北方領土問題年表-日・ロ交渉史-
1852年嘉永5
ロシア軍艦メンチコフ号、下田に。韮山代官、拒否。
徳川家慶将軍の治世。
1853年嘉永6
ロシア使節極東司令官プチャーチン、軍艦4隻で長崎へ。
三月滞在
ロシア船1隻、北蝦夷地久春古丹に上陸、営舎構築。
1855年安政3
日露通好条約で「択捉以南が日本領」に。徳川家定の治世。
ニコライ1世訓令論
1868年9月
明治維新なる。
1875年5月
樺太・千島交換条約で、千島列島は日本領、樺太はロシア領に。
1904年2月
「日露戦争」開戦。
1905年1月
「血の日曜日」事件。第1次ロシア革命勃発。
1905年9月
日露講和条約締結。北緯50度以南の「南樺太」が日本領に。
「ポーツマス条約」
同時に、韓国保護権、遼東半島租借権、満鉄を獲得。
1917年11月
ロシア10月革命。
1918~22年
4月、日本「シベリア出兵」。日英陸戦隊ウラジオ上陸。
1920年3月
パルチザン、ニコライエフスクの日本軍を武装解除。
いわゆる「尼港事件」
1922年12月
ソビエト社会主義連邦共和国樹立。
1925年1月
「日ソ基本条約」締結。日ソ国交回復。
1931年9月
満州事変(満鉄爆破を機に)。11月、チチハル攻撃、占領。
1937年7月
「中日戦争」本格化。
スターリンの粛清激化
1938年7月
張鼓峯事件。日ソ国境紛争。
1939年5月
ノモンハン事件。第23師団壊滅。
9月、モスクワで停戦協定。1940年6月 独軍、パリ無血入城、フランス降伏。
1940年9月
「日独伊三国同盟」ベルリンで調印。
1941年4月
「日ソ中立条約」モスクワで締結。
1941年6月
独ソ戦はじまる。
1941年12月
「太平洋戦争」開戦。
1943年9月
イタリア無条件降伏。
1943年11月
カイロ宣言。テヘラン会議にスターリン参加
ルーズベルト・チャーチル
1944年8月
パリ解放。
1944年10月
ソ連参戦についての三者モスクワ会談。
(スターリン・ハリマンら)1945年2月 ヤルタ協定(秘密協定)。「ソ連の対日参戦」を協定。
1945年4月
モロトフ外相、佐藤大使に「日ソ中立条約の不延長」通告。
1945年5月
ドイツ軍、無条件降伏。
1945年7月
ポツダム宣言。
1945年8月
6日、原爆、広島に投下さる。
1945年8月
9日、ソ連参戦。14日、日本、ポツダム宣言受諾し降伏。
1945年9月
ソ連。北方四島を占拠。
1946年1月
トルーマン大統領の「対ソ鉄拳政策」論。
1946年2月
ソ連「北方領土(南樺太・千島)をソ連領に編入」布告。
1946年3月
チャーチル元英首相、「鉄のカーテン」演説
1948年6月
ベルリン封鎖。
1949年10月
中華人民共和国成立。
1950年6月
朝鮮戦争勃発。
1951年9月
サンフランシスコ平和条約を締結。
(ソ連は署名を拒否)
日米安全保障条約を締結。
1953年3月
スターリン死去。
1955年6月
日ソ国交正常化交渉をロンドンで開始。
1956年2月
フルシチョフソ連第1書記、「スターリン批判」演説。
1956年10月
鳩山首相が訪ソ。「日ソ共同宣言」に署名。国交回復なる。
1957年12月
「日ソ通商条約」、貿易・支払協定調印。
1960年1月
19日、新・日米「安保条約」に署名。
27日、グロムイコ外相が対日批判の覚書。
「日本領土からの全外国軍隊が撤退しない限り、歯舞色丹を引き渡せない」とする覚書
1960年5月
ミコヤン第1副首相来日。
1961年5月
横浜~ナホトカ間定期客船航路開始。
1961年8月
最初の「シベリア墓参」遺族団出発。
1962年10月
キューバ危機。
1963年6月
貝殻島水域におけるコンブ漁に関する協定署名(モスクワ)
