水俣学講義 記録映画作家の原罪 講座 水俣学講義第二集 所蔵 日本評論社 <2005年(平17)>
 水俣学講義 記録映画作家の原罪 水俣学講義第二集 所蔵 日本評論社

 原田・今日は、水俣と関わってこられた映画監督の土本典昭さんにおいでいただいております。土本さんは水俣だけではなく、いろいろなことに関わってこられて、アフガニスタンの記録映画とか、それからアウシュビッツの記録映画『ショアー』の監督を水俣に招くとかしておられます。
 今日は、初めて見るような古いフィルムがあるそうですので、そのビデオを見ながら土本さんのお話をお聞きしたいと思います。

記録映画作家の“原罪”について

土本 典昭

土本・こんにちは。こういう風に水俣のことを人前でお話しするのは二、三年ぶりだと思いますけど、原田先生の水俣学に出るということは、私にとっても重たいことですので、大変、ドキドキしながらここに立っています。
 で、私は映画作家ですので、できるだけ画(映像)を見ながらお話しするのがいいと思います。今日、お持ちしたのに二種類ありまして、一本は今から四三年前(一九六五年ぐらい)に日本テレビの「ノンフィクション劇場」で作りました『水俣の子は生きている』というテレビ番組で、発表時以来、公開されていない映画です。これは演題に不可欠な作品である、ということだけではなく、ここ熊本学園大学がひとつの舞台になっていますので、興味をお持ちいただけるでしょう。あとは五年ほど前に、水俣・東京展のために、亡くなった患者さんの遺影を集めたときの記録と説明用の文書資料のスライドです。つまり最初の水俣の取材と最後の取材をお持ちしました。この二種類の取材の間の数十年に延べ十数本のいわゆる水俣映画を連作したわけですが、“記録映画作家の原罪”といった悩みから解き放たれたことは一度もなかったように思います。それが第一作の『水俣の子は生きている』の時からです。その意味でこの映画を私の解説つきで見て戴きたいと思います。
 映写前に一言…。
 この大学の前身、熊本短大の学生サークルがこの映画のトップシーンに出てきます。木造二階建て校舎の熊本短大時代です。この頃、ここにありました「水俣病の子供を励ます会」の学生サークルが初めて仲間をボランティアとして送り出した時の話です。昭和40年、1965年の二月です。卒業後は水俣に行くはずになっている女子学生が主人公の番組でした。
 この数年前、昭和35,6年にはもう水俣病は終息したとされ、社会の関心も予算も少ない水俣の窮状を知って、卒業間近い西北ユミさんという方が、当分は無給覚悟、いわばボランティアとしてで水俣に赴くことになり、初めて現地入りした時の記録です。
 この映画で見ていただきたいところは、その当時の水俣患者さんの貧しさです。それから孤立ですね。キャメラを避けたり、人目を避けたりして目立たない暮らしです。病院でも、一般病棟の区画ではなく、霊安室とか一番奥で誰も足を踏み入れない区画に水俣病の専用病棟がありました。普通の見舞客などなどの目に触れるわけはない。そこに植物的生存とか、“生きてる人形”と言われた、生きているのがやっとといった松永久美子さんをはじめ非常に重症な患者がいました。それを“見た”から私は水俣を離れられなくなったようなものです。じゃ取りあえず観てください。

 ビデオ『水俣の子は生きている』…以下シナリオ風に。(土本の解説は以下「解説」)1、熊本短大、卒業期を迎えた西北ユミさんを交えた「水俣病のこどもを励ます会」の学生達が部室の整理をしている。室内には活動資料の水俣の略図、水俣病の解説パネルや胎児性水俣病患者の写真展示が彼等の活動をしのばせている。

ナレーションー以下(西北ユミ)「私、熊本短大二年生。ここ短大から、毎年何十人ものケースワーカーが巣立っていく。この一年、水俣病と取り組んできた仲間の中から私が水俣病のケースワーカーになると決まった時、気持ちに一つの区切りを感じた。水俣病の人たちに入院を勧め、いろいろな心配事の相談に乗るのが私の仕事になるのです」 展示の写真には目張りに学生の声「蝋人形って言われて…」「親も分からないわけ?」「そばに行ってもね、分からないんだから」。
(土本解説「この胎児性患者の写真の目張りが気になりましたが、学生にとっては自然の気配りのようでした」)

