こども時代に島を去る ノート <1992年(平4)>
 こども時代に島を去る

 四島の人にそれぞれに会う予定で歩いた。歯舞諸島の出身者から国後・択捉島の元島民に会った。色丹島はもっとも話題の多い島である。    
 北方領土返還は歯舞諸島・色丹島の二島からはじまる可能性が高い。日本の世論もそう読んでいるし、ロシア人島民も色丹島が先に返還されると予想している。数十日後に来日を予定されているエリツィンロシア・大統領の訪日の際、四島一括返還は絶望的としても、色丹島の返還はあるかも知れないとして、色丹島出身の元島民はビザなし交流にも最も積極的だったう。
 水産物の仲買の会社社長の西田貞夫氏を自宅に訪ねた。氏は北方領土居住者総青年連合会々長であり、色丹島民代表格である。五七歳とはいえリーダーたちのなかでは若い方である。メモによれば、彼は“混住”などは非現実的、平和条約をむすんだ上、ロシアはいったん日本に返還すべきだとの原則論をもっている人である。
 二日あとに道東を訪問しに来る、島からのロシアの子供三、四人のホームステイを引き受け、この日はその準備に当てていた。壁には日本語・ロシア語の日常の挨拶の言葉が張ってある。
 ロシア人のこどもへの個人的な付き合いは二年前からだが、という話に続いて…。
 「根室は本来、反ソ的な町です。ロシア人とつき合う気はないんです。ロシアのこどもにホームステイさせるからって、市が呼び掛けますけど、一般からの引き受け手はゼロなんです。私も意外でした。“ビザなし交流”で確かにロシア人と親しくはなった。しかし、こっちの元島民の代表が島にいって『あなたがたロシア人と島で一緒に生活したい』なんて言っていますが、あれは外交辞令ですよ。本当はロシア人と一緒に住むことを嫌っているのがホンネなんです。そうなら、『島が返還されたらロシア人は出て行ってほしい』というべきです。私の立場はそうです。最近、お辞めになった千島歯舞諸島居住者連盟の箭波光雄さんが去年の秋、『貴方たちと一緒に暮らしたい。私は日本の代表です』と言った。その言葉はそのまま残っていますが、私たち多くの島民はやはりロシア人と一緒の生活は希望していないというのが実情ですよ。そんな一連の態度なんで、箭波さんは今回、連盟の理事長の座から下りなければならなくなったと思いますよ」。
 箭波理事長に同情的な人の話をすでに聞いている。しかし、西田氏のような立場からみても、理事長の辞任の理由はヤクザがうんぬんといった単純な話ではなく、どうやら“路線”の違いがあり、それが表面化したもののようだ。いずれにせようだ。西田氏が箭波氏の言動を“外交辞令”と批判しているのだ。
 「交流後の感想として、よく、『私たちが島を去った戦後のあの悲しみと苦しみを、今のロシア人には与えたくない』という言い方がありますよ。そりゃかつてのわれわれの引揚げは悲惨なものでしたよ。しかし、その時代と現在とでは条件が違ってます。今なら世界の注目のなかで、ロシア人島民は島を離れてどっかに帰るんであって、日ロ両政府が責任をもってかれらの世話をするでしょう。宮沢(首相)さんも渡辺(外相)さんも、移住の便宜は計るとはっきり言ってるんですから。われわれの引揚げのときとは条件が違うと思うんです」。                              
 宮沢首相のこの発言は知られている。この年、九二年一月、ニューヨークでのエリツィン大統領との会談の中身として、首相から政府・自民党首脳会議で報告されたもので、北方領土へ残留を希望するロシア人には永住権を与え、法的地位や権利などについても柔軟に対応するというものである(朝日新聞、九二・二・四)。ロシアの最高首脳にアメリカで伝えたのだから“国際的公約”と認めるのは当然であろう。氏はそれが混住論の根拠になったことに苛立っているらしいのだ。
 「『一緒に住みましょう』という混住の話は、現地を知る私にはなにをいうかですよ。私の家は斜古丹(シャコタン・現マロクリリスク)の海ぞいにあるんですが、斜古丹(シャコタン)はもともと三七〇戸のところに、今三千人も住んでるんだから。ロシア最大規模の缶詰工場もあるし、山の中腹まで、家や団地が建っていて、もう割り込む余地はないですよ。『西田さん、どうぞ』って言われても、私はシャコタンのどこに家を建てたらいいの? 現地のことも知らない、私たちに相談するわけでもない。ですから無責任にそういう事を言ってほしくない…歯舞諸島は無人島だから別ですけど。色丹島の場合、斜古丹も穴澗(クラボザヴォーツコエ)にも帰っていく余地がないんです」。

