随時連載『映画は生きものの仕事である』(10) 雲南省昆明市、映画の夜明けのくに(3) 『ドキュメンタリー映画のメールマガジンneoneo』 5月25日号 ビジュアル・トラックス <2005年(平17)>
 随時連載『映画は生きものの仕事である』(10) 雲南省昆明市、映画の夜明けのくに(3) 『ドキュメンタリー映画のメールマガジンneoneo』 5月25日号 ビジュアル・トラックス 

 この第二回、雲南映像フェスティバルの「雲南」は、ポスターや資料には『雲之南』と綴られている。中国の“遥か雲の果て”の別天地、ディープ・サウス(最深奥南部)と呼ばれてきた。中国の権力支配の中枢、北京や上海、広東などから隔絶した辺境性、秘境性ゆえ独自性を保ってきた。その意味をこめて自ら『雲之南』と掲げているのだろう。

 だが、二一世紀に入って雲南省はべつの角度からの照明が当たってきた。朝日新聞は2003年 4月に「特集・メコン川流域」を連載した。それによって私は目を覚まされた。「雲南省は一転して“開放の最前線”、メコン川は東南アジアの間でモノ、ヒト、カネを運ぶ『黄金水道』と位置付けられた」として、中国自身が“南下政策”を進めてきただけでなく、メコン川流域のタイ、ラオス、ヴェトナム、ビルマ諸国も国境を越えて、流域としての一体的開発構想に熱意を示してきたことを記述していた。雲南省はこの三、四年のうちに、すっかり中国の南の新玄関に擬せられてきたのである。私の見た昆明のめざましい近代化は、その“新時代の到来”を睨んでの中国政府自身の南下政策による開発と外国資本の先見的投資の表われでもあった。この頭の切替えの最中に雲南の映画運動の藤岡朝子さんのルポルタージュが出されたのであった。

 前号で触れたように、この映像フェスティバルが雲南省の社会学系統の映像人類学研究センターをはじめとする、“文化映画”“民族誌的映画”の匂いのする映画祭であるが、実は、将来はここ昆明がメコン文化圏を包括した各民族文化の記録映画運動の根拠地になる出だしではないか、と勝手に思った次第である。だから、雲南テレビのインタビューに昆明の印象を訊かれて、「ここは中国である以上に東南アジアですね」と答えてしまった。人口の一割が二十六の少数民族というが、タイ族、チベット族、イ族など私にはその区別ができない。つまり“非漢民族”たちとしか言い様がない。

 “漢民族”の非漢民族に対する気の使い様は神経質なほどだ。雲南テレビの女性のベテラン・ディレクター劉津暁(リュウ・クシャオジン)さんは彼等の文化の保存と記録に一生、専心したいと言われる。彼女は決して「少数民族」とは言わない。そして「どうか『源生民族』と言わせてください」と言わん許りの謙虚な口調で、彼等を『源生民族』と言うのだ。その語感は「先住民族」に近い。日本でも「先住民族」という呼び方は近々三、四十年前からだ。政府がアイヌを「土人」と呼称していた。だから彼女の態度も分る気がする。
 彼女の名刺にも関係団体の名称に「源生民族文化何々」と書いてある。だが、こうした言い方は彼女以外から聞かない。映画のカタログの文中にも見当たらない。雲南省の人類学者の少数民族の研究者の間では「人類学」、「民族学」という事で分るようだ。そこが面白い。

 やや詳しくこのエピソードを書いたのは、劉津暁さんの言葉選びに、彼女を含め歴代の支配層”“漢民族”(中華民族)の潜在的な差別意識を反省し、ドキュメンタリストとして、相手への礼儀として、「わたしは『源生民族』と言い続ける」という志を推察したからである。
 共産党独裁時代までの中国の少数民族は差別されていた…その残滓は新時代にも残ったであろう。“漢民族”に根強い中華思想から言えば、辺境の“非漢民族”たちは差別を免れなかったはずだ。彼らの村に電気が付いたのが1990年代後半、テレビはそれ以後という(朝日新聞)。当然その生活格差は酷い。昆明のサラリーマンの所得と比べて、彼等はその一割にも満たない。

 だが今は一筋の強い光が見え始めたようだ。隣のアセアン諸国との国境は、冷戦時代、戦火も交えたし(中・ヴェトナム紛争)、軍事地帯として、外国人ジャーナリストの立ち入れない地帯だった。それが取り払われる趨勢にあるどころか、冒頭に触れたように、中国と東南アジアの動脈の地として年々、脚光を浴びて光り出したからだ。