西北ユミ「熊本と目と鼻の先にある水俣で、工場の廃液が原因で一生不具になった子どもたちを知ったときほど驚いたことはありません」

2、現地水俣駅前。労働者の流れのなか、下り立つ彼女。、

西北ユミ「昭和四〇年二月、私は水俣に行きました。私は学生時代の最後の一週間をケースワーカー実習生として過ごしました。その体験を報告したいと思います」

3、水俣市民病院前。カメラは歩いて病院の最奥部、水俣病病棟へ。ベッドの女性患者松永久美子さんのアップ

西北ユミ「その日も水俣は平穏そのものでした。水俣の町でも、この病院の中でさえ、今は水俣病の匂いは薄れてしまっています。外部から来た私たちにはそれが意外でなりませんでした…水俣病は工場から海に流れ出た水銀が原因でそれに冒された魚を食べた一帯の住民が発病しました。三三人死亡、七八人の生存者もみな脳の神経を破壊され、その中には、母親の胎内にいた赤ちゃんまで病気になったのです。町じゅうを震え上がらせたこの事件から一〇年、今はうそのように、水俣病の話はしなくなりました」。

(音楽)

(市役所の中、マイクで呼び出す声が聞こえる)「吉村市長さん、吉村市長さん、お電話が入っております」

西北・手伝いになるかどうか分かりませんけど、一生懸命がんばりたいと思います。よろしくお願いいたします。

ナレーション・実習二日め、私はいくつかの水俣病の病室を回りました。

西北・入院生活で困ったことや、いろいろそういうことがあったら遠慮なく、おっしゃってください。(解説・キャメラを嫌がっているわけです)

ナレーション・私は大人の患者と会うのは初めてでした。「誰ともしゃべらっさんと。昼は字書いたり、テレビ見たりして、たまには昼寝したりしてるだけ。家の周りでするだけ。後は何も。(すすり泣きの声)自分が水俣病ということがはっきり分からん時にはな、伝染病と思われて、人から逃げられよって、嫌われよったです。水俣病ていうとはな」(解説・これは古い時代の水俣の市民病院の一番奥の病棟です。隣に霊安室があったり、伝染病室があったところにありました)
(痛い、痛いという子どものぐずる声。はっきりとは聞き取れない)

ナレーション・子どもたちの手や指は去年よりずっと速く動くようになっていました。水俣病の子どもの症状は、重い脳性小児麻痺と同じ症状です。水銀化合物で冒された神経は、死んで決して二度と蘇らないと言われています。今は生き残った運動神経を育てる以外に方法はないのです。私は大人の患者と会った時からの胸のつかえに、子どもと会うことで和らげようとしていました。「小学校に行くわけね。学校、行きたい?ね、嬉しい?学校行くの」「あん」「キヨちゃんは嬉しくないの?ね、どうして」「ふん」「しのぶちゃん、何してる?学校でいつも」「あんね、ボール」「ボール投げと?」「あのね、ベンチョ」「あー、弁当。それから何してた?この前」「う、アリト」「ん?」「チェーン」

(音楽)

ナレーション・実習三日め、はじめて漁村を訪ねました。この一帯に一番患者が多いのです。去年の夏、このあたりを調査した時に聞いた患者の家族の言葉は私の心に強く残っていました。病院に入れても金がかかるだけで、水俣病は治ったためしがない。そう言いながら子どもを閉じ込める家族たち。(解説・このシーン、よく覚えておいてください)その家族の私たちに対する態度はやはり冷たいものでした。水俣病の巣となった漁村、魚も獲れなくなった漁村。
 実習四日め、心のどこかで臆病になり始めた自分を感じながら。
 いくら話しかけても、患者の本当の気持ちや声がどうしてもつかめない。(解説・坂本しのぶさんのお祖父さんです)「口で、胸で考えとることは言わっさんもんなあ。どうしてだろうかなあ、それがわしには分からん」
 この時期、私を歩かせ続けたのは意地だけでした。この家にはまだ、一度も来たことがなかったのです。これまで診察すらろくに受けていない重症児でした。漁もなく、一家が全員揃っていました。「自分のつまらん頭で考えることは、自分方で、何とかして、どうもなくするということは、でけないことを考ゆるわけです。しかし、政府にかかって、どうする、こうするということは、どこが何じゃろ、かんじゃろ、我々にはさっぱり分からんもんない、そいで、どうしたらよかろうか、こうしたらよかろうかち、人に聞くわけにもいかず。そいけん、まあ、先はこん子どもは子どもに」