 氏は古い写真を取り出した。旅館風の玄関をバックに撮った家族の記念写真である。両親によりそっている小学生が当時の西田氏である。色丹小学校は明治二七年に開設し、敗戦時、氏は四年生、在校生生徒は四十人だった。六年生の秋まで家族全員が島に残った。 「さきごろ亡くなりましたが、父はこっちにきてから島のことは喋りませんでした。聞かれても忘れたとか言って。私の父は九州の先の五島列島の出身です。捕鯨の島で有名なあの五島です。役場の給仕をしていたらしいが、友達に北で捕鯨があると誘われて島にやってきたんです。父は島では店をやったり旅館をやったり、飲み屋をやったり。そのころは若い女を置いて運搬船や捕鯨場の若い衆相手の商売をしていました。女が客もとったでしょう。屋号は「色波」といいました…。こっちへ帰ってきたら家はないし、資本はないし、いろんな物を背負って歩いたり、夜店を出したり、あとでは食堂をやったりして、私らを育ててくれました。だから島当時の事は思い出したくない、思い出すと悔しさの方が出てくるんでしょうね」。

 敗戦時、色丹島の人口は千数十人、昭和二〇年九月一日、ソ連軍六百名が上陸して占領の時代を迎える。根室市全焼の噂が伝わっていたから、根室出身の人たちは帰るのをあきらめてましたね。島なら食料はあるし、帰る気になればいつでも帰れる。根室には比較的近いし、タラ船などやいろんなのがあって、船には不自由しなかったから。しかし混乱に乗じて島から脱出するものも多かったですよ。根室にはちゃんとした住まいがあり、資産があっても、色丹島では仮住まいしていた人は出ていきましたが、島に財産をつぎこんだ人は帰ろうとはしなかった。うちがそうですよ」。
 この島民への最後の連絡は、西田氏の記憶では、「外国軍が日本の軍隊の武装解除に来るだろうが、島民に危害は加えないので、平静を装って、島に残ってほしい。もし日本人が島にいなければ島は占領される可能性があるから、島を守ってくれるように」と軍関係の指示だった。氏はそう聞かされていたという。だからというわけではないがと氏は続ける。
 「ロシアにたいしては島を追われたということについては、悔しさも憎しみもありますけど、今、あすこに居るロシア人にたいしては関係のないことです。僕らは逆に日本に対して『何故、僕らを島に放りっぱなしにしたか』って聞きたいんです。二年あまり僕らがあの島にいるのに、その間、なんの連絡も、なんの指示もしてくれなかった。その事に腹が立つんです。あすこにいる間、まあ日本も食糧が無かったでしょうからいいとして、たまには手紙でもあれば、まだしも励みになったが、全くそのまま、なんの音信もないんです。
 島民のなかには一度脱出してから、再びソ連兵の目を逃れて家財道具を取りにきたり、軍隊が残していった軍需物資が相当あったから、それを盗みにくるものもいる。日本の情報は、そんな行き来の人からしか聞けませんでした。行き来はあったんです。みんな船はありますから。戦後、島の軍隊のそんな隠匿物資によって一代を築いた人もいるんです。ですから引き揚げといっても、その一人一人の実態はよく分らない。いつどのようにして帰ったかによって天地の差があるんです。
 終戦のすぐあとに帰ったもの、二年も三年も苦労して帰ったもの…元島民といってもいろいろです。色丹会は会としては纏まっていますが、他の島の会との折り合いが悪い。結局、四島の中に沢山の会があるが、自分たちの故郷の島と交流して、ロシア人と近しくなったというのはそうないです。色丹島はまずまずでしょう。それがよそから見れば妬ましいというか、目の敵なんだ、残念ながら」。