 その雰囲気は急速にこの地域に広がっている。そしていま、かつての辺境の負点を百八十度転回させようとしている昆明の人びと…知識人、映画人類学の開拓者たちがいる。そしてこの滔々たる意識変革の時代に、『雲之南』映像フェスティバルは第二回目を迎えているのだ。
 だから、ボランティアばかりでどこか半人前風のフェスティバルながら、新進気鋭の気概が感じられるのであろう。日本から作家として初参加した初々しい“前衛作家”初川敏弘さんは、このところ連続的にアジアの映画祭を訪問した印象を元に昆明を見ている。その台湾、韓国のドキュメンタリー映画祭と比べて、「底辺からの人びとの熱気がある」と感動していた。

 確かに、いわば映画の新開地といった大らかな鮮度が昆明にはあった。反面、無政府的な雰囲気でもあろう。しかし参加作品百本近い盛況にあり、中国各省からの映画学校の学生、テレビ人、映画青年の闊達な(アナ-キ-とも言える)空気が漂っている。中国各地からの若い映画人たちは長髪や目立つ帽子、凝ったパーマをかけ、“芸術家”風あり、労働運動家風ありとさまざまである。儒教の国ゆえ、敬老精神はあっても、私たちに特別な接待などはなく、趙妹嵐さんという専属の通訳が付いただけである。彼女は日本語を専攻しながら、儲かる日本人観光客のガイドは好まず、“アフリカにおける日本人のボランティア活動”をテーマに大学論文を準備中とかで、「映画のことは全く知りませんが…」という方だ。素敵な日本研究者だった。そして万事は即興的に進行していった。

 例えば初日に、こういう青年に会った。重慶から来たという初対面の二十歳そこそこの彼は、私を日本からのゲストと見るや、「ボクは黒沢アキラを尊敬しています。だからコレ!(とハンティングを指し)クロサワを真似てかぶっています!」という。ハンティング帽の黒沢明など私は寡聞にして知らないのだが…。
 そして、のっけから「写真を一緒に…」と、私の脇に並び、連れの友人にデジカメで撮らせている。有名人好みかと憮然たる私。彼の指すカタログのぺーじを見ると、コンペティション部門ではなく、若手の登竜門と見られているヤングフォーラムに正式出品している学生であった。
 その自作の紹介ぶりには興味があった。私が彼の作品を見ていないと知るや、布カバンから一枚のDVDを出し、「これはボクの作品!」といって呉れるのだ。その盤の裏面に、手書きでデータが書いてある。あとでカタログと突き合わせたが、ビデオは『青春墓園』(23分)という重慶の文化大革命の際の物故者たちの墓を探し、そのエピソードを交えてその時代を再構成した作品で、話題作だったようだ。
 私がちょっと驚いたのは、自作のDVDを、ありきたりのプラスティック・ケースに納め、マジックでじかに、自分の名やEメール、電話番号を書いたものを、名刺のように差し出して、「よろしく!」といったことだ。いくらパソコン編集世代とはいえ、文字化したプログラムやチラシもなく、まったく裸のDVDの現物を手渡し、マジック書きのデータだけで今後の付き合いが始まると独断している。では、中国人の批評家や映画の教授、或いは仲間の作家たちの間では、こうしたコミュニケーションが成り立っているのか。
 二十一歳(1984生れ)の彼は、重慶大学のテレビ映画科の学生とかで、「見たら、Eメールで感想を送ってください」という。半ば呆れ顔の私に通訳の趙妹嵐さんは、「映画の人たちは自分をセールスするのにストレートなんですねえ。付き合うのは大変ね!」という。まだ私の孫に近い世代だから、良いとしようと思う。

 日本でも自作を見て貰うことは、新人にはかなり大変なことだ。私もそうだった。フィルム時代は映写室で上映する機会でなければ、仲間にさえ見て貰えなかった。まして映画批評家に“発見してもらう”機会を作るのは、人脈なしでは難しかった。いまもそうだが、日本では手紙やチラシ、製作意図など書いたものを添えて出すのは当たり前だろう。だが中国では“名刺交換”ならぬ、この“DVDプレゼント”は普通のことのようだった。“原価はどうなっているか”という程、市販のDVDは安い。海賊版らしいチャップリンの『モダンタイムス』や、小津安二郎の『東京物語』のそれが百円で店頭に並んでいる国まのだ。普及しているパソコン編集で自分で作ったらさらに安いだろう。こうしたプレゼント用を複数用意して、「これは」と思う人に手渡す、これが映画祭にはせ参じる理由のひとつなのかも知れない。
 こうして三泊四日の昆明滞在中、いつしか溜まったDVDは私ですら十本に近い。知られた日本の YIDFFの藤岡さんにはひと荷物分の作品素材が届けられたようだ。その旺盛な売り込み自体、中国のドキュメンタリー事情の一側面かもしれない。

