黒木和雄監督 土本典昭監督 対談 『キネマ旬報』 8月上旬特別号 №1410 キネマ旬報社 <2004年(平16)>
 黒木和雄監督 土本典昭監督 対談 『キネマ旬報』 8月上旬特別号 №1410 キネマ旬報社

 「父と暮せば」を「黒木和雄監督の最高傑作だよ」と言う土本典昭監督。岩波映画製作所以来の親友同士だ。黒木は最新作で原爆で生き残ったヒロインを描き、土本は30年間追い続けた水俣で、水俣病を生き延びた人々を撮った「みなまた日記」を完成させたばかりだ。
 共に昭和ひとけたの焼け跡世代。「まさか自分たちが生きているあいだに日本が戦争前夜になるとは思わなかった」と語る二人が、「父と暮せば」と生き残ることの問題を語り合った。

「世界中の人に見せて欲しい」

土本 あなたは戦争が終わったとき何歳だったの?

黒木 15歳です。

土本 僕は17歳だったけど、世の中ってなんだろう、政治ってなんだろう、自分の人生ってなんだろう、つて考え始める時期でしょう?
 大変な経験をして、それがやっぱり、今、この歳になって映画として成熟して来るってのには、僕は興奮を感じたね。今までにない黒木君があるって思ったね。

黒木 10年前に見た芝居が大きかった。映画にしたいな、つて思ったんだけど、でも作者がOKはしないだろうと思ったんですよ。演劇でしかできない表現であり、時間もね。ヒロインの家だけで、彼女と、幽霊と。演劇ならではの特権的な世界だからね。
 これまでいろんな優れたシナリオライターや劇作家の人と映画を作って来たけど、優れた劇作家の書いたホンというのは、ダイアローグが非常にいい。「父と暮せば」もそうなんですが、ダイアローグが優れたホンというのは、僕にとって憧れの的なんですよ。自分ではなかなか書けないものですから。

土本 「美しい夏キリシマ」の前に作ろうとしてたんだって?

黒木 その前からですね。「山中貞雄」と「父と暮せば」は、ずっと作りたいと思っていた企画だった。ただ実現は難しいだろう、まず井上(ひさし)さんに断られると思ってました。ところが快諾されましてね。映画化権料も要らないとおっしやる。「タダほど怖いものはない」と言いますから一応お支払いしますが(笑)。ただひとつだけお願いがある、と。「芝居はフランスとロシアではやったのだけど、海外に持って行くのはとてもお金がかかる。映画だったら持って行きやすいから、世界中でこの映画を見せてほしい」と。あ とは内容には一切口を出さない、「お好きなようにやって下さい」と言われました。
 最初から僕はシナリオは要らないと思ったんです。戯曲の通りにやってやろうと。ただ映画というのは設計図としての台本がないと、スケジュールも組めない。一応シーン割りをして、あとは原作通りにやろうと思ったのですが、魔がさしたのは、初恋の相手の木下青年(浅野忠信)を画面に出したということ。

土本 芝居では話題に出てくるだけなんだ?・

黒木 ええ。だから大変な変更なんですよ。原作はすべて彼女の家のなかだけ、木造のね。平屋の、焼け跡に建てたバラックなんですよ。そこは僕のイメージで、ヒロインが住んでいるのが原爆ドームの中にあるということにしたのです。

土本 イメージとしてでしよ?あなたがそう言うから頭から見直したんだけど、最初からそうはなってないものね。

黒木 それから逆算した美術の設定になっていて、洋館のホテルになってレンガになって、だから原爆ドームとはつながるわけですよ。原爆ドームの下でもおかしくない、と。美術は「祭りの準備」以来おつきあいして頂いている大先輩の木村威夫さんにお願いしました。

土本 あのセットはいいね。あと青年が集めている原爆の資料がたびたびアップでインサートされるけど、あれは作ったの?・

黒木 木村さんのところの若い人たちが全部、見よう見まねで、試行錯誤を重ねて、ガラスを吹いたりして作ったんですよ。広島に行くお金もないから、原爆資料館から借りた写真だけを見ながら。