 西田氏は元島民のなかでもかなり屈折した人に思える。幼児体験の消え難さに似たものを持っているようだ。大人の浅ましさを見た、小学生の眼で“見るものは見つ”であったのか。
 「私の島での体験ではロシア人は個人的にはいい人種だと思いましたよ。ソ連兵も始めに思ったより悪いことをしなかった。しかし半年くらいは娘さんたちを隠し部屋に隠しましたけどね。日本人の大きな家は明け渡しを命じられて、私の旅館もロシア人が住みついたんで、僕たちは倉庫に暮らしました。翌年の春、将校連中は家族を呼び寄せる、そして民間人も仕事のために入って来た。私もロシア人の子供と同じ校舎で勉強したりね。
 二年たっても日本から何の連絡も来ない。食糧も送ってこない、これは困ったと思っていた頃に、ソ連から「日本に帰す、これは強制でないから残りたいものは残って良いが、しかし残るものはソ連の国籍を取れ」といわれたんです。しかたがない、とりあえず一旦は帰ろうということで、昭和二二年の秋に、全員ソ連の船で樺太を経由して帰ってきました」
 氏の語る体験談のもっとも悲劇的部分は帰国船の旅だ。
 「樺太の真岡からは日本の赤十字の船でしたからいいが、島から真岡まではソ連運搬船でした。北海道は近いのに、じかに行かないんです。それは囚人船みたいなひどい船…。
 僕はこういう時代だからお話しますけど、僕らの青春時代にはあの時のことは二度と思い出したくなかった。大きな貨物船に何百人も乗せられて。まずトイレがない。船の甲板から十何メートル下の船倉暮らしを一週間です。食べ物はない。みんな自分たちのもっているものを食べるだけ。船でトイレのないと、どういうことになるか分かりますか。甲板で用を足すしかない。甲板で用をたすにも、縄梯子で上がっていかなければできない。若い人や大人は良いけど、年寄、子供なんかは酷かった。若い女の場合は見ていられなかった。甲板の汚物は波を被ったら船倉に降ってくる。蓋を閉めたら窒息する。それは泣く人、わめく人。着の身、着のままで、シラミはたかる。皆裸になってシラミとりですよ。
 樺太の真岡に着いて、日本の赤十字船がくるまで一月ちかく学校に収容されたましたが、ここにもろくなトイレがない。十月の末から十一月ですから樺太の寒さは酷かった。日本に辿りつくまでに四週間か五週間かかりました。その間、寒さと栄養失調でばたばた死んでいく。となりのお婆ちゃんがさっきまで生きていたのにもう死んでいる。佐藤良三さん(前記)の息子さんのように赤十字の船の中で生まれた人もいますが、ロシアの貨物船でだったら生死のほどは分からない。生きていられるかどうか」。
 聞いているのも辛かった。しかし、同情しても、同化はされなかった。
 戦後の外地からの引上げにはもっと悲惨な話がある。個人の悲劇と国家・国民の運命とは別のことだ。戦後、日本で敗戦後を生きた私にも、人のものを盗んで食わなければ生きられない生活があった。栄養失調がのため、蚊にくわれた跡から腐れ爛れていく怖さも知っている。だからといって、被害者ではないと、自分に言い聞かせてきた私の戦後がある。
 私は西田氏を国の方針を支えてきた返還論者と見ていた。そうではなく何かを察してほし気である。氏が私に分かってほしいのはなにかを考えた。ひとつは小学生の眼にやきついた光景の“始末”であろう。それはどこにぶつけても返事が返ってこない類いのものだ。
 「いつも言うんだ。僕らは“引き揚げてきた”んじゃない。あの島にいたかった。居れなくなって帰ってきたんだと。いずれ帰るために家はあるんだと、子供の頃の懐かしいものは全部あすこにあるんだ。その朝まで寝ていた布団も、敷いたままにしてあるんだと。僕らが帰ったらそれらがそこにあるはずだから、僕らはそこに帰るんだ。無かったらそれは誰の責任なのっていうんです」。
 ロシアの責任か、日本の国の責任を問うている前に、あの光景があってしかるべきという思いがある。幻視、幻覚の世界か、さもなければだだっ子のないものねだりに等しい。大人になっても、子供の時間が強制冷凍されたままなのだ。
 氏の分かってほしいもう一つは、国から見捨てられ、連絡ひとつなしに過ごした、“小国民”の屈辱にちがいない。「国は色丹を無人島扱いしていた」。国家は自分らを捨てた。理屈でいえば棄民したと論難したいのかもしれない。ソ連は憎いがロシア人は憎めない。日本の国をなじるのも本意ではない。それが氏を屈折させている。
 「私の生家はあるはずなんだから、誰かがそれを管理しているべきだ。例えば雲仙で住民は普賢岳の噴火で疎開させられたでしょ。あれはちゃんと保存されている。僕らもあれと同じなんですよ。全部そのままそこに置いて。手身近かなものだけ持って帰って来ている訳ですから」。もう生家は跡形もない。氏の幻覚の中にしかないが、「色丹島は私のふるさと、郷里だ。私の望郷の念はゆるぎない。私は北方領土の返還を信じて疑わない」と、と心情を披瀝するだけで、返還運動の若手の旗手でありえた。八〇年代、西田氏は全国を国民的返還署名運動の先頭にたって叫んだ。その与えたインパクトは強かっただろう。だが、地元の根室市で叫べたろうか。この「望郷の島」のイメージは東京では通じ、全国の返還反対の集会では証言者の声となったであろう。たが、氏にジレンマはなかたろうか。ソ連・ロシアへ恨みと日本国家の仕打ちとが、氏のなかでどうなっていたのか。それが解せなかった。