 さて最後に述べる“アングラ上映会”の話も私には示唆に富むものがあった。
 昆明二日目の夜、藤岡さんが、「別の会場で特別の上映があるらしいから…」という。この雲南図書館には大中小の三会場があり、フィルムの映写装置やビデオ・プロジェクターが完備しており、それぞれにびっしりとプログラムが組まれていたが、そこには嵌まらなかった映画だという。それが省内の少数民族の今日を描いた作品というだけで見たくなった。映像フェスティバル関係者の勧めもあり、私は疲れるのを覚悟で夜の繁華街に足を運んだ。そこはなんとバーがその会場だった。
 藤岡さんによれば、中国の大都市にはビデオ・プロジェクターを備えたお店があり、ときどきアングラ上映会が催されているという。当局に認められず、映画館での上映やテレビ放映の機会もないいわば“干されている作品”でも、愛好者の間でのアングラなら、いわば“黙認”されているということらしい。

 そのアングラ会場、ネオンの輝く娯楽場は酒場であり、玉突き場であり、踊れて遊べるダンスホールでもあった。音楽バンドの生演奏に若い学生・青年たちが身体をくねらせて踊っている。ウロウロする私たちを案内したのは映像フォラムのボランティアは「うるさくて済みません」と詫びながら、ダンス会場の奥に誘ったのだが、その壁面にスクリーンの常備された多目的空間が会場である。そこには椅子はなく、根っころがって演奏を聞くのか、大きなクッションがあちこちに置かれ、「どこでも座れる所に座ってください」という。普段も劇場ではなく、実演や気ままなビデオ観賞する場らしかった。だがその混み具合は相当なものだった。見れば映像フォラムの青年階層がごっそり集まった感じだ。
 ただ一等席風の場所に白髪の老女が家族と一緒に来ていて目だった。多分、今日の監督の身内と思ったがまさにそうだった。嫁である女性監督のハレの映画会が嬉しいらしく、早ばやと来たものの、場違いといった風で、クッションに正座していた。

 若い映画人、映画学生に混じって、NHKのBSにも放映された『最後のキャラバン』というドキュメンタリーをつくった雲南テレビの看板監督や、昆明のジャーナリストらしい人々も一様に膝を抱えて座っている。

 話は飛んで恐縮だが、私は最近の文章にこのアングラ上映に似たイメージを書いた。「最近、映画作りは十九世紀のロシアの吟遊詩人、革命を謳った詩人たちに似てきたようです。自作の詩が、親和性に満ちた酒場で朗唱され、その場の人びとの反応がただちに詩人に返されたような雰囲気を思います。思想の渦が生まれ、それが噂をさらに拡げていく」(近作『土本典昭・記録映画の仕事/ドキュメンタリーとは何か』のあとがきより)。それはこのような“映画が生きる場所”を想定したものだ。私には、映画を作り、自分で上映し、解説し、そして恥じらう事なく人びとに共感と、同時に率直な批評を求める…そういった映画の場、空間への願望があった。映画が複数のスタッフを要する事なく、デジタル編集により、個人製作が普通になっているこの時代にこそ、どうすれば共感の喚起と相互批評を交驩することが出来るか。昔読んだ本の記憶だが、かつてのロシアの革命詩人たちが自ら詩を謡い、その場で彼の詩のファンや愛唱者たちから鼓舞激励された。詩人はさらに詩を推敲し、磨き上げていったという故事が想い出される。その詩人の営為をいま個人製作のビデオ作家のありようと重ねて考えるのだ。
 そのことが図らずも、この昆明で目の当たりになるかも知れないとの予感を持った。

 会場のスクリーンをバックに観客に挨拶する監督、三十代の女性、史立紅(シ・リホン)さんは、日頃は北京で働く映像のプロらしかった。だが今夜のビデオは仲間と自主製作したもの、すくなくともテレビ放映の機会はなかったものらしい。
 上映されたビデオ『怒江之春』( 50分)は電力ダム工事によって、二十年前、山間部の土地を追われた少数先住民(源生民族)のその後の現状を知らせる作品だった。

