小川紳介の履歴の事実について
1992年2月7日(22時36分)小川紳介氏の死去についての各新聞の訃報をめぐって、2紙(毎日、日本経済新聞)が訂正記事を掲載した。年齢や学歴についてであり、前者は「56才」を「55才」に、後者の「国学院大学中退、除籍」の記載は「卒業」にあらためられた。
各社への訃報は、かねて準備した手配に従い、簡略ながら、小川紳介氏の生年月日、出身地、病名、死亡時刻、病院名、および葬儀の次第、喪主などにとどめ、当然のことながら、その学歴、業績エピソードなどは各紙のファイルなどを期待したものだった。
そのなかで「出身地」については、詳しく確かめず、先入観のまま家人の願望をも察し、「岐阜県出身」として発信した。履歴、映画歴 については空白にして各紙の調査・取材にまかせるものだった。
FXは朝日、毎日、読売、日経、産経、東京、共同、河北新報、山形、岐阜新聞あてに送った。各紙はほぼ8日朝刊に一斉に訃報を掲載した。
新聞各社はその誤りの共通性からみて、履歴、映画歴についての原典は、おもに『日本映画監督全集』(76年、キネマ旬報刊)または同社の改訂版『日本映画テレビ監督全集』(88年)、および『朝日人名辞典』に依拠したものと思われる。キネマ旬報版の執筆者は松田政男氏、朝日新聞社版は佐藤忠男氏である。
日本映画監督全集によれば
『1935年 6月25日、岐阜県瑞浪市釜戸に生れる。生家は代々床屋で祖父、父とも在野、独学の知識人。とくに祖父は柳田国男の民俗学、牧野冨太郎の植物学に従って採集、調査をよくし、これに同行して影響を受けた。県立恵那高等学校から53年、国学院大学文学部へ進み、柳田、折口信夫の講義をきく。一方、自治会活動や、かねての映画好きから映研創立などに動き、政治活動を理由に57年、大学を除籍された…』 これは小川紳介本人の記入式アンケ-トをもとに、確認を取った上で執筆されたと松田は言う。出版以来、16年を経たが、訂正されることなく定説となり、小川紳介紹介の記事や追悼文に引用されてきたと見られる。
また小川プロとその周辺からも疑義は出ていなかった。私自身「除籍」以外はこのほぼこの要約を受け入れていた。
小川紳介の死去にともない、とりあえずのチェックは生年月日の確認から始まった。その一年のずれの発見から「定説」に不安を抱き、家人に確かめ、なお不確実な点は出身校などに問い合わせた結果、少なくない事実誤認があることが判った。以下前記の文章に即して列記する。なお、氏の周辺の事情をも付記する
1、生年月日は1936年(昭和11年)である。<1935(昭和10)年ではない>。享年55才。 (原典記載の卒業年度なども順ぐりに訂正される)
小川紳介氏は父、正介83才、母、まさ(死亡)の長男として生まれる。ほかに兄妹三人(弟、荘介51才、妹、朋子48才、保子45才)がある。
2、出生は東京都。<岐阜県瑞浪市釜戸ではない>。
父、家人の話によれば、当時生家は東京田町にあり、小川紳介氏は日赤産院で生れた。父は日本薬工社長。のちに青山に転居、1943年、青山小学校に入学。
太平洋戦争の激化にともない1年生早々、「田舎のあるものは疎開してもよい」との学校の方針にしたがい、岐阜県瑞浪市釜戸の祖父のもとにひとり引き取られる。(小学校高学年生の集団疎開ではない)。
3、<生家は代々「床屋」>は「庄屋」のミスプリント。田畑は小作人に任せていた。中仙道の街道筋にあたり先祖は馬車駅役をもかねていたという。
