随時連載『映画は生きものの仕事である』(11) 雲南省昆明市、映画の夜明けのくに(4) 『ドキュメンタリー映画のメールマガジンneoneo』 6月14日号 ビジュアル・トラックス <2005年(平17)>
 随時連載『映画は生きものの仕事である』(11) 雲南省昆明市、映画の夜明けのくに(4) 『ドキュメンタリー映画のメールマガジンneoneo』 6月14日号 ビジュアル・トラックス

 この『昆明、映画夜明けのくに』連載に当たって、何故、ここが新しい中国のドキュメンタリーの地になるのかと自問していた。その一つの答えとして“雲の南”またディープ・サウス(南の深奥部)とされていたこの辺境、しかも1995年ころまで国境地帯として硝煙の匂いの絶えない“戦火の川”メコン源流昆明が、いまや 180度転換して東南アジアとの新しい回路、開放都市として登場してきた変遷ぶりに触れたつもりである。
 すでに航路が総延長4500キロのメコン川の入り口、南太平洋から上流の雲南省まで開拓され、50トン級の貨客船が就航している。これによって流域の国々ラオス、カンボジア、ベトナム、タイからミヤンマーを含む広域な東南アジアが、この川で結ばれた。このアジアの国々に向けての中国の新しい玄関が昆明なのだ。

 しかも雲南省の抱える少数民族(最近は“源生民族”とも呼ばれる)は26種あるといわれ、その多くは隣接国のタイ、ラオス、チベット族やそこの数多い“山岳民族”の系統らしい。ここはその多民族性において中国でも際立った地域であろう。いわゆる古い時代の“中華思想”も、“漢民族主義”もここでは抑制され、むしろ少数民族の文化を雲南省のカラーとして前面に押し出そうとしている。
 ここの観光名所「民族村」は昆明市の郊外に広大な敷地を擁して作られた。省内の山間部に行かなくてもその生活、手芸、食事を楽しめる遊園地になっている。その運営は少数民族であり、一千人以上が働いている。ここには異国情緒が潤沢である。それに惹かれて欧米や日本、台湾からの観光旅行団体のみならず、中国各地からの旅行者で賑わっていた。まさにエスニック、“中国の中の東南アジア”として売り出されている。

 これまでここの少数民族が、世界からのテレビや北京、雲南の直営テレビ局からひっきりなしに取材されてきたことはさきに紹介した「(名所)瀘沽湖畔に一年いれば百隊の撮影チームに出くわす」という笑い話でも察しられる。それにはもううんざりといった彼らの辟易の感じも受ける。つまり取材されてきた少数民族は、いわば「撮られる一方だった」し、その描き方に同意したり批判したりする場もなかった。正確に記録されているのか、遅れた民族として憐憫の対象にされているのか、面白半分ではないのか。そうした疑問がうまれても不思議ではない。雲南テレビ局の取材に対し、棚田で働いている女性が「撮るならお金を頂戴!」と言ったという。このエピソードは話題になり、これからユーモラスな番組も作られた。いかにも近年の雲南事情を端的に物語る話だ。それだけに民族誌フィルムについて、どう残していくのかが昆明の知識人、映画人の課題であり続けている。

 ここで映画民族学、映画人類学の用語を聞くのにある感慨があった。半ば死語になったと思っていたからである。その言葉は70年代、テレビ、ドキュメンタリーのなかから生まれたと思う。私の私的な記憶でいえば大学時代からの友人、牛山純一氏が60年代、日本テレビで「ノンフィクション劇場」から始めた一連のドキュメンタリー番組(『すばらしい世界旅行』、『知られざる世界』の仕事などを、民族学・人類学の一翼、社会科学のジャンルに引き上げた“偉業”に感嘆したものだ。そして、その著書活動も相俟って、やがて日本の大学にも映画(映像)人類学、映画民族学が創設された。だが、どうも昆明のそれとは実践的に差があるようだ。
 振り返ってこの民族誌映画が登場したリュミエールの時代から見てみよう。その頃から民族誌のテーマは珍重されたものだ。それが植民地獲得の帝国主義的な政策の露骨なプロパガンダ、住民の慰撫や教化の武器に堕した時代もあった。いずれにせよ先進国の映画人の目によって、その植民地の民衆が描かれる…それが一般的なパターンであった。
 第二次世界大戦後、それまでの植民地住民が描かれた見下した視点で撮った歴史への反省が起こり、人類史の学術的記録として、改めて権威づけられるようになった。

