映画で出会った川本輝夫との三十年 『咆哮 川本輝夫・わが水俣病』(仮題) 世織書房 <2004年(平16)>
 映画で出会った川本輝夫との三十年 『咆哮 川本輝夫・わが水俣病』(仮題)

 川本輝夫さんにはじめて会ったのは1970年、映画『水俣-患者さんとその世界』のロケの時であった。石牟礼道子さんの周到な配慮で、出月の浜元浜元二徳さん・ハルエさん、その姉フミヨさん一家の母屋にスタッフの部屋を借りて戴いた。川本輝夫さんの家も近くにある水俣病患者の多発地域のど真ん中である。その母屋はしばしば訴訟(第一次)をしている患者さんの集会の場になり、私たちは労せずしてそれを撮影ができた。
 彼は当時はまだ棄却されたいわゆる未認定患者だった。訴訟の原告ではなかったのでその集まりに顔を出しても、専ら熊本の「水俣病を告発する会」や「水俣病市民会議」のもたらす情報を聞く立場だった。その年八月といえば、熊本県の棄却処分を不服として、彼は棄却患者八名を纏めて厚生省に行政不服を申し立てた時期だったと思うが、患者の集りでそのことを聞いた記憶はない。むしろ頼りになる地元の仲間ようだった。
 大家のフミヨさんによれば「テルオ(川本)はまこて頭の良か。小学校ではずうっと級長しとったし、東大あたま(頭)とみんなが言うとった。東大に入れる人間じゃちゅうこと…」という。そうした彼に誰しも一目置いていた。

 反芻するように話す川本さん

 映画『水俣~』で、ある夜の患者集会のシーンがある。後藤孝典弁護士が一株運動を提案した時、賑わう議論に彼も「大阪に観光旅行たい!」などと加わっているが、目立った存在ではなかった。その場にいた後藤弁護士も彼を識るのは後である。
 この年11月、彼も患者ら十八名と白い勧進装束で大阪でのチッソ株主総会に参加したが、自分の抱える棄却患者の問題は一切出さなかった。それは敢えて自制していたのであろう。
 彼が初めてそれを語ったのは、白装束のまま上京し、東京の水俣病を告発する会の事務所で後藤弁護士や支援者たちに会った時である。後藤孝典弁護士はその時のことを自著『沈黙と爆発』にこう書いている。「取り囲んだ人の輪の中央に、こがらな男があぐらをかいて座り、ひどく汚れたカーペットの床に顔をつけるほどに体をかがめ、…何かを期待してこちらに訴えているのではなく、自分自身に反芻しているボツボツと話す姿は印象的だった」。この時居合わせた数十人の支援者は川本さんの“潜在患者がいたるところにいる”という話に一様に驚かされた。この日から後藤孝典弁護士との長い付き合いが始まるのだが、彼の“なにかを期待して訴えるのではない”、むしろ自問自答かのような語り口からは、その後の彼の抜きんでた三十年の闘魂は想像も出来なかったであろう。

 「公」に対する「私闘」

 川本さんの自主交渉をはじめ多くの裁判闘争をともにした“戦友”後藤弁護士は、彼の死後、その弔文にこうその闘いの輝きを描いている。
 「川本たちは患者認定を勝ち取ったが、チッソは『新認定患者』を水俣病患者とは認めない、補償金は支払わないというのだ。チッソだけではなかった。水俣のあらゆる階層の人々が水俣病患者と認めることを拒否した。(中略)チッソは水俣地域における最大の『公』だった。その『公』に素手で挑どむ川本には、水俣のあらゆる人々から見捨てられ、見捨てられ切った、ギリギリまで追いつめられたところに残る最後の『私』しかなかった。(中略)川本輝夫のチッソに対する闘いは、既成の社会思想系譜とは無縁の『私闘』として切り開かれたところに輝きがあったのだと思える」(熊本日日新聞)。卓見と思う。
 だが、水俣病センター相思舎『ごんずい』のそれに「(チッソの)『公』に対する川本の側には一片の『公』的色彩もなかった。彼には未認定患者のためという意識さえなかったと思える。まして公害問題や環境問題という意識のあるはずはない」とまで『私』に限定するのは賛同しかねる。彼の闘いは激症型水俣病のまま悶死した父嘉藤太さんはじめ、彼の関わった多くの未認定患者像をその背に負い、「公」を相手に七転八倒した生涯だったと思っているからである。

 歩いて学んだ水俣病

 映画『水俣-患者さんとその世界』の中の川本さんの潜在患者発掘のシーンを想起してみる。例えば、水俣の隣の町、津奈木の赤崎の諫山孝子さんのお母さんとのやりとりの場面だ。孝子さんは四肢も折れ曲がって硬直して、寝たきりの重症である。それまで生まれつきの脳性小児麻痺として片付けられてきた。彼女の父は漁師であり、周辺に成人患者の出ている集落である。母親が席を立った折に彼は「まあ胎児性水俣病の(上村)智子さんなんか見とるばってん、この子を見たときはほんにショックじゃった私は。この子を放って置いたち言うのは、これはもう、ほんと、われわれの責任じゃと思うた」と彼は顔をくしゃくしゃにしていた。“自分たちのセキニン”という言葉はしん底からだった。
 彼によれば、棄却された理由は孝子さんの生まれが昭和36年は、熊大研究班の徳臣晴比古教授らから「水俣病は終息した」とされた時期だからとしか考えられないという。この“学説”ゆえに、同じくその時期に発症し、昭和40年に悶死した父嘉藤太さんもはねられている。父の症状も水俣病と思うし、自分を襲うしびれや頭痛もそうでないかと疑うが、それを立証する研究も不十分だった時期である。
 その当時は、水俣病医学の専門書は熊大研究班の『水俣病有機水銀に関する研究』(1966年刊)、赤表紙のいわゆる『赤本』しかなく、それには水俣病のハンターラッセル症候群に準拠した典型例しか書かれていない。
 川本さんは「私はこの赤本を手がかりに、私なりの水俣病医学の勉強を始めた。が、残念ながら医学に素人の私には、いくら読んでも専門用語など難しい言葉は解ろうはずはなく、結局、患者や家族の訴えのなかから病状や症状を知り、自分なりに把握するほかなかった」(『医学論』)と述べている。この患者発掘ではこの教科書にない様々な症状、あるいはハンター・ラッセル症候群の不全なケースに出会うが、潜在患者の家を訪問し、その暮しのなかの病像を目の当たりし、その訴えから水俣病を把握していった。
 母親の「厚かましいような」といった怯みや世間への気兼ねに相槌をうちながら、発症以来の経過を聞く、これが川本さん一流の水俣病の独学方法だったろう。「こうして歩いてみて、親父や自分も間違いなく水俣病だと確信出来た」という。
 後年も聞き取りが彼の基本になり、その医学論、とくに疫学志向を確かなものにし、また、患者らの棄却の事情を聞くなかで、水俣病行政や医学のインチキやその裏まで見抜く眼力も培った。こうした未認定患者たちとの夥しい繋がりが、「私」を超えて彼の意識下に刷り込まれ、彼の「公憤」を肉体化した原点と思う。

