考えるための道具としての映画 「土木典昭フィルモグラフイ展2004」 所収 7月17日 土本典昭フィルモグラフイ展2004実行委員会 <2004年(平16)>
 考えるための道具としての映画 「土木典昭フィルモグラフイ展2004」 所収 7月17日 土木典昭フィルモグラフイ展2004実行委員会

 私は自作を回顧する時、あるワンカットの記憶から入ることが多い。劇映画を思い出す時もそうだ。チャップリンの『街の灯』などはラストシーンの、彼の愛する盲目だった女性に見せたあのはにかみが忘れられない。永い間、それをかなり長いカットと思っていたら、後に見直したら僅か五秒ほどだった。短い方が印象が強いのか。それが私にとってのチャップリン映画のもっとも印象的なワンカットなのだ。筋は二の次である。
 私の映画『原発切抜帖』の場合もそうだ。それは一九四五年の八月七日附の朝日新聞の原爆記事のワンカットである。ベタ記事で四行、「広島を焼爆」という見出しの僅か六十字の記事だ。それは見落としかねないものだった。これを書くためにビデオで見て、改めて唸った。その紙面のトップ記事が二本、「沖縄周辺の敵艦隊に壮烈なる突入作戦 燦たり海上特別攻撃隊」に並んで、「B29四百機、中小都市へ 前橋、西宮を焼爆」とあり、これらには当時のタブロイド版にしては大きなスペースが割かれていた。
 広島焼爆の全文はこうだ。「六日七時五十分頃B29二機は広島市に侵入、焼夷弾爆弾をもって同市付近を攻撃、このため同市付近に若干の損害を蒙った模様である(大阪)」。これだけである。原爆報道の第一報が、当時の通信の事情で詳報を得られなかったということではない。ウソ報道だったのだ。
 少年時のこの記事の記憶から『原発切抜帖』は作られた。この記事の現物が見当らなかったら、あの映画の意味は薄いものになったろう。幸いに東大新聞研の保存庫にあった。どんなに心中、感謝した事か。これは新聞の威力と、同時に新聞の怖さの証拠であったのだ。

 私は元々ジャーナリスト志望だったと言ってきた。だから、あまり映画を見なかったように思われているかも知れないが、二十歳前後のフランス映画ファンぶりは相当なものだった。ジュリアン・デュヴィヴィエやルノア-ルの映画を始め、見てない映画はないだろう。戦後の日本映画にも惹かれた。とくに東宝争議前後の黒沢明や今井正、松竹の吉村公三郎、木下恵介などの映画も欠かさず見た。ともに新しい時代への息吹、人間への信頼を語り掛けてくれたからだ。
 しかし、ジャーナリストへの私の夢は変わらなかった。それは戦時中の新聞・ラジオにたっぷり漬って育った私の世代の憤懣が根にあっての事だ。もし偽りのない情報があったら、おう盛な知識欲のあったはずの十七歳の私は何か予感し得たであろう。また敗戦前とその後の凄まじいまでの落差にそれほどまでに打ちのめされなかったはずだ。原爆のベタ記事は新聞や大人への不信感を脳裏に焼き付けた最たる記憶である。
 戦後、私は一気にマルクス主義に傾倒した。それは科学的な世界観であったからだ。天皇は生きて居る神様、現人神(あらひとがみ)と教えられ、観念的な世界にすっぽり覆われ、目隠しされていたと気付いたときから、頼るべき思想は社会科学しかなかった。共産党にはすぐには入らなかった。眩しい非転向の指導者へのあまりの畏敬ゆえである。ジャーナリストの模範は見当たらなかった。過去の典型は革命ロシアを真っ先に世界に知らせた「世界を震撼させた十日間」のジョン・リードであり、近くはフランスのルイ・アラゴンらのレジスタン文学だった。

