すばらしい世界旅行シリーズ②キューバにつづく中南米の時限爆弾一サンゴとフカと失業の国の革命少年兵たち- インタビュー 『平凡パンチ』 10月31日号 マガジンハウス <1966年(昭41)>
 すばらしい世界旅行シリーズ②キューバにつづく中南米の時限爆弾一サンゴとフカと失業の国の革命少年兵たち-インタビュー「平凡パンチ」10月31日号マガジンハウス

 うつくしすぎて、死にたくなるようなカリブ海、情熱的なサントドミンゴの人びと、そして、黒人よりも低くみられる中国人。日本テレビ取材班に同行した、記録映画作家土本典昭氏は、つぎのようなレポートを本誌に寄せてくれた。(日本テレビ『すばらしい世界旅行』第3回は10月23日午後9時から放映)

 フカがいて泳げないカリブ海

 カリブの海といえば、ヘミングウェーがこよなく愛した海である。そこで死ぬことを望んだ海であり、小説と映画『老人と海』の舞台でもある。もえるような白雲と、紺色の空とその反射でグリーンとブルーの乱れあった、すきとおった絵をまず思いうかべる。
 私たちがジェット機の窓から黒々とした太平洋を真下に十八時間、さらに大西洋を六時間、どこか重くうねる海をみつづけた目で、積乱雲のすき間から突然かいま見たカリブの海は、緑の色の多様の変化をみせてギラギラと眼下に迫ってきた。サンゴ礁の白い骨の原が、海の底にすけて見える。それが淡緑色の液体のように海岸を色どっている。羽田をたって三日目、日本からみてまさに地球の真裏にあたるカリブ海についにきたという実感がせまったのはこの海の色だった。
『すばらしい世界旅行』 のデスクから「海だけは念を入れて撮ってくれよナ」といわれていた。とかく、私が風景などに関心のない性癖を知っているプロデューサーの注意でもあった。
 しかし、驚いたことに、空港から海岸ぞいの十八キロのハイウェーから眺めつづけたが、その海に泳ぐ人の姿はおろか、ヨットも漁船もない。海の風にさからってそりを見せる高いヤシ林と澄明な海の緑の色のシンフォニーは想像のとおりみごとであったが、マイアミやハワイでみた南の国の海岸風景はここにはないのだ。
「そうなんです。ここにはフカが多いので、泳げない。近くにあるポカチカという海水浴場はちょうどさんご礁が柵の役をしてフカをふせいでいるので、みんなそこだけで泳ぎます」
「・・・水がきれいすぎるせいか魚もあんまりいないのです。だいたいこの首都サントドミンゴに魚市場がないのです。一本づりでつった魚を行商する人がいるくらいで…」
 という返事がかえってきた。
鎌倉、江の島の濁りかえって小便くさい海で、人の波にもまれているわれらの海水浴を思いながら、嘆声ともつかぬため息が出てきた。海は、そのうつくしさの中にフカの牙を用意して人を寄せつけないとは-。
 後日、私はその首都唯一の海水浴場で泳いで見た。海岸の砂はどこかから長年はこびこんで作られたイエの砂浜と聞いた。胸まで海につかりながら、足もとまですけてみえる美しさに、岸から五十メートルほど沖へでた。どこまでも歩ける浅さでつづいている。そのうちにサンゴ礁原にぶつかった。私たちのヤワな足はたちまち、すりむき傷で血がうっすらとにじんだ。熱帯魚の生息するサンゴのしげみは海の鉄条網であった。