 ことばの闘い

 例えば、73年の自主交渉の記録映画『水俣ー揆-ー生を問う人びと』を撮りながら私が驚いたのは彼が島田チッソ社長に突き付けた言葉の闘いである。「俺がねえ44年の10月から各患者の家を回ったその三十何名に認定申請を頼まれた。その時に約半数は断った。“金が欲しい(といわれる)”とか“見苦しい”とか言って…」。そしてたて続けてその一人ひとりの名前を上げた。島田社長に向けて「知っとるか、この人たちを!」と機関銃のように一気に十数名分の名を叫んだ。これは体に蓄積された執念の噴出に思われた。これには相手は怯み、絶句せざるを得なかった。
 このチッソとの直接交渉は水俣病裁判の原告患者が勝訴した翌日から始まった。自主交渉にすべてを託した新認定患者たちと訴訟派が組んで、直接交渉によって一生の補償を求める闘いだった。チッソとしては新認定患者には訴訟派の判決と同額の補償金を認めることはなんとしても避けたいから、第三者機関の公害等調整委員会に付託することに固執した。まして未認定患者の認定の事態などは思いもよらない事だった。加害者と被害者の直接交渉を心底恐れていた。患者らは第三者機関なるものについて、見舞金契約以来、その種の調停者を信じる訳にはいかなかった。自主交渉の原点は仲介者なしの直談判である。さしで話せば、相手に人間性の一片でも残っている限り、打開の道はあろうという道理の感覚は生きていたのだ。川本さんの緩急自在の攻めがリードした。ここで幾つかの奇跡が起きた。

 直接交渉の奇跡

 例えば、未認定のまま亡くなった山田善蔵さんの妻、ハルさんの場合がそうだ。その場チッソに対し、前代未聞である未認定患者への裁判判決並の補償金を約束させた。幸い棄却された善蔵さんの遺体は熊大の武内忠男(病理)の手で解剖され、水俣病と証明されていたケースだった。ハルさんは「三十何年一緒にいましたけど文句ひとつ言われたことはないんです。大事なひとでした。(命日の)十六日になったら、お坊さんがお経をあげてくるるのが、それがたったひとつの楽しみで…」とかきくどいた。その哀切さは彼我ともに黙して耳を傾けさせるものだった。川本さんは社長の決断をうながすのみだった。チッソは診断書の存在に屈し、特例としてその認定を認めた。劈頭でチッソは防衛線を破られた。同時に、対面して直接交渉することが如何に裁判などと異質なものかを見せた。

 忍耐と激昂

 自主交渉の患者六四人のうち、相次いで死んだ松本ムネさん、小崎弥三さん二名の解決は特に川本さんにとって重要だった。父、嘉藤太さんで味合わされた死者への放置と差別が骨身に染みているからだろう。チッソが新認定患者を第三者機関の公調委に託して低額、ランクづけで解決したいとガードを固めるなか、ふたりの判決なみの補償をめぐって激しい理詰めのやりとりが二日続いた。それがふっと静かになった。一転して彼は島田社長への静かな問い掛けを始めたのだ。
 「あなたの宗教はなんですか」、「あんたは俺よりうんと年上じゃ。娑婆の経験もうんとある。人も使っとる…何万人と。なあ人間なんてとうに見抜いとるじゃろう。人間はどげん暮らさないかんかいかんかくらい…。ひとかどのものを持っとるじゃろう。家訓か教訓か…。あなたの座右の銘は何ですか」と。黙していた社長はポツリポツリ答え始めた。これは奇策だったのであろうか。私には相手の人間性を究極的には信じている彼の真骨頂の流露に思われた。これにはチッソも、「死者に限って」と譲歩せざるを得なかった。
 また岩本公冬さんの場合も印象的だった。痙攣を堪えて上京し、家庭崩壊の危機に立って、狂わんばかりの岩本さんに代って、彼はその絶叫の合間を見ては、返事に窮する社長の耳元に、助け舟をだすかのように、父親を諄々と諭すように「…もうあとはあんたの良心に訴えるほか無か。本人ば眼の前においてな、どうするかは、これはもうあんたの良心にしか判断しようがなかわけよ。われわれがどうしようたって…ねえ社長」。ためにする説得ではなく、社長が救われる方途を一緒に考えているようなトーンである。
 社長が「では、相談させて下さい」と首脳とともに退場したとき、彼はやるだけやったように腰を落としていた。だが、チッソ首脳で相談してからの返事は「公調委(チッソが一任を策している)の手前もあり、取りあえず当面の生活にもお困りのようですから…」という相変わらずの回答だった。途端に川本さんはテーブルに上に仁王立ちになった。「なにがヒューマニズムかあ!、なにが人道かあ!」。この激しい怒り方に誰も追随はできないほどだった。彼の対話のときの情意と忍耐、それが裏切られた時の彼の激昂はそこに居合わせた人のみ理解できる。
 ちなみに、石原慎太郎氏が一私人として寄せた追悼文に、川本さんの激しさについて「…その無口で優しい犠牲者たちを、誰が、いかに代表するかの仕事を川本さんが一身に担って生きたのだと思う(中略)。あの小柄な彼が時に応じて、溜めに溜めてきた怒りを水俣の住民を代表して爆発させる時、交渉の席にある当事者たちはたじろぎながらも、彼らを襲った出来事の恐ろしさについて改めて悟らされたものだった」(『川本輝夫さん追悼文集』より)。これは交渉に居合わせたことのあった人としての実感と言えるだろう。

