世界にアンテナを張る蕎麦屋のあるじ ノート <1992年(平4)>
 世界にアンテナを張る蕎麦屋のあるじ
 
 知らない土地にきて人を尋ねる手引きは、私の場合、スクラップで拾った個人名を辿ることになる。佐藤良三氏(択捉島出身・大正七年・一九一八年生れ)の場合、再開された択捉島への墓参を期に、それまでの「北方四島、一括全面返還」の立場から、「日ソ共同管理」「国連の信託統治」の可能性をさぐってはどうかという立場にたった。氏が択捉からの引揚げ者でつくる「択捉会」会長であるだけに、元島民から出た“妥協案”として注目された(九〇・九・一〇、朝日新聞)。当時の全国世論調査は二島及び四島返還が七九%というなかでは、地元の当事者である人物として異色の発言とされていた。

 氏は緑町繁華街に蕎麦屋を経営し、引き揚げの船内で生まれた長男に代を譲っていた。手伝いに多忙で、時間が取れないという。私たちは昼食をとりにいき、粘った。客のやや減ったころあいに店で話を聞いた。氏は私たちの勉強の程度を試すように、意見をぶつけてきた。ソ連邦の解体によって続発している地域紛争、国境確定の争いなどをあげ、
 「北方四島にせよ、色丹島、歯舞諸島の二島返還にしろ、「ソ連」がこれを認めたら、ソ連国内の領土問題に一斉に火が着くんじゃないのか、モルドバやアゼルバイジャンやタタールのように…。中ソ国境問題でも解決してないでしょう。日本の北方領土問題だけではないでしょう。そんなことはとっくにお分かりでしょうが」。
 こちらは話について行くのに汗をかく。
 「この問題がこうまで拗れたのにはアメリカにも責任がある。昭和四五、六年の連合軍の占領政策に間違いがあったんだ。日本の力、潜在的軍事力を借りるために“領土”を引っ掛けてきた。そのトルーマンの冷戦政策と無縁じゃないですよ。そうじゃありませんか」 この人は戦後史をなんどもひっくり返して見てきたようだ。私には氏の個人史の片鱗でもいいから知りたくなる。
 「私は択捉島にいた時、社会主義をすこし勉強した。まだ二十歳代でした。日本の満州事変いらいのことを考えると、資本主義に疑問をもつようになって、進んで社会主義を勉強もしました。ロシア語も少しは話せるようになった。しかし、やはりソ連邦は高級官僚の天下、真の平等ではなく階級の上下があると分かって、社会主義に批判を持ちました。古いタイプのロシア人はいいですよ。ニコライ二世か三世か、帝制時代を知っているロシア人とならば、話は合ったし、理解もしあえる。だが、ソ連邦の時代しか知らないロシア人には日本人の考え方は通用しない。
 私は二年、択捉島でかれらと暮らして分かったのは、“なにも好き好んで島にきたわけじゃない”というウクライナ人が多かったことです。今、島に残っている一万八千人のロシア人はほとんど強制移住で来た人たちですよ。親しかった帝制時代(?)のウクライナ人が何人も居ったが、『何故ウクライナのような地味の良いところから来たの』って聞いたら、年寄りたちがそのいきさつをいうまでが大変。『お前言え』『いやお前喋れ』と言い合って、やっとひとりの爺さんが、自分の奥さんを戸口に立たせて、私に教えてくれた。結局は強制移住さ。軍人は堅い靴を履いているから足音で分かる。身内を戸口に立って聞き耳立てて。それほど厳しかったんだよ。日本に帰ってからウクライナのことを読んだ。ウクライナは昭和五、六年に食糧飢饉で百十五万人、餓死したんでしょ。歴史に残っている。ウクナイナ人はその事を忘れてはいないよ。北方四島のことをいうなら、かれらの歴史もしらなきゃ。日本の目からだけ見ていてもわからんでしょ?」

