随時連載「映画は生きものの仕事である」(6)アフガニスタンとEメールができた! 『ドキュメンタリー映画のメールマガジンneoneo』 13号 5月15日 ビジュアル・トラックス
今、Eメールのやりとりの為、英文の出来る方を探している。多分、一週間に一、二度であろうし、文書量はA4半分以下。そしてその返信メールを訳して戴くこと。出来れば基本的にボランティアとして協力して戴きたい。これが骨子である。
当方、インターネットはもっぱら連れ合いの基子に頼ってきた。私はワープロで仕事をしている。私がワープロで書くと、基子がMS-DOS変換して、neoneoやメールに添付して送る。この方法なら日本語の場合は全く問題はない、これなら二人で出来た。だが、この所、アフガニスタンとの通信が始まり、英語でやり取りする必要に迫られている。その都度、ひとのお世話になる。一人は協力者が出来たが、主婦で子育ての最中のため、急場の場合、相手の都合で間に合わないことがある。で、もう一人の方に応援をお願いしたい。ついてはその中身の事情をお話させて戴き、お力をお借りしたい。
この二年余、私はアフガニスタンで1980年代に製作した記録映画『よみがえれカレーズ』の未使用、未発表のフィルムを再点検して、昨年半ば、『もうひとつのアフガニスタン-カーブル日記/1985年』(42分)と『在りし日のカーブル博物館/1988年』(32分)として、日本語に並行して英語版を同時発表した。普通は英語版は後で作るものだが、アフガニスタンの人に一日も早く進呈したいという意図から同時制作したものだ。
これには在日のアメリカ人映画作家で『チョムスキー9,11』などで知られるジャン・ユンカーマン氏にスタッフに加わってもらった。シグロのプロデュサー山上徹二郎氏の人選の成功である。私家版というささやかな映画には格段の贅沢であったが、アフガニスタンでは『在りし日のカーブル博物館』の試写の際、多くの関係者から「洗練されたナレーション」と好評を博したそうだし、昨年暮れにはニューヨークの近代美術館・MOMAでの上記二作の公開を皮切りに、アメリカ各地の非商業映画ネットワークでの上映が進んでいる。
肝心のアフガニスタンではこれが糸口になって、この作品の片方『在りし日のカーブル博物館』の現地語(ダリ語、パシュトゥーン語)版制作が進みだした。これには NGOの日本ユネスコ連盟協会が待ち兼ねたように即座に取り組んだ。昨年六月、完成の数日後に、壊されたカーブル博物館の一角で復旧のための政府・文化情報省&ユネスコの写真展が開催されるというが報がもたらされ、それにこのビデオは格好のデモンストレーションになると、われわれ一同、色めきたった。SMサービスの小嶋義孝さんは一晩でパル方式の VHSを作り、郵送では間に合わないので連盟の知人がカーブルに届けた。カーブル博物館の所蔵文化財の七割が失われており、このイベントに“在りし日のカーブル博物館”を想起させるものがなかっただけに、このビデオの登場は関係者を驚喜させたという。
記録された芸術写真はあっても、博物館の全容を伝える記録映画、つまり映画フィルムはこれしかない、その認識はあの国の人たちに共有されはしたが、いざ現地語版制作となると、その具体的な道筋はその時にはまだ見えなかった。映画のプロが参加していなかったからだ。その時、私には一人の人物しか思い付かなかった。あとで述べるが、『よみがえれカレーズ』の共同監督ラティフ・アフマディ氏だけであった。だが、音信不通の十数年の歳月があるのだ。
映画同人シネ・アソシエとは会社でも製作委員会でもない。私の仕事に参加する集団のことである。ここで組む相手は企業や日本政府筋の文化庁でもなかろう。できればキャリアのある国際文化交流の NGOが良い、と目算を立てた。幸い、アフガン・スタッフの外山透氏が会員の日本ユネスコ連盟協会に同氏を介して接触していたのだ。
ユネスコの民間組織「日本ユネスコ連盟協会(以下連盟)」はアフガンで識字教育のための“草の根”的な組織作り、いわゆる“寺子屋運動”の普及活動がアフガニスタンで定着し始めていた。その矢先だけに、私の望んでいた“現地語版を作ってアフガニスタンの文化・教育の資産にしたい”という意図には積極的だった。資金力の乏しいシネ・アソシエとあまり差の無い連盟は早速手を回して、パリの国連の「UNESCO/ユネスコ」の松浦晃一郎事務局長から制作実費1万ドルの供与の内諾を取り付けた。話はいやが應にも盛り上がったが、ハタと困った。相手国アフガンにキーマンが見当たらないのだ。
どっちの国で具体的に制作するか、そのアフガン側のスタッフは誰が担当してくれるのかだ。世界を視野に活動しているとはいえ、日本ユネスコ連盟協会本部はわずか常任七名という。しかも文化関係に強いとはいえ、映画、ビデオの技術的なことには素人である。かといって私もそのややこしい事は分からない。「取りあえず現地カーブルに行って見たら」と思うが、私は海外旅行には医師から“ひとりではなく”と妻の付き添いを指示されているし、通訳の同行ともなれば、その三人の旅費だけで百万円余の予算は飛ぶ計算になる。これが駄目ならアフガンで信頼出来る映画のプロと組む以外にない。