ナレーション・私は家中に沁みついた水俣病の匂いに心をとられていました。会社から出るこの子の見舞金と、生活保護とで月一万一千円の生活。慢性栄養失調の一家。一体、この子の悲惨とどれほどの差があると言えるでしょう。貧乏が原因で病院に入れない子ども、私は一人のケースワーカーとしてどこまで背負っていけるでしょうか。

(音楽)

ナレーション・私が学生時代にしたかったことは、人の役に立つということ。私が訴えたかったこと、それは社会の責任ということ。
 実習五日め、私は患者たちの指導者、渡辺さんに会うことができました。「はじめて行ったのが去年の八月です」「そっで、患者のほうに行って」「はい、学校からの実習でまず病院に来たんですよね、最初」「なるほど」「その次、冬休みに行って、今度で三回めなんです」

ナレーション・この家では三人も病気の子どもを出しました。けれども、少しも暗くないのに驚きました。私はこの老人から何かを得たい気持ちでいっぱいでした。「ヒバイドウメイガ、水俣病が発生して、どうもこうもいかん、とにかく、何か、裸一貫になっとるわけでしょう。そして今なお、肌着一枚買わないかん。そうすると、家族が多かもんですけん、肌着一枚買うとに……」

ナレーション・発病して三年、魚も獲れず貧乏のどん底に落ちた家族たちは、原因は工場にあるという医学者の研究を聞いて、いっせいに工場に補償を求めて立ち向かったのです。
 「私は互助会の会長として、当時何十名の方をですな、本当に恥ずかしながら尋常小学校は尻から何番めで卒業した人間が、一ヶ月あまりも、ようこそあの会社の前で皆さんを座らせきったということが、私自身は本当に一番嬉しかです。ま、不平ながらも、そしこだけの解決は、まあしとらんですな。子どもが三万、大人が一〇万というようなふうに解決しておったけれども、今なお、当時の……」

ナレーション・患者の家族だけが座った。工場の人にも市民にも応援を頼まなかった。この水俣で工場にたてつくのは大変なことだったという老人。この老人を指導者として、孤軍奮闘した患者たちの記録は二つのボール箱の中で埃を被っていました。
 水俣病は今では公害であることがはっきりしているのに、会社は未だに原因を認めようとしていません。政府も、もう過ぎたこととして、補償の話にすら触れようとしない。ただ会社のわずかな見舞金で妥協しなければならなかった。それも卑屈なまでに低姿勢で会社に頼んだ末のことだったと、老人は言います。
 「先般、九月二十二日、熊大における水俣病原因の最終的な発表によれば、貴社より流出する排水中に含まれる水銀が、その原因であるということを明らかにしましたことはご承知のことと思います。当互助会は過去数年の間、筆舌に尽くし難い、悲惨と辛酸をなめてきました。奇病特有の狂死、あるいは餓死、悶え死に。老いも若きも……」
 「工業の施設ばっかり大きくなったところで、人間の幸せのなかことにゃあ、工業もゼロでごわすな。そいでやっぱ、何にしても人間の幸せが大事と思いますな」

(音楽)

(解説・これは茂道というところです)

ナレーション・実習の一週間、最後に私が訪ねたのは、最も重い九つの子の家でした。生活保護の母子家庭です。
 今まで子ども可愛さのあまり手放せなかった母親、その母親がやっと入院に踏み切ったと聞きました。
 「今まで寝たきりだったわけでしょう、入院させようと決心なさったて聞きましたから」「はい、もう大分良かとです。もう、大分がとなればですな、おしっこて言わんでも、もの言わんでも良かて思うとっとです」「這ってみせて」「ほらあ、上手じゃっでん」「ああ~~」「(あやすように)ほらほら」「もう、仰向けになったっでしょう」「這おう、這おうてしてる」「ああ~、ああ~」

MC・この子もいつか大人となる日がくるでしょう。ただ、こうして生きていることがこの子にとっては激しい闘いなのです。「ああ~」

(音楽)

(解説・これは僕が勝手に考えて撮ったシーンです)

ナレーション・ある子は私に、僕の足は山の上から落ちてきた石で壊れたんだと言いました。大人が聞かせた、この童話を信じているからですが、いつか真実を話す日が来るでしょう。
 この子たちの心まで、水俣病にしたくないのです。

(音楽・終)