 氏は墓参にいったが、今のビザなし交流には参加していない。あえて行かないのだという。墓参にいった時代と、今年からの、いわば官製のビザなし交流とは一線を画している。
 二年前の「共同管理論」や「国連信託統治」といった第三の道の発言は、当時、盛り上がりつつあった政府主導の返還要求の世論形成に反するものだった。逆風に叩かれたようだが、それでも自由に意見を述べられたふしがある。今、元島民の知見を尊重する風潮はない。返還推進に反した“交流”は異質であり、リーダーが返還に曖昧では困るのだ。
 択捉在住約三十年、元島民三七六〇人(当時の人口)。氏はその択捉会の会長であり千島歯舞諸島居住者連盟の名誉顧問でもある。返還運動のいわば重鎮といっていい。その立場から、箭波光雄前理事長辞任(前出)についても、相談がなかったと批判する。
 今度の千島歯舞諸島居住者連盟の理事長辞任について、氏に相談はなかった。ヤクザの日ロ島民対話集会への参加は、けっして箭波理事長の独断でもなく、ひとりの責任でもない。なぜなら行政も問題にされた人物の出席名簿も提出されていた。北海道庁の領土対策本部も、根室市役所の北方領土対策係も千島歯舞諸島居住者連盟も事前に了解していたという。それが理事長だけ首きるとは何事だ。私は名誉顧問だ。だから「一寸言いにくいが」といって私のも相談すべきだ。それが組織だ。市民からの批判も自由だが、かりに処分するとしても、監督官庁に始末書を出すくらいのことで、何故済まさなかったか。
 この話を聞きながら、箭波光雄氏と佐藤氏との共通点は、古典的な元島民主体の「島を返せ」のイメージ運動時代は去った。そのリーダーシップは国家そのものになったことに思える。もうひとつの共通点はふたりに断固「四島一括全面返還」の意思が見られないことだ。

 話はもとに戻る。なぜいまの“交流”に乗りにくいか。氏は個人的な問題意識だがと前置きして…。
 「自分は島にはなぜ敢えて行ってはいないか。ある程度の知識を得て現在のソ連の状況を把握して、相手の質問に答えられるようにしなければ私の仁義に反するんです。ただ、くっついて行くだけではどうしようもない。腹を割って話したい。そのためには、準備と勉強がいるんだ。たとえば“北方四島は日本の固有の領土”と言っただけで済みますか。
 だいぶ前、札幌で外国の報道関係の人と話し合った時に、『あなたは元択捉の人だそうだが、“固有の領土”って何だ』と聞かれました。固有の土地というのはなんだ。先に住んでいるというならアイヌの人たちでしょう。先住民族といえば確かにアイヌですよ。彼等はよく勉強している。驚くほどだ。私は困ってしまって、『歴史的に見て正しいんだ』と言いました。すると『歴史の経過としてなら分かる』というんですね。彼は世界に“固有の国”と言っている国はひとつも無いよというんだ、国連に一七〇いくつかの国が加盟しているが、自分の国を“固有の国”と言ってる国はひとつもないよとね」。
 「択捉にはアイヌの痕跡はありましたか?」
 「ええ。紗那、留別、内保、エタンシャナという所にも広くいました。特に蘂取(しべとろ)郡蘂取村(択捉は三郡三村だった)は多かった。堅穴の住居跡は至る所にあった。石の槍とか骨の槍とかが私のこどもにはすぐ見付かりましたよ。明治七、八年に日本の名字をつけられたから分かりにくいですがね。アイヌの名はあったと思うが、今は日本の名前になっている。その頃、名字帯刀を許されたらしい。昔は道東から択捉に出稼ぎに行った人でアイヌの女性と結婚した人は何人もいたでしょう。その混血はめずらしくは無かった。しかし婚姻届はしないまま引き揚げてきた。だから戸籍上ではその女性の生んだ子、私生児扱いになって、相続やなんかで泣いてる人も元島民にはありますよ。択捉にはそういうケースが多い」。そういう氏の思い出も“固有の領土”という言葉にこだわらせているようだ。
 「じゃ、ビザなし交流の参加者資格はアイヌは第一番目ということになる」と言うと、氏は勢いよく自分の話を進める。
 「私は四年前に朝鮮半島に行った。何故行ったか。日本人のルーツを自分で確かめたかった。事前に特に勉強してから行きましたよ。西暦五~六百年ごろの王家の墓を見してもらいました。見たらその文化の高さにびっくりした。鉄を作る技術にしろ、金銀加工の技術にしろ、同じころの日本の飛鳥時代の技術を比べてどうですか?
 私のふた親は日本海出身です。同じ日本海に面した石川県と富山県にも行きましたよ。根室や四島はそこらあたりの出身者が多いんだな。日頃は戸籍など気にしないが、引揚げ者に対して特別交付金が貰えるようになって、出身地の役場から戸籍を取り寄せた。それを辿ってご先祖さまを調べたものがいたんですね。すると先祖を六代目まで辿ると父方がぷっつり切れているんです。ひとりやふたりの例じゃない。申し合わせたようにそうです。その切れる理由は結局、父方は朝鮮なんだ。朝鮮から渡ってきた。難破してそこに辿り着いた。あとは中国人、琉球の人だ。そうしか考えられない。“固有の領土”ってなんだろう。外国の報道関係の人は、『日本人は世界の歴史をもっと勉強しなくちゃ』というんだ。こうしたことを考えて、択捉島のロシア人にも話せる心がまえななくて、ビザなし交流だからと言って、ハイハイと行けますか」。びっくりするほど大声になった。
 
