歴史を反擲し未来を切り拓くために 新作ビデオ「在りし日のカーブル博物館1988年,もう一つのアフガニスタカーブル日記1985年」を語る 『 思想運動 』 695号 6月15日 小川町企画 <2003年(平15)>
 歴史を反擲し未来を切り拓くために 新作ビデオ「在りし日のカーブル博物館1988年,もう一つのアフガニスタカーブル日記1985年」を語る 『 思想運動 』 695号 6月15日 小川町企画 

 映画はまとめておかないと屑になる。それは記録された時代がなくなってしまうということです。わたしが『よみがえれカレーズ』(八九年)を作った時代、アフガニスタンの人民民主政権は、ムジャヒディン各派によるし烈な攻撃にさらされていました。ソ連軍は八八年五月に撤退を開始して八九年の二月に撤退を完了しましたが、ソ連がいなくなったらすぐに、つまり三日後にとか一か月後には人民民主政府は崩壊すると「西側」メディアには言われていました。崩壊を狙っている側は、アメリカのスティンガーや最新ロケットをふんだんに持っていました。
 しかし、ナジブラ率いる人民民主党は、武力だけではなく「国民和解」の精神を前面に立てて、一部ムジャヒディンとの和解を探りながら、九二年四月まで約三年間にわたり実効支配しました。一九七八年の四月革命から数えれば正味一四年間、民主主義的な政権をつくるべく苦闘してきました。軍事費が六割という中で、です。

 この一四年間に、アフガニスタンでは社会主義の芽生えのような試みが数多く行なわれました。八五年にユネスコに顕彰された識字運動-特に女性の解放の試みは、社会主義的な理念、反封建の闘いなしには一歩も進歩しなかったでしょう。この期間に日本のメディアの取材はパキスタン側からばかりでしたが、わたしたちだけが民主共和国として存在していたアフガニスタンに入りました。「西側」メディアはアフガニスタンの人々を郷土を追われた難民としてのみ描き出しました。しかし、実際には難民の数の何倍もの人がアフガニスタンの中で社会的な生活をしていましたし、かれらは一四年間、民主主義の手探りを党とともにやってきたのです。九二年にナジブラ政権が首都カーブルを『無血』で譲り渡したあと、ムジャヒディン政権のもとでは主導権を奪い合う兄弟殺し”の武力闘争が吹き荒れました。そして九六年以降はパキスタンの育てたタリバンが支配するに至りました。人民民主政権の中で築かれた民主主義の萌芽-女性の権利をはじめとする権利は根こそぎ奪われてしまいました。

 思い返してもらいたいのは、ソ連に支援された人民民主党とムジャヒディンやタリバンのどちらが民衆のために役立っていたかということです。言うまでもない明快な事実です。わたしはこれを歴史資料として残そうと思いました。教育は無料、男女共学、教育・福祉・医療などの分野への女性の進出には目を見張らせるものがありました。人々には生き甲斐があった。いねばイスラムの中で民主主義を探るという、前例のない試行を繰りかえし、ときに錯誤をおかしたこともあったでしょう。わたしたちが撮つてきた映像の中には、あきらかにデモクラシーに向かう人々の姿がきらきらと映つているはずです
 『在りし日のカーブル博物館』に収められた映像は、実際、世界中でわたしたち以外には撮れなかったフィルムです。その意味ではいまや世界的な遺産となりました。

 今月、このビデオを持ってアフガニスタンに入るボランティアがいます。この人に、アフガニスタンの仲間に見せられるようにパル形式のVHSも作って託しました。さらにうれしいことに、『在りし日のカーブル博物館』は、思っていたよりずっと早く現地に届けられるチャンスがきました。ユネスコの呼びかけにより、カーブル博物館の文化財を市民で守ろうという運動として、文化財の修復活動を紹介する三か月間の写真展の発会式が、六月十日、カーブルで開催されます。日本の取材陣もカーブルにいれば取材に行くと思います。カーブル博物館の崩れず残った屋根のところに日本から提供した機材を置いて、そこで繰り返し『在りし日のカーブル博物館』のビデオを流す段取りが急ピッチで進みました。破壊された文化財の修復方法のヒントもこのビデオから得ることができるだろうと関係者は期待しています。このようにいち早く、アフガニスタンの人々が自分たちの歴史や文化を反拠する機会に供することができることは、この上ない喜びです。日英の二か国語バージョンを同時に作ったことが功奏したと思います。このビデオはかつての合作訣画づくりの継続と考えていますから、当然のことですが……。

 人民民主政権が反革命に敗れたのもまた歴史の必然であったと思います。そうなる未熟さが体制の中にあったからです。しかし、何か根本だったのかを考えるとき、わたしはやはりあの政権の目指したものを支持します。良き人々と出会い、わたし自身も撮影をするにあたってたいへん世話になりました。かれらは客人に対する礼を重んじる誇り高い民族です。わたしはアフガニスタンに関する文献や新聞記事を一九七三年から集めていました。大使館広報も克明に読みました。革命当時、人民民主党書記長たったタラキはこう言っています。「われわれがやっているのは社会主義革命ではなく民族民主革命である」と。民族民主革命とは何か。革命以前のアフガニスタンには、パキスタンの干渉やイランのパーレビ国王直轄の秘密警察がまかりとおっていました。共和制をしいたダウトの時代がそうでした。だから四月革命が民族の目立を掲げて闘われたのです。当面は何よりも貧農への徳政令をはじめ、遅れた教育、婦人、農民の土地問題。そういうものを解決していく。それが民主主義だと。革命だと。

 なぜそれが壊れてしまったのかは、この国の人々の証言が出てくるまで真実はつかみがたいでしょう。まだ自由に証言できる時代は来ていないと思います。
 わたしができることは、撮って、見て、感じたことをきちんと残しておくことです。目撃者の頭にある記憶を言葉にして語ること事態に一種の記録性があるでしょう。そう考え、ナレーションは第三者のナレーターにたのまず自分で入れました。こうした歴史の検証と反芻は、これからアフガニスタンのひとびとが新国家を建設していく際に必ず道しるべとも教訓ともなるでしょう。人々は自分歴史を反芻しながら未来をきづいていくしかない。これは日本人であるわれわれにも言えることです。アフガニスタンの歴史をあざわらうことは簡単です。日本の歴史はそのネガテイブな面をすべてやってきたはずです。
 女性差別ひとつとっても、戦前の日本はどうであったか。アフガニスタンは100年おくれているなどと、欧米風な価値観にたって論じるのではなく、アフガニスタンの人々に謙虚にまなび、普遍的に人間の歴史として共有してほしいと思います。そのヒントをこのビデオで探り出して欲しいのです。