小川紳介とはどんな男か「映画芸術」11月号
最近の小川紳介を見、語ることは快い。自然児のように変幻自在な思想を語り、よどみなく、たえず問発的で、自己の欠陥に嘲笑的であり、愛着をこめて、それを鼻くそのように丸め、眼の前でポイと捨てて見せる。一体この男はどこまで伸び、肥えたのか驚きを覚える。「日本解放戦線」(三里塚農民の記録)をとり終えて目下編集中の彼から、呑気で楽天的な展望が次々に出てくる。かつて、「現認報告書」を作るときに、目の前に居た彼は使命感につきうごかされて、たえず張りつめて、ぎごちない硬さがあった。それが見事に武装解除されている。私は映画作家である彼を見ると共に、革命家の咲笑性といったものをみる。彼は本来楽天的であるには違いないが、確かに一つの地点を確実にみつけた人間の自由自在さが身辺から匂うのだ。色色憶い出さない訳にいかない。
小川紳介ははっきり云って不遇で、アウトサイダーの道を歩んできた。その不遇さには徹底したものがある。岩波時代に二本程、B班監督的なあつかいで、映画監督の道をふみ出した彼は、独特の方法で、絵を作った。それは本編の部分とあまりに異質で個性的で画然と異っており、B班を依頼した監督をへきえきさせるものであった。彼には習作ともいうべき時期がない。わずかの部分にも、完結した表現をとり得た。そのために、幸いにも、彼は、中途半端に評価される?「短篇作家」「PR映画作家」になる不幸から免がれたといえる。ともかく当時から異常な放射能をもつ男で、「望遠レンズで人物を見ると、耳がぐっと前に見えるでしょう。二つの耳を見るにはワイドでは出来ないよ。肉眼ではできないよ。人間には耳が二つあるということが分って望遠レンズはある効果をもつ…」といったことを一時間も喋るのだから、助監督時代から、カメラマンにとっては、触発力を惜しみなく与えてくれる人物として愛されてきた。「とべない沈黙」「処刑の島」のカメラマン鈴木達夫、「初恋・地獄篇」の奥村裕治、彼の連作のカメラマン大津幸四郎らは、すべてその当時助手であり、談議の仲間であった。手持フォロウの意味、レンズ系の差異、移動のスピードについて、天性の解釈をもっていて、それを徹底的に解析して語る果てに必ず人間との接点まで論を押しすすめる点で、他のいわゆる映像作家と決定的に異質であった。いわゆるモダニズムにずり落ちない思想的原則の一点を必ず持って混沌とした談議の中から、人間をドキュメントすることへの志向を語りつづけていた。六、七年も前の彼である。「人間をとらえる。人間を生きたまま把み出すことが出来るか?」の間の根底があり、そこからいわば手法を空想的にとり出すといった円環的論理の中で、カメラマンだけでなく、私も大いに熱中させられたものである。この彼の資質に極めて不遇であったとしでも、又当然といえる異端嫌いの小「体制」から、われわれもとび出したように、小川も早やばやとフリーを宣言した。
民俗学を専攻すべく国学院に学び、学生運動のリーダーになり、自治会と映研を舞台に極めて埋没志向のつよい、いわば底辺活動を持場と考える活動の日々を送ったと聞いている。その後、独立プロの運動の中で、今井正の「米」の助監督に、そしてドキュメンタリー映画を志して岩波映画に来た彼に、そこが好ましい下積みの快い努力と喜びの日々があったらしい。彼が私の知る限り、肉体的を個性ともいえる喋笑性を失った彼を知らない。それでいて、彼は表面に出ることを避ける活動のタイプが一貫していた。彼は労働組合集会や、「映像芸術の会」などの集りで、必要に迫られて語る場合に、決定的に吃るのは何故だろう。とにかく伝達カが未熟であり、その分だけコ的な対話性は強く逞しく、腕力の太く、体力の厚みを見せるのが対照的であった。
彼の映画が、記録映画の常識を越えて、長編性をもち、音声のシンクロ性をもち、正面きっての人物把握が多いのは、彼の個有の資質であろう。「『日本解放戦線』の映画の中で、今回、1カットもぬすみどりを使わなかった。全部、農民の列中から、その視座からとり、権力側をとるにも、正面から、カメラの存在をかけて、それとの対面で、すべてを撮った」と彼が語ってくれた。それには、一連の連作の中で、彼が、自己格闘した思想の方法として、はじめて徹底性に成熟し得た喜びと共にあるのだ。