 以下、氏の「択捉島」をまとめておきたい。
 「私は大正七年生まれ、島の学校は高等小学校までの八年制だった。開拓時代の名残の草小屋、屋根も壁まわりもい草で葺いた小屋が一軒残っていたな。われわれの両親は明治の終り頃に島に渡ったが、始めは草小屋から始まったらしい。しかし立ち上がりは早かった。前浜には流木があるし、裏山にいけばトド松、蝦夷松の群生林、小屋作るったって簡単だ。そりゃ皆盗伐です。
 島の真ん中の北緯45度で、南と北では気温ががらっと違うのをご存じですか。植物の分布状態も違う。私は専門家でないが、北緯45度から北はカムチャッカ系植物、南は北海道系で気温も北海道や国後島と同じです。南には蝦夷松、とど松の原生林があり、マリモも松茸もとれる。北にはガラッと変わって白樺、はえ松です。
 海からはサケ・マスが採れる。米、味噌、醤油があれば生活できる。キャベツや人参でも大根でも馬鈴薯でも、種を撒けばなんぼでも採れる。まるで楽だった。
 私の家ははよろず屋でした。食料品、雑貨の配給店で、副業的に海草を採っていました。
 北方四島は同じ根室支庁管内だが、この島だけはその経済を函館の人が握っていた。国後島や色丹島、歯舞とはそこが違うんです。ここの漁場を開拓したのは栖原角兵衛という人だ。これが幕末のころから南樺太に相当の漁場を持っていた。明治政府は千島・樺太交換条約(明治八年・一八七五年)の時に、その南樺太の漁場を放棄させる代りに、択捉の漁場を無条件で与えるといって、かれに承知させた。それで択捉の漁場は栖原角兵衛個人のものになった。で、かれは函館の経済力と結びついて択捉を開拓した。この島だけ函館の人脈が握ったんです。それは昭和一五年まで続いた。それまでは漁業をする人は、個人で栖原と賃貸契約して、漁場を利用できたんです。
 そころが戦争がはじまった。昭和一六年からは戦時経済になって、それまでの半統制の魚が全部、統制経済になった。島の漁業権はあらかた国策会社の択捉漁業株式会社に統合された。地方自治体の村長が国から協同組合の組合長に”任命”されるようになった。ぜんぶ国の命令で変わったさ。
 それからです、物資が函館経由ではなく根室支庁経由で択捉に流れるようになったのは。しかし、良い漁場は栖原が握って、あまり良くない漁場は賃貸で人に貸して儲けた。いまでも栖原家の漁業権は生きているそうですよ。
 択捉島で四季を通じて働いていた人はまず七千人から七千五百人かな、五月から十月にの漁期には三、四倍も季節労働者がサケ・マスの定置網の仕事に来ました。捕鯨会社も四、五箇所あったから。鯨油とりのための工場もあって賑やかでしたよ。
 ところでね、終戦の年、八月の二十日だか二十一日に北海道道庁から電信が打たれてきた。忘れもしない…「島民は動揺することなく島に止まって生産に従事せよ」と言ってきた。島に来たのはソ連だが、これは連合軍として来たんだから、やがては撤退するだろうと思ったのさ。私の店は函館に繋がっていて、商売をやるなら函館の方がいいんだが、島にもどるんなら根室にいたほうが早い訳だ。それでさっさと根室に来たが、島へ戻るのは絶望的になって今日に至ったという訳です。
 根室にきてゼロからやり直し、三一歳のいい年齢になってから漁船に乗りました。ご飯炊きして漁を覚えた。ご飯炊きは一番の下積みです。それを二年何ヵ月かやり、それから四年目に認められ、五年目に漁撈長になりました。オホーツク海の漁船二叟の責任者を六年やってから、私はこの商売に切り替えました。魚の資源の減り方が手にとるように分かりましたからね。
 例を一つ話すると、昭和二九年に五二トン船でタラを釣りにいったことがある。その時、二、三日でもう満船だったのが、その二年後は一週間かかってやっと満船、こんど三年目になったら、稚内から底引き網がきて漁場を荒らしたら、一月経っても五二トンが取れない。で、六年目になって、釣りは廃業でした。
 オホーツクの魚には、回遊魚と根着卵ー底の海草の根に卵を生む底魚とある。一旦、底引き網でそこを荒らされたら、回復するのに五、六年はかかりますよ。その点、回遊魚はちがう。イワシとかサンマとかは回遊魚ですよ。今の日本のような漁法をしておったら世界中の魚は無くなる。もっと規制するべきだ。資本主義の悪いところはそこにある。
 北方四島周辺も危ない感じがするでしょ。カニは乱獲です。見ましたか、花咲港を。
 今、日本がだめなら北朝鮮があるはで、国後島なんかで合弁の操業が始まっているでしょう。カニ、ウニの捕り尽くしが始まってるよ。この調子で四、五年経ったら、ロシア人の生活を賄うだけの水揚げがだんだん出来なくなって、島からひとり去り、ふたり去りして行くというのが私の考えだ。島の前浜の資源が減っていくことのは目に見えているからです。そのうえ日本と企業合同して、島の前浜で新式の漁法でやったら五年とは海が持たないというのが、十一年、船に乗って漁をした私の言えることだ。それにしても、三十才過ぎてからのご飯炊きは参ったな」。

