上映のアフガニスタン映画について アジア映画講座 11 映画のアフガニスタン土本典昭監督トークショー資料 3月 国際交流基金
映画『よみがえれカレーズ』については今回、話の中で充分に触れられると思うので、詳説は避けたい。この映画はようやく去年からアメリカで公開された。進歩的な観客に恵まれ、いまのイラクの状況を重ねて見られた。アフリカのイスラム圏出身の若い作家は「あなたはイスラム以外の国の映画作家として、最もイスラム民衆を理解した作家だ」と言った。多くの感想のなかで際だった言葉だった。いまはこの一語の紹介に止める。
さて初公開に近いアフガニスタンの新作ビデオの二種についてお知らせしょう。
昨03年 2月、私家版として、資料映像ビデオ・日本語版の『もうひとつのアフガニスタン-1985年』(副題カーブル日記、42分)と『在りし日のカーブル博物館-1988年』(32分)を作ってから一年になる。その“存在”は朝日新聞などで紹介されたが、基本的にはチラシつきの私信によってお知らせし、その求めに応じてビデオそれぞれ三百本前後を希望される方々にお届けすることが出来た。十数年前の取材に深く関わった思想運動(小川町シネクラブ)はじめ、映画美学校やアテネ・フランセほかでも上映会が開かれたが、いずれも私家版の範囲に相応しい小規模な“特別上映もの”である。だが、こうしたビデオが在ると記憶にとどめて戴くことで私は「佳し」とした。何分、十数年まえの記録映像である。それを承知の上まとめた動機は、後年、アフガニスタンの現代史を語る時に資料映像としてこれが求められる時が来るだろうと考えたからだ。
『在りし日のカーブル博物館-1988年』の製作動機とその意図はどなたにも分かっていただけよう。1988年、正確にいえば92年までの人民民主党時代には無傷だったものだ。
アフガニスタン情報文化省の発表(2002年)によれば、カーブル博物館の文化財の七割が、その後の10年に、ロケットなどによる被爆、盗難・散逸、偶像破壊で失われたという。
ナジブラ政権下で作った日本・アフガニスタン合作映画『よみがえれカレーズ』の撮影時(1988年)、カーブルの主だった財宝を撮影していた。それは60数点の代表的文化財である。但し、『よみがえれカレーズ』は平和を希求する民衆の主題で纏め、これらシルクロードの文物は、出来ればバーミアンの石仏や遺跡をあらためて撮影の上、別の作品をまとめられたらと、キープしたままだった。その後、激化するムジャヒディンの各軍閥間のカーブルの攻防戦やタリバンの台頭などで、その実現は絶望的だった。
アフガニスタンの秘宝の記録、写真は夥しいが、映画フィルムによる記録としては世界に一つしかない。それが私たちの許に残された。これは何時かアフガニスタンに渡さなければならないと切迫した義務感を持った。
02年10月のアメリカのアフガン戦争と同時に再生作業に着手したが、十数年の空白は痛手だった。所在が不確かになったキープ・ネガを手にするまでに数か月を要した(音テープは遂に見つからなかった)。しかし、高岩仁氏らの撮ったネガから、半永久保存の出来るDVにする事が出来た。それをかつてカーブル博物館の主要な学術員であった土谷遥子氏の指導で纏めたものである。画像は自負するものになっていると思う。
もう一編の『もうひとつのアフガニスタン-1985年』は人民民主党政権下の民衆の記録である。1985年の四月革命記念日に友好訪問団の一員として参加した高岩、一之瀬正史キャメラマンと私によるルポルタージュである。識字運動がユネスコの顕彰されるなど、首都カーブルに民主主義の成果がようやく現れ始めた時期であった。この十日の滞在記録はその後作った『よみがえれカレーズ』に一部収録したにとどまった。だが生き生きしたカーブル市民のいかにも新生アフガンらしい表情があった。それを自由に撮れた。
このフィルムの写実的な記録は、いつかアフガニスタン現代史として顧みられる日もあろう。映像資料として、たとえ20年後、50年後にしてもである。そう思って作った。
これも音テープがない。ドキュメンタリーに音声がないのは致命的に思われた。しかし、画面のひとびとは生きて、あたかも“声”を発している。カメラの描写は見る人の想像力に訴えている。女性たちの素顔はその後のイスラム主義社会では見られなくなったものだ。
思案のはてに、リュミエールの無声映画の時代に戻って、撮った者が画面を語るという最も原初的方法に帰ることにした。撮影意図を“天の声”のように語ることは避けた。観客とおなじ画を見ながら、私がその画面で気付いたことを語るようにした。例えば、デモを一望しながら、当時の最高指導者カルマルのプラカードがないことに「この国には個人崇拝というか、リーダーの肖像を掲げるという“癖”はほとんでないようです」といったふうに。銃口に花を挿す新風俗への私の所感を「他の国では見ない…」と、あるいは、手を振ってデモするティーンエイジャーに「この少年たちはいまは30代の中堅世代になっていよう」と述べるなど、十数年前の画面に今にして思う事を、語り掛けたものだ。
さきに述べたように、この『もうひとつのアフガニスタン-1985年』のアフガニスタンでの公開ははるか先の先であろう。だが、日本ユネスコ協会連盟によりアフガニスタン情報文化省やアフガン・テレビに英語版が手渡された。見た担当者たちは「女性がブルカなしで…しかもこのような主婦まで識字運動に参加していたとは…」といったという。当時のカーブルを伝える映像は彼等の依拠していた当時のパキスタンには皆無だったのだ。
さて、当然ながら『在りし日のカーブル博物館』のアフガニスタンでの受容は極めて早かった。ユネスコ協会連盟の手で英語版は去年 6月からのカーブル博物館の廃墟で仮設されたユネスコ&アフガニスタン情報文化省主催の「文化財写真展」で連日放映された。
現在、『在りし日のカーブル博物館』の現地語(ダリ・パシュトゥーン語)版製作をアフガン映画人と一緒に進めている。幸い、かつて『よみがえれカレーズ』を共同演出したラティフ監督がアフガンフィルムのヘッドに返り咲いて、十数年ぶりの私との共同製作を心から歓んでいるという。ちなみに最近話題の『アフガン零年』のセディク・バルマク監督はラティフ氏の助監督を経て、ソ連に映画留学した人だ。私がデモのティーンエイジャーに「いまは30代の中堅世代になっていよう」と述べたことは当たっていよう。
なお、英語版ビデオ二編とも、同年12月、ニューヨーク近代美術館(MOMA)の世界のドキュメンタリー特集に上映された。米国在住の映画研究者・水野祥子氏によれば、「ヴィレッジ・ボイス誌にも高く評価され、この 3月にはミルウォーキーでも上映が決まった」という。はるかなアフガニスタンである。「なにごとも十年単位の国」といったアフガニスタン人の言葉通り、そのペースで行くほかない。
(2004,2,28)