 話はいっきに現在に飛ぶが、私はやはり映像の時代の“ジャーナリスト”として、ドキュメンタリーの道を歩いてきたと思う。映画だけではなく時にペンを持って、見たことを書いたりしてきたからである。しかし、何より映画が好きになったし、今は、一番、性に合った仕事だったと思っている。
 最初の著書『映画は生きものの仕事である 私論ドキュメンタリー映画』(未来社 74年)にユニークな題を付けたと得意だったが、何も「映画は…」などと限らなくても良い。ある種の思い上がりだったろう。その言い方はどんな仕事にも当て嵌まる。水俣の映画は「魚とりは生きものの仕事である」であることを描いたとも言えるし、『留学生チュア・スイ・リン』の彼の闘いは「やむを得ない生きもの仕事であった」とも言える。誰にせよ、例えば、「靴つくりは生きものの仕事である」とか、「花つくりは生きものの仕事である」といった方がぴったりするではないか。もの書きも生きものの仕事の最たるものと思う。
 私は一九世紀のコミュニズムの思想を主義としている。いまの日本共産党やかつてのソ連の党ではない。マルクスの『共産党宣言』の末尾にある「一人ひとりの自由な発展が、すべての人びとの自由の発展の条件になるような、自由で自立した諸個人の協同社会」という人間社会の未来像、アソシエーションが究極の理想であると信じているからだ。それが抑圧的な既成党派にはなく、新しいNPOや市民運動の中に芽生えていると思う。
 私は加担の作家、対立の一方の側に立つ作家、例えば労使なら労働者、水俣病闘争なら患者の側、社会の底辺の層に加担する人間と評されているらしい。それは「公平を欠く」とか「客観的な立場ではない」とかいう意味にもなる。私がNHKに起用されることがほぼ絶無-例外はオホーツクの旅の番組-なのは,前歴やサヨク臭いということもあろうが、むしろ「公平ではない」という評がネックと思う。
 映画界でも、とかく政治的とみられ、いわゆる“映画作家”とはひと味違うニュアンスで扱われる。そう言われて見ると、確かに政治的な絡みのあるテーマの映画が作品歴に並んでいる。しかし、『ある機関助士』や『ドキュメント路上』もある。これはオーソドックスな記録映画、“実験映画”として、水俣やアフガニスタンなどのドキュメンタリーとは違った評価を受ける事が多い。確かに肌合いは異(こと)にする。その加担性は例えあっても目立たないということだろうか。

 〇三年、アメリカの第四九回フラハティー・セミナーに特別招待された。過去にはサタジット・レイ、クリス・マルケルやルイ・マル、ヨリス・イヴェンスなども招かれた特別ゲストとしてだった。「…世の中、どうなってんだ!」と驚いた始末だ。
 これは藤原敏史監督の『土本典昭ニューヨークの旅』(ビジュアル・トラックス 03年)というドキュメンタリーになっているので観られた方もおられよう。
 出品作は『水俣-患者さんとその世界』、『不知火海』、『よみがえれカレーズ』などだ。作家特集として組まれたが、それらより、同時参加の『ある機関助士』、『ドキュメント路上』の方がむしろ“実験映画派”の映画青年たちには注目された。この招待を決めた批評家でもあるジョン・ジャンヴィトー監督は『水俣-患者さんとその世界』を「劇映画を含め、自分の世界の映画の十指に入る作品」と、顔の赤らむような紹介をされたのだが、青年諸君は私が“一人ふた役”の演出が出来るとでも思われたのだろうか。興味ある反応だった。万事、さすが映画の先進国アメリカだと思わせるセミナーだった。