 1973年の記念すべき映画人類学者の初の総会では、その一致した意見として、六項目の方法論が列記されている。そのなかで、「撮影された人(注、原住民など)の、記録された映画への活用を保障する権利」の明記と並んで、今の昆明と繋がる話であるが「四、特に専門の現地調査者および撮影対象の人びと(注、原住民)に、民族誌フィルムの現代的撮影技術に習熟させる事」とある。つまり写される側の人びと(原住民)の中に映画製作者を育てて行くことが決議されたのである(注、マーガレト・ミード他著『映像人類学』映像記録選書)。これは先進国の映画製作者、演出家、撮影スタッフだけで現地に行き、一方的に取材するのではリアルな記録は難しい。だからスタッフに原住民出身の映画人を育成し、その参加が求めるという方向を指向した上での言及であったようだ。
 ジャン・ルーシュはその後、撮影者は現地語を話せる現地人スタッフを不可欠と宣言した。そうなったかは定かではないが…。牛山純一はプロデューサーとして、取材班全員に「地域の取材担当者を十年間は変えない」という“取材地に十年釘付け”という、スタッフには過酷とも言える体制を取った。その結果、その後の数年に世界的に評価されるニューギニアやアマゾン、アフリカなどの“未開地もの”が連作され、世界から称賛された。だが、牛山の腕力にも関わらず、何時も経済的な矛盾を抱えていたようだ。

 ついでながら、出典として挙げたマーガレト・ミード他著の『映像人類学』の作家たちには、期せずして今のIT時代、ビデオ取材の時代を予感し待望する動向が語られていて、極めて映画論として示唆に満ちている。たとえばマーガレト・ミードは民族学的撮影に当たって、美学的な技法やカットのモンタージュで表現する従来の撮影・編集ではなく、民族映画においては、ある未知の原住民の行動の撮影に当たって、しばしば「切るに切れない」、あるいは計算しがたいものがある。そのためには十分間は最低長回しできるカメラが望ましいといい、同じ思いからジャン・ルーシュは16ミリカメラに30分撮影可能な1000フィートマガジンを製作させたいと語らせている。これらの作家の欲が、製作費をかさ張らせ、経済的に破綻していくことに繋がる。

 フィルムの時代、どの国の映画制作者をも悩ませたのは、売れ筋ではない学術映画にかかるフィルムのコストである。例えばフラハティーにしても彼の映画美学からあらかじめフィルム尺数を割り出す事ができたかもしれない。『モアナ』で最初の一カットをとるまでに一年かかったというが、それほど煮詰めた映画的思考があったということであろう。しかし、民族誌的記録の場合、フィルムは多ければ多いほうが良い。観察映画には時間の制約は何より辛い。作家がそこで悩まされる。元来、売れ筋の映画ではないこの種の学術映画はお金でデッドロックに乗り上げ、そして後退を余儀なくなくされている。70年代のこれら映画の高揚期はテレビも健闘しただろう。しかし80年代は投資効率の悪い番組は切り捨てられていく。
 作家も記録の完成度を死守したい、長回しもしたい、長期取材もしたいと思えば、結局自己破産しかねない。これは自己撞着の典型であろう。以後テレビドキュメンタリーの総後退の現象を脱してはいない。その中でデジタル・ビデオの到来はこうした映画人類学にとっては“革命的”であったろう。この昆明の非商業ドキュメンタリー運動の渦の高まりにフィットしていて見事というほかない。

 先に述べた1973年の初の人類学・民族学者の会議で採択された「まだ残っている人類の遺産のその多様性と豊かさを全面に記録する」ためのマーガレト・ミードや、ジャン・ルーシュ、そして牛山純一らの採択した「“映像人類学”に関する決議」から30年、ようやく、ここに息を吹き返したと言える。その少数民族の活動家にビデオによる製作を習熟させ、干渉を排し、自立して記録映画を作らせようとする試みがそれである。撮られ続けたものが撮る立場に立つ、それこそ民主的なドキュメンタリーならではの事だろう。