 『日記』の惑い、直接交渉の輝き

 それにしても激しい応酬の続いた自主交渉の場面で見せた、この硬軟緩急の自在さは三年前までの「ボツボツと反芻するように語る」彼からは想像できない。それを読み解く鍵のひとつは自主交渉当時のテントで書かれた『日記』であろうか。その内面の苦悩の反芻を辿ってみよう。
 七二年二月一四日「頭痛が続く。朝起きたときはだいぶ楽だが、しばらくテントで寝そべる。いずこに行くのか、たどり着くのか、はたまた俺の人生はどう変ろうとするのか、俺がかくあらねばない理由はどこに、そして何にあるのか。俺にも全く分からない」
 二月二〇日「今日も変らず朝がつらい。…これで良いのか。あまりにも恵まれ過ぎた闘いではないか。甘んじてはいないか。これが当然のことのようになるのが怖い」。
 七月一五日「なぜ共産党も社会党も苦しみを持つ人たちに応じられないのか。そして労組は何故うごけないのか、嘆きは深く、道は遠い。束の間を間をほくそ笑む者は誰なのか。この二、三日来、子供のことを思う」。
 九月一四日「いろいろな葛藤が渦巻く。何故悟りきれないのか。それはやはり俺が家族主義、或いは享楽にしがみつこうとしているからなのか」。
 九月一五日「なにはともあれとんでもない、大変な、烈しい闘いを挑んだものだ。俺も今までの価値観、人生観、世界観を構築しなおさなければならないだろう」。
 七二年一二月三一日「この一年間は俺の人生を狂わせ、妻子の将来の航路も進路も変更せざるを得まい。俺に何の、どんな足跡が記せたというのか。偽善とハッタリではなかったのか。…それにしてもこの大都会東京に住む人たちがいかに人の情けを欲しがり、柱を求めているのが痛いほど分かる。俺たちの座り込みがそんなに勇気のあることなのか。この一年はまさに人間不信の年であり、人間賛歌の年でもあった」。
 この『日記』を書いた頃、川本輝夫さんはいわゆる不惑の四十歳である。それにしてはなんと惑いに満ちた日々だったであろう。あの英雄的にさえ見えた川本さんからは想像し難いかった。
 水俣のチッソ正門前の座り込みの老人たちへの自分の責任が書き残されている。背負った人への思い、家族への思いも随所にある。トンボ返りで出月に帰る。たまたま新聞配達している愛一郎君が病気になった時、彼に代って二日続けて早朝配達を替わったり、早起きしてミカン畑で草取りするなど、平凡な父親を一日も見失ってはいない。東京でもマスコミからの取材攻めに会いながらもその脚光に酔えない。しかし支援への感謝は過剰なほどだ。心中でいつも合掌している
 地元水俣では真逆である。チッソの露骨な患者分裂策動、現金攻勢による仲間患者の動揺、市長を先頭とする全市あげてのチッソ擁護の合唱、孤立した家族への脅しと嫌がらせなど。その両極に振り回されながらの自主交渉の日々、人間不信と人間信頼が相半ばしている。この境遇こそ、彼を前人の経験したことのない直接交渉の闘いに於けるのあの自在さを育んであろう。彼のそれまでの行政や制度などの“見えない敵”との闘いに比べ、直接交渉でのチッソの闘いはどんなに自分に納得でき、自己解放もできたことか。映画『水俣一揆~』の中の川本輝夫さんはまさに輝いている。その後も自主交渉、直接交渉への原点回帰が彼の夢、理想であり続けたと思う。

 “水俣病史三部作”

 73年 7月、東京交渉団は水俣病補償協定を締結し、「その一生を問う」闘いを終えたかに見えたが、多くの水俣病患者の一段落の雰囲気の中にあって川本輝夫さんだけは違った。自主交渉当時のもみ合いの時のチッソ社員への傷害罪で起訴されていたし、水俣、天草ほかの住民1690人の毛髪検査の記録が「水俣病を告発する会」の宮沢信雄氏によって発見され、未認定患者は続出し、また第三水俣病(有明)の発見、不知火海漁民の闘いは再燃など激変の時代が続いた。
 その渦中にあったこの年の11月、川本さんは「自主交渉川本裁判」のために厖大な供述書(本書の『通史 わが水俣病』)を書き上げている。これは半生記、その出生から自主交渉までの水俣病事件史であるが、水俣の下層社会の一庶民の民衆史でもある。また闘いの中での思想と感情の変遷を含め、混沌たる軌跡の総括にもなった。これを書かせた経験の蓄積と学習は厖大なものだ。
 この一冊でも畢生の事業だと言えるのにさらに二著作ある。
 同70年代に書かれたニセ患者発言名誉既存訴訟の供述書『何が患者を封じ込めたか-水俣病への偏見・差別考』(以下『社会論』)と、やはり70年代に書かれた青林舎刊の『水俣病-20年の研究と今日の課題』(発行79年)に収録されていた『患者から見た水俣病医学-水俣病被害者の20年の歴史』(以下『医学論』)がそれだ。彼の著述『通史 わが水俣病』、『社会論』、『医学論』の、いわば“水俣病史三部作”ははじめて通読できる。