実は、ラティフ氏は今の暫定政権、いわゆるムジャヒディン政治勢力に放逐された人民民主党政権の映画の第一人者だった。東京での『よみがえれカレーズ』の完成披露試写会(於マリオン)では、「私は社会主義リアリズムの映画哲学を学んだ」と語ったことがある筋金入りのコミニスト作家でもあった。その後、ウズベク大使館の文化担当に転じたという消息は聞いたが、1992年の政変以後は全く去就は分からなかった。
私は彼の尽力でカーブル博物館の撮影許可が降りたことを恩に着ている。王制、共和国、時代でも西側の映画人にもソ連にも映画フィルムによる撮影は許可された事のない秘宝であっただけに、その撮影は彼のウルトラC的な政府との折衝なしには実現不可能なことだった。また仮に許可されても莫大な協力費を要求されたかもしれない。しかし、彼は「この際、記録しなければ…」という勘とも言うべき判断があったのであろう。それだけに、私はこのビデオを彼とアフガニスタンを重ねて、当時の“合作”の持続行為と位置づけ、シグロにも日本ユネスコ連盟協会にも、そして元のアフガン・スタッフにも念を押しながらやってきた。その経緯からも“ラティフ捜し”はあらゆる機会に努めた。ある時は中東映画祭(?)のカタログにその名を見つけて喜んだが、同姓異名の別人だった。連盟にもしつこく頼んでいたのはいうまでもない。
今年(2004年)になって共同監督の熊谷博子さんから「あの映画『アフガン零年』の披露パーティで遭ったアフガン・フィルムのスタッフの青年から、“ラティフ氏は古巣にカンバックした”と聞いた」と知らせてきた。半信半疑だったが、この映画のセディク・バルマクはラティフ監督の助監督から映画入りした(アップリング配給用資料)と知った。後の動きは早かった。
今のアフガニスタン政府は国外に“流出”した学識者、芸術家の祖国復帰に努力していると聞いていたが、やはりアフガン映画、「アフガン・フィルム」に必要不可欠な人材として迎えられたのであろう。これは単純な朗報に止どまらず、私には「アフガニスタンは10年、20年単位で見て欲しい」と言ったある長老の言葉を噛みしめさせるものであった。
話は一足飛びになるが、彼とはアフガン・フィルムの事務所のEメールで即時連絡が取れるようになった。映画・ビデオの技術部門が内戦とタリバンの文化抑圧政策でどう衰弱し破壊されているか、それを悪い方に悪い方に想像していた私は、彼からのEメールで安心した。瞬時にカーブルの彼と交信できるとは!
だが、英語が出来ない私は連盟を通じてやり取りするほかない。それでも全て用は足りたが、私信までは遠慮している。
こうして懸案の『在りし日のカーブル博物館・1988年』は DVCAMを送ることで解決した。最初の思案では「在日のアフガン人で翻訳し、おなじく在日のNHKなどで働く人でナレーションをしなければ…」とか、「やはり私費を工面しても私がカーブルに行き、アフガンTVのプロを頼んで翻訳・編集して、キャリアのあるアナウンサーにナレーションを…」など迷いに迷っだが、二月以降は一気呵成に進んだ。連盟のスタッフも直接ラティフ氏と会い、会議を重ねて、最良のアフガニスタン版を作ろうとしている。
彼からの初めてのメールは短いが感動的なものだった。
「長岡氏(連盟)より監督のことをお伺い、たいへん嬉しく思っています。第一に監督のご健康を祈念しています。お会いしてから十数年後に、こうして再び連絡を取りあえることを、たいへん喜んでいます。再びお会いできれば幸いです。健康が許し、カーブルでお会いできたらどんなに素晴らしいことでしょう。もしカーブルにいらっしゃれない場合でも、私のほうで喜んで監督のプロジェクトをすぐにでも仕上げる用意がありますことをお知りおきください。あなたの判断をお待ちします」( 3月 8日pm8:46)
以来、二ヶ月経った。すでに送った DVCOM、ミニDVで二民族語のダビング作業がアフガンTVも交えて進行している。 5月末の完成を目指している。
完成後は「アフガン版はTVで常時、機会を作って放映する。カーブル博物館では常設のTVブースで反復放映」「コピーして学校、大学、社会施設、教育関係で活用する」とのことだ。制作の実態として“合作ビデオ”となり得た。
年を取ったせいか、気がせく。十数年前のカーブル博物館の撮影の時、頼まれた絵葉書は本の形にして、去年 8月に英語・日本語の併記で『アフガニスタンの秘宝たち-カーブル博物館/1988年』(石風社刊)として出版し、すでにいろいろな人脈を通じて、アフガニスタンの政府機関、要路の方、あるいは考古学者系統に送り届けたが、応答は無かった。
そこで連盟からと、友人の助けを借りた“私信”の両建てでメ-ルを送り、石風社からは五冊、カーブルのアフガン・フィルム、ラティフ氏あてに直送してもらった。
二日後、ニューヨークでのトライベッカ映画祭に出席中というラティフ氏からメールが返ってきた。“大変”ということばが多いが-。
「あなたからのEメール、ありがとうございました。私、カーブルに居りませんでしたので、返事が遅れ、大変申し訳ありませんでした。…あなたがおっしゃった本の(アフガンでの)出版の件、大変、素晴らしいと思います。私も大変、気に入りました。是非とも私の出来る限り、このプロジェクトを進めたいと思います。…カーブルに戻り次第、必ず私たちはこのプロジェクトを始められるでしょう。いつでもEメールをお送りください」( 4月30日pm15,26)
申し忘れるところでしたが、今後、私信を気ままに送りたく、どなたかお助け下さい。