自分の作った映画を見るということ 和光大学おーぷんかれっじ通信 12/ 3月
社会的な事件をテーマとするドキュメンタリー映画の場合、テレビのニュース番組やルポルタージュとその役割は似ている。が、違う。映画の場合、テレビのような一過性の放映だけでは済まされない。私は、速報性に優れるテレビに対して、映画の数年後、数十年後にも見るに耐える記録性と、さらに敢えていえば“芸術性”を併せ備えなければ…と思った。これは難しい課題だが、1975年作のこの『不知火海』は特にそういう意識を持った作品だった。この時期、第一次水俣病裁判(73年 3月)が患者の勝訴を見た後、支援の運動もメディアの報道も、水俣病事件は“一山越えた”と思ったのか、不知火海全域の水銀汚染、や天草諸島・離島などの、いわゆる「隠れ水俣病の世界」については疎外されがちだった。だがその時期にこそ見える日常の世界もある。これはその映画である。
世界一の驚異的な毛髪水銀値( 920PPM)の患者を見殺しにした医者たちと行政。“水俣病映画”の連作をしてきた私たちは、これはいつかは大問題になって“再浮上する”と思った。果たせるかな、それから30年、最高裁判所は水俣病の概念を一新させる判決を出した(04年10月)。だから、この『不知火海』は私自身が最も見直したかった映画だった。それを、市民講座の学生・市民諸氏と一緒に、真新しいデジタル映像で見ることができ、感想を聞くことができたのはありがたかった。まさにチラシに銘うたれた『コミュニケーションとしてのドキュメンタリー映画』の文言に相応しい場になったと思うからだ。