 カナダ被害民との出会い

 この気力、知力、精神力の充溢した七五年、川本さんにとってカナダ・インディアンの水俣病事件に出会ったことは、いかに彼の使命感をかき立てたことか。
 カナダ・インディアンの水銀汚染は自然とともに生きる先住民の暮しを破壊した点では水俣と同じであり、河と湖に無機水銀九トンを垂れ流したドライデン製紙会社(従業員1370人)は「無機水銀ゆえに因果関係は証明されていない」とか「工場より 100キロ下流での発症は信じられない」とか、水俣、新潟の水俣病ではすでに否定された説がまかり通っていて、インディアンたちを苦しめていた。それなら水俣の教訓は、今ならまだ生かされ得ると誰にも思われた。
 それを伝えた写真家ユージン・スミスの妻のアイリーンは彼らの水俣・新潟訪問を水俣の患者に頼んできた。それを受けた患者たちの気合いは見事なものだった。水俣病を告発する会と忽ち五百万円余のカンパを集め、ボランティアの通訳スタッフ数人を用意した。
 七五年七月中旬、猛暑の時期だった。患者、支援者たちの百人近くが手ぐすねひいてインディアン代表を待った。その代表が川本さんや浜元さんだったのは言うまでもない。
 「もし水俣病情報がいち早く世界に伝わっていたらこの悲劇は防げたはずだ」「水俣病は二度と起こしてはならない」。これはが運動の意味ではなかったか。川本さんは歓迎の挨拶で「あなた方の悲劇はわれわれにも責任があります」と言い切った。
 水俣の患者はもともと漁民、自然の民、同じ狩猟に生きる自然の民である彼等との感性的共鳴は瞬くうちに出来上がった。なかでもの活動家トム・キージックは初対面から川本さんに敬慕の念を抱いた。その証拠に三か月後に生まれた男の子に「テルオ」と名付けたほどだ。
 さて、それからの十日あまりは見学とレクチャーの日々だった。疲れない様に気を配るものの、猛暑のなか、亜北極圏育ちの彼等の疲労は見兼ねるほどだ。また厖大な情報を吸収するのは彼等にとって余りに過重だった。患者たちは皆、患者を囲んで自分の経験を教えたがった。通訳するのも間に合わない気忙しさだった。やがて夕方には彼等も好きな焼酎の大振る舞いになり、懇親会つづきの日々になる。
 「帰国してから果たしてちゃんと報告できるだろうか」とその先行きを案じたアイリーンや同行のボランティア、ジル・トリーは、水俣の患者代表の汚染居住地の訪問と、私には水俣映画を持っての現地上映を頼んだ。

 カナダ訪問

 帰国した彼等を追うように、翌八月には医学の専門チーム、世界環境調査団(団長、宮本憲一)一行が現地に飛んだ。医学者、原田正純さん藤野糺さん、赤木健利さんなどだ。汚染地ホワイト・ドッグ(住民 700人)、グラシイーナロウズ(同 450人)での検診の結果、調べた89名の住民の70%に何等かの自覚症状を、最も厳密に採っても七名に水俣病の疑いありとした。この一年はカナダ水俣病事件が患者たちを総決起させた年になった。
 ついで、翌九月には川本、浜元二徳、浜田岩男の患者三名と私も含む一行はオンタリオ州の二つの汚染された居留地を訪問した。汚染の中心地ケノラ(人口6000人)でのしらみつぶしの映画上映。冷ややかな白人の一般市民、熱烈歓迎のインディアンたち、その差別の構図は水俣のそれと全く変らなかった。
 支援の市民団体、学生組織、先住民組織、宗教団体からの招きも相次いだ。こうした機会にはいかにも水俣病患者に見える車いすの浜元さんがいつも挨拶させられ、マスコミのフラッシュを浴びた。それはいたし方のない事だったが、川本さんにはそれが不満だったようだ。地元の出月では兄貴株である彼は、ついそれを浜元さんにもぶつけるのだった。例えば、浜元さんが歓迎するインディアンの懐を心配して「手持ちのドルをカンパしてはどうだろう?」などと言うと「かえってそれは失礼になるばい」と抑える。一言いえばそれで済むところを浜元さんがまいるまで言い募ったりする。こんな時、川本さんの知らなかった一面を見せられた。近しい人間にほどライバル意識を持つ、普通の人だった。

 工作者・川本輝夫

 川本さんの本領が発揮されたのは、翌七六年六月、新たに汚染の判明したケベック州の先住民クリー族(7500人)の居留民地訪問の時である。バンクーバーでの国連環境会議に出席し、それに引き続くフィルム・ツアー四十日の旅であった。水俣病患者は彼ひとりであり、それにフィルム上映役の私、現地語案内はクリー族の酋長候補、若いサイモン君と通訳を兼ねた写真家清田昂さんの四人だった。それだけに一行は彼を中心にして動いた。彼は「映画と実演たい」と笑っていたが、やはり症状をもつ彼にとっては過酷な旅であったろう。
 汚染源は州都モントリオールから北方千キロ、ドムタール製紙工場からの水銀排水によってワスワニピ流域の河と湖が汚染された。先住民のとってはマスは主食に近い。旅程はサイモン君の要請で五十人、百人単位の集落全部を巡る事になった。
 訪れた先々に、仮小屋のような家の戸口で所在無く座っている老人男女が目だった。サイモン君には心あたりがあるのか、目配せすると、川本さんは笑顔で挨拶しながら手を握り、そのまま脈を計り、目を見つめては指を追わせた。目を瞑らせて指を鼻に当てる指鼻テストも試みた。時に「これは?」と彼が首を傾げると、サイモン君はその名をメモしていた。川本さんはれっきとした看護士である。それに水俣病では医者以上の力量が備わっていて不思議はない。サイモン君は「ここは無医村だからなあ」と大喜びだった。川本さん「わしかて診ればピンと来るですよ」と屈託なく笑っていた。この時ほど、彼らしい優しい表情の日々を見たことはなかった。しかし疲れる毎日だった。
 初夏だったから、サイモン君はテントで野営しようと張り切ったが、困ったことに馬アブと蚊の大きな柱が人畜見境いもなく襲う。食事中などその度に皿を置いて手で払わねばならず、頭の地膚から手足の先までべっとり塗り薬を塗った体には、シャワーのない生活は堪えた。
 講演では川本さんは「私たちの体験した水俣病を広く世界に知らせる努力をしてこなかった為に、こんな美しい土地に住むあなたがたにまで水銀の苦しみを味あわせることになり、心痛んでなりません。どうか魚を食べ控えて、まず自分を守ってください」。と言いながら、川本さんは地元の検査用のマスを貰って、隠れるようにして刺身にする。それを肴にみんなでバーボン・ウィスキーを呑んで話に華を咲かせるのがたのしみだった。
 私は「何があなたをこういう形で動かしているのですか」と訊いた。「わしゃ、自分の青年時代に出来んかった事を今やっとる気がするなあ。学校もろくに出んかったが、戦後すぐは水俣の偉か共産党のひとの周りで、革命とか何とかいっちゃ考えとったばってん、この歳になるまで、そん頃の夢は何ひとつ出来んじゃった」。かつて水俣病で文化運動を軸に党をいきいきと動かしていたリーダー谷川雁のもと若き日の石牟礼道子さんや赤碕覚さんなどとともにあった彼は、一九五〇年前後の二年ほど、ストックホルム・アッピール(反原爆の世界的署名運動)などに献身的に働いたという。当時、極貧の生活からの解放を願い、無名の革命的群像のひとりとして生きたかったに違いない。カナダで日本での雑事を離れ、ひとのために何かなしているという充足感のなか、ふと回想に身を委ねながらの話である。
 「水俣病がなければ、終生あいまみえる事のなかったあなた方インディアンと私たち」という言葉を彼は好んで口にした。運動工作者川本輝夫、それが等身大の彼に思えた。