映像とプライバシー

土本・この映画で僕は失敗したと言いましたね。それはこういうことだったんです。はじめて西北ユミさんが部落にベテランのケースワーカーと入るとき、僕は背中から撮っていました。そしたら、網の繕いをお母さんたちがしていて、一番手前に胎児性の子どもが日向ぼっこをしてたんですね。それを撮ったかどうか分からなかったですよ。そしたらお母さんが赤ん坊を抱いて家に入ったんですね。ああ、しまったかなあというふうに思ったんですけれども、その後、お母さんからどんなに怒られましたか。
 家に入って玄関の障子を閉めた向こう側から「何ばしよっとか、いくら撮っても子どもは治るか」。「今まで新聞もなんじゃかんじゃと来たし、お医者さんも来たけど、治らん、写真撮っても治らん、あんた何で黙って撮ったか!」
 僕は、写真を撮る時は必ず断る主義だものですから、しまった、気が付かなくてすまなかったと思ったのですけれども、弁解する暇がないんですね。怒られっぱなしで。お母さんは泣いたり、わめいたりしながら怒り続けました。
 やっと釈放されまして、これは湯堂ですが、このお母さんも病気してるんですよ。写真に撮られたりして。それで映画という仕事が怖くなりました。『記録映画作家の原罪』って、何かもっともらしいと思われるでしょうけれども、写真よりも映画の方が、その人の質感とか人生が分かるんです。声も入りますから、声でも感情が分かります。ですから僕は記録映画というのは、最高の人々の表現ができる芸術だと思ってるんですが、それを水俣でやれるのか。つまり、石牟礼さんの小説もまだできていない時代でした。これは原田さんたちが胎児性の子どもを発掘されて、二年か三年後だと思います。はじめて子どもの世界が目に見えてきた時代ですね。
 その当時の新聞などには「何の誰ベエ」、「何々何子」と出ていたのですが、表現としては桑原さんが実名で写真を出してましたけど、あまり出さない。それから医学論文も見せてもらいましたけれども、なるべく外部の者が分からないような配慮がされていました。それはよく分かるんですよ。お医者さんは何も名前が分からなくても仕事はできますから。ところが、写真とか、まして映画では隠しようもなく相手をさらけ出してもらう以外、ないんですね。こちらは偉そうにというのではないんですが、こういった不正義は見逃せないというような、西北ユミさんが水俣に入ろうと思ったときと同じような気持ちで水俣に入って、こちらはいいことをやってるとまでは思いませんけど、悪いことをやってるとは思ってないわけです。それでも、撮ることによって、どれだけ彼らのプライバシーを侵害しているか、あるいは感情を傷つけるか。これは「こういうためにやってます」なんていうことは一切、通用しない。ですから、記録映画作家を止めようかと思ったぐらい悩んで、二日ぐらい水俣でぼんやりしていました。
 でもやはり、この渡辺栄蔵というおじさんたちと出会うことによって話ができたものですから、この主人公も私も、少し気を取り直して、ともかく作ったというとこなんですね。