4、祖父小川鈴一は孫の紳介の疎開当時は村長職にあった。前職は小学校校長。25才より勇退するまで長く釜戸小の校長を勤める。家人の話によれば柳田国男、牧野冨太郎は書簡による交流であった。地方の篤学の士であり調査や資料収集を頼まれたという。「祖父は一生、鍬を握ったのとのない人だった」(父)。その夥しい蔵書は祖父の没後、瑞浪市図書館に寄贈され、『小川鈴一文庫』として残されている。
5 敗戦は小川紳介氏の小学校3年生の時。東京の青山の家は戦災にあう。父は進駐軍を嫌って、戦後になって、家族を山梨県塩山に疎開させ、ひとり東京にとどまり、麻布霞町に工場を再建。そのため小川紳介氏は一年近く塩山小学校に寄留。やがて帰京。麻布、霞町の自宅(工場)に近いこうがい小学校に編入、1949(昭和24)年、卒業。疎開体験は3年ほどとのこと。
6、あとは東京を離れていない。1949(昭和24)年、東京港区南麻布の区立順心中学校(同校は前身は順心高等女学校、戦後戦災学校の復興するまでの一時期(昭和22年より27年)のみ区立となった現在は順心女子学園)入学。52(昭和27)年、同校卒、大久保の海城高校(敗戦前の海軍予備校・現進学校)に入学。
1955(昭和30)年、同校卒業。したがって<1953(昭和28)年、岐阜県立恵那高校卒業は事実ではない>
7、1955年、国学院大学政経学部政経科(66年、経済学部と改称)入学。
<同大学文学部ではない。折口信夫教授は53(昭和28)年歿。したがって、講義を聞く機会はない。柳田国男は62(昭和37)年歿、当時、教壇に立っている>
8、1959(昭和34)年、政経学部卒業。 <57年、「政治活動により除籍」は事実ではない。自治会活動も無い(国学院大学小林校友課長)>
9、映研の創始者。それまで映研は公認されていなかったが、3年生の時、メンバーと第一作『山に生きる子ら-南佐久の分教場の物語』をアルバイトで資金を調達しながら完成。これを機に映研は学内の公認団体となる。(リーダーのひとりは留年) まとめ-ほかの家族同様、本籍地は岐阜県瑞浪市釜戸にあるが、出生届けは現港区にだされた。「岐阜県出身」では無い。いわゆる東京育ちで、疎開体験を抱えて成長した。主な学歴は東京ですごしている。
政治活動で大学除籍の事実はなかった。むしろ映研活動が軸になった大学生活であった「霞町の家は紳介の連れてくる仲間にいつも飯を食わせるのに大変だった」(父の話)
附記
*学生時代、アルバイトで『明治天皇と日露大戦争』(渡辺邦男、57年)につく(父)
*父の友人(富士フィルム幹部)の紹介で、1960年、岩波映画の契約者になるまで、独立 プロの助監督をするも無給で働かされる。「助監督としては重宝がられたようだ」(父)*彼の語った『米』(今井正・57年)は明らかではない。
*岩波映画時代、羽仁進監督との接触はない。「青の会」(62~64年)に入る。
*岩波時代の助監督作品には黒木和雄監督『わが愛北海道』(62年)、各務洋一監督『マヨネーズ』、渥美輝男監督『小田急新宿駅改良工事の記録』(63年)などがある。監督 作品がないまま63年、フリーとなる。
*父、正介は東濃中学、徳島高等工芸学校卒業。母、まさは新潟出身、東京で結婚。
*父は四年前、釜戸に引退するまでの34年間を中野区鷺ノ宮で過ごし、小川紳介氏の一人っ子、出君(28才)を育てる。出君は昨年12月正式結婚。
*「兄は病気に対しては幼いころから人一倍弱気になりがちで、父によく『ヒコポンデリーだ』と叱られていた」(弟)。
*10年ほどまえ母の死を機に、相続放棄をし、家督を弟荘介に譲った。
*小川紳介氏が生涯敬愛した祖父は10数年前、鷺ノ宮の父の家で94才の生涯を終えた。
戦後、村長を公職追放で追われ、釜戸村史を綴ったが未完に終わった。「人間・鈴一」 を撮りたいと、祖父の13回忌の席上小川紳介氏は語ったという。