 余人のない闘い

 70年代後半からは反動として水俣病への圧殺傾向は強まった。
 川本さんはじめ多くの告発者の批判し抜いた認定審査会制度は変らない。水俣病を惹き起したチッソを「公」とする水俣市の構造、それ故未認定患者の増大を敵視する水俣社会も変らない。水俣病の病像を歪曲化する医学と環境庁による認定要件を狭めた新事務次官通達。行政の不作為、無策も放置されたまま。ニセ患者発言の横行により患者への差別はより根深くなるばかりである。川本自身は補償された患者である。同時に未認定患者の救済運動を担って闘いを組み立てなければならなかった。余人はないのである。
 川本さんの闘いかた“直接の交渉”、つまり相手とじかに向き合って闘う思想と方法は次第に許されなくなった。“自主交渉権”は自主交渉のテント時代に告訴された蘭康則刑事事件の東京地裁で、判決例として認めらていたものだが、その後、“直接交渉”の規制と圧殺は政府にとっては時間の問題だった。その日が来た。

 スッ裸の抵抗

 七八年三月一九日朝八時、政府は、庁舎管理の口実をもって、合同庁舎のロビーに座り込みむ患者、支援者を強制排除すべく警官隊を導入させた。水俣病事件で誕生したいわくのある環境庁としては、それまでは病者でもある患者にそれなりに神経を使っていた。二十四日間のロビーで起居しての籠城には患者・支援者と職員、守衛らとの間に節度あるルールも保たれており、環境庁としては黙認していた。川本氏さんにも交渉継続を約束されていたし、それなりの信頼関係もあった中での初めての強権発動だった。
 座ったままの患者、支援者八十人に対し、環境庁の職員、守衛百人、警官隊二百余人が一斉に排除にかかった。退去の前日予告もなかった。女性患者に痙攣発作が襲い、泣き叫ぶなか、川本さんはいきなり、ジャンバーをかな繰り捨て、下着もももひきもひき脱いで、パンツひとつになって裸のまま仁王立ちになり「さあ連行しろ!出来るならして見ろ!」とと叫んだ。これには警官も怯んで女性患者たちには手をつけられなかった。私は咄嗟にガンジーの非暴力を思った。が、このスッ裸には前例が無い。本人すら予定しなかった瞬発的衝動だったでであろう。彼の突飛な独創性はその後も私たちの意表を衝くものがあった。これ以後、直接交渉への拒否は既成事実化していくのだ。
 未認定患者患者運動は国と県との闘いが主要な場になる。官僚たちが立ちふさがった。
 川本さんは締め付けられた条件のなかで浮き上がりがちだった。焦燥のあまり苛立って机を叩くといった行動も目立ち始めた。テレビを通じ暴力派患者のイメージがひとり歩きした。支援者の古参株の人からも面と向かって「患者ならもっと患者らしくせんば!」と当て擦られた。彼は「じゃあ俺は父親の仏壇に手を合わせて大人しくしていれば良いのか」と憮然としていたという。

 公害ではなく犯罪

 目に見える敵と闘いたいという川本さんの気持は国家賠償訴訟に繋がったようだ。翌七九年の執筆、『国の加害責任を何としても果たさせる!』(『水俣』所載)の一文がそれである。さきに述べた三部作の著作も成し遂げ、理論的形成も果たした時期でもある。
 「…水俣病は日を追い、時を重ねるにつれ、先覚者達の良導によってそれなりの知識と情報を手にすることが出来た。そして今更ながらの驚きのなかで、水俣病事件は用意周到に配慮された『犯罪』であり、決して單なる公害事件ではなく、歴(れっき)とした刑事事件であることに気付いた。私たちは企業にも国家・行政にも『人間がいる』という確信のもとに、なんらかの形で、国家・行政に天誅を下し、制裁を加える事はできないか。今の私の頭はこれらのことでいっぱいである。今できる形として『国家賠償法』を基にした攻め道具しか見つからないのは口惜しい。いま私にあるとすれば『国家・行政に水俣病の加害責任をとらせでおくべきか』という我執だけである」と心情を述べている。少なくともこれまでの文章に「我執」という言い方はなかった。そして抑制と感情こもごもに読者に賛同と支援を求めているものがある。しかしその後の国家賠償について記述は全くない。何故か。何時この我執、私闘を放棄したのか。

 果たせなかった国家賠償

 これまでの「直接交渉」の場合、川本さんは交渉ごとをひとりで“代行”するのではなく、むしろ参加した患者がチッソなり環境庁なりを直接見聞きすることで、その難しさも自信も会得して貰うよう努めてきたと思う。発言したい患者があれば、どんなに不慣れであろうとも、ものが言えるように仕向けた。参加者が自然に力をつけていく機会だからだ。女性患者たちは嬉しげに「環境庁に行ったときは楽しかった、初めての事ばかりでしょうもん。私も言ってやったしなあ」と懐かしむ。その気分は分る。長く沈黙を強いられていた患者がものを言えたし、直接交渉のならではの横並びのような民主的雰囲気が共有できたのであろう。しかし裁判の場合、法廷では弁護士の独壇場だからそうした発散は一切ない。                        
 国家賠償請求訴訟になったら、さらに法理論中心の患者不在の法廷闘争になったかも知れない。が、翌80年 5月、水俣病被害者の会系の第三次訴訟の裁判が国・県・チッソに対し、初の国家賠償請求訴訟を提起した。いご水俣病原告と水俣病被害者の会と弁護団は全国連を結成し、大都市の裁判所にあいついで国家賠償訴訟を起こした。いわばお株を取られた川本さんはどんなにくやしい思いいでその推移を見守っていただろう。

