随時連載「映画は生きものの仕事である」(5)新作を公開するにあたって 『ドキュメンタリー映画のメールマガジンneoneo』 12号 5月1日 ビジュアル・トラックス
前に書かせて戴いた私家版ビデオ『みなまた日記-甦える魂を訪ねて』(103分)の一応の定尺を見たのが今年二月早々だった。それについて先々号に大意、こう書いた。「…目下、それを前にして、腕をこまねく刻が過ぎていく。かつてのように新作から公開へと進めないなにかがある。先ず、数十本の参考視聴用 VHSを作り、水俣で映画に撮らせて戴いた人々に送った」と。
そして二か月余り、ようやくこの五月から公開に向けて歩き出そうと準備している。
その間、水俣の十数人の意見を集めること、ごく親しい友人、知人の批評をもらう一方、自分の気に要らない箇所をノン・リニア編集で推敲して 5分短縮した。通常の自主作品のことを思うと仕上げ過程が全然違った。パソコン編集はメリットだけではない。エンドレスともいうべき、“終わりなき”作業の泥沼にはまるといったデメリットもある。
フィルム時代、企業で製作しようと、自主製作であろうと、一遍完成したら、それを“推敲する”など夢のまた夢である。だから、息をつめるような緊張感があって、ダビングの終りが創作の完成。あとは首を洗って試写を見るということだった。後で気が付いたから直すなどは企業では許されない。「なんでそもそも予算・決算というものがあるのか!」とプロデューサーに一喝されること請け合いである。名匠たちにもそんなわがままは許されない。
地獄耳の黒木和雄によれば、羽仁進と勅使河原宏だけだそうだ。ともに個人プロを主宰しているからであろう。土本典昭フィルモグラフィーで羽仁さんの名作『彼女と彼』を三十年ぶりに見る機会があった。その上映前に氏から“今度、前半を10分ほど切ったの”とあっさりと告げられた。これにはびっくりしたが、観て、編集の私でさえどこを切ったか分からなかった。じつに悠々と語って良い流れで、これには再度びっくりした。
私が既成の作品をいじり直したのは『よみがえれカレーズ』だけである。かねて 5秒ほどコマ延ばしたかったワンカットについて、シグロには悪いので自費で修正した。英語版、ビデオ版のすべてが改訂されている。これにはネガ処理、ネガ編集者経費十万円以上と、結構かかった。だが、これがノン・リニア編集ならなんと容易なことか。
今回の 5分の短縮は即座に出来たという訳ではない。三回位の試行錯誤の結果である。98分…一時間38分で、私としてはこの作品の場合、丁度のタイムだと思っている。完成して、映像調節の小嶋義孝さん(SMサービス)に最終の DVDオリジナルを手渡し、旧版と差し替えてもらったのはつい一週間ほど前である。
さきに“終わりなき”(編集)作業の泥沼の“デメリット”を感じたのは、推敲を初めて一か月ほど経って、一応の0k/VHSを、批評を書いてもらうために水俣の石牟礼道子さんに送った後である。その前に、水俣からの観た方の感想、意見は届いていた。その指摘にもとづいて、スーパーの誤字の修正や、トップの説明字幕の書き直しなどは済み、もう“可なり”とした後、一山越えて、ゆとりが出来たせいだろう、推敲の手薄なシーンのアラが見えだした。とくに喜納昌吉さんの埋立て地でのコンサ-トは特別の意味のあるシーンだったが、曲を減らしても、まだ長い。音楽番組ならいいが、このコンサートの前後で、どう主宰の患者たちが変貌するか、心理的にそれを気にする観客にとっては、演奏シーンの丁寧な展開ではまどろっこしいだろうと思う。歌曲をたっぷり聴きながらも、ラストの患者さんの変化ぶりにドライブしたい。しかし、版権をポンとくださった喜納昌吉さんに失礼になってはいけない。助手の連れ合い基子は「切るな、大好きな曲だからという」。
私は音楽に暗い。かつて『わが街・わが青春 石川さゆり水俣熱唱』で、撮影(録音)した彼女の歌曲をTV番組の時間に合わせて切るのに、音楽の森拓治さんの助言が大きかった。だが今回は本来のドキュメントの質に沿って、歌曲を編集し、摘んだ。これが喜納さんにはライブのテープとは違うという点で分かってもらえるだろうと勝手に思っている。
私が“腕をこまねいていた”理由はいろいろだが、八年前のビデオと今の現実とのずれはないか、あるいは違和感の有りや無しやを、水俣の諸氏に指摘してほしかったからだ。“贔屓の引き倒し”を恐れたが、大体、感じたままの応答を得ることができた。
その返事に“水俣のことは分かっている”つもりの東京の支援者すら、ハッとするような水俣での精神状況が伺われた。これは収穫だった。
このビデオを撮影した1995年以後も、何度も水俣に行ったが、去年、埋立て地にその数を増した野仏を撮ったスチール以外は素材を加えていない。むしろ、当時撮りながら、“分かって居なかった自分”との自問自答の連続であった。「遊んで作った作品だ」と言った手前、酷評に予防線を張ったかもしれないが、語りはその“分かっていない”時期、つまり1996年の第一回水俣・東京展で一度しかしなかった“活弁”をあえて95%、そのまま残した。それは録音の久保田幸雄さんの面白がりように委ねたからである。「水俣の声/十一人」はプログラム(兼チラシ)に紹介する予定である。参考にしてほしい。
今も言われる、「未だ水俣病は終わらず」という声に対し、では、水俣の人はどう言い、どう暮し、何を望見しているか…それをこの私家版ビデオから感じて戴ければ幸いである。
04,4,28