土本 たいしたもんだね。あと最初の方で出てくる饅頭をくるんでいる新聞。二回目に注意して見たんだけど、記事の内容が昭和四一年当時のそのまま。実に考証がしっかりしているのに感心したよ。木村さんはたいした人だね。

黒木 撮影は土本さんもよくご存じの鈴木達夫さん(註一土本、黒木と共に岩波映画製作所の出身。土本とも「ドキュメント・路上」で組んでいる)。鈴木さんが「スパイーゾルゲ」(02・篠田正浩監督)でCGを経験していたので、CGも生かそうという話になって、それで1945年8月6日と、3日後の8月9日、それに1948年の復興が始まってる広島と、米軍の基地はCGを使いました。鈴木さんは「ソルゲ」でやり尽くしているからお手のものなんですよ。
 原作通りという当初の構想から外れたのはCG使用と、丸木夫妻の原爆絵画を入れたことですね。で池田醍也君というシナリオ修業中の青年に手伝ってもらって。

土本 どういうことを期待したの、その若い人には?

黒木 整理ですね。戯曲を四日間にわけて整理すること。シナリオ作業は三日ぐらいかけてアレンジしただけで、台詞もなんの変更もない。増えたところは一行もないんです。芝居は1時問15分なんで、青年のところとか、焼け跡のぶんで20分ぐらい増やしただけ。あっけない話なんですよ。だから僕は井上さんの天才に。おんぶにだっこ″でね、なにもしてないんですよ。

土本 いや、あなたはよく。おんぶにだっこって言うけどね。そりゃ違うよ。あなたの原作に対する共鳴ってのはね、すごくユニークだよ。全部成功してるとは言わないけど、これまでのものを見てもね、あなたの原作に対する共鳴性とか、画の発見性ってのは独自だよ。

”原爆”を語れなかった時代

土本 僕は今の若い人にどうしても理解して欲しいんだけど、昭和23年と言えば、原爆はまったく話題にできなかった。原爆を受けた人が病院に行くのも、本当に隠れて行くみたいなね。オープンに出来ないし、モルモットにされたもんだからね。だからあそこで原爆のモノを探してる青年ってのは、大変だね、やっぱり。米軍占領下でどうなるか分からないくらいの大変な禁を犯してる。美津江(宮沢りえ)の台詞にもあるけどね。そういうことを調べた上ですごく時代考証を頭に入れて井上さんが書いてるでしよ。

黒木 ええ。

土本 原爆資料を預かるというのは、どれだけヤバいものを預かるつてことかをね。そういうのは二回ぐらい見てもらえば若い人にも分かると思うんだけど、あの時代を実によく調べてる。

黒木 原田芳雄さん演じる父の幽霊がやる『エプロン劇場』。あのデータはやはり戦後50年のデータですよね。何万何千度で太陽が二つぶんの熱というのは、ぜんぜん当時は分からなかった。幽霊だからなんでも出来るわけで。当時「ABCC」つていう原爆病の研究所ができたのだけど、ぜんぜん治療しないんですよね。診断するだけで。

土本 そのデータも日本では発表しない。丸木夫妻が原爆絵画の第一作を出したのも、昭和25年だからね。その時も「原爆」とは言えなくて、「8月6日」つて題名で確か出したはずなんだよ。「原爆」つて言えた最初は、確か僕が山村工作隊で牢屋に入っていた昭和27年の夏に出た『アサヒグラフ』だったと思うな(註一土本は当時全学連の公然メンバーで、共産党の小河内ダム建設反対運動に派遣され、公務執行妨害で逮捕された)。
 占領が終わった年だね。合法的にやるため朝日新聞はその時期まで待った。それが出たって言うんで牢屋に差し入れがあってね、見て本当に震え上がった記憶があるよ。
 それまで丸木さんたちの絵が発表できないとか知ってたからね。丸木さんの絵が唯一のドキュメントだったんだよ、あの当時。嘘がないわけだよ、皮膚が溶けてタラタラ垂れ下がってたりする。