 座り込み闘争の挫折

 八三年七月、マスコミによれば「風化した水俣病事件にひさびさの光があたった」とされる待たせ賃裁判の熊本地裁の一審判決が出された。これは水俣病申請患者の認定の遅れを問うたものだが、判決は国・県の行政の怠慢による認定の遅れを認め、原告側の勝訴とした。しかし国・県は翌日には上告した。環境庁は「上告するな」という患者原告の請願交渉そのものを拒否、またも門扉を閉めてた。時の梶木環境庁長官は面会拒否の理由に、「上級裁判で争うことで、じかに会って解決する筋合いではない」という。十年近くも打ち捨てられている原告がさらに最高裁まで待たされかも知れない。長官は管理システムによって逃げられるのだ。この年、二回にわたる交渉は拒否され、患者・支援者の座り込みはその都度ゴボウ抜きされた。この時期の申請協の代表が緒方正人さんだった。判決が画期的だっただけに裏切られた彼が国家のカラクリに気付いたのは当然だろう。ちなみに川本さんはこの年、三度目の挑戦で市議選挙で初当選し、“患者、初の議員誕生”と言われた。

 緒方正人と川本輝夫

 二年後、八五年一二月、緒方さんはついに認定申請を取下げ、県に医療手帳を突き返し、翌一月、『問いかけの書』を書いて申請運動から決別した。これについては同氏の『常世の舟を漕ぎて』(世織書房刊)などに詳しい。しかし、これが遠因で川本さんと私との意気の疎通を欠くようになった。
 私は当時の映画『海は死なず』の企画書(新日本文学所載)にこう書いた。
 「三十二歳の彼は若くして申請協会長として、その勇気と知力と迫力で会を率いてきたが、最近すべての組織から身を引いて、ひとりの漁師、ひとりの人間に立ち返ることにした。見方によればよくある脱落者のケースにも見える。しかし彼は飽くまで水俣病患者と自認する。そして加害者であるチッソ工場に行き、二つの事実を認めよ、認めたら許すという『問いかけの書』を手交した。それは『チッソは私と一家に対し、加害者であるこを自ら認めよ』『そして国・県のチッソへの加担を告白せよ』という二点に絞られている。『その返事を一生かけても待ち抜く』とも。県の担当者には『補償とは金銭なのか。患者になるには膝を屈することなのか』といかった。これは脱落とは全く異なる精神性からの叫びではないか」
 この映画は苛酷な悲劇からの自然と人間の甦えりをテーマにしたもので、水俣病運動の現状を多角的に描き、その一章に緒方さんの“個の闘い”を描こうとしたものだ。
 いつもの習慣で見せた企画書に、川本さんは即座に対応してくれた。が、「わしゃ、緒方正人は脱落っち思うとる。申請協の一番苦しか時に放り出しといて、それが脱落でなくて何かな」と私になじった。「裏切りじゃなかか。このどこが精神性のなんのと言えるか。思想の精神のと言える話じゃなか」といかり、取りつくしまもなかった。彼が当時も隠れ水俣病の多い離島に足を運んで、心細い未認定患者たちを励まして倦まないその姿には頭が下がる。彼の論には広い普遍性があるのは緒方さんのそれより明らかだった。一方、緒方さんには論理を超えて魂を揺すぶる何かがある。私は二人を抱えて分裂した。その間に撮ったフィルムを『水俣病-その30年』に纏めて、以後水俣には行かなかった。

 最後の直接交渉

 二年後八八年春、彼から久し振りに電話があった。
 彼は「運動の膠着状態を打開するため、チッソに対し未認定患者の救済を求める直接交渉を開始したい。『公害等調整委員会は紛争に際し裁定(因果関係確定)する』という六法全書の条文を見て、その活用に気付いた」という。それにはまず公害紛争状態が先行して起こっていなければならない。だからまず、チッソ前に交渉を求めて座り込むという。どうも話のあとさきが呑こめなかった。
 結成された水俣病チッソ交渉団によって、十五年ぶりのチッソ正門でのテント闘争が復活し、東京からも支援者が駆け付けた。それらを気にしながら、私はかねて準備していたアフガニスタンとの合作記録映画に旅立った。二年がかりの映画『よみがえれカレーズ』が完成した後、ロケ先のウオトカの飲み過ぎのせいか、アルコール依存症になり、長期療養の日々が続いた。入退院で万事、情報の杜絶のなかで、水俣病センター相思舎のいわゆる甘夏事件を聞いた。川本さんが責任を取って理事長を降りた事も知らされた。

 新天皇への請願

 その川本さんから杉並の家にまたも電話があったのは九〇年の暮れだった。意見を聞かせて欲しいという。「今度の平成天皇にですな、水俣に来て欲しいという請願書を出そうと思ってですなあ。…『天皇に請願が出来る』と六法全書にあるとですよ。六法を繰っていたらあっとですよ。提出先は内閣じゃばってんか。…憲法第一六条、請願法第三条にですな。チャンとあるとですよ。これを使わん手はないでしょう」。また六法全書かと、その精読ぶりには驚いた。「今度の天皇も…昭和を引き継ぐなら、昭和にし残した水俣病問題に触れざるを得んでしょう。水俣に行幸して、『政府に対し、人道上、人権上の問題としてひとこと提言する』っち言って貰えば良かですが。水俣の閉塞状況に穴があきゃせんどか」。
 私は咄嗟に「田中正造の直訴みたいですね」と言うと、「明治時代とは天皇も違うばってんが…」。彼は周りの支援者には反対もあるという。その反対には思想的に天皇制反対の立場からするもの、あるいは右翼のテロを案じるからというものと二種類あるらしい。「天皇が政府に独自の提言など言えるかなあ」というと「昭和が終らんでしょう、このままでは。わしゃですな、今年、平成二年ですたい、百間(排水口)に水俣病の慰霊の卒塔婆を立てたばってん、それに“昭和六五年”と書いといたですよ。昭和は六四年で終ったか知らんが、“昭和の水俣病”は終っとらんぞ、という意味で…」。私は昭和を生きた人間、川本輝夫さんらしいと思った。「これは衆を頼んでやることではないかも知れない。あくまで個人戦、單騎戦でやったら、あなたひとりで」というと、「そのつもりだが…」とは言うもののガックリした風だった。
 これも不発に終わった。だが、戦後五五年、昭和天皇の行幸、皇太子の行啓は全国津々浦々に及んでいる。昭和史に残る所で二人のいずれかが行かなかった所があるだろうか。野次馬としては面白い。もし彼が請願に及んだら、ジャーナリズムは一斉に水俣が全国行脚の盲点だった理由を指摘したかも知れないからだ。が、アイデアか本気か計り兼ねた。

