筑豊から朝鮮-“反日”の画家の記録 第3回民団フェステイバルパンフレット <2004年(平16)>
はじけ鳳仙花-わが筑豊わが朝鮮-
          (製作・幻燈社 1984年作品、16mm 48分)
         1986年メルボルン映画祭招待作品
         2003年韓国全州映画祭特別招待作品

筑豊から朝鮮-“反日”の画家の記録

製作・重松良周、前田勝弘
原案/絵/詞・富山妙子、語り・李礼仙
監督・土本典昭、撮影・清水良雄、照明・加藤純弘
音楽・高橋悠治、三宅榛名、録音・本間喜美雄、写真・本橋成一ほか

 この異色の社会派画家、富山妙子と私との出会いは、1977年、金芝河の精神性を称えたスライド作品『しぱられた手の祈り』(40分)の製作であった。
 これは彼女の石版画約百枚余の習作をもとに、高橋悠治の音楽、著名な在日評論家の鄭敬の歌(賛美歌で鍛えたという歌唱力)、そして俳優、伊藤惣-・林洋子らの語りという映画に劣らないスタッフ・ワークを総合した作品になった。
 こうした芸術運動は彼女の人間的魅力と、とくに炭鉱に画題をもとめた筑豊の10年、その後、金芝河など韓国の民主化運動を10年を追い続けた一徹さが、ジャンルを超えて友人知人を引き付けたからだ。この静止したリトグラフの絵は観客の思考力を促し、「映像の壁画」「語る映像の絵巻」(評)として新風だったようだ。
 さらにこのスライド―は小さな旅行カバンでも運べる。税関の探索をかわして外国にも持ち込めた。それは額縁付きの絵画展では考えられないことだった。
 さて83年、中国、朝鮮による日本の歴史教科書の改悪への批判が膨涛として起きた。この“外圧”に恥じるように、映画「はじけ鳳仙花-わが筑豊わが朝鮮」は企画された。これは日本の植民地支配から朝鮮人の強制連行の歴史、そして現在の来るべき指紋押捺への抗議まで描くものであった。
 “原作”は富山妙子の描き溜めた十数年分の全作品である。暗り地獄の地下世界のリトグラフもあれば、油絵(タブロウ)によるアジア的な極楽世界の絵もある。白黒、”色彩いずれも彼女の体験の蓄積、学習によって自家薬簑となっている豊穣なイメージなのである。
 冒頭に古いシミの溶む死者の過去帳の模写が繰られる。落盤か炭塵爆発か。無名のまま 「七坑の某鮮人」と記されている。「この筑豊の暗黒に埋められた死霊をいかに弔うか」。
 彼女はその蹟罪図としてシャーマンの足下に鸚靉を描いている。またリトグラフの多くは惨苦の炭坑夫の群像や母親(オモニ)たちの恨を、その日本人を冷たく見据える横並びの眼で表している。彼女は「私の育った地、満州や朝鮮で見た日本人を心から憎んできた」と言う。その立場は鮮明な“反日”であった。「ならばその加害者の日本人像を描いて欲しい」という私。だが外国のマンガそっくりの出っ歯で引きつった顔しか描けない。自分の顔を歪めて写生までしてみる。しかし失敗する。「顔だけで加害者と分かるように描けるだろうか?ゴヤでもピカソでも殺人者は軍装や武器で表現していた」。
 彼女は加害者描出の不能を予感し、それに代えて、同時進行の油絵に、死者を慰める絵を黙々と描いたのかも知れない。極楽としてのユーラシアのイメージやそして炭鉱地帯の装飾古墳に描かれていた宇宙図、古代朝鮮のシャーマンのエロス的な曼陀羅、それらは死者たちへの鎮魂の深さを語っているようだ。