黒木 すごいですよね。

土本 いやな絵だけど、全部写実なんだよ。(丸木)位里さんがね、「俺はこの絵が好きじゃない。絵は美しくなくてはいけないはずなのに。でもどうにも(妻の)俊はああいう風にしか書けなかった。それをようやく俺も分かって来た」つて。映画で使っていたのは主に火の絵、彼らの第2作だと思うけど、あれで位里さんは初めて手法的に参加できるんだよ。とにかくあの時代の記録性があるイメージは……。

黒木 写真でなくて絵だったというわけか。

土本 映画でも図書館に入っても閲覧禁止でしょう? そういう時代を戦後7年、原爆が落ちてからずっと持つたということは、ずいぶん原爆についての我々の知識を遅らせたし、反対運動は本当に遅れた。昭和29年のビキニ環礁の水爆事件で、第五福竜丸のことがあって、やっとそこから起こるんだから。そこで初めて原爆のことにさかのぼって反対運動のターゲットになるんだから……。そういう戦後史だったからね。

生き残った自分が後ろめたい

黒木 「TOMORROWノ明日」の前にアメリカとの合作の話があって、これは音楽の権利の問題とかで中止になってしまったんですが、その時にアウシュヴィッツをロケハンしたんですよ。で、そのことを聞きつけた九州の民放でドキュメンタリーの演出を引き受けることになって。『かよこ桜の咲く日』という番組で、その取材で長崎の街をずいぶん歩いて被爆者の話を聞いたんです。そのなかでいろいろショックを受けたんです。全身が火傷のまま寝たきりのおばあさんに会って……。僕が会ったのは85年ごろだったから、1945年から40年間、全身が動かない。痒くても掻けない。飯も食えない。目だけ生きていて、後は全部ケロイドなんですよ。インタビューしたら「死にたい」とおっしゃるんですね。「生きていてもひとつも楽しくない」と。そして、きれいな涙を流されたんですね。それはもう非常に大きなショックで。
 私もクラスメートが11人、周りで死んだ経験があるので、それが重なって、「これは長崎と広島で大変なことがあったんだな」と具体的に知ったのです。そんな時に、土本さんともよく一緒に飲んだ新宿の「ナルシス」という酒場にしばしば来ていた井上光晴が『明日』という小説を書いたんですよ。45年の8月9日の、あの24時間前から始まり、原爆が落ちたところで終わる。その間の日常生活を描きたいと思ったんです。あのおばあさんたちがケロイドで動けなくなる、それ以前を知りたいと思った。あの人たちを五体満足で生かしたい、という思いがあって、その数年後に実現したのが「TOMORROWノ明日」なんです。
 すでに新藤兼人さんとか今村昌平さんとか、大勢の方々の優れた作品がありますが、長崎に続き広島を描きたいなあと、それからも思っていたんです。この時の、僕の長崎の取材と……。井上ひさしさんは2年間の取材と、一万人の手記を読んだ上で『父と暮せば』を書かれたんです。オリジナルな台詞がひとこともないんですよ。全部彼が一万人の証言からとったものなんですね。2年間かけてピックアップした……。
 そこで共通しているのがやっぱり、生き残って後ろめたい、死んだ連中に申し訳ない、と思っている人が多いことなんです。長崎でも、広島でも。戦後何十年間も生きているのが恥ずかしいし悔しいし、申し訳ないと。それに較べれば僕の体験なんて小さいんですけど、周りで‥11人がみんな死んで僕だけ生き残ったというのがやはり後ろめたいんですよ。介抱もせず、病院に運ぶこともせず、逃げた自分が(03年12月下旬号フロントインタビュー参照)。
 そういうことが重なって来ましてね。そこで「TORR0W/明日」を作り……「~キリシマ」でもその「後ろめたい」という感情を主人公の少年に一貫させたんですよ。その原点は「父と暮せば」のヒロインの思いだったんですね。
 「父と暮せば」の父親の台詞ですが、「生き残った者は後ろめたいと思うな。それくらいなら自分たちが死に別れた悲しみと苦しみを大勢の人に語ってほしい」申し訳ないと思うなら、語り伝えることで蹟罪してほしい。図書館で働いているお前なら……映画監督であるお前なら、表現をする仕事の人間がそれを語らないでどうするんだ。この思いは『かよこ桜~』で強まり、「~キリシマ」で強まり、でも少しも後ろめたさは癒されないんですね。土本さんの仕事場に座って話している今も、おんなじなんですよ。ひとつも晴れやかな気持ちになれない。15歳で人生が止まってしまった11人の連中が、生き延びてのうのうと映画なんて作っている自分を見てどう思っているかと思うと、依然として後ろめたいんです。

