水俣から社会が見える インタビュー 『岐阜新聞』 5月19日付 岐阜新聞社
「水俣に行って、人が住む世界は海辺が基本だなと思った。海から物を考え、海から歩き出した時、山また山の中ではよく見えなかった山と川と海の要素が、くっきりと分かってくる」
日本最大の化学工場が三十六年間も海にタレ流し続けた有機水銀で汚染された水俣にレンズを向け、「海の病む時代」を追い続ける記録映画作家の土本典昭さん(68)=東京都杉並区永福=は、土岐市下石町出身。
三歳のころ名古屋に移住したが、地元で助産院を開いていた祖母の元でよく夏休みを過ごし、陶土の白い粉塵が立ち込める風景を懐かしむ。小学三年の時、東京に出たが「都会よりも山の感覚が強い」と語る。
一九六二(昭和三十七)年『ある機関助士』で華々しくデビュー。六五年、テレビで初めて水俣を撮り、七一年『水俣-患者さんとその世界-』から水俣にのめりこ込む。七五年『不知火海』、七六年『水俣病-その20年-』、八一年『水俣の図・物語』などと、英、仏訳版も含めると水俣連作は十五本に上る。
「不知火海はとろりとした女性的な海。漁師も、海と戦うというイメージでなく揺りかごで揺られるように仕事をしていた。それだけに、傷の深さもあった」
海はよく撮った。七九年の『日本の若者はいま』では、伊豆大島で天然塩をつくる若者を追った。八四年の『海盗りー下北半島浜関根ー』では、津軽海峡の漁村を舞台に漁業権をめぐる「海盗り」の手口を描き、原子力船「むつ」母港予定地から原子力・プルトニウム半島化していく下北の全体像を映し出した。NHKで放映した九四(平成六)年の『存亡のオホーツク』では、「豊かな海の貧しい漁業」を強烈に印象付けた。
海からは、地球と人類、社会がよく見えるという。
「海は復元力があるが、人間の時間の中では有限で傷つきやすい。人間がつくり出した有機水銀、ダイオキシン、プルトニウムなどの毒物を浄化する力を、海はまだ持っていない。それらは食物連鎖で濃縮され、最終的には人間に帰る。海に対する哲学、海に対する対処の仕方をみんなが学ばないと、海に復讐される」
ここ一年ほど、水俣に行っていないが、「『よみがえる水俣』にもう一度目を向けたい。四分五裂した市民に昔の関係を取り戻そうという『もやい直し館』、世界の研究者が訪れている水俣病研究センターなどの新生事物や、一代だけでは見えなかった障害、これまで紹介されていなかった数人の傑出した患者のことなど、撮りたいものがある。そこで今後の生き方をズバリと取り出したい」