人間回復と記録映画

 私がさっき、「ここを特に覚えていてください」と言いましたのは、目をテープで隠すシーンがありましたね。これは当時も、ある配慮があったと思いますけれども、この熊本短大のサークルは、桑原さんの一番代表作のような子どもたちの写真をいただいて、展示しながら街頭カンパを集めるわけです。すごく集まったそうです。ところがその写真に目隠しをしてあるんです。僕はこれがどうしても分からない。要するに、目を隠すという行為は人格を考えるなら、その行為は考えられない。まして、水俣の患者というのは、我々も含む社会に殺されたり傷つけられたりした人たちだと思うから、何とか人間としてお詫びして、回復してもらうというふうに考えるべきなのに、このように目隠しをすることでさらに傷つけてしまうことになりはしないか。私は今後水俣を撮る時には、絶対に本名で撮ろうとその時考えたんです。まだ方針も何も立っていませんでしたけれども、目隠しをとらせてもらいました。その時、熊本短大の生徒さんは息を呑んでいました。「そんなことをしていいんですか」。だけどその一言だけで、後は応答ナシですね。私の行動に対して。
 それから世の中は変わりまして、園田厚生大臣が三年あとに、「新潟水俣病は昭和電工、水俣病はチッソが原因」ということをはっきりさせましたね。それから、間もなく裁判が始まるわけです。「そういうことなら昔の見舞金契約みたいな、インチキなものではなく、きっちりとチッソは責任をとり、再裁量というか、補償金を払え」という運動が起きてきて、そして、裁判が始まるわけです。その頃から原田さんもいろんなコメントを発信しましたけど、私は迷いました。水俣の映画だけは撮れない。劇映画なら撮れるじゃないかという声もありましたけど、とんでもない、水俣のあの悲劇は演技ではできないですよ、絶対に。だから劇映画も撮れないんです。では記録映画で撮ろう。これを撮るにあたっては、裁判をしているから是非、水俣のことを撮って欲しいという意見がとても大きく湧きあがったんです。石牟礼道子さんとか、熊本の『告発する会』の運動をしている人たちから。
 この時は自信がなくて、自信がなくてどうしようもなかったですね。しかし結果的に違うのは、この時期は本当に空白の八年とか言われる時期で、ここに本当に水俣病があったのと思うぐらいに、何も聞こえてこない。そういう時期の記録ですけども、やはり裁判があって、運動があって、世の中が動いていきましたが、患者さんは自分がなぜ裁判に立ったか自分を知って欲しい、見て欲しいという気持ちになった時期なんです。それで私は映画が撮れました。
 それで患者番号がありましたが、「患者番号何番は誰それ」となっていたのを、全部実名で出しました。それはまったく問題にされませんでした。なるべくたくさんの患者を出しました。それ以来、私は十六本ぐらい映画を作っておりますが、本名を隠すことなしにやって来ました。
 私がお医者様だったり、あるいは文章で表現するんだったら僕も状況によっては考えないではありませんけれども、記録映画という最もシャープな表現手段を自分の技能にしている限り、腹を据えてやってきました。時には患者を悲しませました。ある例でいきますと、東京交渉で、もう亡くなりましたけれども、ある女性の患者が、四〇代になっていましたけれども、社長に「裁判で出た金額だけでなくて、一生補償する仕方を考えろ、一生責任をとれ」と、誓約書を突きつけて詰め寄るんですが、その時に、映画に残っていますけれども、「私の一生をみてください。私は社長の二号でも三号でもなります。周りにもいっぱいそういう女がいます。娘がいます。私たちの一生を面倒みてください。私は処女です」と言うんですね。これはドキッとしました。その映画は「水俣一揆」として残っていますけど、それができて、水俣に持ってきた時に、映された患者、映画ではいつも、ものすごく問い詰めて、水俣の人格になっている女性ですけど、その人は自分が撮られたことを知っているわけですね。僕を呼んで、「あの映画は上映を止めてくれ」と言うんですね。僕はピンと来ました。なぜ、そう言うのかよく分かりました。しかし、世の中で、あなたの言葉を理解する人がほとんどだから、許して欲しいと頼みました。
 私は上映しないといけない日が迫っているので困りました。そこで、「東京でやるのはどうか」と聞きましたら、「東京は構わん」と言うのですね。「水俣のことを知りたいと思う人が見てくれるだろうから構わん」「では、博多ならどうですか」「博多ならよかろう」と言うのですね。「熊本では?」「水俣のことを知ろうと思う人たちだったら、まあいいと思う。だけど、水俣は嫌だ。私はここにいて、ますます馬鹿にされ、非難され、差別されるのは目に見えている。どうか止めて欲しい」。そこで、水俣での上映ではそのシーンの何分かをすっぱりと切って上映しました。上映した後あいさつに行って、後の地方ではやりますよとお断りをして上映しました。
 それに似たことはいくつかの映画を上映する時に出てきました。その度に僕は相手と話して解決して、映画を作ってきました。ところが、『水俣病の三〇年』という映画で、トップに市民の声を集めるシーンを撮ったのですが、その中でたまたまニセ患者がいるという噂を聞いているという主婦のインタビューがあったわけです。それは、「水俣病のことは自分たちはもう分かっている、背負っていく」という、いろんな声の中の一コマだったんです。ところがそのニセ患者というシーンを何で入れたかということで問い詰められまして、ついにそのシーンは水俣では上映できないことになりました。他の所ではできても。そういうふうに仲間内の映画の上映でもあります。
 彼らが特に嫌うのはテレビです。映画は見ようと思ってくる。心構えができている。ところがテレビは飯食いながら見てるとニュースかなんかで予期せずに出るというのは本当にかなわん。心の用意もないし、テレビが一番嫌がりますね。いい話ならいいんですよ。ところが、自分に関係のある悪い話の場合には本当に嫌がります。
 そのようにして映画を作り続けてきました。それらはいつでも皆さんも見れる状態になっていますから、話をしておきます。