 西田貞夫氏は今色丹島のロシア人にもっとも知られた人といわれている。
 カレンダーのない国ロシアである、集められるだけのカレンダーを色丹島の斜古丹(シャコタン)・マリクリリスクの小学校に贈ろうと新聞紙上で訴えた。平成元年のことだ。反響は大きかった。氏のもとに届けられた四百部のカレンダーと菓子類を送った。それに添えて「どうぞ、これを家に掲げて、毎日、日本のことを思い浮かべてください。そして色丹島は私が子供のころに遊んだ故郷だということを知って下さい」と手紙をだした。返事は来なかったが、ひと月のち、また手元に集まったカレンダーを追加として送った。そのすぐ後に小学校の校長ヨシャコーワさんから礼状がきた。生徒からは島の絵が贈られてきた。その手紙で斜古丹(シャコタン)の小中学の在校生は七百五十人が、穴澗は六百五十人ということも分った。敗戦時、日本人生徒は四十人、いまの色丹島には計千四百人いるのに驚いたという。
 校長との文通は二十通以上、そこには教材不足が訴えられていた。教材用具のチョークやバレーボールやかサッカーボールの球、石鹸三百個などを学校の子供あてに送っている。それもニュースとして続報された。無欲の行為だが、私心は込められている。氏は「ロシア人はプライドの高い人種だからと懸念しながら、贈る気持を手紙に書いた。「僕たちが遊んだ思い出の島で、日本の贈物で遊んでほしい」。ここまでくると、ある種の下心があるのか、無邪気か分からない。校長夫妻の私的な“おねだり”にも応じているらしい。 翌年になって、「日本の子供たちを連れて島に来てほしい」という招待状が来た。これを根室市を通じて外務省に「ぜひ実現したい」と申し込んだが、外務省は音沙汰なしだったという。しかし二年後の今年は行政の主導で日ロのこども交流が実現した。
 このいわば“勝手交流”は氏に平衡感覚を与えている。「島を返せ。家を元どおりにしてかえせ。平和条約できっぱりと島を去るべきだ」という持論と、島にやたら贈物をし、人脈をつよめたがる気持は一見矛盾している。この矛盾に通底しているものはなんであろうか。氏にただすと「多分、島での子供のときのことが忘れられないんでしょう。それだけに、島の子供にも楽しくやって貰いたいというんでしょうかね。矛盾してますね、確かに」と、素直な答えだった。島に生まれて十二年、根室市で四十五年の歳月を重ねている。望郷とはこのように幻覚的であり、それゆえに強いものなのか。一筋縄では括れない根室人を見た気がした。