 佐藤氏は根室でも一、二のお蕎麦屋である。サハリンの引揚げ船でうぶ声をあげた子息が代を継いで、一家で店をもりたてている。「二・三世は皆戻りたがっている」という記事もないではない。そのあたりを質問すると、意表をつく答えは戻った。
 「そりゃ報道関係は“若いものも出来たら戻りた”いってと書くよ。作文でなら。しかし現実はどう思うね。島に行った場合、孫の教育のこと、年とってからの医療の問題を考える。どうするね。漁船、漁具を揃える費用は何処から出る? 考えてごらん。そう簡単には行かれない。そんな作文では駄目だ。だから行ったとしても島は過疎化してしまうに決まっている。いま、島が戻って、ヒョッとして島流しにされるのはオレじゃないかって、一番心配しているのは誰か。公務員でないの。役人、警察官、郵逓関係、義務教育の学校の先生方だよ。私はそう思う。島が帰ったら行政上、半強制的に赴任させられる。単身赴任で行けと言われる。内心、顔面蒼白でしょ。どうだね。俺はあえて物に書かないが、それが実際でないの」。
 氏には択捉時代、お役目がら遠い島々にきた“外からの人”の顔が浮かんだのだろう。
 それにしても、生活のなかで、教育されたのでもなく、外部から吹き込まれたのでもなく、若いころの自分の体験を忘れず、相手のソ連のひとびとを、絶えず相対的に見られる眼を養ってきた。独自のアンテナをはって日ソ関係を分析し、かつ自分の去就をきめている。漁業経験は豊富で、一歩引いた視点を持っているのが元島民の特徴である。自分で島の漁業を営みながら、戻ってもコンブなどの共同漁業権しかなく、地つきの親方の雇われながら、じっと海の資源の荒廃と漁業技術の開発競争とその蹉跌までを見てきたのであろう。
 戦後、漁業は有史以来の豊漁を経験した。それは水俣病の発生した不知火海でも同じである。第二次世界大戦は働き盛りの男子を戦場に駆り立て、徴用した。漁船員の技術は即戦力につながった。海に魚は増えつづけ、魚の天下だったのだ。しかも戦後は海のものなら何でも金になった。大資本漁業の再起までに、沿岸漁業の中小漁家は、空前の活況を見たといわれる。佐藤氏の一一年の雇われ漁民の体験は、漁業基地、根室市の二百カイリ以後の七転八倒を予見していたのだ。
 根室は「魚か領土」かといわれる矛盾を抱えてきたことで知られる。現金の流れからいえば、返還運動はその日々の稼ぎと関係はない。いつかはそうなるかもしれない話である。根室市に居住する北方四島からの八千人余の元島民の運命と、最盛期五万人の市民の糧である魚といずれが大切かはいうまでもない。北方領土返還要求国民運動の主役として、襷を掛けて、全国に、あるいは海外に出掛ける元島民の“出世ぶり”(ある漁民)に根室市が冷ややかだった。その風圧を元島民は痛いほど知っていた。
 この運動は現地主義である必要は全くなかった、中央の政治家はモスクワを相手にヤルタ協定の矛盾や、さかのぼっては安政元年・一八五四年の下田条約、明治八年の樺太・千島交換条約といったツアーの帝政ロシア時代のツケを求めれば、“固有の領土”は帰ってくるかのようにふるまった。現地・根室市の利害に献身的に関わったのは、昭和三七年に貝殻島のコンブ漁を取り戻した高碕達之助氏(大日本水産会々長)だけという。民間人の業績であって政治家のしごとではなかった。高碕氏の顕彰碑が納沙布岬にあるのも頷ける その納沙布岬の北方舘に展示された年表で首相の根室市訪問が、貝殻島コンブの解決から一八年あと、それもきな臭い“きたの脅威論”の前触れの時期であったことの驚きは根室市では、苦笑をさそう。「政治家は選挙でここへ来るだけだ。北方領土問題では票にはならないもんね」(佐藤氏)である。

