喪友記 自分の“死後”も演出している黒木和雄 「日本経済新聞」 4/13
あっという間の旅立ちだった。つい四月七日、お互いの先輩である旧岩波映画の故高村武次監督の「偲ぶ会」の立ちあげ会議を持っただけに、そのまとめ役の黒木和雄の急逝はショックだった。松本俊夫監督も十日前、黒木の新作『紙屋悦子の青春』の試写会場で活発にやりあったばかり、意外極まると嘆息。羽仁進監督はこの最晩年の『父と暮らせば』に至るいわゆる黒木の“戦争レクイエム三部作”を壮とし、黒木の到達した地点への賛辞を送っていた。それは私ら昭和一桁世代に共通した真情であろう。
葬儀屋の来る前、自宅に横たわる彼にお別れをした。安らかな死に顔、「先に行く…じゃあな」とでも呟いているようだった。枕頭の夫人、娘さんにも暗さは微塵もない。さしずめ密葬だが、映画仲間の「お別れの会」が、今から楽しみですといった風情だ。こうしたアッケラカンとした“死後のシーン”を演出したのも黒木だったと思う。加納宗子(編集)さんの送ってくれた手持ちの東京新聞(03,10,21)は言う。「映画が撮れなくなった時が私の死ぬ時」として、「小津安二郎の墓碑銘が『無』ならば、自分は『自由』と記したい」と言い、更に『映画の可能性は無限で、映画監督は“世界を再現する”という神に近いエゴイスティックな存在」とする自画像も正確だろう。二年前のこの記事を紹介した時枝俊江監督は「黒木さんは全くそのように生き、死んだわね」と感心する。また“自由の墓”は同志社時代の友によってすでに建てられているとか。もう何をか言わんやである。