているような感じで上がってくるものですか。
土本 僕が感じたよりも遥かに優れたものの時が多いですね(笑)。やはりそこまで行くまでのカメラマンと演出の立場の感性の突き合わせといいますか、我々は何を感じたいと今思っているのか。この日常的に見慣れているものをどういうふうに取り上げていくのか。何のためにそれをするのかというようなことをしゃべり合う時間が膨大にあるわけですね。これは馴れ合って知り合っていても、やはり私じゃない大津という人間と大津にとっては自分じゃない土本という人間がいるわけですから、やはり話し合っていきます。日本の伝統からいって、映画というのは劇映画の発展経過を辿ってきたもんですから、監督からカメラマン、照明まで含めて、縦のヒエラルヒーがありますけれども、記録映画の場合、僕はカメラマンと演出家というのは横の関係だと思っています。場合によってはカメラを助けますし、カメラマンも演出を助けますし、ロケ映画というのは本来そうした共同作業だと思うんです。ただ一番よく働くのは監督だというふうに思いますけど(笑)。
ー『水俣-患者さんとその世界』でも、この漁師の方が水俣の海に入って、タコっていうのはこうやって捕るんだよ、タコの急所はここだよって噛む。そんな場合じゃないんだけれども、すごい悲惨なんだけれども、それはわれわれが第三者的に見ている風景であって、そこにいればやっぱり暮らしがあるんですね。
土本 先ほど記録映画は結果としてはフィクションと境界のないものだと言われたのに僕は全く賛成なんですけど、タコ捕りのじいさんなんかでも、撮り始めると彼は演技するんですよね。日ごろは自分で気づかないことでも、人にわかってもらうにはこうしなきやわからないだろうと思うから、タコを噛んでみたり、カメラで撮りやすいように自然に体を動かしてくれるわけで、そこには自分がどうしても見せたいもの、表現したいものについての演出があるんですね。それがこちらの意図とピタッと合った時に、撮られた人があとで映画を観て「これが俺かな」と思うぐらい日常とは違ったその人自身がピカッと出てくるんですね。そういった意味では記録映画にもちゃんとドラマがあるもんだと思いますね。
ーだからあれは別に水俣病の悪者さんじゃなくても、各地の漁村を訪ねて、「私の何とか捕り方法」というタイトルでも違和感がないような日常性を感じさせるものでしたし、映像も美しいですよね。
土本 そこが水俣のブラックユーモアみたいなものですけれども、水俣病の悲惨さを語りながら、どんと置く酒の肴はすぐそこで釣ってきた魚ですからね。魚に多少水銀が入っているなと思っても、僕らもそれに箸をつけないとやっぱり向こうが非常に気にするんですね。これは大丈夫だと思って食べるわけですけれども、ひと頃は僕も大分水銀値が上がったはずです。非常に汚染された場所でのボラなんかを一週間に三日ぐらいガボガボ食べながら仕事をしていたわけですからね。
ーまさに命賭けですけれど、そうじゃないと信じてもらえない部分もありますよね。『水俣-患者さんとその世界』は七一年の作品ですけれども、昨年の八月にNHKで放映された『記録することの意味』を観て驚いたのは、小崎達純君という当時まだ十一だった少年が三十六歳になっていたんですね。彼にとって一体この二十五年間というのは何だったんだろうと考えた時に、もの凄い重い何かを受け渡された気がしました。そういうのを知らないで生きているぼくなんですけれども、これもある種の感慨だったんですね。土本さんは、もちろんあの方とは懇意なんですよね。
土本 ええ。水俣に行けば必ず寄るんです。あまり水俣病患者としてこちらが構えて接しないことにしているんですよ。彼とは冗談も言うし悪口も言うし、そういうふうにしながら、彼が一番何を望んでいるかなというのを見ながら、できるだけそれに応えるようにしているんです。音楽の好きな子で、頼まれたカセットやCDを持っていってやるんですけど、彼自身も水俣病が自分の現実だと思って親ともきっちり話し合いしているんですね。親の迷惑になるということは自覚しているんですけれども、もうそこでははっきりと一つの諦めを持って生きていますね。
ーぼくは、彼の人生というのはもちろんいろいろ大変だとは思うんですけれども、いい生き方して来たんだろうなぁというふうに彼の笑顔で感じたんですね。
土本 あれはやっぱり家族がいいんですね。
ーところで、ランズマン監督の『ショアー』は撮影時間が三五〇時間でその編集に五年近くかかったと聞いていますが、土本さんの作品で一番長く撮られたものはどのぐらいですか。
土本 一本五〇時間ぐらいでしょうかね。