 最後ながら、水産物の仲買人としての西田貞夫氏の意見をとどめておきたい。
 「北方四島からのカニは、品物が余り気味で、卸値も落ちてきた。さらに暴落にちかいのはウニだ。今、根室海域では禁漁の時期だが、ロシアからどんどん輸出されてくる。この六、七月、ウニは半値以下になった。ウニは成長に時間のかかるものだけに心配だ。市場から見ても北方四島のカニ、ウニの取り尽しは時間の問題に思えます。ロシア人はこの安値をどう受けとっているか分からないが、決して買い叩きではない。寿司屋でウニを注文するにも気にしたもんです。あんなに高価な品物が、と私自身恐ろしいくらいです」。
 
 小型漁船ばかりになった港
 
 根室を車で走るながら、漁港があれば下り、ひとまわり眺める。サケ・マスの漁期のせいか、中型船は見当たらない。納沙布にちかい歯舞港やとくに貝殻島に近い珸瑶瑁、温根元はコンブとりの小船ばかりで、仰ぎみるような大きな漁船はなく、岸壁に立ってみると、遮るものなく広がる空と視界の良さが異様でさえある。一九七七年の二百カイリ以来、アメリカ、カナダ、ソ連の漁業専管水域から締め出され、あいつぐ減船、廃船のつづいたこ根室のいまの寂れようがつたわってくる。とくにサケ・マスについて、母川主義が漁業資源保護にとってもっとも決め手となり、公海での操業すら規制されるようになった。
 この年、二月一一日、日本、米国、ロシア、カナダの四か国は「北太平洋サケ・マス保存条約」に署名、調印し、戦後、「沿岸から沖合・遠洋へ」とさげばれて、急伸した沖合での流し網サケ・マス漁は、幕を閉じることになった。
 根室市の人口は漁業最盛期の五万人から三万八千人に減った四〇%がサケ・マスに生活を左右されているといわれるだけに、死活の問題であった。
照井二郎氏
 私の先祖は国後島では開拓者のはしりの方だったらしい。ひこ祖父さん、四代前の人、幕末に函館の雑兵だったでしょうが、嘉永年間の生まれでした。私は19才で引き上げた。家は植内にあって定置サケ・マスをやり、その後昭和に入ってコンブ、カニもやった。 昭和20年の10月に帰った。俗に引揚げ者といっても島によっていろいろある。国後は一部、10%ぐらいが引揚げ船。脱走も多かった。脱走にはコンブなどに使っていた動力船が使われた。その中には遭難者もいる。
 脱走は波風に翻弄され、行きつ戻りつして根室まで三日ぐらいかかった。当時動力船は少なかった。無動力船を曵行して脱出させるのを商売にしている人もいた。
 脱走時、家族は父母と妹を私の四人だった。脱走の際、ソ連に殺された人もいた。生易しいものではなかった。アジアの難民同然だった。
 引き上げは根室市。当時の戦災バラックが西浜に残っている。(壊す寸前)。

ーー引き上げの決断が早かったのは?
 決断は私がした。旧家ですから財産は村では一番あった。私は徴兵年齢繰りさげで択捉島のヒトカップで現地入隊させられた。そこから一気に埼玉の大宮の暁部隊に配属された。そこで東京空襲も見た。もし択捉島に残っていたらシベリア送りだった。
 終戦になって帰ってきた。根室に来たら家族はまだ国後にいると分かった。兄は体が弱かったので、いわば密航船に乗って、国後島に逆渡航した。セセキに上陸、電線を頼りに山を越えた。ズボンの膝がすり切れるほど歩いた。その間、ソ連軍に二回会った。海岸線が歩けないから。逃げれない人の惨めさはなかった。
 引揚げ者は根室では防空壕や三角兵舎で住んだ。私の家は旧家だったから島の倉庫にはいろいろなものがあった。犯罪者や流れ者が最初は多かった。それらをかき集めて、漁夫として使った。それは酷い使い方だったらしい。アイヌの悲劇、和人を殺したアイヌにも酷いことをしたが和人同士でも極めて酷い扱いをした。その証拠の品があった。懲罰の道具などだ。
 私の家庭ー兄は中野高等無線を出た。俗にいう月給取りだったが、私はスポーツをやっていた。引揚げ後、すぐ食べられ、賄い魚を持って帰れるので漁船員になった。