 元島民の最長老

 親しくなった朝日新聞根室通信部の小泉信一氏に「元島民には賢者がいるね」というと「ここは人材が多いからおもしろい」。ここでの仕事は飽きないし、ここから日本とロシアがよく見えるというのだ。
 そうした人物のひとりひとりに会うことになる。
 千島歯舞諸島居住者連盟根室支部の浜松義雄支部長は、記憶力抜群で元島民の最長老である桝潟喜一郎氏を紹介されていた。歯舞諸島の水晶島から歯舞村村会議員に出ていた人だという。歯舞村長も勤め、子息は北方領土問題担当の市役所総務部の領土対策課(のちの国際交流課)に勤務している。歯舞諸島は旧歯舞村の一部であり、行政的に区分された色丹島、国後島、択捉島とは違い、漁業権も根室半島の歯舞とつながっている。それだけに越境して拿捕された例は多い。歯舞地先の海という、一依帯水の近さが“罪”を冒させる。島にはロシアの国境警備隊の見張り所がある程度で、無人島にひとしい。
 水晶島は納沙布からみえる距離(七キロ)だ。敗戦時、歯舞群島全体では五〇四三人、うちこの島には九三一人が住んでいた。

 桝潟喜一郎氏はみるからに隠居所のような住まいにひとりぐらしである。八八歳の独居老人。強い老眼と白内障のほか、体の不自由はなさそうだ。
 話は立て板に水というか、一方的な語り口で対話にならない。要点に絞って紹介しよう。
 「よく言うでしょう、島は良かったなんて。それは嘘だ。貧乏な暮しだった。仮住まいのバラックで、酷い暮しだったというのが本当の話だ。
 そもそも、うちの親父は石川県の能登の門前町の出で、北前船に船頭だった。新天地の北海道にきたが、目が出ないので水晶島に島に流れてきた。北海道開拓の失敗者、敗残兵になったものが島へくるんだ。親父もそうだった。島は魚もコンブもあるが、島からじゃ鮮度が保てない、消費地が遠いから魚粕さ。もっぱらコンブだった。これが中国貿易の花形だったんだ」。伝法な口上である。
 桝潟喜一郎氏は小学校高等科しか出なかったが20歳すぎまで弁護士試験を受けようと思って勉強した。青年団長から、若くして村議に推薦された。歯舞村村長にたよりにされ、無報酬の仕事を引き受けた。島ではインテリであり、雄弁家とおだてられ、島と取り仕切ってきた。当時、村議会がある日には、前日からふた晩泊まりだった。規定の船賃、宿代はでたが、最低、倍はかかった。その分、持ち出しだったという。

