明暗こもごもの水俣病五十年 水俣病の50年誌 所蔵 海鳥社 <2006年(平18)>
 明暗こもごもの水俣病五十年 水俣病の50年誌 所蔵 海鳥社

 “五十年”といえば、私が映画界に入ったのが1956年だから、私の映画生活も“その五十年”に当たる。その中で、四十年に及ぶ水俣病映画の連作から、しばしば“みなまたの土本”と言われるが、私の不勉強もあるが、初めの数年、水俣病のミの字も聞かなかった。事件は新聞にもあまり報道されなかったし、TVもまだ黎明期、“公害”の言葉すらなかった時代だったからだ。
 水俣病の存在を知ったのは、1965年、熊本日日新聞に載った“胎児性水俣病患者”の実態と、熊本短大(現熊本学園大学)のサークルの学生たちがその支援活動に取り組んでいるという記事を読んだから。公式確認の九年後である。「もう水俣病事件は“見舞い金”契約で解決を見た。その後の問題として残されていた胎児性患者問題も彼等を水俣病患者として認定して決着したが、救済、支援が乏しい」というものであり、そのポイントは「忘れられ、風化していく水俣病事件に眼を向けよ」という意図でもあったと思う。それに添った企画が「NTV・ノンフィクション劇場」(牛山純一制作)の『水俣の子は生きている』(65年)…私の水俣映画の第一作である。

 歩いて取材した当時の水俣の印象は灰とゴミ…家並みは工場建屋からの噴煙の下にくすんで連なり、工場沿いの店や民家の屋根や雨樋には石灰の塊が出来ていた。隣接の学校の校庭も白い埃一色、まさにチッソの廃棄物汚染にまみれた“工場裏”そのものだった。
 街中には水俣病の存在を思わせる何ものもなかった。やがて分った。それもそのはず、住む地域が違っていた。多発地帯の漁村は、一番近い坪谷すら、街外れのバスの終点から線路伝いに歩いて一山越えた谷あいにあり、市民は一生に一度も行く事のない僻地…そこが水俣病患者の集落なのだ。
 水俣の市民病院は当時も賑わっていたが、どこにも「水俣病外来」の案内などない。水俣病認定患者の専用病棟は最奥部の霊安室の近く、外来患者が間違っても足を踏み入れる区域ではない。だから“生きている人形”といわれた松永久美子さんはじめ患者たちは声も殺して生きていた。ただ、胎児性患者は屈託なく遊んでいた。その明るさが救いだった。だが、長じて、不治の病いと知った時の残酷さはいかばかりだろうか。それが第一の衝撃だった。それは映像でしか描けない。それを見続けようと思った。当時患者総数は 111人。水俣病事件は終わったとされていた時期である。
 
 第二の衝撃は水俣の対岸、天草の不知火海沿岸および離島の被害者を見た事である。チッソと患者の葛藤の地、当然、水俣は衆目の集まる焦点の地である。だがその辺境はどうか。それに照明を与えたのが、天草・離島の住民の毛髪水銀調査資料の存在であった。1960年末からの熊本衛生試験所の松島義一氏の集めた1568人分の資料が十一年ぶりに発掘され、水俣病を告発する会によって公表されたのである(71年 5月27日付け朝日新聞)。これには通常、毛髪水銀値が 20PPMあれば水俣病患者と見なされるのに、最高920PPMから 600PPMという天文学的数値の水銀が検出され、20PPM 以上は調査総数の 6割近い 905人が記録されていた。これが水俣でならばどうだったろうか。あきらかに不知火海の対岸、天草、離島は辺境ゆえに行政は見殺しにすることができたのだ。これが二つめの衝撃でであった。
 この七十年半ば、申請者の急増を理由に認定医審査制度はほとんど破産に追い込まれた。さらに先送りされ、切り捨てられる辺境の彼等に「水俣病とは何か」をしかと知らせたかった。こうして1977年、若いスタッフと“巡海映画”と称する上映と啓蒙の移動巡回映写の旅を組んだ。そして半年、いわば“バス停留所ごと”の間隔で、集落を移動し、延べ76回、総数8461人に水俣病映画を見せた。いわば情報の途絶した辺境へのアクションだった。が、それが今はどうだろうか。
 今年2006年 5月、あれから30年になる。その間、ふたつの関心事は変わらなかった。私も齢七十六になり、水俣を訪れるのもやっとだが、天草の樋島、離島・御所浦に足を延ばした。私の訪ねるあてのひとりは、 920PPMありながら、放置された伝説の松崎ナスさんの娘御さんだった。世界最高の毛髪水銀所有者だった母,「しかし一円も貰っていません!」と訪ねる人にキッとなって、その矛盾を呟く方だった。その老いた娘も80歳を越えていま初めて水俣病の申請に踏み切ったと聞いた。それは朗報だった。この明暗の波長を記録したいと思う。で、この旅にかつての巡海映画の若い仲間、今はベテラン監督になった西山正啓氏に同行を願った。氏ならこの水俣病史の明暗を今後、息長く見つめて記録してくれると思ったからだ。