 漁の花形はサケ・マスだった。沿岸で主として12海里で操業した。そこで拿捕された。当時の船はソ連の警備艇にスピードの点でかなわなかった。
 拿捕というのは密漁に来たから拿捕するというのではなく、当時の拿捕の目的は情報収集のためだった。私は漁労長、船長の次だったから、質問の90%は「根室にアメリカがどれだけ来ているか」「どんなふうか」「日本の警察予備隊(当時)はどこでどうしているか」とか聞く。私は根室の地理に不案内だった。すると知っているのに答えないのだなということで、勇留島の税庫の防空壕を使った収容所に入れられた。昔の網走刑務所の独房のようなところだった。1メートル50四方の部屋に入れられた。パンは一日ひときれしかない。一般船員はみんな一部屋でごろ寝、栄養失調でむくんでいた。トイレに行ったときにハコベの葉を取ってきて食べた。それは酷いものだった。
(色丹島の穴間に収容所が出来てからは条件は良くなったが)。海を渡って根室の祭りの太鼓が聞こえた。6ヵ月いた。取り調べが尽きると一般の部屋に移された。支給の黒パンは堅かったが貴重だった。仲間同士だが黒パン一つでいがみあった。帰ったら御飯を食べたいというのが夢だった。昭和23~ 4年のことだ。勇留島の収容所あとはいま跡もないらしい。
 当時は船員10名位、エンジンは焼き玉の20馬力だった。私は最後の最後まで逃げようとしたら機関砲で撃たれてね、燃料タンクに穴が開いた。何故無理したか。私の船は根室漁業無線局が開設された時、最初に無線をつけた船だった。「無線機をつけてロシアに掴まったらスパイ扱いされて大変だぞ」って言われていた。捕ったら案の定スパイ視された。説明しても通じない。幼稚な機械で「帰るぞ」「採れたぞ」くらいしか通信できないものだが、「これはアメリカに買ってもらってスパイにきたのだろう」と疑われた。だから拿捕の瞬間慌てた。無線機を海に捨てるまでは捕まるまいとした。弾丸の飛んでくるなかで海に捨てたがかえってそれが災いした。真空管なんかが浮いているから分かってしまった。 こういうことは皆が経験した。防衛上の質問だけ、あとは無かった。質問が繰り返されて、もうそろそろ帰してもらえるんじゃないかと同士と話しているうちに、何回は外に出した。(待遇は収容所が色丹島やサハリン送りになってからはだんだん良くなった)
 折りも折り、島で労役として、拿捕された船の網でえびを採っている最中に侵犯してきたBー29がソ連機に撃墜されるのを目撃した。今度はそれについての尋問だ。アメリカ側が領空侵犯したのは明らかだった。それをソ連の戦闘機が撃墜した。これは事実です。 私の拿捕はこの一回だけだった。帰ったら今度はアメリカのMPから尋問された。漁業者は全く両方から利用された。
 収容所で御腹をすかしている時、白い飯を腹一杯食べさせる。そして「こちらの方に協力しないか」って。これはあったね。それを実行したものはあとあと旨くやったんだ、レポ船というやつだ。その数人は有名だ。情報や資料をもってこいというのだ。
 生きていくために密漁はやもうえなかった。その後、会の役をしている時、報道関係を避けて、東京ではなく熱海などで会合を持った。そうした機会にいろいろ訴えたが、レポ船の事を言うと、「藪蛇になる」とか「まあ旨くやらして貰っているんだから」とかね。そう漁業者レベルの会議だった。やはり金と政治力ですよ。