彼は「圧殺の森」の中で採用した、盗み取りの方法に自己嫌悪のかかわりをもっていた。盗み取りは、思想の問題として許せない。ドキュメンタリーにとって、カメラを顕然化させ、それとの人間対話の中で、作家自身を被写体にさらすことで、被写体の人間が真に人間的に批評の対象となるべきである。鳥瞰的で、観察的な盗み取りは、作家として後退だと「圧殺の森」の欠陥を垂直に彼は切りこんでいく。角田委員長がかくしマイクをもって、戦列を離れたかつての学友を訪れ、責める際の異様な迫力のあるショットを編集した直後から始まったであろう彼の盗み取りへの疑問は、彼の手法から、抹殺される方向へと向かっていったようだ。盗み取りで、相手に批判的であることで、作家小川は、望遠レンズをつけたカメラの三脚の傍らに静止していた自分の姿勢を改めて問いはじめたのだ。それは説教者であり、組識者の思想に似ている。異端の前で説くことで、現在はコミュニケートできないとしても、人間には、対語しかないと確定してゆく思想、明日の発芽まで持てという作家の「謙虚」を自らに課し乍ら、うらはらに、一旦打倒すべきだと思い定めたときの強烈な否定性をも両有する方法を小川は自身に課しているようだ。
又、「現認報告書」の中で、彼は、カメラの位置に決定的な欠陥のある事を自らあばいてみせたことがある。権力との激突の際にカメラが学生の側からのみとらえるべきであり、決して警察権力と学生の間に横位置に居るべきではなかった。それは視座をどこに置くかの原則的なことだ。必ず、学生の蒙った打撃そのもののように、カメラを権力の下に縦位置におくべきであった。
彼との語らいの中で、彼の自分の手法への批判は、いつに思想と主体、カメラとレンズは、人間そのものが、そこに居て証言し、闘い、時に、それを越えて、武器に代えることをのべた。その経路から、「日本解放戦線」に至って、始めて、視座の徹底性をとり得たことをのべてくれるのである。そのために、大津、大塚カメラマンの逮捕という代償を払ったのだ。
「ドキュメンタリー映画は虚像ではない。虚像とすることで作家が自分の主体を逃してしまう一瞬があるのではないか?映画が実像となり得るまでのギリギリの闘いが、虚像を、これが実像だと云い切れる作家の責任につながるのではないのか?」小川がこう自問自答する時、彼にとってのドキュメンタリー映画は、小川の思想と肉体と生理を揮然と一つのものに統一し、「生きもの」として自分の分身をフィルムとして投げ出し、それが独自に息づいて、生命があるときはじめてそれを「映画」として確認できるかのようだ。
彼は自由自在に自分を解剖する。それは健康体の匂いのする作業だ。「青年の海」以来「圧殺の森」「現認報告書」そして「日本解放戦線」へという足どりを見るとき、彼の中の永久運動のしかけを探りたくなる。彼にはナルシズムは全くない。映画が完成したその時から、私はいつも無警戒であけっぴろげに、自分の作品の中の欠陥と限界を指摘して見る彼に毎度、首をかしげたものだ。「現認報告書」完成後、作品批評の中で、多くの欠陥がのべられた。彼はその指摘に素直であり、気づき乍らもあえて、自分の眼で否定すべきものとして検証する日まで、その時点の自分の欠陥に正当であろうとしているように思われる。まるで自分の記録にしか挑戦しないレコード・ホルダーのように。そして、必ず、それを乗りこえるために、次の作品を送り出してゆく。あたかも欠陥が良い酵母であるように魅力的で繁殖的な存在として彼の中でとらえられているようだ。「日本解放戦線」は、「春と夏の巻」であると、彼は云う。次は、「冬」そのあと「夏」と連作するつもりだと語るとき垂直に下降し、上昇する彼の創造力の自己運動と、それが、次に作るであろう作品に、スリリングな期待を抱かないわけにはいかない。おそろしい地点まで彼はきたもんだ。
「春、夏、秋、冬、又春夏ととりつづけて十時間位ぶっ通しで、三里塚の闘争を俺は見たいんだ。ずいぶん人間が変わるだろうな。農民がどこで自分の思想をみつけるか……」と彼が他人事のように語るとき、映画がかつて知らない何かに変革されつつあることを感じるのである。ドキュメンタリー映画は、彼の手で一つの岩盤を掘り抜いたなという感概をこめてである。
●70年を70m mで
彼は映画作家である点で極めて現実的である。この短期間に、彼はカメラ、プロジェクター、レンズを次次と確保した。映画を作ると同じ腕力で、機材をそろえた。それは、彼が、いつでもカメラを手にもてることへの長い間の希望であるのは云うまでもないが、まだ手にしない映画機械について極めてぜいたくな願望をかくさない。高価なプリンプや、70ミリカメラすら、彼の次の作品のために、欲しいという欲望を、自ら節しようとしない。彼は来たる安保七〇年にむけて、70ミリカラーを使っての記録映画を語るとき、その画面の中に数十万の群衆を思いうかべており、その一人一人を出来るだけ鮮明に定着させたいからである。枠をひろげなければ、映画が負点を負うであろうあすの闘争を予感しているのである。