 今度の雲南映像フォーラムの出品作品の95%はデジタルビデオによる作品であったことはすでに述べたが、テーマにも少数民族を描いたものが登場した。プログラムによれば、コンペ作品13作のうち、雲南の作家の出品は 2作であり、ともに少数民族の話である。だが先号で紹介したアングラ上映作品のように、雲南で撮影されたのに関わらず、ダムに追われた水没村の住民の訴えを描いた『怒江之春』は、当局の干渉があったのか、コンペには出されず、バーでの深夜のアングラ上映でしか見られなかった。国・省や市政府の直営機関であるテレビ局では、政治や社会問題に直接触れる内容の番組はいまだにタブーのようだが、フリーの作家、史立紅(シ・リホン)さんの『怒江之春』が今後、どのように公開され、この雲南映像フォーラムがどのようにバックアップしていくのか眼が離せない。
 ではコンペに正式に出された昆明出身の作家、ミャオ・クイントンの短編『南林村の歌声』はどのような作品であったかに触れないわけにはいかないだろう。
 これは小品である。ハニ族の村の大家族風の人びとの楽しい歌の集いの記録である。彼等の祖父母世代と孫世代のそれぞれの愛唱歌を披露するシーンが映画の芯になっているが、導入部の村と村人の住まいと井戸まわり、同居する黒豚親子と人びとの情景などの描写に引き込まれた。落ち着いて自宅を撮ってみたといった生活感が描かれていた。インサート・カットではなくどのカットにも構図が決まっていた。私はもっと彼らの村、家、井戸ばたの暮らしなどをもっと長尺で見たかったが。さて、主題となった歌のシーンである。祖父母世代の男女は数十人の一族を周りにして、伝来の相問歌を朗々と歌う。それは山岳地帯の村での恋人同士の歌のやり取りらしいが、はるか谷を隔てても届く、高く澄んだ声であった。周りは聞きほれている。だが、孫世代の順番になると、孫世代の三人の子供たちはそれぞれペットボトルを口許にして流行歌を歌う。ボトルは歌手の持つマイクの真似なのか、それでシナを作っている。それが笑いの種になる。会場でもそれが爆笑を誘った。テレビの風俗がどんどんこの奥地にも入っていることを見せる作品でもあった。

 この映写後の質疑でその無造作な作風が問われた。多分「ここの社会への視点がない」といった質問だったようだが、ミャオ監督は「私は好きなものしか撮らなかった」と答えた。「作家としての批評はどこにあるのか」と、さらに突っ込んだ質問があったが、ミャオ監督は「好きなものを撮った」と答えた。そこには有無を言わせぬものがあった。少数民族社会の問題を自由に描けるものなら描く、といった言外の気概を感じたものだ。この作家の寸言には多分ここの参会者には分る暗喩が込められていたであろう。

 余談ながら、これに関連するエピソードを記したい。
 私は昆明を立つ日、会場で品の良い中年の女性監督から二本のDVDを渡された。すでに書いたように重慶からの二十歳の映画青年から名刺のように、メモを書いた裸のDVDを受け取っていたので驚きはしなかったが、プロとは見えない控え目な方だった。北京のフリーの記録映画作家ということしか分らない。
 帰国してからパソコンで見たが、北京の町、古い町並みの取り壊しとそれに抵抗する頑固な住民を描いた『花市の取り壊し、(その住民の)訴えと抵抗』と題された作品である。私には住民サイドに加担したカメラが面白かった。これは出品作かとプログラムを改めて繰ったが、どこにも上映案内はなかった。かといって、アングラ上映された様子もない。監督の名前はマリーとあったが、留学生によればペンネームらしい。つまり寡黙で慎ましい上に匿名のままの作家なのだ。

 作品はテレビの水準はクリアしている。それを見ながら訳してくれた留学生によれば「この描き方なら北京のCCTV(中国中央テレビ)でも問題ない内容のはず…」という。それを確かめたくて、留学生にDVDに記された電話で北京の監督に尋ねてもらうと、「テレビ局の“主流”に断られ、放映できなかった」という。「やっぱり」という思いと同時に、彼女と北京でではなく。昆明で出会ったことを思いかえした。北京で拒否された作品(DVD)を手に、彼女ははるばる昆明まで来た。映画の上で仲間となる人と出会うために。そして逢った一人がたまたま私だったということだろう。つまり言いたいのは「北京はなくても昆明があるわ」といった明るさである。昆明はすでにそうした吸引力を備えた“映画の地”に目されていると思う。これは私の穿ち過ぎであろうか。