 コンブ専業で生きる。
 
 「この島のコンブはこれに頼ってさえいれば生活できた。コンブは便利だ。魚は腐るが、これは干せば腐らない。採りさえすれば確定的に金になる製品だ。だから生活できる。
 しかしそのコンブも今考えると目茶苦茶だ。目方を重くするために砂つきのまま売るんだ。砂浜にコンブを干す。砂が落ちれば目方が減る。減れば損だという考え方だもの。酷いもんだ。製品検査があって、砂は落とせと言われるが、本気でタワシで擦ると、八貫五百匁のコンブから一 1貫二百匁の砂が落ちて、 7貫目になる。一五%が砂だ。『コンブを三年売れば、一年分は砂を売ったことになる』と例えで言ったもんだ。生砂と称して、大汐になると、海の砂を干し場に撒いたもんだ。塩気があるし色よく干せるし、目方も増える。その辺がなかなか漁師も頭が良いなと思って感心したもんです」。
 コンブが一気に需要を増したのは戦争に軍需品となったからだという。第一次欧州戦争で、火薬の原料の夭度カリが儲け仕事になった。傷薬のヨーチンの材料にもなった。大戦景気で当時、島は潤った。
 島の土地はあらかたが根室の有力者、藤野家所有の土地だった。明治のころに開拓地として国から払い下げられた土地だった。コンブは干場なしにはしごとにならない。一軒で五、六百坪要る。この干場料の借用料は高かったので、大戦景気で儲かった金で争って浜に近い干場を買ったという。「夭度カリで親父は大正時代の金で数万円儲けた。それで四百坪の干場を坪一円か五十銭で買った」という。か 1円くらいで 400坪買った。うちの親 やや詳しく紹介するのは、この土地、漁業権が、今、桝潟喜一郎氏の取り組んでいる国家補償請求につながるからだ。島の土地は根室の地主から買い、登記されている。

 この火山灰地の偏平な沖に小島にソ連軍はさしたる関心ももたなかったようだ。島民は桝潟氏の見識にたよっていた。
 「二年間、“ロスケ”(元島民がしばしば使う言葉)と一緒に居ましたよ。根室市は空襲で八割焼けちゃうし、島には当分もつだけの米を隠したしね。欲で島にいたわけじゃない。私は少し物知りの人間だったから、明治、大正の戦争の後始末のことは知っている。だいたい平和条約は三年かければできるだろう。遅くとも昭和二五年にはすべて完結するだろう、と思ったの。これが見込み違いだった」
 島には日本の守備隊は降伏していなかった。四、五人のロシア兵の偵察があったが、すぐ引き上げた。のちに守備隊の取り調べの供述から、島うちに米が備蓄されていることが明るみにでた。氏は国後島にひっぱられて、「日本軍の糧秣の米を勝手の処分した」疑いで調べられたが、シラを切り通した。そして村長とも連絡員といえる役職を命じられ、百六十戸の島民の責任者にされた。村の利益を断固として擁護すれば、相手も一目置くものだと思ったという。
 「そのうち色丹島からロスケが常駐するようになった。私も少しはロシア語もわかるようになって、ロスケを相手にやりました。むこうは『労力奉仕をしてくれ』というんだ。隊長に『お金を払うのか』と聞くと、『ニェット(いいえ)』だ。私が『お金を払わないなら、食べ物なりを寄越すのか』と言い返すと、相手はもうお手上げさ。夜間外出禁止のときも話をつけた。夜、六時になったら出歩くなという。博打の時間でしょ。みんな仕事もできないから博打くらいするさ。それを相手は集会と思うのか嫌がった。その後も相談ごとには集りは欠かせないでしょう。だから連の監視を出してもいいと言ってやった。それからは集まろうが、博打しようがお構いなしさ。在る米と自給自足のキャベツ、人参、物々交換なんかして二年間生き延びた。だから最後まで島にいた二十四軒は平和にやれたの。仕方もないしな」。
 昭和二二年、前島民はサハリンまわりで根室をはじめ、縁故を求めて各地に散った。