 久々の語らい

 91年夏、数年ぶりに時間を取って水俣を訪問した。その春、死んだ妻への多くのお見舞いの返礼の旅だった。旧交を温めるのが目的だった。89年に起きた水俣病センター相思社の甘夏事件で旧知の人脈はバラバラになった。不和だった患者組織の一層の反目、親しかった患者間の対立、水俣での活動拠点だった旧水俣病センター相思社の解体、支援者間の対立などからだった。「水俣駅に降りて、僕はどっち向いて歩き出したらいいんだ!」と元相思社の仲間に悲鳴に近い電話をしたものこの頃だった。しかし、思いがけなかったが、妻への弔意はその誰からも届けられた。それが救いだった。誰にも返礼にお会いしに行けるからだ。
 この春の市議選で、川本さんは落選した。役職は水俣病患者連盟の委員長のみだった。
 水俣滞在中にたまたま水俣病棄却取り消し訴訟の控訴審公判があり、川本さんとゆっくり話する機会が来た。高倉史朗さんの運転するマイクロバスで水俣から福岡高裁に行く往復をともにしたからだ。彼は「俺も定年!」という。市議落選のジョークだった。なるほど彼は満六十歳の誕生日を迎えたばかりだった。
 私と川本さんとゆっくり話をするのもカナダの旅以来十数年ぶりだ。幸い車はガラ空きだった。バスの同乗者は私たち三人のほかは芦北でひろった傍聴の女性患者と原告あわせて四人だけである。川本さんは「傍聴に来てくれるのはいつも女島(の人)だけ」、つまり水俣の患者、支援者の姿はひとりもなかった。
 その車中で川本さんは最近手に入れた井形論文「しびれについて」の講釈をしてくれた。「はじめは感覚障害のみ先行し、ついで他の症状が出現する」という論文らしい。彼は“敵中に味方”を発見したのかのような喜んでいた。
 それにしても寂しい人数である。法廷も原告(患者)側の弁護士は山口紀洋さん一人に対し、被告・国県側の法廷代理人・弁護士は計十人で圧倒的に被告側が優位。山口弁護士はそれに慣れきっているのか、終始、彼のペースだったが、私はあたかも「裁判闘争」の末路を見る思いだった。

 鬱憤と笑顔と

 帰路、話はもっぱら川本さんの鬱憤になった。
 「最近の患者は水俣病の歴史をまったく知らんし、知ろうともせん。未認定患者運動がどんなに闘ってきたかも全然知らん!」と嘆いた。それからやがて素顔での話になった。運動のこと、落選に至る選挙事情、そして“定年”、つまり引退したい心境を問わず語りに語りだした。
 「今朝も大儀だから、行こうか、やめようか正直、迷ったですよ…。うちのかかあ(ミヤ子さん)が言うとですよ。『もうひと(他人)のことはせんことにせんば。こっちの話が通じんとだから』っち。その言葉はいつも頭のなかにあるとですよ。今日は幸いかかあが(病院が)休みで家に居て、遊びにくる(愛一郎の)孫の世話をしてくるると言うから、こうして来たようなものの、あれが休みでなきゃ来んかった」。私は「エライことを聞く羽目になった」と思った。
 待たせ賃裁判の高裁への差し戻し審について訊くと、「最高裁であれだけ枠を嵌められていては、勝てる見込みはない。エネルギーのロスでしょうもん」(注、2001年 1月、最高裁は23年に及んだ同訴訟で福岡高裁の再審判決を支持し、原告事実上、敗訴)。
 妻のミヤ子さんは病院に勤め、今も家計を支えているらしい。近頃、彼は料理に凝って、ふたり分の夕食を作っているという。「料理の本の通りにやれば、上等なのが出来るとです」と破顔一笑。そこには何をやってもそれなりに面白いといった生活者の顔があった。

 「運動に哲学が欲しい」

 三年後の1994,5年、私と妻兼助手である青木基子のふたりは水俣の旅館大和屋に宿を借り、一年暮らした。当時、水俣病犠牲者のうち、死者は千八十人、その遺影を集めて「水俣・東京展」に展示する企画のためである。もっぱら遺族宅を訪ねて、仏間、仏壇にある遺影写真をコピーさせてもらう日々だった。
 その頃である。川本輝夫さんは「水俣病運動に哲学が欲しい。何か哲学とか思想がなからんば先に進めん」というようになった。その前から彼はしきりに“不可視の水俣病の時代になった”と言うようになった。「敵も見えん、患者も見えん。かつてのように水俣病が可視的に見える時代ではなくなった」という認識が言わしめた言葉だった。では水俣病運動の哲学とは何か。
 私が改まって、「水俣病の起きた原因は何だと思いますか」という問いに、彼は独り言のように「人間の奢りじゃろうと思う。じゃなからんば海は汚さん筈じゃ、海だけじゃなか、奢りが諸悪の根源かも知れん」と言う。“チッソのせい”でも“体制のせい”でもない。“人間の奢り”という。水俣病の起きた遠因は“奢り”に発しているという言葉は彼から初めて聞いた。それでは緒方正人さんがかねていう「水俣病は人間の原罪のしからしむるものだった」という想念と紙一重ではないか。その十年前、川本さんと袂をわかって未認定患者救済の運動から離れた緒方正人さんを“裏切った”として許さない川本さんを忘れない私にはジーンと来るものがあった。

