作家にとって岩波ホールとは 岩波ホール機関紙 「友」
「岩波ホールと私…」という主題を頂いて、お引き受けから改めて困ったのは、近年、それを語れるほど岩波ホールに足を向けていないからだ。この十年余、映画館に行く習慣が極端に少なくなった。で、岩波ホールにも殆ど足を運んでいない。それと言うのも十数年前、つまり六十歳を過ぎた頃から耳、とくに言葉の聴取力が衰えた。音量や母音は感知できても、子音が紛らわしく、聞き間違いが多くなった。例えばつい先日も「謝礼」と「カレー」と取り違え、電話の相手を困らせたものだ。対話なら聞き返せるが、映画館では「そこをもう一度聞きたい」と思っても、フィルムを巻き戻しして貰う訳にはいかない。その点、自由に巻き戻して、聞き返し出来るビデオは私には助かった。見たい作品はビデオテープを借りて見ている。だが、映画は映像が実物大、あるいは等身大を超えて訴えるとき迫力がある。スクリーンの魅力はそれが大きいほど感じやすい。だから本来、映画は映画館で見るべきと思う。とくに観客の反応を肌で感じたい時はそこに行くが、時につれの基子から“言葉”をヒソヒソ声で耳うちして貰わなければならない。それも隣席にはハタ迷惑と、気になって、あとでビデオで確かめる事にもなる。だから例えば今は亡き黒木和雄監督の岩波ホールでの上映作品『TOMORROW/明日』や『美しい夏キリシマ』なども、彼から借りたビデオで再試写して、自分の理解度を確かめたりしていた。そうした次第で、与えられた主題を、最近の話ではなく、三十余年前、私の場合の印象的なエピソードを語らせて頂きたい。
そもそも岩波映画は1950年、神田神保町の都電交差点、岩波書店の小売部の裏手を改造したスペースから発足した因縁から、岩波書店系列と目されてきたようだが、会社設立から六年後に加わった私には全く別会社だった。「岩波」の名を頂きながら、その“権威”とは別個の新しい映像文化を製作しようとしている組織に思えた。親会社から屹立した存在なのだ。それは後年の岩波ホールのキャラクターにも言い得ないだろうか。
68年、神保町の交差点の一等地のビルの10階に岩波ホールが出来、初期は多目的ホールとして映画、音楽、古典芸能、学術講座風の企画が数年、その試行を繰り返した。そうして岩波ホールの名が染み込んだ頃、1974年、故川喜多かしこさんと高野悦子さんのふたりが主宰者の「エキプ・ド・シネマ」が発足した。その幕開けが世界映画史に残るインドのサタジェット・レイ監督の『大地のうた』三部作から始まった事から、この映画の場の将来像を推察することができた。だから私などは、将来、自作の登場の場として、仮にも「岩波」ホールを想定することはなかった。それというのも私など、いわゆる昭和一桁世代は川喜多かしこさんらが戦後に続々公開された『天井桟敷の人びと』はじめフランス映画の黄金時代の名作に魅せられ、陶酔させられた口だ。また高野悦子さんも多分、川喜多さんの影響を受けた監督志望者、そしてイディク(パリ、映画専門学校)の日本女性最初の卒業生であるという。憧憬する彼女と川喜多かしこさんによる岩波ホールはやがて世界的な『名画座』になる…だが所詮私には縁がないと思っていた。
「それにしても定員二百二十人とは狭いな」などといっぱしに言っていた者(私もそのひとりだ)も、その数週間、十数週間のロングラン設定の大胆さには刮目し、納得させられた。さらにその作品選択の妙味と批評眼が伺えたのだ。
私の観たエジプトのシャディ・アブデルサラームの『王家の谷』、ルイス・ブニエルの『糧なき土地』、ルキノ・ヴィスコンティの『家族の肖像』。テオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』、謝晋の『芙蓉鎮』、ケン・ローチの『大地と自由』、フォ・ジェンチイの『山の郵便配達』などは岩波ホールあってこそ観ることが出来た映画のように思える。その作品選択を見ていると「やはりあのホールは作家のやってる作品なんだな」というに思うようになった。そうした中で、七十年代後半から羽田澄子、時枝俊江、藤原智子など女性監督の作品も上映されるようになった。上映されてさらに磨かれるといった作家たちだった。
ところで、特例の形で、私の二作品『医学としての水俣病 三部作』(計四時間半)と『不知火海』(約二時間半)の計七時間の完成特別ロードショー(75年 4月、20日間)が入っている。この四本の映画は二年がかりで、19人の医学者の映像作業とその研究をドキュメンタリーを纏めたものだ。その製作中の懸念はこの新作の長編をどこで発表できるかであった。一挙に上映されてこそ、見えてくるものがあると思うが、長すぎる…。
水俣病事件にもうねりがあった。裁判の判決は73年の三月、そして裁判の全面的勝利を受けて、患者はチッソにじかにそれぞれの一生の生き方の補償を求めた。その自主交渉の数か月が山場であった。長編映画第一作、『水俣/患者さんとその世界』の上映活動も、同じようにピークを越えた。支援運動も疲れ休みといった情勢になったが、この時期にしか撮影出来なかったのがこの医学映画だったのである。
例えば裁判の去就に影響のでることを恐れ,熊本大学の医学部会は教授たちの学用フィルムの公開を禁止していた。また自由な医学的所見のインタビューなどは裁判の判決までは許されなかった。しかし、ようやく判決確定後、医学者は公表の可能性を得た。同時に抑えられていた水俣病患者の認定申請も急増した。環境庁や熊本県行政の水俣病行政は危機に追いやられた。その矛盾の裂け目でようやく撮影できたものばかりだった。75年 4月の岩波ホールでのロードショーはタイミングとして絶好の機会であった。
岩波ホール上映を視野に入れ、執筆された日高六郎氏の論文「ひとつの思想的事件-映画『医学としての水俣病』と『不知火海』」が載った雑誌『世界』は、その公開日の一週間前に発売された。“思想的事件”としての切り口が全国的に反響を呼んだようだ。
その末尾に断言された言葉…「(映画)七時間は、一日の労働時間に匹敵する。それだけの労働を強いても、この長時間記録映画を見させようと企画は時代ばなれしている。しかし時代ばなれしなくて、どうして現代を語ることができようか」。これは氏のエキプ・ド・シネマへの言葉でもあろう。お陰で、最終日に近付くにつれ立ち見はおろか舞台の両袖まで観客で埋まった。さらに映写室のガラス窓にも席が設けられた。こんなぎゅうづめの上映は見たことがない。それは日延べしない原則を守るホールとしての大英断だった。 気になる話を最後に…。この公開にあたり、医学編に登場している脳科学者S教授の26年前の手術ミスを問う、東大医学部グル-プの糾弾ビラが連日、切符売り場で撒かれた。「何故ビラを撒くのか?」と聞くと、糾弾共闘の学生は「ここで上映される事自体が、S教授を免罪するからだ」という。彼は私の真逆の立場からホール上映を意味づけている「…岩波ホールとはそういう所だ」と。脈絡のないような言葉だが、「どこで上映されるか」。それはある緊張感を私に自覚させた。今回、黒木和雄の遺作『紙屋悦子の青春』は岩波ホールから旅立ちをしていく。その今後を考えることは楽しい。切に成功を祈りたい。