 このダムに追われた少数先住民(源生民族)の問題は、開発に多く随伴する矛盾があってのことだ。今回の冒頭に、奥深い僻地が一転してメコン流域文化圏の拠点として、にわかにハイライトを浴びるに至った時代背景の変化に触れたが、その前史は1980年代後半にある。
 またも朝日新聞であるが、その連載『メコン川流域-・』(03,4,14)に雲南省内に十数箇所に及ぶ大規模な水力発電計画が、省の主導、国の全面的な指導のもとで推進された理由が書かれている。同紙によれば「…この大規模開発を、対外開放の“窓”を持たない雲南省の発展の起爆剤として、すでに(発電所)を二基、三つ目は大型で計画出力 400万キロワットが建設中」とある。一基でこの数字なら、世界にもない“お化けダム”であろう。その人工湖の規模は想像もできない。このビデオの少数民族のテリトリーはまさにその山間部、峡谷と川沿いの斜面にあって独特の生活スタイルを残してきたのだ。それがそのまま、水力発電の適地とされ、彼等は半強制的に村を追われた。
 これは省と国家の“売電”産業政策なのだ。タバコ以外の輸出産品を持たない雲南省にとって、電力の他の省への“輸出”はかけがえのない資産になる。同紙は「この開発は90年代末に始まる国家事業『西部大開発』にも組み込まれたものだ。水資源の豊富な省の西南部で発電し、エネルギー不足の東部や広東省に送る『西電東送』事業である」。この “西電”すなわち省の西部山岳地帯の山間部こそ、このビデオの主役たち、その少数民族の世界なのだ。彼等の共有地をどう尊重してきたであろうか。

 「どうして撮影できたのか?」といった映画のプロらしい質問が出された。史立紅(シ・リホン)監督は「北京の学者たちの調査ボランティアと同行して撮った」と言う。質問には事前にテレビ放映の可能性を打診したかなどという内輪の話の公表を求めるものもあったらしい。緊張感のある解説のあとビデオは上映された。
 中身は生活の術を見出だせず、再び山地に帰り、峡谷に廃棄された都市のゴミをほじくって、売れるペットボトル、ビニール、ガラスなどを拾う村人の労働を描いている。これは四ノ宮浩監督がフィリッピンで撮った『スカベンジャー』や続編『神の子たち』と全く同じ最低の仕事である。最後の収入であり、最低の生活(一日の平均 5元、60円)に生きている源生民族の村人たち。その描き方は落ち着いたものだった。、長回しカメラ、いわゆる凝視した映像で人びとのゴミを相手の労働を描き、人びとにインタビューしている。幼児を連れて、捨てられたビニール袋の皺を延ばしている若い母親は答え方を知らない。絶句下まま嗚咽の声もなく涙を落とすまでの長いカットには胸打たれた。
 これがどうしてテレビに放映されないのか、ドキュメンタリーの水準をゆうにクリアしているのに…と思う。しかし観客のほうがストレートな討論をしているようだった。深夜ながら、予定時間のないまま熱気ある意見交換が続いた。司会らしい人もなく、長い発言をセーブする人もない。史立紅監督は真っ赤になって応答していた。

 この早口のやりとりに私の通訳は追いつけなかった。が、分る。同じ映画作家らしい女性が熱弁を振るう度に“同感”の頷きがある。多分、この作品の映像フェスティバルでの位置づけを巡って、これがアングラ上映しかできなかったことを問い、「これを広く見せたい」という絞られた一体感が会場に流れていた。
 私は「これこそが映画だ」と思った。この夜の街で、映画を見て帰るのも忘れたようにひたすら喋り続け、それを聞き逃すまいとする観客と作家がいる。
 もう遅いので黙って帰るつもりだったが、通訳の趙妹嵐さんは「あなたが来ている事を知っている人がいるわよ」という。

 私は「こうしたビデオが、こうした場所で見られ、観た人たちの評判を生んで、口コミで広がっていく。ここの熱気はこの映画の成功を物語っていると思います」。そこで止めれば良いものを、つい「ビデオは映画の第二の革命です。こうして撮った人が直接、観客に見せ、感想を求め、観客も撮った人を支える。これこそ映画を作ったの時代、リュミエールからの映画の原点の姿ではないでしょうか。この場こそ“これが映画だ”という気がします」と言ったが、これが映画史の予備知識のない趙妹嵐(通訳)さんの手に余るものだったろう。一瞬反省したが、私の興奮そのものが史立紅監督や若い人びとを励ましになったと気を取り直したものだ。
 (第三話おわり。続く)