 このセミナーは例年“社会派”と“実験映画派”が二つに分かれて、喧々がくがくの議論になるのが恒例だそうで、それがこのセミナーの特色とも言われる。この年は「世界は目撃する」という主題で選ばれた。その会場は夏期休暇の女子大を丸ごと借り、百数十名の参加者は九日間、雪隠詰め覚悟のハードな研究会である。ここで面白いのは、何時、誰の、どういうフィルムを上映するかは一切伏せるルールがある事だ。あらかじめ既成の評価を聞かせない、偏見を持たずに観てから議論させるのを鉄則にしている。『水俣~』の翌日に『ある機関助士』、『ドキュメント路上』が上映された。偶然だが二本とも頭にクレジットは無い。ラストでしか作者名は分らない。つまり作者不詳で見せられた。これらの映画があの社会派作家ツチモトの作であることに、両派とも一瞬戸惑ったようだ。
 その雰囲気が分らないでもないだけに、いかに議論の素材を提供するかを、通訳を兼ねて同伴したカナダ在住の映画作家、大類義さんと話合った。で、「未公開の話を語ろう」ということにした。PR映画だが、実は労組と組んで作ったという話だ。つまりともに交通安全映画、その理念の宣伝映画だったが、機関士らにせよ、タクシー運転手にせよ、事故の場合、責任を取らされる当事者だ。「それは無いだろう!」という観点で作ろうとした。内緒で『ある機関助士』は国鉄労組尾久機関区に、『ドキュメント路上』は自主管理中のタクシー労組に全面的協力を依頼し、その現場のバックアップで撮った。表向きは片や国鉄当局、片や警察庁交通局のPR映画である。この演出は秘中の秘として、スポンサーはもとより、批評家、一般観客にも伏せざるを得なかった。しかし、登場人物も組合員の推薦であり、ロケハンから撮影まで、多くの現場組合員が協力したからPR映画としては異例の作り方になった。リアリティーがあるのは当り前、労働者が自分たちの側の映画だという事で動いたのだ。
 この内幕を理解してもらうには、一時間では足りなかった。大類さんは汗かいて奮闘したが、折角の話をどれだけ分って貰えただろうか。
 私にとって、これら映画も加担作家の路線としてのPR映画だったのである。この二重性は『ある機関助士』の場合は見破られなかった。やはり当局も機関車マニアだったからだ。しかし、『ドキュメント路上』は、警察庁の交通担当官に一蹴された。「映画青年の遊びの映画だ、役にたたない」という事で、各賞は貰えど以後、四十年間オクラにされた(余談だが、昨年、製作会社・東洋シネマの破産によって、公開のメドが付いた)。

 なぜこうした底辺志向が私の映画に棲み付いたのか。それは映画に入る前、特に敗戦後に必死に考えた思考の遺産であろうと思う。当時、いくつかの処世法を考えた。すべて戦争に加担した心理を洗ってみて得たものだ。「科学的かどうかで決める」、「エライ人は信用しない」、「世の主流には付かない」、「国家には加担しない」「“ベストセラー”は読まない」etcである。それがマルクス主義と掛け合わされれば、きっとジャーナリストの仕事は出来る…と考えた。弱者や底辺の人間の方がリアルな眼を持っている事は、投獄された八王子少年刑務所の世界でイヤというほど見知らされた。
 この映画以前の自己流の考え方を、岩波映画製作所時代に、同世代の仲間との「青の会」での議論で磨きを加え、この半世紀近くやってきてしまった。だから、今まで、芯は“ジャーナリスト”のココロでやってきたと思う。当時と余り変っているとは思えない。
 敢えてもう一つ決めたことは「本当の事を隠さない方がラクだ」という事…。元共産党員だったことも、全学連で大学除籍者だったことも、アルコール依存症になったことも、すべて言わずもがなのことまでゲロってきた。事がばれた時のダメージが想像できるからだ。そのために損をした事は多い。仕事先は少なく、米国や反共政権国への渡航ビザ取得まで不利だった。しかし、今は得している事が多い。その話は別の機会に語らせて貰おう。
 若い方から「どうしたら良いテーマを見附られるか?」とか「ドキュメンタリーを勉強するには?」とか聞かれることがある。映画をやりたい人には「先ずやって見ることから万事始まる」というしかない。自分の教師は自分だ。自分のフィルムはそれを教える道具である。おかしい編集は自分が一番分るはずだ。最初の観客は自分、あなたなのだから。 冒頭に『原発切抜帖』を見直して、あの当時の大新聞のウソのひどさを再確認し、さらにそれを深めた事を述べた。自分の作品ながら、その都度、“考える道具”になる一例であろう。最近の私の座右の銘は「考えるための道具としての映画」である。これを机に貼っている。ボケ防止のつもりだが、自分自身で忘れたくない言葉だからである。
 (04,6,10)