映画作家が、映画を語るときに必ずつきまとう経済的問題について、彼は細心であることは、他の作家と変りない。しかし、彼が選びとるであろうテーマを素材、つまり人民の記録は、当然、要求され、自分が映画作家として、そのために、負うべき当然の責任として、金の流通について、極めて楽観的である。小川が、自分のプロダクションの中に、優れた製作部と上映部門をもっていることは、私が、いま「キューバ」を製作しつつ学ぶべき点を多くもつものとして高く評価しているが、その自主上映の形は明快である。「青年の海」以来四作を経て、彼のもつ個有の上映ルートを全国的に拡大している。これが彼にとっての必要から生まれ、どんなに強い支えとなっているか分らない。機械と人と作品について、彼は一つのゲリラ部隊を巧妙につくり上げているのだ。私は文字通り、これからの日本映画のあるべき姿をそこに見る思いがする。彼が突如、突出した映画作家として出現したかのような私の書き方に補いが必要だろう。私は彼が四、五年前、岩波映画を出てから、素カンピンの 「映画作家」として、いかに多くの作業をし、いかに作品にならない時期があったかを思い出す。
当時、「青年の海」の素材である通信教育学生に触れるまでに、彼はいくつかスボンサーを探して、そこに企画をもちこむという、資力のない、フリー作家と同じ途を歩んでいた。ブルドーザー会社に出したシナリオ「石狩・青山三番川部落」、某ビール会社の工場に一ケ月余りこもって書きあげた「ビールを作る工場」、オートバイメイカーのための「テスト・ライダーの記録」それらは、シナリオ作業だけで映画化されなかった。そのシナリオハンティングの時から、殆んど助監督とカメラマンを誘って、共に討議し乍らシナリオを書くといった習慣をもっていた。金はなくてもスタッフはあった(そのスタッフ重視は今日も一貫した特徴であろう)。
私は今でも、その一本一本のシナリオの丹念さと共に、人間をみつめていく確かさと映画表現の果てに思想に至る彼の精神操作を見てきた。
●変貌のとき
PR映画「ビールを作る工場」で、彼は、工場を見学し乍ら、ビールづくりの最後の秘密が、平凡を、老練を労働者の眼と耳に最後のところが残されていることの驚きから始まっていた。勿論、企業側もそれを商品の優秀さとして売り込みたかった。だが、彼はもっと先に歩いた。構内の労働組合に連日入りこみ坐りこんで、その状況の皮膚呼吸から更に作品にみがきをかけようとするうちに、労働者がビールを作る上で、その商品の決定的創造者であり、全く資本の側にないという発見がぬきさしならない表現となったとき、労働者の疎外された姿が闘いの前駆状況の連なりとして深くみえてきて、金属性の工場が別のものに見えてくることをドラマティックに描いた。……結果として映画は出来なかったが、労働者は映画をつくるためにいくたびかの集会を開いてくれたという。彼は「もう一本作ってしまった」と云つて笑った。歩き、見、シナリオにするというさいの石積みのようなくり返しのあと、彼は、通信教育生の闘いに出遭った。あと、「日本解放戦線」の農民に素材を求めるまでの途は、一すじであったろう。
「青年の海」の中で闘争の波はひき、孤立した数人の活動家の空白の時間がつづくと、運動への確信をときに失う瀬戸ぎわで、交しあう、暗い情念と暗い学生は、時に当時の小川紳介のつきつめた表情でもあった。何も撮れない数カ月、映画の結末をどこにももっていけない苛立ちの中で、小川は、通常のドラマツルギーのエンディングと無縁なものを探し大掲示板に、ぬりたくるというアクションを持ってきた。そこにはふき抜け切れない彼が走って学生のまわりをまわりつづけていた。彼はいま、まわらない。デンと腰をすえてしかも自在である。たしかに彼は変貌した。肥ったといったのもその意味である。
彼が成田に入るまえにのべたことばが印象にのこっている。「俺は、学生の闘い、権力の弾圧の中で、動物的な恐怖を覚える。こわさがある。ベトナム解放戦線の一員である少年が、殺される直前にほほをひきつけ乍ら、眼だけは光って輝いていた。筋肉がピリついて輝いているということはどういうことなのか?こわくなくなるということが出来るのか?俺は、自分で、それを知りたいし、農民の中に知りたい」
編集し終えて、彼は、映画の中から、生理的にショッキングな、恐怖をよびさます、カットに興味を失なったという。「それより、農民の明るさと笑い声と、語りはじめた彼らの言葉の方が面白いよ……革命の思想がどうして生まれるかびっくりしたよ」という。
この数カ月に、彼の上に何が起ったのか、見たい。その時、こわさを、いかにも、コワゴワと語った小動物のような彼の眼を忘れない。