 「オイチーノ!」「ノーハポネ」

 今度の『すばらしい世界旅行』取材の目的は、カリブ海に生きる人々の中にひそむ"すばらしい人間"の姿を描こうということだ。
 何百万の黒人が、アフリカの西海岸から、この島にドレイとしてつれてこられた。少数のスペイン人とのはてしない混血がつづけられた。先住民族のインディオは、一人のこらずといっていいほど、植民開始のころにあるいは殺され、あるいは文明国のもたらした疫病で死にたえ、白と黒、しかも他の大陸からこの島にはるばる運ばれた異質の文明がぶつかりあい、とけあって五百年間、ここに一つの国をつくってきた。そこにあるコントラストとアフリカ的、新大陸的な情熱とカオスを描こうということで、ドミニカに直行してきた。
 空港についたその瞬間から味あわされたひとつの不快は「オイ・チーノ!」というよび声である。「支邦人!」である。
 通りで、ホテルの入り口で、タクシーで、とおりすがりの人から「オイ・チーノ!」と毎日、何百ペんなげかけられたかわからない。
 はじめは区別のつかぬ東洋人だから、ムリもないと思っていたが、そのことばにかなりドスのきいた、するどいさすような響きのあるのに気付いた。私は、中国人に偏見も、ぶべつも持っていないつもりだが、どこでもだしぬけに手裏剣のように投げつけられる「チーノ!」には腹がたった。
「キエロデガーメ・セニョール。ノー、チーノ、ジョハポネ!(セニョールといえ、中国人ではない、おれは日本人だ)」
 といっていちいち訂正して歩いた。
「オオハポネ、ノーチーノ?(日本人か、中国人じゃないのか!)」
 と返事がはねかえってくる。
それにしても、まず物売りの多い街、気安い人ばかりのサント・ドミンゴである。裸のくつみがき少年から、物売り、はては乞食まで「チーノ!」というとき明らかにひとつの敵意をもっている。

 六割失業の『死の季節』

 ドミニカは六割失業の国といわれる。だれもが職をさがしてウロウロとしている。タバコ売り、くじ売り、くつみがき、サトウキビ売り、自動車みがき、はては、薬屋はどこと聞いただけで、即席有料案内人をかってでるナンデモ屋まで、一日、一ドルか二ドルのためにおどろくほどすばしっこくうごく人々の群が、サントドミンゴじゅうに散らばっている。
 私たちがいった時期は、サトウキビの成育期の八~九月、工場は休み、港のつみ出しはストップ、サトウ景気のかすかなうごきもなく、キビがり、工場労働、荷役仕事も全くとだえた、いわゆる"死の季節"、いっせいに失業者として放り出される時期に当たっていた。そのため、私たち旅行者は、金をもった獲物のように見えるらしい。
 それもまたムリではない。この五、六年前までは毎年冬になると、アメリカの避寒客がいつもどっと、アメリカの裏庭カリブ海に、そしてこのサントドミンゴにも来てドルをばらまいっていったからだ。外人旅行客は、ドルが歩くのに似ている。声をかけて損はない。物を売る。あるいは何がしかの金を得ようという習性がこのサントドミンゴの貧しい人々のものになっているようだ。
 このサントドミンゴは人口四十三万、ドミニカ全体で三百万というのからみて、人口集中ははげしい。その六割以上が、混血、白人は二割にみたない。中国人はわずか千二百人。日本人五百人(戦後移民)、おもにラテン系のスペイン、フランス人と黒人の混血でつくられた人々の国で、彼らは、もういわゆるアフリカ的な、あるいはアメリカにみる人種差別の意味でいう"黒人"とは思っていない。"ドミニカ"人だと思っている。その皮膚は褐色でもひとみはブルーであったり、その顔のホリは西欧的な特徴をもっている人だったりして、造型的に見ごたえのある顔が多かった。しかし東洋との混血をみせる風貌はない。
 他のラテン・アメリカにはインディオとの混血がめだつのにくらべて、まったく二色だけ、つまり、白と黒だけの混血なのだ。そして五百年の混血のくりかえしの中で、のこったきっすいの黒人は、奇妙にもやはり社会の最下層を形成している。人種的な偏見はない国といわれるが、平均的に、性の交換から終始はずされた黒人が、最下層であることから、逆に白人への隷属の歴史がよみとれる気がした。
 その中で中国人は全くの異物としてこの国に入った。しかもパナマ運河のドレイ的な土工としてつれてこられた人々がそのままカリブ海に散ったといわれる。いうなれば、ドレイの新参者として、古くからのドレイである黒人の下にランクされて今日に至っているようだ。そしていまではその勤勉さと、華僑独特の団結力で、首都サントドミンゴから、一、二万の小さな町にいたるまで、中華料理を中心に、ほとんどの食堂を独占し、平均してかなりお金持ちになっている。そのことへの風当たりがかなりあるようだった。しかし、それに拍車をかけたできごとが、このサントドミンゴの二、三年の歴史におこったのだ。