 桝潟喜一郎氏は島に帰れる年ではない。子息と成人した孫は歯舞漁協からコンブ漁の権利を貰い、養って貰っている。島に二回墓参にいったが、海からの風雪で火山灰台地の墓は跡形もないいる。残る仕事は部川氏とおなじく国家補償を請求することだ。千島歯舞諸島居住者連盟の名誉理事として、あとはそれに集中したいという。   
 部川鶴之助氏の話と桝潟氏のそれを総合すると国家補償の輪郭は次のようなものだ。
 戦後の全国の漁業改革のさいの旧漁業権の消滅にともなう補償に相当するものを、北方四島の住民・漁業権所有者に払ってほしい…。
 部川氏はいう。
 「二九八億円というのは北方四島の漁業権を全部引っ括めたもので、定置網に漁業権を持つものも、個人個人の漁業権も含めた全部の総額です。コンブ・海草の類いから魚まで水産動物に関わる全漁業権の補償です。昭和四三年当時、北海道水産会が窓口になって、北方四島・全島の漁業権のリストを作ったことがある。例えば、占有漁業権の定置網などは国後島に三百以上、択捉あたりは一一四六もある。ほとんどサケ・マスの定置網漁業です。あと海草とか水産動物とかです。
 二九八億円という額は、私が島当時の水揚げの三年平均の漁獲に当時の価格を掛けたものを、現在の価値に直して出したものなんです。
 政府は『元島民が補償要求するのは分かるが、政府自体が北方四島の帰属がどこか分からない現状だ。その北方四島の漁業権の実態はないに等しい。領土問題が解決すれば補償は出す』という。そう言われればと、われわれも一応納得したして引き下がった」。
 北方四島の漁業権は島ごとに事情がちがう。すでに佐藤氏の証言にあったように、択捉島の場合には栖原家の独占的支配があり、千を超す定置網の漁業権は、戦時中の統制で「択捉漁業会社」一社にまとめられている。国策によってまとめられたもので、個人の権利は半強制的に択捉漁業会社に取られたとするものもいる。色丹島などは単一の漁業組合が漁業権を人間の戸籍謄本と同じように残していて、すっきりしているという。島の漁民社会の成り立ちによって四島それぞれに違っているようだ。
 桝潟氏の試算はもっと四捨五入になる。
 「元島民の土地、漁業権はいったん国家の手で解決することだ。コンブの干場にも使用権があってしかるべきだし、バラック同然の家でも二千万円。漁具一戸あたり最低一千万、この長い不法占拠による漁業権の不行使・漁が出来なかった損失の代償に一千万円、最低漁家一戸あたり四、五千万円は補償して貰いたい。ほかの鉱山権などは別扱いにする。全部で五千億円くらいで片づくのではないですか」。
 桝潟氏は混住論者に近い意見を持っている。かりに島が戻ったとしたら、社会基盤の整備に五千億円はかかる。四島問題のと生めんの解決に一兆円あれば、素晴らしい島になり、ロシア人も帰化して住み、働いてもらったら良いという。
 一兆円とはなかなか庶民の弾きだせる数字の桁ではない。日本は金もちの国になった。 この老人の脳裏にも金満家ニッポンへの仮託がありはしないか。
 前年三月、海部内閣は湾岸戦争の多国籍軍への追加支援に九十億ドル(一兆千七百億円)をポンと出した。その年の秋、ロシア民族会議の北方領土公聴会で「四島を四百億ドル(五兆二千億円)で売り渡せ」という意見もとび出した。国際問題解決に語られる金額の桁はこれでさえ微々たるものであり、北方領土問題を一兆円と値踏みしても怪しむに足りないかもしれない。しかし根室市の年間予算二百億円前後の実態のなかで、その数字は市民にどう受けとられるであろうか。さらに漁民はどうか。「魚か領土か」の亀裂が私のなかにも走る。戦後、旧植民地、侵略したアジアからの引上げ者も丸裸で日本に帰った。その苦しみを加害者として当然のこととして受けた私がある。殺されたアジアの民衆への謝罪もなされていず、まして補償もない。さらにいえば敗戦で失った地には北千島もあり“南樺太”もある。北方四島が「日本固有の領土」だからといって特化できるだろうか。私には“兆”の桁の発想に釈然としないものを感じた。