 滞在中の本題に戻そう。昆明での三日目、私は予定の質疑の枠以外に話すことを頼まれた。このフォーラムの総責任者であり、雲南省社会科学院の映画主任の郭淨(グオ・ジン)さんからだ。どうやら映画コースの学生に特別講義してほしいという。
 注文は「水俣を映画で撮ることの意義」「映画初心者への助言」、さらに多少の質疑の時間も取って…と、やや盛たくさんである。幸い、通訳はベテランの王衆一さんであった。
 見渡したところ、目立つ前列には真っ黒に日焼けした顔が並んでいるではないか。郭淨(グオ・ジン)さんは「タイ族のひと、イ族のひと、チベット族のひと……」と紹介する。撮影の実技の講義もあったのだろうか、一人残らずカメラを所持している。
 ソウルでも北京でもカメラを持つ若者には慣れていたものの、このいかにも現役の活動家が、これからの自力で記録をしていくのかと思うと、「何故撮るのか?」について、どう話すべきかを考える。あの『怒江之春』のシチュエーションを思いながら、環境の異変の始まりをどう捉えるかを語ることにした。

 だから、「水俣病の原因究明期に、もし今のようにDVDカメラがあったら、私は何を撮っただろう」と仮定の話をしたが、それは仮説ではない。水俣病の発生当時、チッソ工場からの有毒な排水が原因を誰もが思いながら、それを証明する方法をもたなかった。辛うじて、当時の水俣の保険部長、伊藤蓮雄氏が趣味の八ミリで水俣湾の風景の異変、よわってふらふら泳ぐ魚たちを記録し、それを繋いで、自分の推理を字幕にした映画を作っていた。
 その記録が三年後になって国会で上映され、ようやく国会議員の水俣の視察に結び付いた。それを念頭に、映像の証明の力を語った。
 「あなた方の自然に開発などで、自然環境の変化があれば、その予兆をカメラで撮って置きなさい」。と述べた

 上記の話につれ、私は咄嗟に黒板に日本語で「海」とか、「工場ー毒汚染-魚ー人間」などと字を書きなぐっていた。それを王さんが同時通訳する。字は単語を並べただけだが、分かり方は早かった。彼等からどよめきが起きた。考えれば当然とはいえ、まさか日本人が“字を書きなぐる”とは意表を突いたのか、それを面白がって湧いた。日焼けした青年たちが黒板をバックに私を写そうとカメラを向けた。ひとり、ふたり…やがて、われもわれもとビデオやデジタルカメラを向ける、ついで横に並んで肩を組む。私は上気し、初心者向きのカメラの使いかたまで、字で書いて喋った。私の上映作品にビデオ撮影とパソコン編集の『みなまた日記』がある事は知られていたらしく、実作者同士の経験交驩のような親近感があった。通訳の王さんはその人びとの雰囲気まで語ってくれた。

 何をどれだけ話したか定かではない。ただ、プログラムにあった私の略歴から、かつて日中友好協会に在籍し、日本共産党員でもあったこと質された。そして「今も党員か?」という真顔の問いに、「辞めたが、水俣の映画を撮るには辞めて良かったと思っている」と答えた。見回したが不審気な顔をする人はなかった。「私ば十八世紀からの社会主義思想は大事にしている。だから現代だけを見てはいません。ソ連も中国もいろいろあったでしょう…」というと、通訳の王さんはそれを絶妙に訳したようだ。
 その帰路、王さんは明るい顔で別れの挨拶をしながら、一言いう。耳の遠い私は聞き返すと「あなたは種を蒔きましたね」という。怪訝な私を見て、彼はもう一度復唱して笑った。私はその後、この王さんの過分な言葉を何度も思い返し、はて、これから何かをしなくちゃと思う。多分、昆明は中国のドキュメンタリーの拠点になるだろうからだ。(終)