 「ヒロシマ 八月六日…」

 サントドミンゴの夜は、公平な神様のおぼしめしか、潮風がふきぬけて、すずしい。古くからあるコロンブス公園に涼みに出ると、一群の少年が土着音楽であるメレンゲを手製の空カン、ビールびん、ハーモニカで演奏してはしゃいでいた。そのうちに、ぼくたちをみて「チーノ ゴー ホーム」といっせいにはやしたてる。それは明らかに『ヤンキー・ゴー・ホーム』のかえうたであった。
 みんな十五歳から二十歳前後の生きのいい混血少年たちで、体躯はいっぱしの大人である。
 しかし私は頭にきて、
「おれたちは日本人だ。なぜ失礼なことをいうのだ」
 と文句をつけた。日本人だと知って、彼らは全くあけっぴろげに謝って、なかには握手してくる少年もいた。まったくカラリとした変わり方である。
 そして驚くことに、そのだれもが、日本を、広島、長崎で知っていることだった。なかには「ヒロシマ‥‥八月六日、ナガサキ八月九日」と、日付けまで思い出しながら正確にいうのをきいた。「ついこの間、原爆反対のミ-ティングがあって、写真をみたり、講演をきいたり、仲間たちで本をまわしてみたりしたのだ」というのである。
 さらにきくと、原爆について、つまり、日本での実情について勉強して、少なからぬショックをうけたばかりだというのである。そのうえ、私の体をジロジロと見て、「あなたはケロイドはないか?」といいたげである。自分に被爆体験がないのがすまないと思わせるような同情ぶりである。
 私はあらためて、このサントドミンゴをみなおした。この小さな少年たちにかくも教えたものは何かを‥‥。
 話しおくれたが、このサントドミンゴは、去年四月、立憲政治をのぞむ進歩派といわれる軍人グループがクーデターをおこし武器を市民にくばり、この町にたてこもって都市蜂起をおこしたことを思い出す。
 日本にいて、クーデターのニュースにマヒしている私は、この町ではじめてクーデターのすさまじさをこの目でみた。それは弾痕としてだった。この街のなかでも、この少年たちと話している一角こそ、革命軍の牙城であった。
 クーデターがおきて三日後、空母をふくむ約三万の米軍が、空から、海から、この街を銃撃した。数多い中南米クーデターの中でも、軍が市民に銃をくばり、政府軍、アメリカ軍とたたかったことは、中南米の歴史上初めてであった。あるフランス人は「中南米でフランス革命が生まれた」と身びいきのたとえをいったそうだが、サントドミンゴ市民と、軍の進歩派とのつよい信頼があって初めてできた型のクーデターであったとはいえるだろう。
 少年たちは、このとりでの中で、銃をもち、火えんびんをつくり、封鎖線を突破して農村に食糧を買いにいった、いわば少年兵たちだったのである。一九六五年四月から九月までの約五か月、生きた教育を身をもってうけた革命の若き戦士たちであり、いろいろの激動を生々しく目撃した証人でもあったのである。
「そのとき、お金持ちは、アメリカやスペインに避難しました。お金はチェスマンハッタン銀行や、ファーストナショナル銀行にあずけて国外にもち出していたのです。そのとき、中国人は、みんな安全地帯に逃げて、私たちといっしょに戦おうとはしなかった。だれひとり、この街にとどまらないで、米軍の郊外のホテルに逃げこんで、街をみすてたのです。そうしたチーノを憎みました‥」
 そのことばにはたしかに実感があった。この街で、ドミニカを愛した人々が三千人死に、一万数千人傷ついた。去年のことだけに生々しい。そして米軍は二十余人死に、百数十人が負傷した。その戦力の差をまざまざと見せられた少年たちは、"ヤンキー・ゴー・ホーム″とぶちまけるついでに、黄色い日本人をみて中国人と思い"チーノ・ゴー・ホーム″と、つい吐き出してしまったというのだ。
 少年はいう「ところで、マオ・ツォ・トン(毛沢東)を見たことがあるか?」私はふき出した。それからきり返した。
「きみたちは、毛沢東を尊敬しているらしいが、彼はチーノだよ!」
 そうすると、まいったという顔をして一同、いろいろ考えていた。
「そうだ。チーノにもいいチーノとわるいチーノがいる」
 この答えが少年たちから返ってきた。私は、
「ハポネ(日本人)にも、いいハポネとわるいハポネがいる」
 といった。すると少年たちはくったくない顔でこたえた。
「ドミニカだってそうさ!」
 どうやらこの『チーノ論争』は、ほじくればこの一点からもいまのドミニカーナの意識の世界がのぞけそうな、そのいとぐちになりそうな気がした。