あのころ 『読売新聞』 6/20 読売新聞社 <2005年(平17)>
 あのころ 『読売新聞』 6/20 読売新聞社

 水俣病の少女衝撃の出会い

 40年前に発表した「水俣の子は生きている」以来、水俣病をテーマにドキュメンタリーを撮り続けてきました。
熊本県水俣市を初めて訪れた時、水俣病患者の特別病棟は病院の一番奥にありました。病棟をいくつも突っ切った先の霊安室の隣あたり。水俣病発見から10年近くたち、患者は世間から遠ざけられ、忘れ去られようとしていた。
 この時、松永久美子さんという当時12歳の患者を撮影しました。「生きた人形」と言われた植物状態の少女はすべての希望を奪われた「悲劇の絶対値」とも言える存在でした。この出会いが原点です。
 <戦時中は「筋金入り」の軍国少年。敗戦後、岩波映画製作所に入り、高度成長下の旧国鉄を取材した「ある機関助士」で注目を集めた>
 市井の人間を描きたかった。皇国思想を吹きこんだ教師や権力者に深く絶望した分、うそをつかない庶民に入れこんだのかもしれません。
 撮影のイロハを教えてくれたのは「岩波」の先輩だった瀬川順一さん。カメラを移動させる速度のわずかな違いが、見る人にどれほど違う印象を与えるか。安酒場で、瀬川さんは熱っぽく語ったものです。
 <国は「水俣病問題は終わった」との立場を通してきたが、昨年10月の最高裁判決は国の行政責任を認めた。これを受け、国による問題点の再検証も始まっている>
 ある集落を訪ねた時、気づかずにカメラを向けた母親が、患者の子供を抱えて姿を消したことがあります。「撮られても病気は良くならん」。家の中から激しくどなられ、おどおどと震えた経験は忘れられません。
 水俣病の原因は、地元の工場が垂れ流した有機水銀という毒です。大企業に盾突いて声を上げるのは、患者にとって勇気がいることでしたが、私は最初の作品から実名主義を貫いてきました。
 記録なければ事実なし。患者の証言なしに水俣病の解明はなかったはずです。対象にぎりぎりまで迫ることで映像は力を持つ。今もそう信じています。
 (聞き手佐藤淳)