石牟礼道子さんなかりせば、映画は? 『石牟礼道子全集 不知火 月報』 2 4月号 藤原書店 <2004年(平16)>
 石牟礼道子さんなかりせば、映画は? 『石牟礼道子全集 不知火 月報』 2 4月号 藤原書店

 私は生来、神秘的なもの、宗教的なものに馴染まないが、石牟礼道子さんが水俣に生まれ、水俣を物語る宿命を持たれたことを「天の配剤」としか思えない。もし、彼女の文学がなかったら、水俣病問題はこれだけの精神的水位に達し得たろうか。

 石牟礼道子さんは時流とは無縁であった。当時を細かく見ればいい。
 石牟礼さんの『苦海浄土-わが水俣病』が執筆を終えた1968年12月といえば、水俣病患者の運動も支援も胎動の時期だった。いわば「無」の中、むしろ「空白の水俣病」のそののピーク時でもあった。だから同年 9月、厚生大臣・園田直は「過去の事件」とし、いわば事後追認として「水俣病の原因企業をチッソ」と発言し得た。そう言っても世にはさざなみ程度のこと、と思って言ったのであろう。そこに石牟礼さんの骨を刻むような文学が“忽然”と登場した。その衝撃力は例えるものが無い。彼女すらその著作が後に水俣病の歴史を作るとは毫も考えなかっであろう。ただ、その空白期にも、彼女は水俣病を見据えけ続けていた、そのことが文章に凝縮されていた。彼女に「空白期」は無かったのだ。

 水俣病の空白期について触れて置こう。
 水俣病の公式発見は1956年 1月、「原因物質は判らない」ことを理由に三年余も放置され、政府も県も、「チッソ以外に加害者では有り得ない」と感知しながら、高度成長の牽引役・チッソに荷担し、辺境の百名足らずの患者を見殺し同然にした。また、チッソに迫った1959年の三千余の画期的な不知火の漁民闘争も、その直後から指導者を刑事事件で逮捕し、その再発の根を絶った。その後、「水俣病の発生は終息をみた」とした医学者の所見を期に、行政は一斉に手を引き、以後、八年、「調査も記録も皆無」という無責任ぶりに徹した。加えて、チッソ会社と労働組合の安賃闘争による、企業城下町の水俣を二分する大争議によって、水俣病は全く市民の意識から外された。

 この時期、終わらない水俣病を考え続けた石牟礼道子は、わずかに熊本の「熊本風土記」の渡辺京二氏と筑豊の上野英信氏夫妻だけに支えられていたと、彼女は『苦海浄土-わが水俣病』の後書きに記している。およそ孤立し、水俣では夫と僚友赤崎覚のみだった。
 その時期(1965年)、たまたま胎児性患児の存在を知って水俣を訪れた私も完全に市民に忘れ去られていることを知った。驚いたが、「もう済んだ事件」とも受け取った。
 その第一作『水俣の子は生きている』ロケの最後に、石牟礼さんを訪ねた。私は平凡社の『日本残酷物語』シリーズの一編の彼女の記録を覚えていたからだ。
 それはもの書きの仕事場ではなかった。主婦がやっと狭い家に座る場だけを得たような納屋の一隅だった。壁の本と資料を背にし、突然の「東京のテレビのひと」に恐れと困惑気味の彼女がいた。たどたどしいが突き詰めたもの言いをされたが、私は何か場違いの訪問を悔いた。その数年あと、『苦海浄土-わが水俣病』を読んで、まざまざと家の片隅で小机に向かっていた彼女の、その水俣での永い孤独を思い返した。

 水俣では患者から裁判が提起され、70年には全国に訴えるためのドキュメンタリー映画が求められ、回りまわって私が引き受けることになった。その時すでに『苦海浄土-わが水俣病』は著名であった。「これがあれば…同名の映画を作ったら?」という声すらあった。が、一読して、映画でこの世界は描出は不可能と思い知らされた。「この文学性は独自だ。とても映画では追跡できない。白紙から水俣に向き合わねば」と自覚した。
 今、改めて思う。この文学作品の指し示した精神的水位の高さは、ただ映画にだけでなく、あとに続いた演劇、絵画、音楽、文筆などすべての表現に「水俣を描く」ことの水位の高みを示すものになった。同時代の芸術家にこうした指標を与えた記念碑的作品と作家の出現であったのだ。もし石牟礼道子さんなかりせば…と標記した所以である。                            (2004年 2月)