悲劇を生き延びた者の使命

土本 いやあ……(沈黙)。それに焦点を合わせた劇映画にせよ芝居にせよ、悲劇は描くよ。僕が今度の映画の父親の台詞でね、「お前は生かされてる」つて言うでしよ?
 これが偶然なのかも知れないけど、水俣で生き残って今も頑張ってる人たちが、15年くらい前からしきりに私に対して言うんだよね。「私は生かされとる」つて。「生きようと思って生きているのではなくて、生きなければならないように私かある」と。死んだ人たちに、後世に語り継ぐように生かされているというのも含めてね。
 僕らは普通「俺は生きている」と思うじゃない。自分で努力してると。でも被害者ヅラしてもおかしくない人たちがこうやって苦しんでいる。この問題をどうやって解決するのかというのは、やっぱり大きいんだよね。
 「選択と運命」(ツィピーライペンバッハ)というイスラエルのドキュメンタリーがあってね、この女性監督の両親は強制収容所を生き延びた人たちなんだけど、40年近く経っても、親からその話を聞いたことがないだよ。親といればいつでも話を聞く機会があるのに、聞くと厭がるということを彼女は理解している。ああいう絶滅的な被害を生き延びた人が語れない。自己解放って言うか、それができないで苦しんでいる。
 「SHOAH ショアー」(85)にもあるよね。自分も一緒に行きたいと言ったら、「いや、あなたは生き残って語り伝えてくれ」と言われて、それで生き残った人の証言がある。でも彼は戦後何十年も、(「シヨアー」の監督の)クロード・ランズマンに会うまで誰にも語っていないんだよ。生き残った人たちが語るべきなのに語れないという、そこのところを「父と暮せば」は描いている。
 あんな惨いこと、やっちゃいけないことだってのは分かりきっているよ! アウシュヴィッツにしても、水俣病にしても、もちろん原爆にしても、加害者被害者と言っているだけなら楽だよ。でも生き残った人たちはどうするのか?「父と暮せば」で感心したのは、お父さんが「お前は生かされている」と言う。娘が「自分か恋人と結婚して幸せになることは出来ない」と言うと、父親が「代わりを出せ」つて言うじゃない。誰かと思うと
 「孫だ」つて言うでしょ。あれだよ。
 生き残った人はやっぱり暮らしを続けるしかないし、女性なら愛して子供を作っていくじゃない。でも子供を作ってみてやっと、しみじみ分かる話だよ。でも親には洞察があって、お前が語らないなら孫に語ってもらいたい、と。そこで娘がばーつと開ける。ここに僕は感動したね。
 直接体験した世代だけではなんともしがたい。あなたにしても作品を作ってるわけだし。自分の作品は子供みたいなものでしょう?

黒木 うんうん。

土本 証言とか事実とかはね、やはりなんらかの表現を通さなければ、残せない。

黒木 それはありますね。

土本 今度の映画はそこを見事に射たと思ったね。