 箭波光雄の「領土問題の凍結」案にしても歯舞の島の体験からでた考えだ。私らのように国後、択捉島の人間とは意見が合わない。

 今の19t未満の船による沖採りの問題でもそうです。政治です。海上保安庁が入ったのは今年が初めてです。大きい連中は何でもなかった。かれらは違反しても没収されたりしない。今回徹底的に取締まっているが、小さい船ばかりだ。これはおかしい。また足のひっぱりあいになるでしょう。汚い世界ですよ。 

ーー「収容所当時の島のロシア人の食生活は?」
 将校は白パン、兵隊は黒パン、一般人も兎にパンの残りをやっていたから、人間は食えていたでしょう。

ーー「船は没収ですか?」
 私どもの時から返すようにした。それまで没収。その後でも交換条件をつかって情報を集めた。また船を彼等は使った。改造したりして。%はわからないが、当時ソ連の民間人は余り居なかったし、軍ではあまり利用しなかったから、船はかなり返したんじゃないか。

ーー「拷問はあったか?」
 殴られはしたが、日本軍より手柔らかだった。

ーー「最近の生活は?」
 私は減船になる二年前まではサケ・マスで海に出ていた。東経70度のアリューシャン列島の近くまで出ていた。 5月から 7月まで。(持ち船 5隻の時代もあった)。
 私はサケ・マスの漁業から下ろされたほうだ。つづけているもの、ある程度違反操業を敢えてしているものは減船以後の操業でかつてない 100トンの船で水揚げ…一月半で 4億円を上げている。続けてきたものが勝だ。私の息子も日大をでて帰って漁業をやりたいと言っているが、この連中に肩を並べる仕事はできない。金を持っている連中は強い。金のない私らは落とされる仕組にされている。これは醜い。
 19トン船はただの何千万円しか採っていない。片方は何億だ。彼等は海域の違反はしていないという。その代わり協定の枠を超えて採っている。この根室の体質は変わりません。金で動いている。漁業のリーダーには許されないことだ。営業権がないから、今になって私がサケを採りたいといっても採れない。今残っている連中でなければ。漁業協同組合の分かち合う精神が全くなくなった。根室のリーダーには展望がない。
 (根室には定置網は何百統もある)

ーー「島に帰って住むか」。
 10人にひとりじゃないですか。本音は。向こうの海に行って仕事はしたい人はいるでしょうが、住む人はいない。この国後、択捉島は大手が目をつけているらしい。
 島に行った人に聞くと、自分の家のあったところにロシア人がすんでいる。浜もかつての1/3になってしまった。浜は財産だったからこの縮小は痛い。
 漁業権は国後に定置網の 100何10統とあるが、当時の親方のものだ。根室の碓氷さんは10いくつ持っている。ここに住んでいた人でもっている人は微々たるものだ。だが親方の定置網は皆の支えで成り立っていた。補償金も差が出す過ぎる。これでは収拾できない。日ロのあいだでもそうだ。元島民に公平な政策がなければ。
 現実にはすでに諦めている人が多い。もう仕方がないと思っている。千島歯舞諸島居住者連盟は元島民の生活をまず解決すべきだ。その理事の出方も歯舞に偏っている。人口密度に比例していない。

ーー「歯舞の返還と国後・択捉島の返還は分離されるか?」
 確かに今日あるのは元島民だけではなく国民総意の努力であるというのはわかるけれども、島が返ってきた、そうしたら結果的に旨い汁をすうのは地方の大手だとなれば、おれは何だったのかと、ともかく「大きなことはもう言わない。自分の生きている間に、香典代わりにでも幾らかのものを…」という切実な声が出てきた。「あとは国の政策で良いようにやって貰ったら無難でないか」という気持ちだ。

ーー「島民の利害を考えてくれる代議士は誰か」
 五区の先生皆でやってもらわなければ、共産党もふくめて。元島民の政党支持もわかれているから。もう政党政派を超えていますからね。