大日本水産会・ソ連国民経済会議付属漁業国家委員会。
1964年7月
毛沢東中国共産党主席、社会党(佐々木更三)に対し、「ソ連は南千島を日本に返すべきだ」と言明。
1964年9月
「北方領土の墓参」開始。
1965年2月
米軍、北ベトナム北爆開始。
1966年 6月
イシコフ漁業相来日。
1967年7月
三木外相が訪ソ。第1回「日ソ外相定期協議」。
1968年5月
パリの「五月革命」。
1971年3月
「日ソ航空協定」締結(モスクワ)
ハバロフスク~新潟間
1971年4月
赤城特使「カニ協定」のためコスイギン・イシコフと会談。
1971年6月
「沖縄返還協定」に日米調印。
1972年6月
イシコフ漁業相来日。赤城農相「ツブ貝漁業協定」に同意。
1972年10月
大平外相が訪ソ。第1回平和条約交渉。
1973年1月
「ベトナム和平協定」調印。
1973年10月
田中首相が訪ソ。ブレジネフ書記長に「未解決の諸問題」に北方領土問題が入ることを迫る。
科学技術協定/渡り鳥条約
文化交流実施取決めに署名。
1975年1月
宮沢外相が訪ソ。ソ連が「善隣協力条約」を提案。
第3回平和条約交渉のため。
1975年2月
ブレジネフ書記長、三木総理あて親書。「善隣協力条約を提案」。
1975年10月
グロムイコ外相の論文、コムニスト誌に掲載。
「(日本の)根拠のない北方領土返還要求には反撃」と。
日本外務、これに抗議。
1976年9月
3日、ソ連外務省、北方領土墓参に査証を要求。
日本はこれを拒否、墓参は中断。
1976年9月
6日、MIG25戦闘機、函館着陸(ベレンコ中尉亡命)
11月14日、機体ソ連へ引渡し
1976年9月
11日、宮沢外相、北方領土視察。
1977年3月
ソ連、200カイリ漁業水域設定。
相次いで高官の訪ソ。
日本政府、「一方的措置は認められない」と抗議
鈴木農相、園田特使ら。
1977年12月
「日本国の地元沖合におけるソ側操業協定・発効。
1979年1月
ソ連、北方領土に「地上軍」配備。
1979年2月
国後、択捉軍事基地建設問題で対ソ申し入れ(ソ連大使に)
1979年5月
日ソ事務レベル協議、初会合。
高島外務審議官とフィリュービン次官
1979年12月
ソ連、アフガニスタンに軍事介入。
1980年3月
衆議院本会議「北方領土問題の解決促進に関する決議」と「アフガニスタンからのソ連軍の撤退を要求する決議」
1980年11月
レーガン、米大統領に当選。
1981年1月
2月 7日を『北方領土の日』設定の閣議了解。
1981年8月
貝殻島「コンブ民間協定」調印。
1981年9月
鈴木「首相」、北方領土を初視察
1982年8月
「北方領土問題促進特別措置法」を制定。
1983年9月
ソ連、大韓航空機を撃墜。
1984年2月
アンドロポフ書記長死去。チェルネンコ氏を書記長に。
1984年6月
ソ連、「日ソ漁業協定」の終了通告。
1985年3月
中曽根首相、チェルネンコ書記長の葬儀に参列。
後任にゴルバチョフ、書記長
1985年3月
日ソ漁業協力協定締結交渉(モスクワ)5月、第1回会議。
1985年9月
安部外相、シュワルナゼ外相とニューヨークで会談。
外相、国連会議で北方領土に言及。
「日ソ外相定期協議」の再開で合意。
1986年1月
シュワルナゼ外相来日。「領土問題を含む交渉が行われたことを示す」共同声明を発表。
1986年2月
ソ連・ゴルバチョフ書記長、党大会でペレストロイカの方向性を提示。
1986年4月
チェルノブイリ原発事故発生
1986年5月
安部外相訪ソ
1986年7月
ゴルバチョフ書記長、ウラジオボストーク宣言。
アジアの安全保障体制提案
1987年8月
「北方領土墓参」の再開。