ー『よみがえれカレーズ』のアフガニスタンでの取材期間は二年ぐらいでしたよね。そのエネルギーというのは、やっぱり誰かがやらなきやならないから、それを意識した自分がやるということですか。
土本 そうした面もあると同時に、その時の勢いみたいなものがあって、お金の面でも労力の面でも支えてくれる人が出てきた時には作れますけど、水俣の場合はあのときの公害等に対して震え上がった日本中の眼差しというのを背中に感じていましたからね。だからそういった意味では何の波風もない時に作ったんじゃなくて明らかに時代の波動を受け止めて作りましたから、それに助けられていたところはありますね。
ーでも土本さんご自身は、例えばこの映像を通じて、国や行政に責任の取り方をどうするんだというような突きつけ方という意識はお持ちにはなっていないでしょう。
土本 根本にはありますけれども、映画がその役割をするということは、全然違うことだと思います。
ーどちらかといえば表現というカテゴリーですよね。『されど、海』を読んで、土本さんが映像作家におなりになってなかったら、ルポルタージュ作家で世界を駆けずり回っていたんじゃないかなという印象を持ちました(笑)。
土本 映画が一番おもしろいですよ(笑)。映画ですと作った時代から引き続いて今でもその映画を見せていくことができるでしょう。それだけの完成度と映画性を持っていなきゃもちろんだめですけど、テレビというのは本当に多くの若い人たちが、今ほとんどテレビでしかドキュメントできませんけれども、使い捨てですね。二年間ぐらいのうち二回は放映されますけれども、あとはほとんど……。
ー時代を超えては生きていけない。
土本 そうです。そういう点、テレビというのは空しいですね。だけどローカル局の場合、キー局と違って自分のエリアに起きたことをこつこつ撮り貯めてということはありますから、希望はローカル局のドキュメンタリーです。地方局の場合、年に一本でもその局の一つのポリシーとしてドキュメンタリーをゆっくりやりなさいというような状況がありますから、腰の据わった作品づくりができるということがありますね。
ー土本さんの作品を拝見して、ぼくなんかも共鳴するところ多いんですけど、やっぱり善し悪しを含めて、人の暮らしに根づいているもの、温もりも怒りも汗も悲しみも感じられる。そういう網の目を張り巡らせたような人間描写を土本さんは本領とされていますよね。
土本 僕の育ちがそういう育ちなのかもしれませんけれども、人が毎日三回飯を食うというのはどんなに大変だろうをというふうに、どこでも思うんですよ。本当に人間は生きていくためには食べなきやいけない。食べるためにはそれを海から捕ってきたり、自分の畑で作って収穫したりして暮らしていた時代から、今ではお金がいりますよね。
オホーツクなんかでもそうですけど、本当に一人一人のロシア人が何で食っているのか、どうやって今晩食うのか。やっぱりその辺のところが気になります。いつもそこを描くわけではありませんが、「あなたは大変でしょう」というところがあるんです。そういったちょっと実際的な最低の眼差しみたいなものがないと、どうしても観念的になってしまいますよね。
一問一答
ー敢えてということになりますが、土本さんにとって「水俣」とは何ですか?
土本 結果としてはやっぱり、映画の道を選んでよかったと納得させるだけの僕の人生で一番大きい対象であったということですね。
ーこの先、水俣をどういうふうに伝えようとお考えですか?
土本 これは時間がかかると思うんですけれども、水俣の甦りというのがあり得るかということね。水俣にはこれだけの悲惨な歴史があるわけですから、それがマイナスの形で残るのか、あるいはその負を水俣の人がどういうふうに水俣に行かなければ見えないものとして、世界の中に築いていくのか。その辺のところは何らかの形で記録しておきたいと思っています。
ー現在のテーマは何ですか?
土本 やはり水俣とオホーツクですね。
ーどういう死に方をしたいですか?
土本 僕は陽気な意味で言うんですけど、自死したいですね。その元気もなくなって、ヨタヨタしていつ死ぬかもわからないみたいな、病院とか家族の介護も含めて、他力的な人生を送るというのは申し訳ないと思うんです。だからそういうこともできないほど消耗しちゃったら困るから、然るべきときに死にたいなと思いますね。
不知火海の水俣、シルクロードの十字路アフガニスタン、原爆の街広島で、そして下北で北方四島のオホーツクで、土本典昭は世紀末の闇に包まれた人々の暮らしを瞼の裏に深く巻き取ってきた。
土本の話す言葉の一つ一つの重厚さは、それゆえの衰しみであり慈しみなのだと受け止めると、この暗闇の真贋が視えた。