随時連載「映画は生きものの仕事である」(2)生き延びるということ 『ドキュメンタリー映画のメールマガジンneoneo』 7号 2月15日 ビジュアル・トラックス
この文章に取り掛かろうとする時に、伏屋博雄氏から藤原敏史氏の災難の報を聞いた。一月三十一日深夜、自室の失火で倒れたという。今日現在、救急治療室にあり、面会謝絶。幸い一命は取りとめたものの、当分その経過を見守らなければならないという。
彼は目下、伏屋氏のプロデュースによるインタビュー・ドキュメンタリー作品、『原一男』と『土本典昭』の監督であり、その編集中の事故である。その詳報は NEOに譲るが、その報には言葉を失った。彼は私の信頼する友人である。アモス・ギタイの映画以来、その才能を瞠目していた。私には次回作を待つスリルを味あわせせてくれる作家なのだ。いまは、仕掛りの作品の安否はさておき、かけがえのない生命とその回復を祈る。おそらく数週間後には元気な彼と再会できると信じる。彼を失う事は“許されない”とも思う。
最近、“生き延びる”という事が第一義だと思うようになった。それまでは“おめおめと”という接頭語が付き、感心しなかったが、水俣病患者の緒方正人がしきりに「生き延びたものの生き方」を口にするの触発された。まわりにルイルイたる死者を見た彼は、その度に「では、生き延びた自分は何か」と自問したであろう。“生き延びてこそ見える今」、それが彼の思索を先に先にと引き上げたのか、思想家・緒方正人はこうして誕生した。
生き延びた私も、それに促されて、まだ“し終えていない映画”を考えるようになった。アフガンの未使用フィルムによる作品や、90年代の撮り溜めた水俣での日記風のビデオを今日的な視点で分析した映画もIT時代の到来なしに見えなかった。噂に聞いても、オレの時代はフィルムで終わるもの…とパソコン編集は諦めていた。しかし、私にも出来る編集機だった。嬉しいのは資金が手の及ぶ範囲だった。これが映画作りを再燃させた。
それまでは資金をプロデュースに任せ、ただ“スタッフ論”と酒と若さ(馬力)でつっ走った。映画作りとは40代、50代の再現しか思い付かなかった。60歳からのアルコール依存症と糖尿病などで、現場性を失いながらも、気持だけは「夢よもいちど」であった。それは時に一転して鬱になる。「もう引き際だ。オレの時代はオワリだ」と落ち込むことにもなった。しかし、生き延びることで“時代”の方が私の肩を叩きはじめたと言えよう。
燥鬱症のまま、おめおめと生きた日々、そうした私の屈折を見て、黒木和雄は「石川琢木のように、盛りのうちに夭折していたら、楽だったけどな」などと言ってのけた。それは若さの喪失に病む私への辛辣な批評だった。同時に彼の心象風景の明暗ももの語っているかに思える。つまり“老化に例外がないこと”の彼流の表現でもあったろう。こうした縦横無尽の思索の運動こそ、「青の会」以来の黒木の変わらざる魅力なのだと思う。彼は90年代初頭の大腸がんの大手術以後、身障者手帳を持ちながら“映画監督を生きた”。たえず次回作を探り続けたその10年を知るだけに、戦争体験の語り継ぎの自己史、『美しい夏 キリシマ』や、最近作の『父を暮らせば』は、ひとごとではなく私をして“生きていてよかった”と心中、慟哭させた。映画作りのヒトなるものに励まされたのだ。
藤原敏史氏の受難の翌二月一日、私はビデオ『みなまた日記-甦える魂を訪ねて』( 103分)…長編としては十数年ぶりの水俣映画を録音した。久保田幸雄氏の整音である。妻基子とスタッフ二人のまさに“私家版”の作りだが、ビデオ撮影とパソコン編集であり、藤原氏と同格、同質の映画手法である。完成したら真っ先に見て貰いたいひとりが彼であった。その落胆は消えない。それだけに氏の一日も早い復帰を願っている。
(04,2,4)