1987年9月
中曽根首相、国連総会演説で北方領土問題に「言及」。
1988年4月
アフガニスタン「和平協定」調印。
1988年6月
竹下首相、国連総会演説で北方領土問題に「言及」。
1988年9月
ゴルバチョフ書記長、クラスナヤルスク演説で、「アジア・太平洋地域の安全保障」について提案。
1988年12月
シュワルナゼ外相来日。平和条約交渉の作業部会を設置。
1989年4月
宇野外相が訪ソ。「拡大均衡」を提案。
1989年5月
ゴルバチョフ書記長、北京演説で極東兵力削減計画発表、
中ソ首相、30年ぶりの会談。
日ソ関係改善の重要性を強調。
1989年8月
北方四島墓参、「国後島」上陸、19年ぶりに許可。
1989年9月
シュワルナゼ外相、中山外相とニューヨークで会談。
ゴルバチョフ書記長の91年4月の訪日を提案。
1989年11月
「ベルリンの壁」崩壊。
1989年11月
ヤコブレフ政治局員兼書記が来日。小沢幹事長に領土問題で「第三の方法」を提起。
1990年1月
エリツィン人民代議員「時間をかけて五段階で」と見解。「約15年で非軍事化、解決は次の世代に」
1990年3月
ゴルバチョフ氏、大統領に就任。
1990年4月
自民党竹下派の金丸信会長、歯舞と色丹の「まず二島論」を表明。
1990年6月
北海道がロシア共和国と経済・文化協力を促進する合意書
1990年7月
ヒューストン・サミットの議長総括と経済宣言に北方領土問題を明記。
1990年7月
ロシア共和国がサハリン州・沿海地方など6地区を「経済特別区」に指定。
1990年9月
シュワルナゼ外相、耒日。
1990年10月
ドイツ統一。
1991年1月
中山外相訪ソ。ゴルバチョフ大統領の4月16日来日決定。
1991年2月
エリツィンが「北方領土の返還はない」と言明。
1991年3月
北方四島住民投票「返還反対74,9」
1991年4月
国会「北方領土問題の解決促進」を決議。
ゴルバチョフ書記長来日を…1991年4月 1日、ゴルバチョフ書記長「経済協力先行を要望」小沢幹事長に「領土は別に」
1991年4月
18日、ゴルバチョフ書記長来日、「日ソ共同声明」発表。北方四島に合意なきも、はじめて「文書」に明記される。
1991年5月
北方四島人口「25000人(除く兵士、家族は加わる)」
働き盛り6割近く。
1991年8月
ソ連で「クーデター」。失敗に終わる。
エリツィン大統領の権力大
1991年8月
北方四島墓参、「択捉島」に上陸許可。
1991年9月
ロシア共和国議長代行、北方領土解決「加速」の表明。
ハブズラートフ代行エリツィンの親書「五段階案」を修正。
1991年9月
エリツィン大統領、「五段階案」を短縮と米国務長官に。 ベーカー国務長官との会談。1991年9月ウラジオストック港、開放さる。
1991年10月
サハリン州知事「北方領土返還阻止スト」を呼び掛け。
*フョードロフ知事
1991年10月
北方領土交渉、ロシア共和国が全面に。部会で作業加速化。
<つづき> 「ビザなし渡航」に合意。(中山外相とパンキンソ連外相)
1992年2月
宮沢首相「北方領土・住民に永住権検討」と表明。
「移住希望者対策」も考慮
1992年4月
渡辺外相「北方四島の主権認めれば『二島に一時施政権』」
1992年4月
「ビザなし渡航」北方四島からロシア住民19人、第1陣。
1992年5月
エリツィン、渡辺外相に「北方領土の軍隊、近く撤退」
9月の来日時に確認。「国内の反対論にも配慮」。
1992年6月
4日、金丸副総裁、米大統領に「北方領土」支援を要請。
1992年6月
15日、米国大統領、訪米中のエリツィンに「北方領土」解決促す。
*ベーカー長官、「異例の事前説明」(朝日)。