上映会で患者の掘り起こし

私が『記録映画作家の原罪』と言ったのは、私はこの映画で、映画作家としてのいろいろな栄誉をもらいました。私は水俣の土本と言われることに長い間抵抗がありましたけれども、近頃は諦めて「はいはいそうです」というふうに言っていますが、やはり水俣の映画を作った人間という自覚はいつもあります。当時、私の助監督をしてくれた人とも話すのですが、私は二回ほどお詫びの旅をやりました。
 ひとつは、水俣の映画をもって、こういう映画を滅多に見られないであろう離れ島、それから天草、そういうところを三ヶ月か四ヶ月かけて、八千人の人々に見せて歩きました。交通の不便な離島や離れ島で一軒一軒ビラを配って、上映場所を知らせました。公民館やそういうものがないところは、倉庫にスクリーンを張って上映しました。漫画もしましたので子どもも見に来てくれました。そんなわけで、延べ八千人ぐらいの人々が見に来てくれました。
 そんな中で、ビラを配りながら「どこの家には、夏なのにコタツでうずくまっている爺さんがいる」とか、「どうにも胎児性としか思えないという子がいる」という情報を目で見て集めてきました。その原稿をまとめたものが、『我が映画発見の旅』という本ですが、これも全部、実名で書きました。世話役はなんと言う人で、どういうことを教えてくれる、というように事細かに書きました。
 それは一九七七年、言ってみれば石原環境庁長官が水俣病の認定基準を狭くして、どんどん捨てられる時期にぶつけた私の行動です。「何言ってんだお前たち」という気持ちがありました。ろくに情報も知らせていないこの不知火海で、本人申請主義ですから「水俣の海で育ったから、私は水俣病患者であると思います」と申し出なければ何も進まない時代でした。腹が立って腹が立って仕方がないので、ひとつ旅としてやりました。
 これをして良かったと思うのは、怒る材料はたくさんありましたから、私の罪の意識が怒りに変わって、動けたと思うのです。聞いた話では、被害者の会という系統のお医者さんとか活動家が、これを何冊かまとめて買って、地域の分担を決めて、『何の誰ベエ』とこれに書いてあるから、そこから聞いて行こうというふうに有効に使ってくださったようなんです。いろいろなところに診察の機会を作ったり、認定の支えをして、徐々に七七年あたりから対岸の天草や離島の患者が浮かび上がって来たように思います。
 その根拠は、最初の水俣病事件の山場から何年か経った後に、マツシマさんという衛生の担当の方が、一人で毛髪を集めて歩いたんですね。それが一九五二、三年の頃だったと思います。それを僕は、『巡回 海をめぐる映画会』と言ってますけれども、それによると、水俣のど真ん中の毛髪水銀値が何年か経っていますから、皆魚を食べないように食わないようにしていますね。ですから、この時期に多発地帯で四二ppmという数字から始まって、一〇〇台の数字が並んでいます。湯堂とか茂道から。ところが天草の御所浦では九二〇という人がいるんですね。御所浦の鞍口というところでは六〇〇ppm、それから阿久根の産婆さんですね、この人はお礼に魚をもらってしょっちゅう食べていたらしいのですが、この人が六二〇ppmでした。「二五ppm以上はやばい」という認識をその当時持っていましたから、とんでもない数字が水俣の周辺ではあったわけです。これの時には、映画は一切回していません。二股かけない主義なんです、 僕は。能力からいってもできない。

『東京展』

 それからもうひとつ思いましたのは、水俣で東京展を開こうと。この東京展の計画は九三、四年ぐらいから考えました。この時に『プロローグ遺影展』といって、東京展の入口の一角に遺影を並べようと考えたわけです。というのは、水俣にはいろんな運動がありました。それはあるんですが、東京に情報は集まってきていても水俣に還元していないんですね。そういうことでは水俣のためには、ほとんど何もならないんじゃないかというふうに思ったのです。
 遺影を集めようとしたヒントは、ナチスの被害者を二十年かかって集めた記事を見た時に、「これだ!」と思ったわけです。次に、沖縄の平和の礎(いしじ)ですね。これは二三万四千人の名前を一人残らず、在日朝鮮人で亡くなった方もアメリカ人で亡くなった方も全部刻んであります。
 そこで、私は水俣、不知火海で遺影を集める旅をしようと。亡くなった方なら、名前も分かっているだろうと。そして撮ることを許してくれるだろう。そして記念として残すことには諸手を上げて賛成だろうと思っていたのです。女房と二人で水俣に入ったのですが、ずいぶんいろいろ考えました。