 阿賀野川からの地蔵

 ある日、百間排水口向かいの慰霊の卒塔婆で川本さんはひとりでセメント仕事をしていた。聞けば、新潟水俣病患者、支援者から阿賀野川の石で作った地蔵さんが寄贈されたという。という。すでに、あの“昭和六五年”に建てた「鎮魂之聖地」「遺恨浄土之地」「慟哭永遠之地」などと墨書された四本の卒塔婆の場所である。手慣れた手つきで台座が作られた。翌日、数人に依って可憐な地蔵が据えられた。彼は「水俣病巡礼八十八ケ所、一番札所」の標札も用意して、竹林公園と公道の境に市には無断で小さな手向けの地を作った。ここから巡礼してほしいという気持なのだ。思えば水俣に、地蔵さんの背に刻まれたあの“新潟・”の水俣病を想起させるものは一切なかった。これは埋め立て地の親水護岸に本願の会が作った野仏の原とならび、水俣・阿賀の水俣病の“記憶”として残るであろう。

 ミナマタを世界遺産に

 この思いはさらに市議会での彼の「水俣湾を世界遺産に」という提案に繋がっていよう。これは彼の落選中に同僚市議が提起し、棚晒しになっていた議案の再提起だった。三度目の市議に帰り咲いた彼は、改めて「水俣を人類の記憶に刻むには…」と考えただろう。曰く「元東京都公害研究所の戒能通孝氏は水俣病患者は“国宝”であると言われた…」と。…患者の受難によってはじめて水俣病は世界に明らかになった、その教訓は人類の共有すべき負の宝、患者は国宝に値いしようという戒能氏の言葉を復活させた。「世界遺産も現代史に及び、ヒロシマ、アウシュビッツはすでに世界遺産に登録された。ならばミナマタはそれに十分比肩する」と惇々と説いた。これが奇しくも世紀末一九九九年の一二月、水俣市議会に於いての彼の最後の発言になった。これはまた忘れ去られるのだろうか。

 「井戸を掘った人」の孤愁

 少し溯らせて戴く。毎年の年賀状を繰換えし読む癖の私は、川本輝夫さんからの九八年のそれには眼が釘づけになった。「『水俣病』は行服(行政不服)に始まり、行服で終り、変な形で終らされました」。問題はその次の文言である。「離合集散、脱落、裏切り、中傷-人間不信の三十年でした。大変お世話になりました」。彼の半生の総括がこれなのか。「大変お世話になりました」とは遺書によくある言葉ではないか。しかも彼を人間不信に陥らせたものは、明らかに、運動の共有者、同伴者、支援者に向けられているとしか読めない。噂では夜な夜な深酒でミヤ子さんを手こずらせているらしい。その酒気まかせのペンか。うろたえて(本書の編者でもある)久保田好生さんに電話すると「間もなく妻ミヤ子さんと連れ立って上京する筈…」という。久保田さんはピンときたのか、「東京の人には愚痴が出るのでしょう」という。久し振りで春日の東京告発の事務所で会った彼は、すでに陽気な飲んべえだったが、おくびにも愚痴は出さなかった。身体のあちこちが具合良くないらしいが、ミヤ子さんは彼の酒を許して、ただニコニコしていた。
 九九年の年賀状は、後で思えば、多分ガン末期の病床で書かれたものだろう。
 「『未だ水俣病は終わらず』ですが、水俣では支援者、患者の枠組みが様変わりです。『井戸を掘った者』は置いてきぼりです」と。井戸を掘った人とは中国の諺で「水を呑むひとは、その井戸を掘った人を忘れてはならない」という意味だ。「その俺はおいてけぼり」と、どこかユーモラスでさえあった。続けて「…東京の支援の方々には感謝感謝です」と締めくくられていた。東京は自主交渉の闘い主戦場、氏にとって東京はもうひとつのふるさと、あのテントももうひとつの邑(むら)だったかも知れない。
 彼の前立腺ガンが転移し、予断を許さないと聞いたのはその一か月あとだった。水俣の医療センターに見舞ったときは、ミヤ子さんに見守られながら、彼は安らかな表情で眠っていた。最後は「こうなっちゃ、しょんなか(仕方なか)!」のひとことだったそうだ。何も思い残す事はないと家族は聞いたことだろう。

 生涯の原風景

 「ひとの価値は棺を覆いて定まる」という。もし彼の魂魄がさまよい、自分の死を悼む延べ七百人余の会葬者、二百通を超えた弔電、全国紙、地方紙、海外の新聞の追悼報道を見たなら何と言っただろうか。
 その数々の弔文を読ませていただいた。そのひとつ、石牟礼道子さんのそれは言う。
 「川本輝夫さんは戦死した、とわたしは思う。あるいは戦病死と言うべきか。高度成長期に滲みだして来た地域社会の、精神における病疾にも、あますところなく身をさらして果てた。背後から刺さる無数の矢傷が、あの痩身にこたえなかったはずはない。最晩年、和やかな目元をして孫の手をひき、スーパーマーケットやパチンコ店にあらわれたりした日があったとしても、熱度高く燃えつきた人の僅かな余日に過ぎなかった」(朝日新聞)。これにすべてが凝縮しているように私は思う。
 最後に私の好きな彼の文章を採録しよう。私にはまだ撮れない映画のシナリオに思える。「…(不知火海には)大小さまざまな島々が散在する天草諸島と、鹿児島県にかかる長島の島々が外洋からの波濤を防いでいます。内陸である八代平野を南下すれば、沿岸は鋸の刃のように入り組み、岸辺には数戸から数十戸といったような漁村が集落として点在しています。うつりゆく自然の営みに我が身をゆだね、肉親や一家眷属と言ってもいいような形で、集落の共同生活は営まれ、ついこの前まで保たれ続けられてきたのでした。…海辺で楽しむ想いは、町に住む人々とて、農山村の人々と一緒でした。夏は泳ぎ、藻をとり、小魚とたわむれ、干潟を掘り、海辺のさわやかな風にふれ、オゾンを胸一杯吸い、心身共に疲れを癒し、憩うのでした…」(『『社会論』)。これが川本輝夫さんの全生涯の原風景だったと思える。 
 (04,4,30)